時間が、巻き戻る
楽しい思い出などない。
物心がつく前からその人は横暴で、ワガママで、いつも大切なものを壊す。
母親がくれた髪飾り。祖母がくれたぬいぐるみ。父親がくれた本。
気に入らないと暴れて、壊して、草間の前で笑いながら、ガラクタや綿のクズやグシャグシャの紙切れにする。
「……なんで……お姉ちゃんが、ここに……」
なんで。どうして。
頭の中で何回も巡る言葉が、草間の口から零れる。
「は? なんでじゃねーよ。自分の家に帰って来て何が悪いの。おかえりくらい言えよ、ゴミクズ!」
また少し、有村の影が大きくなった。草間さん。呼びかける声もする。
けれど、草間は瞬きも出来ずにいた。閉じられない目が乾き、表面に水が溜まる。
なんで。どうして。
もう帰って来なければいいのに。そう思っていた本心が、その大きさを草間に訴えていた。
「そうだ。仁恵ぇ」
「やめなさい! 朱音!」
制止に駆け寄り、姉の腕を掴む母親の頬が腫れている。触んなよ。そう言って振り払われる手にも、傷が出来ているようだ。
なんで。どうして。
時間も何もかもが止まってしまった草間の前で、姉があのニヤリと片方の口角をより高く上げる笑い方をした。
「アンタ、おばさんになったよ」
「……え」
姉の言っている言葉の意味が理解出来ない。おばさん。姉はまだ笑っている。
「甥か姪が出来たってこと。産まないけど! アハハッ!」
母親がまた姉の名前を叫んでいる。少し、泣いているかもしれない。
パチン、と弾けた音は母親が姉の頬を打った音で、姉が母親へやり返した音は、それよりずっと激しかった。
「なにすんだよ、ババア!」
草間は既に泣いていた。しゃくり上げることすら出来ず、ただ閉じない目から涙がポロポロ零れていく。
なんで。どうして。
なんで、この人はいつも、こうなんだろう。
「なんで……」
「は?」
「なんで。なんで、お姉ちゃん……そんなこと、笑って言うの!」
初めて、姉へ向けて大きな声を出した。
怖いけれど、我慢出来なかった。
「産まないって、そんなこと……笑って言うなんて、そんな」
子供が出来たんだ。産まないってことは、中絶するんだ。出来た命を、笑いながら言うこの人は、殺すんだ。
仕方がないわけじゃない。泣く泣くの苦しい決断でもない。
この人は欲しくないのに出来たから中絶することにして、その命を消してしまうことを少しも、何も感じていないんだ。
悔しくて。腹が立って。告げた草間を、姉の冷たい目が見ていた。
「アタシに意見しようって?」
「…………っ」
「調子に乗るなよ、クズ!」
姉が駆け出すのが見えて、草間は咄嗟に目を瞑る。ぶたれる。蹴られる。酷い言葉を浴びせられる。覚悟する身体は強く強張り、立ったまま草間は小さく小さく丸まった。
「――やめろ」
静かな声は草間の耳にも届き、殴られなかった瞼をゆっくりと持ち上げる。
頬や身体に当たるはずだった姉の拳は、空中で止まっていた。
その手首を、有村が掴んでいた。
「姉か何か知らないが、彼女を傷つけるのは許さない」
後ろへ引こうとする姉の身体の動きは、手を振り解こうとしているよう。
けれど、浮いたままの手は位置を変えない。姉へ注がれる有村の視線も、それを睨み返す姉の目も。
「放せ!」
「貴様が暴力を諦めるのなら、自由にしてやる」
姉は「痛い!」とも叫び、有村を蹴りつける。その強さを草間は知っている。草間なら倒れてしばらく立てないくらい。父親でも怯むくらいの全力の蹴り。有村には全く堪えていないようだった。
「痛みが好きか」
「は?」
「くれてやろうか。彼女への暴言と、お母さんへの暴力。それだけでも、腕の一本じゃ安いぞ」
有村くん、と、草間が声を絞り出す前に、母親が「洸太くん!」とその名を呼ぶ。
呼ぶだけで、放してやれとも、やめてくれとも言わなかった。言わなかったけれど、有村は姉の腕を放した。
すぐ引き戻される手首に、赤い跡が付いている。同じ物を見たことがある。海で子供をぶとうとした母親の手首に付けた、指の跡。
「……ウケる。どうせ知り合いくらいだろうと思ってたけど、仁恵、まさかコレ、アンタの彼氏? コイツ、ガチで腕折る気だわ。ククッ、おもろ」
嫌な予感がする。姉が、新しい遊びを、オモチャを見つけた顔をしている。
不敵な笑顔。座った目。それが、前に立つ有村と草間を見ている。
「けど、こういうヤバさ、嫌いじゃない。顔と身体は合格。ねぇ仁恵、コレ、アタシにちょうだい?」
「…………っ」
「くれるよね。いつもみたいに」
嫌だ。嫌だ。思うだけで、草間は首を小さく横へ動かすだけ。
嫌だ。近付かないで。嫌だ。有村くんを、取らないで。
思うだけで動けない草間の視界に、姉の名で怒鳴った母親が飛び込んで来た。
「出て行きなさい! 出てって! お金はちゃんと、振り込んであげるから!」
草間は有村の腕に庇われ、ふらつきながら道を開ける。その脇を、母親に背中を押される姉が通り過ぎる。また粗雑な言葉が聞こえている。耳を塞ぎたくなるような酷い言葉たちが。
追い出した母親がドアを閉め、家の中が静かになる。
嵐が過ぎた家の中。荒れ果てた、団らんの場。
静かになって、草間は自分の荒い息遣いが聞こえた。
「草間さん……」
咄嗟に、身を寄せる有村を避けていた。まだ、身体中が『怖い』で縛り付けられていた。
怖い。怖い。何もかもが怖い。何も見たくない。聞きたくない。
「草間さん!」
混乱に泣きじゃくる草間の腕を、有村が掴む。耳を塞いで髪をグシャグシャに握る手首だ。
「放して!」
「草間さん!」
「放してよ! 痛い!」
吐き出した『痛い』の言葉で、有村の力が緩んだ。その隙に腕を振り払い、駆け出した玄関で母親の制止も振り切った草間は、怖い家から逃げ出した。
ドアに着いて押した手は、制服の袖から覗く手首は、白いまま。
「草間さん!」
「追い駆けて! 仁恵をお願い! 洸太くん!」
嫌だ。嫌だ。もう、全部が嫌だ。
ドアが閉まる前に聞こえた声も無視をして、草間は走った。
どこでもいい。ここにだけはいたくない。どこでもいいから、遠くへ。
遠く。お姉ちゃんが来ない所へ――けれど、愚図で鈍間な妹は、それほど遠くへは行けなかった。
腕を掴まれたからじゃない。引き寄せられた胸で大泣きして、走れなくなったからじゃない。
布団の中か、腕の中か、そうやって隠れて泣くしかないから、怖い現実が終わらない。
「ヤダ! あんな家にいたくない!」
「お姉さんはもういない!」
「いなくても、隣りにお姉ちゃんの部屋があるの! 見たくない! あのドア、見たくない! また、お姉ちゃんが全部壊した! 壊した物、見たくない!」
泣いて、喚いて、草間は言った。
両方の肩を掴んで正面にいる有村のコートを掴み、胸に縋って、大粒の涙を落としながら裏返る声で叫んだ。
「そばにいて! 有村くんだけが、そばにいて!」
「草間さん……」
「どこにも行かないで! 私といて! 有村くんだけ、私といてよ!」
叫んで暴れる草間を抱きしめ、有村はひと言、わかった、と言った。
「どこにも行かない。君といるよ。ふたりで、一緒にいよう」
「…………っ」
好きな本。優しい友達。美味しい紅茶。古いぬいぐるみ。
色んな物が、ぽろぽろ、ぽろぽろ、零れ落ちていく。
楽しい毎日。幸せな日々。たくさんの想い出。
全部が夢だったみたいだ。本当の自分はまだ、布団の中で丸まっている。
怖くて、怖くて、消えてしまいそうで、草間は伸ばした腕を首へ絡め、抱きしめる有村にただただ、必死で抱き着いた。




