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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第八章 暴走少年
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片鱗

 欠伸が止まらない藤堂と草間と共に美術室から教室へ向かう朝も、だいぶ馴染んで来た。

 予鈴が鳴る前に教室へ入り、藤堂は缶珈琲を一本飲み干す。草間は落合や久保の元へと向かい、有村は大抵ドアのそばが定位置の会田たちに捕まるか、町田にヘッドロックを決められて窓際の前方へと連れ去られるかのどちらかだ。

 今日はまず会田に「なんか臭ぇ」と眉を顰められ、苦笑い。既に窓際で仲間たちと盛り上がっている町田がやって来る前に、通りすがりの沢木が怪訝な顔で身を引いた。

「姫ぇ、いよいよ着替えサボったでしょ。お前が絵具かって臭いする」

「そんなに? 手洗い用に持って来てた洗顔が足りなくて、腕まで綺麗に落ちなかったんだよね。昼休みに買いに行こうかな」

「なら、あたしの貸してあげるよ。部活終わりにサッパリするから、メンズの持ってんの。ちょっとだけどスクラブ入ってるから使えない?」

「助かるー。借りていい? 買って返すよ」

「いいよ。一回、手を洗うくらい。持って来るから、すぐに洗って来て。姫はウチらの癒しなんだから、臭いと幻滅」

「ごめん」

 自分でも嗅いでみて、「そんなに臭い?」と腕を嗅がせた八木が、悲しい顔をする。嗅覚に自信のある有村は勿論、些細な残り香も感じないではないのだけれど、さすがに慣れてしまっていた。

 通う日には毎回来ている藤堂と草間もそうで、最近は寒さの方がつらいと美術室の窓を半分は閉めたままだ。及川のように元々あまり気にしない人もいる。嫌いじゃないという強者は町田のグループにいる坂本くらいなものだが、最近では女子の殆どが今日も描いて来たんだねと思う程度であるらしい。

「でもさ。マジで、いいの描けたら見せろよ? 俺ら、地味に待ってんだけど」

「わかってますとも。会田くんも見せてね。最近、描いてるでしょ。何か」

「怖い、怖い。察するな」

「で、美術部には入ったの?」

「入らない。入らなくていいって言われてる」

「安田先生ってホントやる気ないよなぁ。部員少ねぇって自虐する割に、有村入れて増えるの嫌なんだろ」

「先生も描いてるからじゃない? ギャラリーとかいらない」

「行っちゃダメ? 邪魔はしない。見るだけ。黙ってる」

「来てもいいけど、来たら描かないよ。恥ずかしいし」

「それ、ダメっていうんだわぁ。一個も優しくねぇから」

「あら」

「持って来たよー! さぁ、洗って来い!」

「了解です!」

 駆けて来た沢木からバトンのように洗顔料を受け取り、有村は急いで手洗い場へと駆けて行く。

 途中で数人と朝の挨拶を交わし、擦れ違う他のクラスの二年生からは「何の臭い?」と険しい顔を向けられた。有村はしたり顔で「なんでしょう」と答えるに留め、手を振って先を急ぐ。

 油彩絵具は気に入ったし、強い臭いも描いている間は気にならないが、服や皮膚についた汚れが水ですんなり落ちてくれないのだけが難点だ。因みに、絵を描く時用にしているTシャツに関しては週末に一応洗うだけで、綺麗にするのは諦めた。

 袖を捲った肘までをゴシゴシと洗いながら、せめて長袖をとも考える。しかし、本心ではTシャツでも邪魔なくらいで、時折脱ぎたくなる頻度が高くなるのは問題だ。

 藤堂だけなら構わないが、草間の前で服は脱げない。約束通りにあれから一度だけした練習を繰り返して草間が男の裸体に免疫を付けたとして、背中を見せる勇気はまだない。

 鏡に映して見た時は、昔ほど目立たなくなっているように感じた。見えてしまうのはあったことを知っているからかもと思えるほどで、藤堂もよくよく見なければ気付かないとは言ってくれる。

 しかし、気付かれた時にどう答えればいいのかを迷うと、有村はやはり見せない方が、と思い至ってしまうわけだ。優しい草間の負担にだけはなりたくない。考えながら、腕についた絵具を擦り落とした。

 もしかすれば、永遠に脱ぐ機会は訪れないかもしれない。前回、草間に頑張ってみたいと言われ、意を決してシャツを捲り上げたのだけれど、腹が見えたところでやっぱり無理だと叫ばれた。割れた腹筋が悔しいやら、有難いやら。思い出してふと、泡を流す有村の手が止まる。

「……うそでしょ……」

 寧ろ、勘弁してくれという気分だ。どこへ行った、性欲のない自分。

 忽ち直立でいるのも辛くなりながら、なんとか絵具は落としきった。だが、次の問題をどうしよう。

 濡れた両腕を手洗い場の縁へ着き項垂れた有村の後ろから、空き缶を捨てたついでにタオルを持って来た藤堂が近寄って来る。

「どうした。腹でも痛ぇのか」

「ある意味」

「……お前」

「思い出しちゃった。助けて藤堂、動けない。痛い。泣きそう」

「とりあえず便所行け。で、抜――」

「――それはイヤ。萎えること言って。それか殴って、強めに」

「殴ってソレ見つかったら、ただの変態だぞ」

「どっちにしろバレたらアウトだよね。学校でこんな、ひとりでに」

「目立つしなぁ、お前は。サイズ的に」

「ホント、いい加減にしてほしい」

「まったくだ」

「なに、一部のくせに僕の意思に反して勝手してるの」

「その言うこと聞かねぇ一部の反応が本心だからだ。そろそろ認めろ」

「……クソッ! 鎮まる気配すらないだと……!」

「抜きゃぁ済むのに。触りたくねぇって、風呂どうしてんだ」

「状態が違うだろう。このグロテスクな形状が嫌なの」

「腐るほどヤッて来ただろうが」

「こうなったら納めてしまえば見えないだろ。用が済めば治まるし」

「クズだな」

「なんとでも。でも、どうにかして。お願い」

 仕方なく、藤堂はたまたま鈴木から取り上げたままポケットに入れっぱなしにしていたゴム製のおもちゃを、水を止めた洗い場の中、有村の顔の真下に投げ入れた。

 投げた瞬間はプルンと細い部位を揺らして弧を描いた茶色の物体が、銀色の上にピタリと着地する。音に気付いて有村が渋々目を開けるまで、大凡一秒。季節外れの有村の天敵がお出ましだ。

「ギャー!」

「おもちゃだ。鈴木の。お前ホント、これだけは何度でも引っかかるな」

 悲鳴と共に飛び退いた有村を首にぶら下げ、藤堂の襟が水滴に濡れる。

 その程度なら大目に見てやれるくらいには、草間限定で『不全』という悩みの種が解消した有村の新たな苦悩は、藤堂にとっても憂鬱と頭痛の種だ。

「……萎えたな」

「おかげさまでね! でも、これはこれで心臓に悪い!」

 百円で幾つも買える子供騙しも、たまには役に立つものだ。

 片付けの間に視線を投げるだけで身を竦める有村を見ると、藤堂は仏頂面の心の奥で密かに、投げ込むゴム昆虫のバリエーションを増やそうと決めるのだった。



 とはいえ、というのが、異様なまでの美形ぶりを発揮する笑顔で恥ずかしがる草間を見送ったあとの、小夜啼画材店で買い込んだキャンバスやらの荷物運びを手伝った藤堂がソファで飲むお礼の珈琲を片手に切り出した、最初のひと言だった。

 それまで特に展開のない雑談を交わしていたので、新たに手に入れたアイテムであるコテのような形をしたヘラ、ペインティングナイフの先を興味深げに突いていた有村は不思議そうに、「なにが?」と応答。エスパーと名高い有村であろうと、さすがに無理もない話である。

「草間に気付かれるのも時間の問題だろ。なんだ、その特異体質は。たちそうになると美形が際立つって、さすがに意味がわからねぇ」

「堪えるとね。全神経が下腹部へ集中するので」

「わからねぇ」

「僕も」

 藤堂の記憶でヘラ、油絵を描く際に使うペインティングナイフは、店主の薦めで二種類買った。値段は一本分。いつものことだ。もう一本分は次回のプリン。有村が持っているのは細くて長い方で、鋭くない切っ先が天井へ向けて銀色に光り輝いている。

 それを買った帰り、草間は増えた荷物を理由に、改札口で構わないと帰路へ着いた。一度は改札を越えようとしたものの有村の元へと駆け戻り、しばらく書店への見送りはいいと告げたあとで、先輩でふたり、どうしても有村と話したい人がいて、次は上手く誤魔化せそうにないからと理由を述べた草間は確かに、藤堂から見てもいじらしかったとは思う。が、たったそれだけで桁外れの王子様フェイスを三割増しにしていては、さすがの草間もじきに気が付く。何かがおかしいというくらいは、すぐにでも。

 銀色の先を人差し指で撫でながら目を瞑った有村も、言われるまでもなく危機感は募らせている。

 なのに、またわけのわからない練習など引き受けてしまったうえ、苦手を克服しようともしない。なんともないからと言って、藤堂も常にゴム昆虫を持ち歩くほど夏のアレが好きなわけでもない。どうにかしろと眉を寄せるのは全員の為だ。

「草間さんが、可愛くて」

「だとしても沸点が低過ぎるだろうが。腹に力入れて散らすって、そんなその場しのぎばっかりしてるからじゃねぇのかよ。抜け。いい加減。誰だってやることだ」

「嫌だ。したら絶対に立ち直れない。草間さんの顔、見れない」

「俺は目の前でおったてながら素敵に笑ってる方が罪深いと思うがな」

「一個、思い付いたのはある」

「ん?」

「リング。アレって、着けてエレクトするとすごく痛いんだって」

「益々、変態じゃねぇか。俺は顔に出さねぇ自信ないぞ。それにお前、そんなんしてると本気で使いモンにならなくなるぞ。いいのか。今度は不全じゃなくて不能だ。不能」

「え」

「ただでさえ不具合があるんだ。イジメていいはずがない」

「でも、他に手段が」

「だから抜――」

「――それはイヤ」

 強い意志の満ちる瞳で、有村は今夜も断固として自慰を拒否。全力で否定する。潔癖症の所為だけではない。事の始まりは、交通網が麻痺するほどの大雨があった、あの日だ。

 草間を久保の自宅へ送り、有村はその足で藤堂の元へやって来た。その時の悲惨な面持ちと言ったらなかった。余程のことがあったのだろうと藤堂は有村を連れてこの部屋へと戻り、開始早々から呆れてものが言えなくなりつつも話を聞いてやった。

 無防備な草間を相手に反応してしまったのを猛省し、愛しい恋人を汚らわしい欲望の対象にしてしまったと、あの日、有村は散々に嘆いた。触れてもいないのに何故、と、それはそれは激しい混乱を越えた、すぐあとで。

 挙げ句には切り落とすとまで騒いで包丁を持ち出す始末で、やっとのことで思い止まらせた藤堂は溜め息を吐くことすらも億劫になる。

 自慰は嫌だが、生理現象のコントロールは出来ない。かといって自分のポケットにゴムのおもちゃを入れたら歩けないし泣いちゃうと、有村は駄々を捏ねる。

 親友が自分の思う正常に近付いたのは歓迎すれど、藤堂はそろそろ本気で一度、このわからず屋を殴り飛ばしたい。容赦なく、こてんぱんに。その衝動を堪えている藤堂は我ながらに思う。継続は力なり。この数ヶ月で、短気もだいぶ改善されたものだ。

 それでも足に肘を着き、正面で両手をきつく組んでいないと殴りそうだ。藤堂は考え、ふと閃いた。

「お前よ、そんなんで、いざって時に自制、利くか? キスひとつで飛びかけたっつったろ。それで、欲求不満バカみたいに溜め込んでよ。草間相手に暴走したらどうする」

「……それは、ちょっと考えてる。危ないと思う。そもそも僕、相手が気をやる以外でやめたことが殆どない。九割ない。ひとりしかない。どうしよう……」

「だからよ。そういう時にも、先に抜いとくって手もあるだろうが。抜いてスッキリした状態なら、多少は頭も冴えるだろ。ついでに練習したらどうだ。草間の為に」

「草間さんの為?」

「そうだ。処女で、草間はチビだ。体格差考えろ。ぶっ飛んで好き勝手やったら惨状だぞ。地獄絵図。いいのか、それで」

「……ダメ」

「だったら選べ。草間につらい想いさせんのと、てめぇで扱くの、どっちがいい」

「……しないという選択――」

「――どっちがいい」

「…………」

 悩み過ぎて唸り出した有村はしゃがみ込み、手放さない銀色のヘラが天井を指しながらプルプル震える。そんなに悩むか、悩むまでもないことだ、と思う頃は、藤堂でもとうに過ぎ去っていた。

 今や、これでこそ有村だ。これでこそ、摩訶不思議なお絵描き星からやって来た宇宙人。

 しかしながら、生まれが地球であろうとなかろうと、草間至上主義の有村に選択の余地はそもそもなかった。

 苦渋の決断。そんな顔を上げ、戦地へ赴くかのような勇ましい面持ちが、無表情の藤堂へと向いた。

「……やる。草間さんを困らせるより嫌なことない、と思う。たぶん」

「だろうな」

 有村は勇んだまま立ち上がり、未だ手放さない銀色の先を人差し指で撫でる。変化といえば、その撫でる速度が速くなったことだろうか。

 切る為の物でないとはいえ、名称はペインティングナイフだ。ナイフと名がつく以上、藤堂はそろそろ、有村の指が切れて血だらけになる気がする。

 たとえこの塵ひとつないリビングが血の海になったとして、悩みたくない悩みから解放された藤堂の心は晴れやかだ。ポケットの中は小銭だけがいいし、いくら宇宙から来た親友の有事とはいえ、シモの世話までしたくない。やっと口をつけた珈琲は、悲しいかな冷めかけていた。

 火傷しそうな淹れたてが好きな藤堂にとって、湯気が消えれば冷たくても大差ない。

 ひと口飲んでマグカップをテーブルへ下ろし、藤堂は勇んでも見目麗しい有村の横顔を見上げた。横顔というより目だ。気が付くと、草間のいない場所で極端に、有村の瞬きが減っている。

「それとな。最近、草間のいねぇ所でお前、目付き悪くなってんぞ」

「……そう?」

「教室の中は、まだ文化祭引き摺ってんだろで済んじゃいるがな。男はいいが、女はやめろ。他人事でも怖がり始めてるヤツはいる」

「そっか。教えてくれてありがとう。気を付ける」

「無意識か?」

「そうじゃない時もあるけど、ずっとじゃない。最近、前より色が見えるようになったんだ。悪い色は濃いから、目についちゃって」

「いつから」

「リリーの絵を描いてからかな。リリーが引き受けてくれた分が、入って来てるんだと思う」

「また酔いやすくなったのとは関係あるか。電車」

「かも。たまに真っ黒で顔が見えない人がいる」

「酷くなるようなら言えよ。なにが出来るわけじゃないが、知ってりゃ助けてやれることはあるかもしれん」

「ありがとう」

 柔らかな微笑みを浮かべ、けれどやはり、有村の瞬きが少ない。

 微笑んだまましばらく見られて、藤堂は不機嫌を顔に出した。

「なんだ」

「ううん。君はやっぱり、綺麗だなと思って」

「そうかよ。お前の目はデカいぶん、見られると余計に露骨だ。気を付けろ」

「はーい」

 わかっているのか、いないのか。怪しいものだと眺める藤堂の傍らで有村はようやくヘラを置き、もう片方は見もせずに、笑った形の口のまま冷たくなった珈琲を飲み始めた。

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