優しい世界はすぐそばに
階段にしたら、何十段も上ったのだろうか。
それとも本当はたった一段だったりするのか。
どちらにせよ草間にはたったいま目の前で繰り広げられるやり取りが遠い世界の話のように朧げで、この世の真裏みたいにちんぷんかんぷんだった。
よくわからないと片付けてしまうには、あまりに嬉しい言葉であるのは理解出来ていたのだけれど。
「あたしたちも、さっきはあんな騒いじゃったんだけどさ」
「色々言う人もいるだろうけど、気にしちゃダメだよって言いたくて」
「あんな野次馬、気にすることないよ? どーせ羨ましいだけなんだから!」
「つか、マジうるさいっての。さっき一回追い払ったんだけどさぁ。もう次から次に湧いてウザ過ぎ」
「ゾンビかっつーの!」
なんで、って言わないの。まず脳裏を掠めるのは、それだ。
だってみんな彼のことが好きでしょうと言うのは生意気かもしれないが、渦巻く不安の根底はそこにある。
――不釣り合いだって、言わないの?
朝は教室へ入るまでは少なからず言われたのだ。まさか、とか、有り得ない、とか。今だって耳をすませば、それに似た言葉が廊下の方から聞こえてくる。なのに。
そんな思いで恐る恐る顔を上げてみれば一番に視界に入った沢木をはじめ、その後ろにいるクラスメイトたちは皆にこやかな笑顔を湛えていた。
殆ど話したこともない人もいるし、正直を言えば苦手だと思っている人もいる。
それはつまり言いたいことははっきりと言うような、自分とは真逆の性格をした賑やかな人たちで、彼女たちから見れば自分はひどく地味に見えるはずで。
だからきっとここでもと思って覚悟をしていたのに、口火を切った沢木のあとから注がれる言葉はみな、草間にとっては信じ難いくらいに温かいものばかりだった。
「さっきもみんなで話しててさ。姫が選んだのが草間さんでよかったねーって」
「姫ってホントいい子だから変なのに捕まったらヤダって、ウチらいっつも話してたんだよねー?」
「そー! ここだけの話、橋本辺りだったら最悪だよねって」
「その点、草間さんは真面目だし」
「ほら、言ったら姫の彼女ってそれだけで力ありそうじゃん? え、アタシ洸太の女なんだけど、とか偉そうにされたら堪んないよー」
「まぁ、そーゆーのを有村くんが選ぶとも思ってなかったけどね」
「これからもやっかみとかあるかもだけど、なんか言われたって煩いって言ってやればいいんだよ!」
「いやーソレ、委員長のキャラじゃなくない?」
「あ、そか」
「いやだからさ。そういうのがもしあったら、あたしたちで蹴散らしてあげるし」
「姫の笑顔を守り隊ッ!」
「幸せそうな有村くんは我らの至宝!」
「それもあるけど見てられないじゃん、陰口とか。そんなん全然、言われる筋合いないし」
だから何か困ったことがあったら言ってねと締め括り、沢木たちは揃って力強く頷いた。
声が、出なかったのだ。
たくさんの言葉を一気に受け取って、それらが鋭利に突き立てられてもあまり深く傷付かないようにと閉ざしていた心にゆっくりと染み込んでいくまで、草間は瞬きも忘れて彼女たちを見上げていた。
――なんたって姫がいるんだし、なーんも怖いことないよ。
――その目を掻い潜ったのはまずセコムに倒されてー。
――それも抜けたのはあたしたちが成敗しちゃる。
――これだけいればなんとかなるでしょ。
向けられる笑顔と、繰り返し投げて寄越される「大丈夫」の声。
「堂々としてなって! あたしたち、みーんなふたりのこと応援してるから!」
先週まではクラスメイトという以外の接点など微塵もなかった人たちが今はこんなにも優しく、温かく迎えてくれる。その根底に有村が言うのならという条件が付いていたとしても、草間は純粋に嬉しいと思った。
ずっと不安で仕方なかったのだ。自分がどれだけ変わりたいと思っても、有村が手引きしてくれると言っても、周囲はそれを受け入れてはくれないもかもしれない、と。
「…………ッ」
けれど、否定されてなどいなかった。
そう気付いた途端、痛いほど熱くなった目頭を隠して俯き、草間はまたスカートの裾を握った。いま泣くのはずるい。そう必死に堪えながら、草間はただコクコクと数回首を上下に動かした。
どうしても泣きたくない。
それが誰よりわかる久保と落合はすかさず一身に注がれる沢木たちの視線を分散させようと、少々わざとらしく草間の前に割って入った。
声を張り上げ、草間が落ち着くまでの時間を稼ぐ。
ふたりの息は、見事なまでに揃っていた。
「もーなんだ沢木っち、そういうこと。怖い顔して押し寄せるから、何事かと思ったじゃん!」
「そうよ。嫌味のひとつでも言われるのかと思って、思わず身構えたじゃない」
「ごめん、ごめん。いや、ホントはすぐに来たかったんだけどさ。藤堂くんが怖いのと、さり気に有村くんのガードがきつくて」
「姫様も? してた? なんか」
「そー。近くにいたらわからなかったかもだけど、こっちはね。様子見てると目が合って、完全に目ぇ閉じてニコッてされて! あれ絶対笑ってないよねって、行くに行けなくて」
「草間さんに意地悪したら許さない、みたいな気迫を感じたよね。笑顔の中に」
「フェアリーにも『怒』があると知った」
「朝も迫力あったよねー。俺が好きだって言ってるの、なんか文句ある? とか。言われてみたい、マジで」
「圧が半端なかった」
「甘いだけかと思ったねー」
「お菓子と可愛いで出来てるって信じてたのに、意外と普通に男前だった」
「久々の甘味ゼロモード萌えたわー」
「まぁ、姫様は何しても萌えしか生まないんだけどね!」
「潤うわー。マイライフ」
そうしてどこからともなくケラケラと笑う。
それに久保と落合が混ざればより大きく。彼女たちは有村をいい友人だと言って、彼の幸せを願わない者はこのクラスにいないと高らかに、楽し気な声を響かせた。
あんなにいい人はいないとか、性格も顔も天使だとか。
中には「アレは奇跡の産物だ」と目を輝かせる者までいて、それは流石に言い過ぎだと久保が嫌味のひとつも吐き捨てれば、「わかってないな」とまた笑顔が沸き起こる。
「君佳も絵里奈もなんだかんだ姫と距離置くから知らないだけよ?」
「そりゃ最初は、あわよくばとかなくはなかったけどさぁ。一ヶ月もしたら、そんなんどーでもよくなってたよね。姫がただただイイ子過ぎて、つか、もう可愛過ぎてイチイチひたすら萌えるだけ」
「不思議なんだよねぇ。今でも普通にカッコイイとか思うのに、我ながらにトキメキの方向性がおかしい」
「そー。女友達とは違うんだけど、変に意識しなくていいって言うか……性別を超えた、的な? 姫はもう姫っていう生き物でさ。全員で愛でるもの、みたいな」
「このクラスで姫と仲良いのは、みんなそんな感じだと思うよ? じゃなかったら男子にまで人気出ないってー」
だから祝福こそすれ妬みなんてないよと言い切った彼女たちの顔は、確かにとても晴れ晴れとしていた。
――有村くんは、こうなるってわかってて……?
やけに自信ありげだった背中も、教室に入るまでの急ぎ足も、ここは安全だと知っていたからだとしたら。そう思えばドアを潜る直前の微笑みも、教室に入ってからの歩幅もわかる気がした。
彼にはきっと、初めから本当に迷いなどなかったのだ。
それなら、もしかして。そう思い立ち、草間は言いたいことを言い終わって「じゃぁね」と散り散りになっていく沢木たちの向こう、廊下を望むドアを見やった。
有村が自信ありげに言ったことなら、ついさっきももうひとつあったじゃないか。
「…………っ」
草間の視線を追って久保と落合もそちらを見やれば、その目が瞬時に一回り大きくなる。
「あれ、廊下に人がいない。姫様が退けたのかな」
「なによ。やれば出来るじゃない」
沢木たちが来るまでは途切れることなくあったはずの人の影。それが今はひとつも見当たらない。
席を立ってからまだ数分しか経っていないのにふたつ目の約束も確実に果たしてくれたのだと知り、草間は慌てて有村が垣谷と話していた教室前方のドアへと視線を移したが、そちらは男子が固まっていてあまり見晴らしは良くなかった。
首を伸ばして角度を変えても草間の視界に有村が映ることはなく、「良かったね」などと落合に小突かれて身体を揺らすまで、目の端であの凛とした背中を探した。
待っていればいずれ戻って来るけれど、待っているのがもどかしくて、少しでも早くお礼が言いたくて。急ぐ気持ちは草間の背筋をこれでもかと伸ばしたし、その目を生き生きと輝かせた。
――大丈夫だったよ、じゃ変かな。応援してくれるって、って報告するのもおかしいかな。なんて言うのが普通だろう。それとも何も言わないのがいいのかな。でも、なにか。
例えば、本当に世界が違って見えるよ、とか。
さすがにそれは大袈裟かと思い直すついでにクスリと笑った草間の後ろでは、その一部始終を見ていた鈴木が退屈気な顔で頬杖をついていた。
「……まーたアイツの思い通りかよ……」
草間の立場を鑑みれば良かったとは思いつつ、鈴木は少しばかり面白くないといった様子でへの字に結んだ口をそのままに溜め息を吐く。
彼女たちは気付いていないのだろうか。この状況で考えなしに有村と藤堂が同時に草間から目を離すはずがない。有村が席を立ち、藤堂も教室を出た時点で下拵えは済んでいたわけだ。まったく気持ちの悪いこと、この上ない。
その気持ちが悪いヤツと付き合うことにした草間の手前、呟きそうになる悪態は飲み込んだけれど、いち早く振り向いた落合に一瞥をくれる鈴木の表情はどことなく微妙なもの。
「鈴木どしたん? 大仏みたいな顔になってるけど」
「誰が大仏だ。電球みたいな頭しやがって」
「なにおう!」
「なんだお前、ソレ頭になんか被せて切るんか」
「キノコじゃないんだ! ショートボブ! オシャレさん!」
「……わかんね」
「じっと見て言うな! 傷付くわ、このドチビがぁ!」
「なにおう!」
前々から大概こうして罵り合う間柄であるこのふたり、実は互いのメールアドレスや電話番号を知るくらいには仲が良い。
特に久保と藤堂の距離感を面倒だと言うならこちらだってと言える側面が落合には垣間見えていて、喧嘩するほど、というようなふたりが近付いたなら、勇気を出して良かったことが草間にとってもうひとつ増えた感じだ。
落合の話では、鈴木も気のいい人らしい。口は悪いけれど。
よく有村を痛めつけているし、去年少々あって苦手意識が強い方の男子ではあったが、楽しそうな人だなとは遠巻きに常々思っていた。今でも遠巻きにチラチラと見ているだけだけれど、いつかは。
そのいつかが唐突にやって来た。鈴木からしてみれば切っ掛けは確実に草間が寄越した視線だったけれど、そうと言ってやらないくらいの優しさも彼にはある。
「あー、あのさ草間さん。俺らその、今まであんまだったじゃんか。でもまぁ俺たちも味方っつーか、これからこうやって一緒になることも増えるだろうしさ。急には無理かもだけど、ちょっとずつでいーから仲良くしてくんねぇ?」
さっきまでとは別人みたいに優しく話すのも気を遣ってくれたからだとわかるし、応えたいとは思う。でも草間はまだ顔を見られずに首を上下に動かして、コクリと頷くだけだった。
「よかったぁ」
「あー! オレも仲良くしてーでーす!」
なのに鈴木も有村と同様にそれでいいと言ってくれるみたいに笑い、割り込んだ山本も全く気にしていないような顔をする。
優しくしてくれた。いい人たちなんだ。頭ではわかっているのに目を見て言葉を返すことが出来ないのが悔しくて、草間はぎゅっとスカートの裾を握った。
こういうのがダメだとわかっているから、変わりたいと思ったはずなのに。有村に願ってまで言い切ったはずの決心は、こんなに弱いのもじゃなかったはずだ。
――自分からも変わらなくちゃ。してもらうばかりじゃなくて、私だって!
だから草間は仔犬のように震えながら、意を決して顔を上げた。
「……ッ、こっ、こちらこそ! よろし……よろしくおねがいしまッ、しますっ!」
緊張で喉の筋肉が強張っていたから。思い余って音量の調節にまで気が回らなかったから。
だとしても教室を抜けるくらいに響いた草間の大声には、久保や落合も目を丸くした。
出そうと思ってそのくらいの声が出るなら、ノートの回収だってもう少し捗るだろうに。上擦ったり裏返ったりする語尾は愛嬌として鈴木と山本はしばし呆気に取られて息を荒くする草間を眺めていたが、どちらからともなくじわじわと笑顔を大きくした。
「へぇ、こりゃ有村が気に入るはずだわー」
「えっ」
「んだ。んだ。アイツ大好きだもん。いっしょーけんめーなヤツ!」
「あとビックリさせてくれるヤツな」
「パーフェクト! 間違いねーよー!」
「ええっ」
なんだその好みと落合が入って来て、再び始まる鈴木との応酬。そうなると草間はまた蚊帳の外で、でもたまに巻き込まれたりして、気が付いたら口がニヤニヤと笑っていた。
怖がらないで顔を上げていたら、学校にいる時間もこんなに楽しいものだったんだ。
「あと、有村はオレの腹のトリコなんだぜぇ!」
「えっ! 姫様って実はそういう趣向?」
「いんや、コイツの腹の感触が他に類を見なくて興味深いんだと。アイツ食っても全部消費すっからな。気ぃ抜くと痩せてくってホラーじゃね?」
「オレらん中で有村が一番食うんだけどな!」
「マジか!」
何ソレ。肉がつかねーの。女の敵。燃費が死んでんだ。
ニヤニヤからもう少しだけ大きく、ちゃんと笑顔と呼べるくらいに草間が笑うと、他の四人はそれよりはっきりと頬を緩めてやっと重い空気が晴れた。