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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第七章 開花少女
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時間が、巻き戻る

 楽しい思い出などない。

 物心がつく前からその人は横暴で、ワガママで、いつも大切なものを壊す。

 母親がくれた髪飾り。祖母がくれたぬいぐるみ。父親がくれた本。

 気に入らないと暴れて、壊して、草間の前で笑いながら、ガラクタや綿のクズやグシャグシャの紙切れにする。

「……なんで……お姉ちゃんが、ここに……」

 なんで。どうして。

 頭の中で何回も巡る言葉が、草間の口から零れる。

「は? なんでじゃねーよ。自分の家に帰って来て何が悪いの。おかえりくらい言えよ、ゴミクズ!」

 また少し、有村の影が大きくなった。草間さん。呼びかける声もする。

 けれど、草間は瞬きも出来ずにいた。閉じられない目が乾き、表面に水が溜まる。

 なんで。どうして。

 もう帰って来なければいいのに。そう思っていた本心が、その大きさを草間に訴えていた。

「そうだ。仁恵ぇ」

「やめなさい! 朱音!」

 制止に駆け寄り、姉の腕を掴む母親の頬が腫れている。触んなよ。そう言って振り払われる手にも、傷が出来ているようだ。

 なんで。どうして。

 時間も何もかもが止まってしまった草間の前で、姉があのニヤリと片方の口角をより高く上げる笑い方をした。

「アンタ、おばさんになったよ」

「……え」

 姉の言っている言葉の意味が理解出来ない。おばさん。姉はまだ笑っている。

「甥か姪が出来たってこと。産まないけど! アハハッ!」

 母親がまた姉の名前を叫んでいる。少し、泣いているかもしれない。

 パチン、と弾けた音は母親が姉の頬を打った音で、姉が母親へやり返した音は、それよりずっと激しかった。

「なにすんだよ、ババア!」

 草間は既に泣いていた。しゃくり上げることすら出来ず、ただ閉じない目から涙がポロポロ零れていく。

 なんで。どうして。

 なんで、この人はいつも、こうなんだろう。

「なんで……」

「は?」

「なんで。なんで、お姉ちゃん……そんなこと、笑って言うの!」

 初めて、姉へ向けて大きな声を出した。

 怖いけれど、我慢出来なかった。

「産まないって、そんなこと……笑って言うなんて、そんな」

 子供が出来たんだ。産まないってことは、中絶するんだ。出来た命を、笑いながら言うこの人は、殺すんだ。

 仕方がないわけじゃない。泣く泣くの苦しい決断でもない。

 この人は欲しくないのに出来たから中絶することにして、その命を消してしまうことを少しも、何も感じていないんだ。

 悔しくて。腹が立って。告げた草間を、姉の冷たい目が見ていた。

「アタシに意見しようって?」

「…………っ」

「調子に乗るなよ、クズ!」

 姉が駆け出すのが見えて、草間は咄嗟に目を瞑る。ぶたれる。蹴られる。酷い言葉を浴びせられる。覚悟する身体は強く強張り、立ったまま草間は小さく小さく丸まった。

「――やめろ」

 静かな声は草間の耳にも届き、殴られなかった瞼をゆっくりと持ち上げる。

 頬や身体に当たるはずだった姉の拳は、空中で止まっていた。

 その手首を、有村が掴んでいた。

「姉か何か知らないが、彼女を傷つけるのは許さない」

 後ろへ引こうとする姉の身体の動きは、手を振り解こうとしているよう。

 けれど、浮いたままの手は位置を変えない。姉へ注がれる有村の視線も、それを睨み返す姉の目も。

「放せ!」

「貴様が暴力を諦めるのなら、自由にしてやる」

 姉は「痛い!」とも叫び、有村を蹴りつける。その強さを草間は知っている。草間なら倒れてしばらく立てないくらい。父親でも怯むくらいの全力の蹴り。有村には全く堪えていないようだった。

「痛みが好きか」

「は?」

「くれてやろうか。彼女への暴言と、お母さんへの暴力。それだけでも、腕の一本じゃ安いぞ」

 有村くん、と、草間が声を絞り出す前に、母親が「洸太くん!」とその名を呼ぶ。

 呼ぶだけで、放してやれとも、やめてくれとも言わなかった。言わなかったけれど、有村は姉の腕を放した。

 すぐ引き戻される手首に、赤い跡が付いている。同じ物を見たことがある。海で子供をぶとうとした母親の手首に付けた、指の跡。

「……ウケる。どうせ知り合いくらいだろうと思ってたけど、仁恵、まさかコレ、アンタの彼氏? コイツ、ガチで腕折る気だわ。ククッ、おもろ」

 嫌な予感がする。姉が、新しい遊びを、オモチャを見つけた顔をしている。

 不敵な笑顔。座った目。それが、前に立つ有村と草間を見ている。

「けど、こういうヤバさ、嫌いじゃない。顔と身体は合格。ねぇ仁恵、コレ、アタシにちょうだい?」

「…………っ」

「くれるよね。()()()()()()()

 嫌だ。嫌だ。思うだけで、草間は首を小さく横へ動かすだけ。

 嫌だ。近付かないで。嫌だ。有村くんを、取らないで。

 思うだけで動けない草間の視界に、姉の名で怒鳴った母親が飛び込んで来た。

「出て行きなさい! 出てって! お金はちゃんと、振り込んであげるから!」

 草間は有村の腕に庇われ、ふらつきながら道を開ける。その脇を、母親に背中を押される姉が通り過ぎる。また粗雑な言葉が聞こえている。耳を塞ぎたくなるような酷い言葉たちが。

 追い出した母親がドアを閉め、家の中が静かになる。

 嵐が過ぎた家の中。荒れ果てた、団らんの場。

 静かになって、草間は自分の荒い息遣いが聞こえた。

「草間さん……」

 咄嗟に、身を寄せる有村を避けていた。まだ、身体中が『怖い』で縛り付けられていた。

 怖い。怖い。何もかもが怖い。何も見たくない。聞きたくない。

「草間さん!」

 混乱に泣きじゃくる草間の腕を、有村が掴む。耳を塞いで髪をグシャグシャに握る手首だ。

「放して!」

「草間さん!」

「放してよ! 痛い!」

 吐き出した『痛い』の言葉で、有村の力が緩んだ。その隙に腕を振り払い、駆け出した玄関で母親の制止も振り切った草間は、怖い家から逃げ出した。

 ドアに着いて押した手は、制服の袖から覗く手首は、白いまま。

「草間さん!」

「追い駆けて! 仁恵をお願い! 洸太くん!」

 嫌だ。嫌だ。もう、全部が嫌だ。

 ドアが閉まる前に聞こえた声も無視をして、草間は走った。

 どこでもいい。ここにだけはいたくない。どこでもいいから、遠くへ。

 遠く。お姉ちゃんが来ない所へ――けれど、愚図で鈍間な妹は、それほど遠くへは行けなかった。

 腕を掴まれたからじゃない。引き寄せられた胸で大泣きして、走れなくなったからじゃない。

 布団の中か、腕の中か、そうやって隠れて泣くしかないから、怖い現実が終わらない。

「ヤダ! あんな家にいたくない!」

「お姉さんはもういない!」

「いなくても、隣りにお姉ちゃんの部屋があるの! 見たくない! あのドア、見たくない! また、お姉ちゃんが全部壊した! 壊した物、見たくない!」

 泣いて、喚いて、草間は言った。

 両方の肩を掴んで正面にいる有村のコートを掴み、胸に縋って、大粒の涙を落としながら裏返る声で叫んだ。

「そばにいて! 有村くんだけが、そばにいて!」

「草間さん……」

「どこにも行かないで! 私といて! 有村くんだけ、私といてよ!」

 叫んで暴れる草間を抱きしめ、有村はひと言、わかった、と言った。

「どこにも行かない。君といるよ。ふたりで、一緒にいよう」

「…………っ」

 好きな本。優しい友達。美味しい紅茶。古いぬいぐるみ。

 色んな物が、ぽろぽろ、ぽろぽろ、零れ落ちていく。

 楽しい毎日。幸せな日々。たくさんの想い出。

 全部が夢だったみたいだ。本当の自分はまだ、布団の中で丸まっている。

 怖くて、怖くて、消えてしまいそうで、草間は伸ばした腕を首へ絡め、抱きしめる有村にただただ、必死で抱き着いた。

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