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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
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最悪な日と似ている色

 シンプルに、体調が悪い。

 嫌な予感はしている。昨晩、眠る気なくリビングで転寝をしてしまった。寒さで目を覚ました時、換気中の窓は隙間を開けたまま。あれから、妙に怠い。

 昔の虚弱が嘘のよう、サプリと流動食の食事から解放され、噛んで食べるまともな食事にありつけるようになって以来、風邪のひとつもひかなくなった有村にとって初の出来事だ。

 朝を迎えてからは倦怠感が酷く、思考が満足に働かない。しかし、いつもの薬が残っている怠さとは違い、糖分不足の朦朧でもない。消去法でいって、ただただ体調が悪いのだ。

 いよいよそう結論付けたのは、午後の授業を受けている時だった。昼前の体育の疲れがまるで取れない。ずっと身体が重い。率直に、しんどい。

 校門を出るまでは意地と気合で、ただ用があって美術室へ行かない放課後のポーカーフェイスを貫いたものの、駅へ辿り着く頃には背筋を走る悪寒が止まらなくなっていた。さて、どうしよう。バイトがある藤堂を呼ぶのは忍ないし、今日の電車は特別堪えた。

 幸いにも金曜日で、明日は休み。佐和が出張から帰って来るのは来週末。自分の世話だけなら造作もない。吐き気を堪えさえすれば歩く距離を短く出来る電車をやっとの想いで降車駅まで乗り切り、帰宅したらもう外へ出たくない一心で、勝手知ったるスーパーへ入った。

 とはいえ、だ。同じくらいに見上げた健康体の佐和と暮らしてして、有村は看病というものをしたことがない。経験がない上に頭も回っていない状態では、何が必要なのか皆目見当も付かない有様だ。

 食欲はない。でも、食べないといよいよ動けなくなる気がする。食欲がないから、食べられそうな物すら見つからない。仕方なく、運動会前に散々飲んで嫌気が差しているゼリー飲料を手当たり次第にカゴへ入れた。ついでにエネルギー源の糖分、タブレットのブドウ糖も二袋。

 会計をし、帰って休めばどうにかなる、はず。倦怠感は更に増し、心なしか足元がふらつく。でも、帰らないと。気合を入れたそばから視界が揺れて、通路を大きくふらついた。

「洸太くん? 洸太くん!」

「…………っ」

 その身体を支えてくれた人がいた。ぼんやりとした視界に映る、小さな手。聞き覚えのあり過ぎる声は草間にソックリで、似ていて当然の人がそこにいた。

「……お母さん。どうして、ここに?」

 草間の家の方にも大きなスーパーがあるのに、どうして。投げた疑問は無視をされ、「ごめんね」と聞こえるが早いか、険しい顔の草間の母親の手が、髪を避けて額に触れた。

「やっぱり、かなり熱が高い。病院は? 買い物? ゼリーと、ブドウ糖? ダメよ、若い子が具合の悪い時に、こんなんじゃ力出ないでしょう。家の人は? いないの?」

「ええと……」

 何から答えればいいのだろう。最初に訊かれたのは、なんだっけ。

 とりあえず、家ではひとりであることと、休めば大丈夫なはずなので、病院には行かないことだけは伝えた。

 困った。喋るのも、かなりキツイ。息が切れて、苦しい。

「わかった。なら、家まで送るわ。こんなぐったりしてる子、ひとりになんて出来ない」

「いえ。お気持ちだけで。近いですし、大丈夫……」

「なにが大丈夫なものですか。いいから、こういう時は大人の言うことをききなさい。わかった?」

「ええと……」

「カゴ、貰うわよ」

「あっ」

 強い視線と語気を放った草間の母親は殆どゼリー飲料の買い物カゴを取り上げ、近くにいた店員へ、売り場へ戻してもらえないか頼んでいる。

 困った。それがないと今は冷蔵庫もほぼカラだ。しかし、止めようにも、声を出すのがつらい。

「すみません。この子、知り合いで。体調が悪いようなので、頼めませんか?」

「ええ、それは勿論。大丈夫ですか?」

「車なので。乗せてしまえばすぐですし」

「では、その間、そちらのカゴも預かりますよ。彼、早く座らせてあげた方が。背もあるし、私、手伝います」

「すみません。助かります」

 戻って来た母親と店員へ、歩ける、大丈夫と伝えはするが、ふたりはまるで聞かないで、母親が腕を肩に、店員が通学鞄を肩に掛けながら脇を支え、買い物がしたかった有村を店の外の駐車場へと連れ出して行く。

 どうしたものか。噛むのもしんどいが、野菜室にニンジンくらいはあった気がする。なかったとして、最悪、佐和が常備している酒のつまみのナッツはある。その前に、手を煩わせてしまったのが申し訳なくて、つらい。

 しかし、確かに歩くのは入店時よりもつらくなっており、助手席へ座らされると正直、もう一歩も歩きたくない気持ちではあった。

 それでも何とか声を出して礼を告げると、ふたつの声が同時に飛んだ。

「なに言ってるの。謝ることじゃない。赤の他人じゃないんだから」

「全然。気にしないで。こういう時はお互い様だからね」

 普段ならふたつくらいはきちんと聞いて応えられるのに、それすらつらい。

「食欲はある? 何か食べられそう?」

「いえ……帰って、寝てから……」

「そうね。まずは少し休もうね」

 助手席のドアを閉めた母親と話をした店員は去って行き、運転席のドアが開いて閉じる。

 苛まれる倦怠感と、色々と言わなければいけない言葉が頭の中で渋滞を起こしていて、何も纏まらない。殆ど無意識に伸びた手とシートから浮かせた身体は車を降りようとしていて、遮る母親に大人しくしていろと叱られてしまった。

 申し訳ない。思うのはそればかりだ。これくらい、ひとりでやり過ごさなくてはいけないのに。

「シートベルト、出来る? やってあげる」

「大丈夫です、これくらいは。すみません。お手数をお掛けして、ご面倒を」

「だから、そうじゃないって言ってるでしょ。もう、謝るのはナシ。今日はたまたま友達の家に行っててね。車でよかった。洸太くんの家、どこ? 圭一郎くんの家の近くだったね。とりあえずそっちへ向かうから、近くなったら教えてくれる?」

「はい。すみません」

「だから、つぎ謝ったら怒るよ。甘えなさい。それでいいの」

「……はい」

 熱の所為かマンションへ着くまでに何度か、運転席の横顔が草間に見えた。

 道路端に車を停めた母親に送ってもらった礼を告げると、まだだと言われ、また腕を片方、細い肩に担がれてしまって立つ瀬ない。

 エントランスの自動ドアを越え、エレベーターで七階へ向かい、角部屋の前でも礼を言ったが、これまたデジャブ。鍵を貸しなさいと出された手に鍵を渡すと、草間の母親は「お邪魔します」を言って、玄関も上がった。

「まずは着替えね。部屋はどこ?」

「ここです」

「じゃぁ、ラクな服に着替えて、ベッドで横になりなさい。鍵、少し借りていい?」

「鍵?」

「借りるね。すぐに帰すから。あと、キッチンを使ってもいいかしら」

「え……あ、はい」

「ありがとう。ほら、着替えて寝る」

「はい……あの、苦手なので、ドアは開けたままで」

「そう。わかった。安心してね、見ないから」

 この会話、前にもしたことがあるような。朧気に思えば相手はやはり娘の方で、立場も逆だった。

 鍵とキッチンをどうするのだろうとは思うが、委ねて困る相手ではない。廊下を奥へ進んだ母親は、有村がクローゼットを開けてネクタイを外している時に玄関を出て、鍵を閉めた。キッチンを使った気配はなかったが、鍵は施錠してくれる為だったのだなと思ったのを最後に、着替えた有村はベッドに倒れ、意識を手放した。



 寝る子は育つとか、寝れば治るとか、何かと睡眠が大事であると言われる度に、不眠症を患う身として中々肩身の狭い想いをして来たのだけれど、ゆっくりと目を開けてみれば確かに、幾らか身体に自由が戻っていた。

 倦怠感はまだあるが、動けないほどではない。買い出しも、近くのコンビニなら行けそうだ。

 のろのろとベッドを降りて時計を見れば、まだ六時過ぎ。あんなに怠くて気絶するように眠っても二時間弱で目覚めるとは、なんとも難儀で、便利な身体だ。

「……ん?」

 頭痛もだいぶ治まった気がする。触れた額に貼り付く物があり、剥がしてみると、縁がカラカラに乾いた長方形の湿布のようなものだった。

 なんだろう、これ。嗅いでみる臭いは知っている湿布とは違う。

 初めて見るので訝しんでいると、それより重要なことに気が付いた。こんな物、この部屋にはない。気付いて意識を廊下の奥へ向けてみれば、遠くに水の流れる音と、人の気配がした。

「お母さん」

 慌てて駆け込んだドアの向こうのキッチンに草間の母親がいて、有村は長方形の湿布もどきをぶら下げたまま、まだ完全には程遠い頭で戸惑いつつも、状況の整理に勤しむ。

 何故、まだここにいる。何をしている。

 わからなくて問いかけると、母親は有村が寝ている間に買い物をして戻り、料理の最中だった。

「もっと寝てていいのに。ちょっと、ごめんね」

「あの……」

 額へ触れて首に触れ、見上げる母親がホッと肩を撫で下ろす。

 リビングには微かな出汁の香りが漂っており、コンロでは小さな土鍋が蓋の穴から蒸気を吹き出している。まな板や料理台の状況と、感じ取る匂いから有村はその土鍋の正体を知っていたのだけれど、頭が理解したくないかのように明確な答えが出ずにいた。

 なんで、どうして、が思考の中でグルグルと渦を巻き、目が回りそうだ。

「やっぱり、男の子は違うのかしら。熱、少し下がったみたいね。食欲はどう? ちょっとは食べられそう?」

「あの」

「困った顔しないの。申し訳ないとか思ってるなら、今は甘えてお世話されなさい」

「でも」

「いいの。あんな状態でひとりにして、帰ったって気になってしょうがない。眠れなくなる。私にだって大事よ。仁恵ほどじゃないけどね」

「…………」

「一応、熱を測って。もうすぐ出来るから、ソファで待ってなさい」

 責任感で帰れなかったのだ。真面目な草間によく似た面持ちを見て、有村はそう思った。申し訳ない。それで済まない。大変なことをしでかしてしまった。

 言われるままソファへ行き、テーブルに乗った体温計を手に取るけれど、居た堪れずに謝った。

「あんまり謝ると、洸太くんは具合の悪い子をほっぽって平気な子だって思うよ?」

「…………」

「わかるでしょう? 心配で、なにかしたいの。やらせて。少し食べて洸太くんがまた寝たら、すぐ帰るから」

「…………」

 現在の体温は、三十七度五分。平熱より二度近く高かった。

 このマンションへ越して来てからキッチンに立つのは決まって有村だったので、動き回る人を座って何もせずに眺めるのは、申し訳なさを差し引いても心苦しい。

 草間の母親の手際はよく、何が何処にあるかもわからないキッチンで料理をしているようには見えない。包丁で刻みながら、本当にちゃんと料理をしてるのね、と微笑んだ母親は、整理されていて使いやすいキッチンだと褒めてくれる。

 心苦しいだけでなく妙に照れ臭くて、有村は目の前に置かれたグラスの水を飲み干した。

「あの、こんな時で、それに大変遅くなって申し訳ないのですが、先日は外泊を許してくださり、ありがとうございました」

 わがままを聴いてもらった礼はもっと早くに伝えたかったのだけれど、草間に言わなくていいと家の前までしか行かせてもらえず、ようやく告げられた有村はまた頭を下げる。

 眺めた母親は一瞬だけ探るような顔をして見せたが、すぐに笑って料理を再開した。

「仁恵に、あの日の話はするなとでも言われたのね。やっと言えたって顔して。いいのよ、私が許可したんだもん。仁恵と洸太くんを信じてる。まぁ、自分でも非常識だった自覚はあるの。だから夫には内緒。それだけ、協力をお願い」

「……はい」

 告げる面持ちは朗らかだが、『信じてる』のひと言が痛い。当然、騙してしまう父親へも後ろめたくて、申し訳がない有村は顎を引く。

 結果として一線を越えないという約束は果たしたものの、添い寝をした時点で八割方やぶったようなものだ。白状してしまえば有村の気はラクになるけれど、草間は言われたくないはず。

 娘のそういう話を親が聞きたがるかどうかの自信もなくて黙り込むと、キッチンの奥から草間に似た、「ふふっ」という笑い声がした。

「洸太くんは本当に素直ね。切り出してくれて、その反応。大体わかったから、内緒にしてていいよ」

「……いいんですか?」

「うん。最後の約束だけは守ってくれたのが、わかったからいい。さすがに、全部やぶったら自分から話したりしないでしょ。それに、ワガママを言って迷惑をかけたのは仁恵の方。ありがとうね、洸太くん。いつも仁恵を、大事にしてくれて」

 そうも良い方へ取ってもらうと心苦しく、そっと目を伏せた有村は、顔を逸らした途端に聞こえた呟きに、すぐさま目線をキッチンへと戻す。

 いま、確かに聞こえた――朱音には無理。そう呟いた母親は、重たい色を纏い始めていた。

「……ごめんね、洸太くん」

「はい?」

「ごめんなさい」

 一体なにを、どれについての謝罪だろう。

 唐突な二回の『ごめんなさい』は、俯くより下を向く母親から、有村には声だけが聞こえるよう。

「恥ずかしい」

 下を向く表情はまるで見えず、けれど、聞こえる声に見える悲しい色が有村に姿勢を正させる。

 そうして身体を小さくさせていると、まるで草間を見ているみたいだ。ただそれだけで、胸が苦しく締め付けられる。

「ごめんね、朱音のこと。ごめんね……情けないわ。なんて言えばいいのか、わからない……」

 泣かないでほしい。悲しまないでほしい。

 ソファから腰は浮き上がるも、足を動かすのには迷う。何かしたい。草間によく似ているからでも、母親だからでもなく、抱きしめる以外を考えている。不安になるほど、今すべき、今して構わらない行動が思い当たらない。

 何かしたい。この人に。

 カタ、カタ、カタ。身動きの取れないまま、キッチンで鍋の蓋が鳴っていた。

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