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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
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世界で一番おいしい料理

 食事と睡眠は本当に、実に偉大だと、どちらも不得意な有村は明るい日差しのベッドで思う。

 纏わりつく倦怠感がなくなっている。頭痛もすっかりと消え、布団の中で温まった身体には多少の悪寒もなくなっていた。

 食べて寝る。それだけのことでこうも回復するのだから、万人が規則正しい生活を推奨するだけのことある。と、なにやら可愛げなく思ってみたりもするが、草間の母親に感謝すると同時に込み上げる羞恥心で、有村は開いてすぐの目を伏せた。

 泣いてしまった。こともあろうに草間の母親の前で。

 恥ずかしい。消えたい。記憶を消してしまいたい。

 嬉しくて、親切が温かくて涙が出た。そうと気付くのに遅れたのは何か考え事をしていたからのような気もしたが、寝惚けた頭では朧気だし、思い出せば更に落ち込みそうで途中でやめた。

 こんなにも長時間寝たのは初めてかもしれない。たぶん、飲みなさいねと置いて行かれた風邪薬の所為だ。説明書に飲むと眠くなると書いてあった。たらふく食べ、信じられないほどに寝て、体調はすっかりと万全だ。

「……えぇ……」

 と、思ったのも束の間、思い付きで測った体温は三十七度、ジャスト。まだ平熱より高い。

 無念だ。せっかくの休日なのに草間に会えない。熱を出したまま会ったりして、草間に風邪をうつそうものなら自分を呪う。当初の予定では昨日の夜の電話で美術館に誘い、今頃は仲良く電車に乗っているはずだったのに。寝過ごして電話もし損なうし最悪だ。おのれ、体調不良。

 そうはいっても出てしまったものは仕方ない。まずは洗濯と脱衣場へ向かい、そういえば風呂に入っていないのを思い出した。草間の母親には熱が下がってからと言われたけれど、気付いてしまうと全身が泥だらけに汚れているような感覚になる。

「いいか。下がりはしたし。何度まで下がったらとは、言われなかったし」

 ハッキリとした口調と音量で零す独り言は大抵、言い訳と相場が決まっている。

 自分が汚いということは、寝たベッドも汚いということ。シーツや枕カバーを外し、洗濯済みの物に取り換えて、汚れ物は脱いだ服諸共、洗濯機へ放り込む。

 有村は決して潔癖症ではないと自負しているが、翌日に前日の汚れを流すとなると、頭も身体も二度ずつ洗う。面倒でも、一回の洗浄で一日分。夜が二回だから一回半。半分は難しいので、切り上げて二回。きちんとしていたいだけで、断じて、潔癖症ではない。

「……あ。なんか寒い」

 ほら見たことかと言わんばかりに、二回目の頭髪洗浄中、ブルリと寒気が込み上げた。

 隅々まで洗い上げて気分は良くなるはずが、入浴を終えた有村の体調は冴えない。着替えを手持ちの中で一番の厚手にしても、芯から寒い。なにか温かいものでも飲もうとは思うのだけれど、動くのが面倒で珈琲豆を挽く気になれない。

 こんなことなら、佐和が好まなくてもインスタントコーヒーくらい買っておけばよかった。藤堂が淹れてくれるあれだって味はいいのに。しまった。この部屋に、湯を沸かすくらいで手に入る温かくなれるものは何もない。山本の家で食べたカップラーメンも、そこそこ美味しかったのに。あると食べてしまうなんて佐和の言うことは無視をして、どこかに隠し持っていればよかった。

 寒い。かといって、自分の為にスープを作るなど冗談じゃない。

 試しに暖房を入れてみたが、ぬるい風が気持ち悪い。

 結局は暖房を切ってベッドへ舞い戻り、布団に包まった。寒い。いよいよ参った。何をしても寒い。寒いのに寝たら気分は遭難だ。ここは雪山。燃焼するものがない。つまるところ、エネルギー切れだ。

「どうしよう……」

 なにか温かいものがほしい。願っていたらチャイムが鳴った。

 下のエントランスではなく、玄関脇のボタンの音だ。それがいきなり鳴るということは、マンション内に住む顔見知りか、寝ていたら起こしたい藤堂。

 前者なら申し訳ないが居留守を使わせてもらい、後者ならいずれ勝手に鍵を開けて入って来る。そう思いベッドの中で丸まっていたのだけれど、二回、三回と鳴るチャイム。仕方がない。有村は毛布を肩に掛け、扉を開けた。

「……草間さん?」

 意外な人物を見つけ、有村は大きくした目で瞬きを落とす。

 訪れた草間は慌てるように中へ入るなり、有村の額にヒンヤリとした手を当てた。

「熱、下がってない。寒いの? あ、お風呂入ったでしょ。髪、濡れてる!」

「ああ……」

「下がってないのに入っちゃダメだよ。人は垢じゃ死なないの! もう、お邪魔するよ。まず髪を乾かさないと!」

「あの……」

「なに?」

「出来たら、なにか温かいものを頂けると……」

「わかった」

 救世主だ。草間を見て思い出した。紅茶。その存在をすっかりと忘れていた。戸棚の一段を専用にするくらいには、多種多様、取り揃えているのに。

 草間はハチミツ入りの紅茶を淹れてくれ、なんとかベッドで遭難の危機を免れた。



 髪も乾かそうとしてくれた草間は、母親に聞いて様子を見に来てくれたらしい。

 聞いたのは発熱でつらそうにしているということだけ。母親は泣いたことを黙っていてくれたようで、ひと安心。

 しかし、草間にはなぜ隠していたのかと叱られてしまい、来た理由をひとりだと食事を面倒がるからと指摘されてしまうと、返す言葉もなかった。皮も剥かないニンジンの丸齧りを食事と呼んだ件については、有村も反省している。

 てっきり、草間はいつものように、パンやおにぎりを買って来てくれたのだろうと思ったのだ。けれど、持参したビニール袋は大きく、草間はカウンターの奥の調理台へ中身を広げると、何気なく取り出した薄茶色のエプロンを身に着けた。

 見つめている有村に気付き、草間の目が大きくなる。

「ちゃっ、ちゃんと作り方聞いて来たし、家で一回作ったから大丈夫だよ!」

「いや。別に不安で見てたわけじゃなくて、作ってくれるの?」

 自信なさげな草間が長い黒髪を束ねる指に、巻かれているバンドエイドがふたつ。昨日はしていなかったはずだ。

「……お母さんが、有村くん、買い物に出るのつらいだろうから、行って作ってあげたら、って。お粥」

 優しい母親と、優しい娘。交わされたかもしれない会話を想うと、胸に込み上げるものがある。草間の家族は温かい。例外があったとしても愛に溢れた家で育ったから、草間はこんなにも美しいのだろう。

 抱きしめてキス出来ないのが、とても悔しい。笑ってしまったのが照れ臭くて、有村は唇を噛む。

「ありがとう。嬉しい。なにか手伝える?」

「ううん。具合の悪い人は待っててください」

「はーい」

 一応、何かあったら言ってねとだけ伝えてソファで見守ることにしたが、草間はどうやらレシピ以外にも使う道具などの位置を母親から聞いて来たようだ。ここで料理を振る舞う時には片付けを手伝ってくれるし、大体は既に把握していたのかもしれない。

 特に迷うこともなく戸棚を開いて片手鍋を取り出すと、準備が整った草間は小さな声で「よし」と言う。あまり見ると緊張させてしまうのは承知していたが、キッチンにいる草間が愛し過ぎた。

 やることがないので生乾きの髪をタオルで拭き、念入りになってしまうほどの口実にして、真剣な草間の顔を盗み見る。何度も立ち止まる場所にレシピを置いているのだろう。確認しては動き、また確認へ戻る。真面目で一生懸命な草間らしい。

 幸せだ。が、しかし、有村は癒されてばかりもいられなかった。巨大なスイカでも切っているかのようにゆっくりな包丁が、たまにカタンと急な音を立てる。ついでに草間が「あっ」と言う。全く以て、気が気じゃない。

 昨日食べた粥を思い出すと、切っているのは生姜か青ネギ。スライスしようとした生姜が転がったか、重ねた薄切りが動いたか。いずれにせよ、キッチンが気になり過ぎる有村の喉を生唾が下る。

 手伝いたい。せめて、包丁だけでも代わりたい。苦悩の時間はなんとか草間の無傷で終わりを告げ、ホッとひと息吐いたのも束の間、コンロの方へ移動した草間が「熱い!」と言って、持ち上げた鍋の蓋を落とした。

「大丈夫? 火傷は?」

「平気。ちょっと……ちょっと、湯気が……」

 言わんこっちゃない。言ってないけど。

 米を煮ると湯気だけでなく、とろみのついた煮汁も飛ぶ。心配で仕方がない有村の背中は伸び、草間は強い剣幕で「大丈夫だから!」と制して来るが、正直、自分で作った方が気がラクだ。

「有村くんは頭ちゃんと乾かして、熱でも測ってて! あっ」

「飛んだ? すぐ水で冷やして」

「大丈夫! はやく、頭!」

 そうは言われても、キッチンが戦場と化した草間を放って、うるさいドライヤーなど使いたくない。元々、作られた風は好きじゃないし。

 まだタオルドライ中のフリをして、有村はもうかれこれ三十分は頭にタオルを乗せている。そろそろ本気で乾きそうだ。たぶん終盤へ差し掛かってはいるはずだけれど、同時に草間の「あっ」もラストスパートをかけるみたいに回数が増す。心配な上にこんなにもこねくり回して、髪がごっそり抜け落ちてしまいそう。

「あっ!」

「冷まして! 舌、火傷したなら氷を」

「大丈夫! ねぇ、ドライヤーは?」

「……どこに、しまったっけなぁ」

「脱衣場の方から持って来……あっ」

「どうした? 顔? 顔に飛んだの?」

「大丈夫! 無視して! 私のことは!」

「えぇ……」

 気持ちはわかるし有難いが、無理を言う。無視など出来るはずがない。

 頬から拭ったのは間違いなく鍋から飛んだ煮汁だろうけれど、手の甲で拭った草間の様相はまるで、返り血でも取り除いたかのようだった。

「……できた……」

 それから間もなく草間がそう呟いて、疲労困憊の有村からは心底の「よかった」が零れた。とりあえず草間が大きな怪我をしなかっただけ、よかったと思うことにしよう。

 草間は深皿と茶碗を冷蔵庫に入れていて、出来た粥を鍋から移し、冷えた茶を注いだグラスも同じトレイに乗せてキッチンを出て来る。

 落合や久保と比べて非力な草間だ。数メートルの慎重な移動でトレイの食器がカタカタと鳴り、出るに出られない有村の尻が度々、ソファから浮き上がる。

 零しそう。躓いて転びそう。見ているだけで、心臓が口から出てしまいそう。

「ゆっくりでいいよ。ゆっくり。ね?」

「…………」

「ここ。この辺りに、お願いします」

「……はい」

 移動がゆっくりなら、膝を折って座るのもゆっくり。テーブルにトレイを置き、身軽になった草間の呼吸だけが荒い。

 溜め息のような深い息を吐き、草間は職人のような目付きで茶碗に一杯分を取り分けた。

「どうぞ」

「わ、わぁ、美味しそう。いただきまーす」

「……はい」

 キンキンに冷え切った茶碗は冷た過ぎて、受け取った指先がすぐに冷えた。

 多少、皮膚が表面に張り付くほどであったのだけれど、そこまで冷えていた所為か、先程まで煮えていたにしては湯気が少ない。スプーンで何度か混ぜればすっかりと消えてしまって、その頃には指先の冷えも幾分か改善されている。

 食べようとしてスプーンを近付け、口を開けたらまた草間が「あっ」で有村を驚かせた。

「なに?」

「ちゃんと冷めてるか、確かめないと」

「大丈夫そうだよ?」

 熱湯だって、こんなに冷えた茶碗に入れたらひとたまりもないだろうし、とは言わない。

「でも、心配だから貸して」

「うん」

 なんなら、もう冷たいくらいかもしれないよ、とも言わずに従う有村から茶碗とスプーンを受け取り、草間は真剣な面持ちで掬い上げたひと口分を口へと運ぶ。

「うん。ちゃんと冷めてる。でも、有村くんはすごく猫舌だもんね。まだ熱いかな」

 それ以上冷えると米が糊になると思うよ、は、とても言えない。

 なにせ草間は真剣なのだ。真剣に猫舌を案じてくれていて、顔へ近付けた茶碗に、ふう、と息を吹きかける。

 その突き出した小さな口の可愛さと言ったらない。しんどいくらいに可愛い。もう、糊すら通り越してカチカチになってもいい。可愛くて、つらい。

「……もう平気かな。まだ熱かったらごめんね? どうぞ。 ……有村くん? どうしたの? 顔なんて覆って」

「ううん。なんでもない」

 こんなに可愛くて、天使かな。いや、いっそ悪魔かな。恋人が可愛過ぎて泣きそう。

 呼吸を整え差し込んだ手を引き抜くと、ずり上がっていた眼鏡がストンと定位置へ返り咲いた。

「いただきます」

「うん」

 なんとなく、自分でわかる。僕たぶん、今すごくいい顔してそう。色々、無理。

 スプーンを口へ運んだ途端、もじもじと身を寄せて来るのは反則だ。

「どう? あの……美味しい?」

「すっごく、死ぬほど美味しい」

「もう。有村くんは、体調が良くない時まで。食べれるだけでいいからね」

「俵の単位で軽くいけそう」

「ふふっ。思ったより元気そうでよかった」

 とびきりの笑顔を見せてくれた草間はキッチンへと戻って行き、今は一面の花畑を満喫するかのような面持ちで洗い物へ取り掛かる。

 洗いながら、ちょっと何か歌っている。鼻歌だ。あの、誰に何を言われても絶対に歌わない草間が、上機嫌に鼻歌を歌っている。耳を澄ますと、ちょっと聞こえる。しんどい。可愛いの嵐、吹きすさぶかな。スプーンを持ち上げる手が震える有村はもう、可愛いの連撃に打ちのめされてしまいそう。

「食べたらまた、少しでいいから横になってね。私、ここで本を読ませてもらってもいいかな。夜ごはんも、一緒に」

「はい。是非、お願いします」

 冷え切った粥が喉に貼り付いて飲み込みづらくても、限界まで煮出された生姜の味しかしなくても、全然、いい。

 有村は出された茶碗に五杯分の粥を完食し、そのままソファで横になった。

 膨れた腹がやけにキュルキュル言うけれど、草間が可愛かったので問題ない。


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