不思議な夜の過ごし方
腕枕は、本当に腕を枕にするのだと思っていた。
けれど、実際は寧ろ、肩枕。草間の頭はいま半分以上、有村の肩に乗っている。
ベッドは身体の大きい藤堂もお気に入りのセミダブル。横向きに向かい合っているのもあり、左右の両方に空きがある。肩、若しくは胸が枕になっている理由があるとすれば、有村が草間を緩く抱きしめているからだ。
「あのね、有村くん」
「なんでしょう?」
「ちょっと、訊いていい?」
「なんなりと」
理性的に考えれば、思い出して話させたくない話だし、本当は訊くのも恥ずかしい。
けれど、そういうことの実体験の話など草間は他の誰にも訊けず、後学の為、有村に『はじめて』の話を強請った。
「聞いて、嫌いになりません?」
「なりません」
勿論、有村は渋った。普通は寧ろ聞きたくない話だと思うよ、とも言われたが、泣き疲れても眠たくならない草間は質問を取り下げず、有村はきっと仕方がなくて喋り始めた。
彼の初体験は十五歳の時。相手は、ノクターンの元常連客。
「何歳くらいの人?」
「ちゃんとは聞いてないんだよね。名前も、店で呼ばれてたのしか知らなくて。でも、僕が十五って言った時、半分だって言ったから、三十代だったのかな」
「年上だ」
「とてもね」
その人は知識が豊富で、話も上手だったという。
当時の有村はまだ従業員でなく、佐和が仕事の間、キャリーに預けられる形でノクターンで過ごしていた。会話が苦手で、人も苦手。事務所か厨房で本を読んで過ごしていたらしいが、慣れて来た頃に袖からステージを見るのが楽しみになったのだという。
子供がいていい店ではないから、物陰に隠れて、コッソリ。
そんな時、その人が店へやって来た。
「初めて出会うタイプの人だった。僕のことを何も知らない。上手く話せないことも、バーに預けられていることもまるで気にしていないようで、何も訊かない。そこにいる僕をただ受け入れてくれたという印象で、それがとても嬉しかった」
大人なのに心配するでもなければ、同情するでも、そもそも首を突っ込もうともしない。教訓めいたことも言わないし、何を説くでもない。そういう大人に初めて出会い、有村は初めて、ひとりの人間として興味を持った。興味深い人。最初は、そういう印象だったという。
出会った日、華やかなステージは物陰から見るものじゃないとその人は言い、まるで自分の連れのようにカウンターで隣りに座らせ、その内、食事もそこでとるようになった。
ステージが始まれば一緒に見て、合間で、色々な話をしてくれる。十五歳の有村は返事すらままならないほど口下手だったけれど、その人は構わず、過ごす時間は楽しかったらしい。
話してくれる今の有村の表情は穏やかで、草間も頬が柔らかい。
知らない話をたくさんしてくれる人。好奇心旺盛な有村がその人が来るのを楽しみにしていたのは、面白いくらいに想像出来る。きっと、その瞳をキラキラと輝かせていたはずだ。
「ある日、佐和さんが急な仕事で帰れなくなって、誰かがひと晩、僕を預かるって話になった。揉めてたなぁ。自分が連れて帰るって、みんなが言ってくれて。佐和さんはキャリーかキイチさんにって言ったんだけど、キャリーは店長で閉店まで出られないし、キイチさんもフロアから抜けられない。最初は、カケルさんが連れて帰るって言ってたけど、お客さんが戻してしまってね。もう、泥酔で。そんな中、その人が言って来た。よかったら、ウチに来る? って。ホテル暮らしだったんだけど、来たら話で聞かせた旅行先の写真を見せてあげるって言われて。キャリーとは友達だから、自分が言っておくからいいよ、って。丁度、別の騒ぎも起きちゃってね。暴れちゃう系の。みんな忙しそうだったし、僕は言われるまま、その人について行った」
宿泊先のホテルは店から近く、言われてみれば草間も『ああ、あそこか』と外観が思い浮かぶ。
前に堀北が連れて行ってくれた、お気に入りのカフェの近くだ。あの辺りには幾つか、ビジネスホテルが並んでいる。その内のひとつにあったその人の部屋にはたくさんの写真があり、それを見るのは楽しかったと有村は言った。
「想像するしかなかった綺麗な景色とか、色んな人種、様々な人たちの写真もあった。見ている僕のそばで彼女はお酒を飲んでいて、とても綺麗な写真を指差しながら、でもここは臭くてつらかった、とか言うんだ。ガッカリだよ」
そのまま夜が更けてゆき、当時から眠れなかった有村は時間を忘れて、写真に没頭していた。
気付けば時間は深夜二時。突然、お風呂に入りましょうと言われたそうだ。
「入ったの? 一緒に?」
「ね。普通に考えたら変だよね。でも僕、本当に何も知らなかったからさ。背中を洗ってほしいって言われたら、そうですかって、ついてって」
「素直」
「バカだったんだよ」
当時の有村の無知具合は、浴室に入ってから『そうか。裸か』と思うほど。
とはいえ、本当に何も知らないというのは特に意識もしないということらしく、有村はただ背中を流し、されるがまま身体を洗われ、風呂を出た。
一応、女性の裸は恥ずかしくなかったのかを尋ねたら、ノクターンでは着替えも目の前でされるので、別に、とのこと。見てはいけないという感覚もなかったようだ。
「そのまま、一緒のベッドで寝ようって言われて。ベッドはひとつしかないから、僕はソファでいいって言ったんだ。どうせ寝ないし。でも、こうやって誰かと過ごすのは久々だから抱きかかえて寝たいんだって言うから、そういうもんかなって、入って」
「素直過ぎるよ」
「バカなんだって」
親しいわけでもないのにお世話になった感覚だけはあったという。お世話になるのだから出来ることは、と考えたのかもしれないな、と草間は思った。
同じベッドに入る。今の、草間と同じ。当時の有村はまずベッドが苦手で、その苦手が誰かと入ると少しマシに感じたのが、思えば例の『特効薬』の始まりだったかもと打ち明けて来る。
「要は、冷たいベッドが苦手だったみたいで。あったかいじゃない。人がいると」
ちょっと、いいかも。そう思っていたら、その人は突然、キスをした。
「寝る前の挨拶かと思ったんだ。おばあさまもするし。まぁ、口じゃなくて、頬だけど」
特に嫌がらずにいたら仰向けに寝かされ、女性が身体に跨った。それでもまだ、十五歳の有村はその人を警戒しなかった。
「少し前に事務所でキイチさんがプロレス雑誌を読んでてね、そのマネをしてるみたいで、ちょっと面白くて。その人は僕の知らないことばっかり知ってたから、また何か教えてくれるのかと思って見てた。そしたら服を脱がされて、やっと、なんか変だな、って。向こうも脱ぐし、なんで、って思って。で……ああ、まぁ、色々とありまして」
「色々って?」
「まぁ、色々ですよ。色々」
「…………」
「だから。そのね、男の子の部分を色々されたわけですよ。で、一気にパニックになっちゃって。それさ、僕には排泄器官なワケ。他人が触るとか意味がわからない。汚いじゃない。お風呂上がりとはいえ。だから、やめてくださいって言って、何回も言って、でも、やめてくれなくて、吐いたのね、僕」
最悪ですよ、と有村が言う。その声は、ずっとそうだったように軽い。
ここまで聞いて、草間はやっぱり聞いちゃいけない話だったと思った。吐いてしまうほど嫌がり、やめてくれと願ってもなお、やめなかったその人。早く終われと願い続けた夜は、いつの間にか落ちていた眠りで幕を下ろした。
そういうことか。ずっと眠れなかったのに、気が付いたら朝になっていた経験はそれ以降、しばらく彼の『特効薬』として定着した。誰かがいれば、ベッドが温かい。それをすれば眠ることが出来る。その根本もまた、無知のせい。
「起きたら数年振りに頭がスッキリしててね。頭痛もなくて、身体も軽い。でも、状況は散々なわけだよ。汚いしね。吐いてるし。で、怖くなって僕、黙って逃げたの。すっごく悪いことをしたって思って、どうしたらいいかわからなくて、気が付いたらノクターンに戻ってた。閉店、五時なんだけどね。そのあともキャリーとかは残ってて、鍵は閉まってたけど中に誰かいる気配はして、階段の下でドアが開くの待ってて。出て来たキャリーに訊いたんだ。あったこと話して、僕は何をしてしまったんでしょう、って。そしたら騒ぎになっちゃって。被害届とか、その人を捕まえてやるとか。キイチさんとカケルさんの顔が怖くて、モモさんなんか、殺してやるとか言って。すぐに来た佐和さんも謝って泣くし、それでね、ああ僕、犯されたんだぁ、って」
結局、被害届は出されなかった。警察に届けると、親元へ連絡が行く。出さないと決めた佐和はその時も泣いて、有村に詫びたという。
「でもさ。僕、別に何ともなかったんだよね。どこも痛くないし、気になってたのは、吐いちゃったのをそのままにして来たことくらいで。その人はもうノクターンに来なくて、佐和さんは出来るだけそばにいてくれたけど、忙しい人だからずっとじゃなくて。やっぱり僕は眠れなくて、正直を言うと、あんまり可哀想みたいに気遣われるのも疲れてしまって、ひとりで帰るって言って、その人に会いに行った。驚いた顔してた。それから何度も会ったけど、みんな気付いてなかったと思う。スキンを持ち歩くようになってね。佐和さんが気付いて怒られたけど、その時はもう、その人はどこかへ行ったあとだった」
話の最後に、「あの人は全部、僕の先生だったよ」と言った有村は今もその人を恨んでなど、嫌ってすらいないようだった。
寧ろ、好きだったと言ったのだ。そういうことは好きになれなかったけれど、一緒に過ごせばまた話をする。上手く出来れば褒めてもくれる。新しいことを覚えても、褒めてくれる。
「嬉しかったんだ。偉いね、なんて、頭を撫でて褒めてもらったこと、なかったから」
草間は、回す腕を強くした。話させたことが申し訳なく、聞いた話が辛く、褒めてくれない彼の両親を思い出してしまったから。
頭と背中を抱き寄せて、有村の顔が、上げられない草間の頭にくっついた。
「ねぇ。僕、こんな話、不幸自慢でしたんじゃないよ?」
「ごめんね」
「そうじゃない。続きがあるんだ。聞いてくれる?」
「……うん」
膝もギュッと丸めたら、布団の中で有村の長い足と絡まるみたいだった。
「その人が言ってた。僕が言うその人への好きは、恋でも愛でもないって。練習もしてくれて、僕はその人のおかげで会話が出来るようになった。話すことを楽しめるようになった僕に、色んな人と出会いなさい、って。それで、本当に好きな人を抱きしめてみなさい、って言った。何も知らない僕でも絶対に、その人が特別だって気付くから、って」
「…………」
「本当だった。全然、違う。しなくちゃ、とか、した方が、じゃなくて、したくて抱きしめるのがこんなに幸せだって教えてくれて、ありがとう。草間さん」
抱きしめられる腕の中、草間は口を固く結ぶ。
ごめんね、は違う。何か言いたいけれど、正しそうな言葉が出て来ない。
出て来ないからもっと抱きしめ、もっと胸に埋まり込んだ。これ以上は近付けないくらいに近付いて、草間は知った。
きっと人は、これ以上に近付きたくなるから、服を脱で抱き合うんだ。
「有村くん」
「うん?」
恥ずかしかった。間違っている気もした。
それでも草間は顔を上げ、覗き込む有村を強く見つめた。
「有村くんは、好きな人としたこと、ないんだよね?」
「うん」
「なら、有村くんも一緒に、はじめて、やり直そう?」
「……え?」
不思議そうに見られる。当然だ。言って草間も、よくわからない。
でも、気持ちだけは固まっていた。上手く言えなくても、有村ならちゃんと受け取ってくれる。
「嫌だった想い出じゃなくて、幸せな想い出にしよ? 私はきっと、そうだから。有村くんも一緒に、はじめて、しよう?」
重なっている有村の目が大きくなる。驚いているのだろう、瞬きも増える。
どう返って来るかな。なんて言うかな。心配しながら待っていた草間へ、有村は小さく吹き出した。
「君ってさぁ、ホント、突拍子もないこと言い出すね」
「無理がある?」
「無理しかないでしょ。でも、いいね、それ。初めてのやり直しかぁ。最高だ」
グリグリと頭同士を擦り付け、笑う有村は「面白い」とも言う。真剣に言った草間は面白がらせる気も、笑わせる気もなかった。けれど、有村が笑えば、つられて草間も笑ってしまう。
まだ、思っている。出来るかな。大丈夫かな。そこに、『こわい』はない。
何も怖くない。大好きな人とするのだから、草間はひとつも、怖くない。
「眠くなるなぁ、この体温」
「そう? 寝ていいよ。役に立ってよかった」
「草間さん、平熱いくつ?」
「三十七度くらい」
「高くない? 微熱じゃない?」
「そうかな? 有村くんは?」
「三十五、後半?」
「低いよ!」
「君よりはね。けど、大体こんなもんじゃない?」
「そうなの?」
「あったかぁ……」
「なによりです」
寝ていいよ、と繰り返すのに、寝たくないと返して来る有村は駄々っ子のようだ。
勿体ないから寝たくない。そう言う声がもう眠たそうなのに、寝たくないから何か話してと言われた草間は、思い付きでモノを言う。
「スキン、ってなに?」
「え」
「さっき、持ち歩いて佐和さんが怒った、って。危ないもの? 武器?」
「……避妊具」
「あっ! あっ、コンドーム……そういう言い方もあるんだ。知らなかった」
「あー……」
「なに?」
「いや。見たことないんだろうな、って。そんな子に色々しようとか……」
「あるよ、見たことくらい」
「どこで」
「保健の授業」
「あー……」
「なに?」
「殴ってほしい。強めに」
「なんで?」
「待って。武器ってなに」
「強そうだったから。護身用とか」
「スキンって皮膚だよ。日本語にしたら」
「あー……」
「武器って」
「笑わないでよ」
「武器……」
「もぉー」
クスクス笑い布団が揺れて、柔らかい感触の中では四本の足が、もぞもぞ。
「有村くん、足、冷たい」
「ごめん」
「私、あったかいよ。ほら」
「……つらい」
「あっ、ここ、まだスネ? もうちょっと下……足が長いよぉ」
「つらい」
「靴下履く?」
「そうじゃない」
「多分ね、足でこう、挟んだら、あったかいと」
「寝なよ、もう」
「イメージ、伝わってる? こうね、足で」
「もぉー……」
足の裏で足を挟みたいのに届かないから、草間は膝を長い足の隙間に捻じ込み、妥協する。
冷え性は辛い。草間もその傾向があるにはあるので、今日は珍しくとても温かい足の温度を分けられて満足だ。
時間はとっくに十二時過ぎ。本来であれば眠たくて仕方のない時間。
頑張って動いた草間は満足すると眠ってしまい、顎を上げて目元を覆う有村には気付かなかった。




