彼女が気付く前に
学校帰り。送り届けるアルバイト先の書店までの道のりは、微笑む彼女と過ごす大切な時間だ。
今日は、発売を心待ちにしていた小説が店頭へ並ぶ日。陳列を任されている草間は嬉しそうに、ひとりでも多くの人が手に取り、楽しみ、本を好きになってくれればと心から思っている。
それがヒシヒシと伝わって来るから、この時間はいつも有村の幸せな時間だ。
「送ってくれてありがとう。それじゃぁ、いってきます。有村くんも、お仕事、頑張ってね」
「うん。いってらっしゃい」
少し前、シフト時間が入れ替わりになる先輩が余計なことを吹き込んだので、自動ドアはおろか、ガラス張りの前までも送らせてくれない。
ただ、店へ入る前に一度、彼女は小さく手を振ってくれる。寂しい顔をして見せる、自分に。
微笑みながら手を振り返し、なびいた美しい黒髪の先までがすっかりと自動ドアを越えるのを見送ったあと、下げる手と共に有村の顔から表情が消える。
「……さて、と」
校門を潜った時から後方にいた男。気配だけならそれより前から感じていた有村と同じ制服は、建物の影に身を潜めていた。
立ち去る素振りで踵を返し、擦れ違う直前で知らぬ顔をする男の肩を押した。ふらつく足で蓋つきのゴミ箱を鳴らした男のあとから、有村も建物と建物の隙間へ入る。
見れば、随分と貧弱な少年だった。
「何か用かな?」
問えば男は焦りを示し、挙動不審な目線と言い淀む口が、なにやら不思議そうにしている。
「尾行がバレて驚いた? あれで尾行しているつもりだったのなら、こちらがビックリだ。君の目的はなんだい? 一応、聞こうか」
着崩した制服を見るに、彼は単に可哀想な被害者ではないらしい。思慮の足りない口が、「バレてなかったはずだ」と言う。逃げ出そうとするので、壁に手を着き退路を断った。
「君、名前は? 何をするつもりで後をつけた。答えを聞くまで逃がす気はないし、嘘を吐くと君の為にならないよ。穏便にいこう。出来れば僕も、手荒なことはしなくない」
「…………」
「もう一度、訊くよ。君は誰だ。目的は?」
両手をついて作り出した影の中、壁に背をつく男の瞳が揺れている。
それが、見下ろす角度で向けられる、有村の目に映っている。熱を欠いた凍える目だ。
瞳以上に震える声で、彼、古町と名乗った一年生は、三年生に命令されたと答えた。先の数人と同じ。聞き出した特徴も一致している。藤堂曰く、去年、拳で捩じ伏せた先輩のひとり。橋本まりあとは懇意の仲。
「ひとりになった時を狙って、鞄でも切ってやれ、って。やったら、仲間に入れてくれるって言うから」
「そう。お友達が欲しくて、僕の宝物に意地悪をしようとしたのか。どちらだろう。知らなかったのかな。それとも、愚かなおバカさんなのかな?」
僅かに詰めた距離。顔が近付いた数センチで肩が跳ねる後輩の喉が引き攣り、小さく鳴る。詰めた息も音になった。有村がそっと微笑むと、後輩は目の中いっぱいに怯えを纏う。
音階を落とした有村の声が、薄暗いビルの隙間の冷たく響く。逃げ場のない後輩の頭の位置は下がって行き、ますます、有村が落とす影へ入り込んでいく。
「草間仁恵に、僕の友人に手を出すな。僕の望みはそれだけ。知らなかったのかなぁ、古町良太くん。答えようか」
コクコクと、小さく頷く。
戦慄く口は隙間を開けるが、そこから言葉は出なかった。
「そう。知らなかったのなら仕方ない。一度だけ見逃してあげる。だけど――」
吐き出される短い呼吸が犬のよう。はっ。はっ。はっ。瞬きを忘れた後輩の目には既に、涙が浮かんでいる。
壁から手を浮かせ、有村はその手を下へ向けていく。頬から側頭部までを両手ですっかりと握り込むように掴んだが、よく聞こえるように耳だけは自由にしてやった。
「――今、確かに君に伝えたからね。次はないよ、古町良太くん。この顔、しかと覚えた。君も覚えておくといい。君がよもや再び周囲をうろつき、この目が君の姿を捉えたら、その時は、容赦しない」
「…………っ」
「噛み付く相手、尻尾を振る相手は良く、考えようね」
身体を引き、覆い被さる影から出してやると、後輩は足をもつれさせながら逃げて行った。
捨て台詞のひとつもなく狭い通路に取り残された有村は見送る目線を戻しつつ、深くもない息を吐く。それから首を傾け、左右で一回ずつ、軽い音を鳴らした。
そこへ間もなく、ひとつの影が差し込んだ。
「可哀想に、人畜無害のツラの皮を読み間違えたか。ベソかいて走ってった。お前に凄まれ、こんな狭い場所であの目に睨まれ、登校拒否にならなきゃいいが」
「応援要請はしていないよ、藤堂」
肩幅程度に開く靴を両方覆うほど大きな影を差した藤堂は夕暮れを背に立っており、その口元には薄い笑みが浮かんでいる。
それをウンザリと眺めた有村は動かず、藤堂は狭い路地から連れ出すのではなく入って来て、有村の隣りで壁に背中を預けた。
「ゴミ捨て行った帰りに、出てくお前らを追い駆けるバカを見たんでな。何人目だ。文化祭から、こっち」
「六人目。うんざりだ。もう、元を叩いていいか」
「ダメだ。だから言ったろ。三年を俺に叩かせろ」
「ケンカはするな。君の拳は、そういう使い方をしていいものじゃない」
「なら、これまで通りだ。草間が気付く前に消す。絵里奈も、落合も」
「のんちゃんと山本くんもね。僕の大切な友人に、手出しはさせない」
「わかってる」
これで六回目。五人が不穏を感じ取っていないのは幸運と言える。
いつまで続くか、考えるのもまたウンザリだ。有村の吐く溜め息を藤堂は聞き流し、長い呼吸を吐き出した。
有村が藤堂に武力行使を許さないように、藤堂も有村に報復の策略を許さないでいる。互いに譲らないからこその長期戦。モグラ叩きは骨が折れるが、互いの頑固な性格は仕方がない。
君が一番のうんざりだ、という顔をして有村が言う。
「そこには君も含まれるんだけど?」
投げる目線で、藤堂はさも面倒臭そうな瞬きを落とす。
「そういうお前は俺が守る。お前が背負う荷物は、俺の荷物だ」
人ひとり通るのがやっとのビルの隙間で見つめ合うふたりの脇を、何も気付かずに通り過ぎる人たちが数名。
先に笑ったのは有村だった。
「そんな台詞は、可愛い女の子に言ってあげなよ。せっかくの男前が台無し」
「残念に思ってる。お前より可愛いヤツが現れないんでな」
「バカみたい」
「まったくだ」
つられて藤堂も笑ってしまえばもう、居る場所の薄暗さなどは問題でなかった。
ふたりで通りへ出て、笑顔混じりに歩き出す。通り過ぎた時、横目に覗いた書店では既に、草間がエプロンを着けて働いていた。
「僕、これからノクターンへ行くんだよ。次のフェアメニューの試作をしに」
「バイトか?」
「ううん。作ってキャリーのオーケーが出れば終わり」
「なら俺も行く。試作なら食っていいんだろ、それ」
「別にいいけど」
いつでも来ていいと、藤堂はキャリーに言われている。制服ならコッソリ入って来いとは念を押されているが、それこそ照明の暗い店内では、ブレザーを脱ぎ、通学鞄を手に提げてしまえばまず気付かれないし、気付かれたとして新しいバイトと言えば済む話だ。
有村が藤堂を見遣り吐く息はそう悪い物ではなく、かといって、気持ちの良い笑顔に繋がるものでもなかった。
「君、文化祭のあとから変わったよね。キャリーたちのこと、気持ち悪いとか言ってたのに」
「悪かったと思ってる。話してみりゃ、イイヤツらだよな。お前が大事にするだけのことはある」
「どういう心境の変化? 合わせてくれてるように見えないから、まだ、少し驚いてるんだけど」
「別に。単に、合う合わないは関わってから考えることにしただけだ」
「へぇ」
揶揄うように放つ有村に、藤堂は持ち前の三白眼を細くした。
文化祭のあと、有村は草間の伝言を受けて、夜、休業したノクターンへ行った。そこへ藤堂もついて行ったのだ。有村の家に泊まるつもりでいたのもあり、面白半分。単に、店を貸切にして行われる打ち上げという名の宴会に興味があった。
従業員だけでなく、数名の演者も集まっての宴会に出された料理は豪華で、ステージでは本来、出演料を取る出し物が次から次に披露された。マジック、演奏、その他諸々。賑やかに過ごした夜更けまでの数時間は素直に、藤堂も楽しかったのだ。楽しんでいたのは有村も、その目で見ていた。キャリーやモモやレイナたちと普通に話す、藤堂の姿も。
「なんつーか、普通のカッコしてても、あの人らはそうなんだとわかった。べたべた触られんのは嫌だけどな。そんなのは男でも女でも同じだ。腹括ってるヤツってのは、悪くない」
あれから何度も訪れておいて素直じゃない藤堂に、有村は笑みを零す。悪くない。藤堂のそれは、気に入ったという意味だ。
「今日、モモさんが来ているはずだよ。君がまた練習相手をしてくれたら、喜ぶと思う」
「真っ二つにされるのは遠慮する」
「ははっ。自分の頭を持たされるよりはいいだろう?」
「どっちも嫌だ」
「あはははっ」
楽し気に笑い声を響かせる有村が厨房へ籠る間、舌打ちをした藤堂は今度、モモにどのような手品へ巻き込まれるのだろう。テレビで見るそれのタネや仕掛けを知るのは楽しいが、自分でやっても身体がバラバラに見えるのは気分が良くない。
笑い過ぎだ。不服も露わに返す藤堂は、清々しく笑う有村にもあった変化を想う。
草間が昨年のリベンジに燃え、有村が再び絵を描き出すきっかけになった、二年C組が一丸となってやり遂げた文化祭。
あの日を境に周囲を嗅ぎ回る小者が湧くこと、藤堂がノクターンの人たちを好くようになったことと、もうひとつ。あの日の深夜、ノクターンからの帰り道に藤堂は再び、あの男に会ったのだ。有村の家の遣いを名乗る、榊という名の男に。
前回と同様にマンションの下で車を停め、帰宅を待ち伏せていた。相変わらずの蛇のような笑顔。暗に、終わったばかりの文化祭も監視していたと打ち明けて来て、久々の女装もお似合いでしたよ、などと言って寄越す嫌味に、有村は笑みを浮かべた。
それはとても静かで、あまりにも冷たい分厚い氷のようだったが、やたらと強い意志が透けて見える微笑みだった。恐れていない。揺れていない。そこには、前回には感じられなかった余裕すら満ちている気がした。
藤堂が感じたそれが見間違いや思い違いでなかったのは、対峙した榊の崩された風体と、変化した表情が如実に示していた。あの日、恐れていたのは、気圧されたのは榊の方だった。余裕をなくし、声を失い、有村を見る目がただ慄いていた。
『僕になら何を言おうと、しようと、好きにすればいい。ただ、僕の大切な人を傷付けることだけは、誰であろうと許さない』
両者を間近で見ていた藤堂は、榊は知らなかったのかもしれないと思った。
これまで見下していた子供の持つ本質。蔑ろにし続けて来た将来の主が、備えているもの。
例えば、器、と表現出来る圧倒的な異質を目の当たりにした榊は飲み込まれ、前回の時のようなそれらしい捨て台詞もなく、ただの従者を思わせる挨拶だけを残して立ち去った。その姿はまるで、先程、逃げ出して行った下級生とひと並びのようだった。
ハッキリと認識したのは、あの時。藤堂は確かに、有村は変わったと思う。
許さない。あの時のそれは確実に、口先の脅しではなかった。
しかし、不安はある。藤堂にとっては、気になっている、という程度だが、有村にはその自覚がないかもしれない。モノが違う。格が違う。その辺りの自覚は微妙。ただ、藤堂から見て少なくとも、強者なら大抵は持ち合わせている類の余裕が、有村には感じられない。
あと一歩踏み込めば飲まれる。食われる。隣りにいるだけでそう感じさせるだけの物騒なものを放っておきながら、榊が消えたあと、有村は前回と同じく心許ない目をして藤堂に詫びた。
手出しはさせないから。迷惑はかけないようにするから。告げる言葉は誓いと呼ぶより願いに近く、有村はまだ和斗に守られるか弱い坊ちゃんの顔をした。
腹の中は黒くとも、有村は性根が曲がっているわけではない。無自覚なのだ。出来るのに、しているのに、出来ないと思い込んでいる。どうにも根深く。
まるで、狩られる側の小動物か何かと勘違いしている鷹のよう。自前の爪の鋭さを知らない。その威力を、強大さを、未だ正しく認識、理解していないように見える。
それを目の当たりにして、藤堂は更に有村の隣りが惜しくなった。コレの全力を見てみたい。最大出力のそれを感じてみたい。本物というのはそれだけで、気分も気持ちもいいものだ。
加えて、結果として藤堂は、その自覚のなさが故に驕らず、隙もないとするならば、有村よりボディーガードに適した者はいないと思う。感度良好のセンサーは全方位に張り巡らされ、標的に気取らせもしないのだから、まったく、天晴なものだ。
駅ビルを越え、反対側へ出たところで、もうすぐ着くノクターンを前に有村が別の友人の名を出した。
「そうだ。これが済んだら、もう一件、付き合ってくれる?」
「どこだ」
「山本くんの所。トウリくんに本を貸す約束があって、バイト先に寄ってから行こうかと。行ったことないだろう? 趣のある、素敵なお店だよ」
「ああ。お前がスーパーで会うおばちゃん紹介して、山本が最近始めた総菜屋な。しかも、アパートの隣り。トウリの面倒見なきゃなんねぇってバイト出来なかった山本にゃ、アレより良い条件ないよな。コロッケが美味いんだろ? 食ってみてぇな」
「早く終われば買えるかな。閉店前には、殆ど売り切れてしまうみたいだけど」
「そうは言っても、ガッツリもらって帰って食費も助かるってんだから、ホント良いトコ見つけたよ、お前は」
「ははっ。可愛がられるのは山本くんの人徳だよ」
「総菜屋って顔はしてんな」
「どんな」
「で、俺は何を見りゃぁいい。気になってんのはあっちだろ。追っ払った親父、来てんのか」
「来てない、って、山本くんは言ってる。でも、トウリくんがまだ不安なのは理解する。ひとりよりは、ふたり。多いに越したことはないだろう? 味方のお兄さん、なんてのは」
「ふん。俺とお前で十人分は軽いと言ってやろう」
「大きく出るなー」
「控えたんだぜ? これでも」
「まぁ」
茶化す有村が笑い、藤堂も笑う。
それは、夜へ向かい、徐々に店を開ける飲み屋街を歩くには不似合いなようで、揃いの制服には相応しい軽やかさを放っていた。
意味はない。しかし、だからこそ心地良い。
コンプレックスも曝け出して大笑いをする有村も、肩を揺らし声を上げて笑う藤堂も、改めて考えるまでもなく、明日も明後日も、これから先も、こんな日々が続くと思っていた。
今だけ許された時間であることは、いつまでも見ていられる夢でないことは、わかっていたはずなのに。




