扉
人生。特に縁とは、何が何処でどういう風に巡り巡るかわからないものだ。
買い物終わりにホッとひと息。歩き疲れの足を癒しつつお茶を飲んでいた久保の元へ舞い込んだ、一本の電話。
『緊急事態なの。もう時間もなくて、こんなこと知り合ったばかりで頼むのは申し訳ないんだけど、助けて、絵里奈ちゃん!』
それは、以前に会った時からは想像も出来ないほど慌て、取り乱した様子の佐和からの救援要請で、すぐに行くと答えた久保は駆け出した。
土地勘のある落合が道順のサポートをし、駆け足について行けない草間は後れを取りつつも懸命に走る。開けた大通りには佐和の赤いスポーツカーが停車しており、駆け付けた久保は急かされるまま助手席へ、落合と草間は息を切らせて後部座席へ乗り込んだ。
「ごめんね、絵里奈ちゃん。君佳ちゃん、仁恵ちゃんも」
「いえ。それで、緊急事態というのは?」
真摯な久保の背後では、乱れ切った呼吸で咳込む草間の背中を擦り、落合もまた鬼気迫る面持ちでいる。
世間の荒波など幾度となく乗り越えて来たであろうキャリアウーマン、従業員を抱える経営者でもある佐和が、一般の女子高校生を頼るほどに逼迫した状況。緊急事態。只事ではないはずだ。久保はシートベルトを締めながら、自分に出来ることならばと、眉を困らせる佐和を見つめた。
こんな、ごく普通の高校生である自分で、役に立てるのなら。
声色静かに告げた久保の手を、弾かれるように振り向いた佐和は両手で握った。
「絵里奈ちゃんにしか頼めない。その前に、絵里奈ちゃんて、身長、何センチ?」
「身長、ですか? ……百六十七、ですけど……」
「やっぱり! 前に会った時、そうじゃないかって気がしたの! 救世主だわ!」
「あの……」
ギアを引き、アクセルを踏み、佐和は上品な風貌に似合わず大声で「よし!」と、男らしく放つ。
車は道路を突き進んだ。レーサーの目付きでいる佐和の見事なドライビングテクニックの元に。
「今日、私の大学時代の友人がデザイナーをしてるブランドが、ショップのファンを招いてイベントを開くの。年に一回のお祭り。初回から、私がプランナーとして仕切らせてもらってる。主軸は、懇意にしてくれる顧客へ、新商品や新しい着こなしの提案と、販売促進。プラス、社内向けに意識の向上や研鑽を目的とした、店舗対抗のコーディネート対決。これは、このイベントの目玉。そこで、絵里奈ちゃんには、ショップモデルとしてランウェイを歩いてもらいたいの」
「ランウェイ?」
窓の外で景色が高速に過ぎる中、訊き返した久保の声が裏返る。
思ってもみなかったのだ。普通の高校生に頼るほど単に人手が足りないのだとばかり思っていて、久保は少しも予想していなかった。
佐和が言うには、モデルを務めるはずだった二名が急遽、突然の高熱で欠席を余儀なくされたらしい。男性の方は代役を見つけたものの女性の方が見つからず、打つ手は全て打ったあとだという。だとしても、だ。久保はすぐさま、自分には無理だと言った。そんな大役、知識も経験もない自分に務まるはずがない。
「わかってる。急に言われても困るわよね。でも、絵里奈ちゃんなら大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ! 私はそんな……他に、もっといい人が!」
「プロでよければ手立てはあるの。後半の新作コレクションに出るモデルに代役を頼むとか。でも、前半のショップ対抗はモデルも店員が担うのよ。プロが混ざると勝敗に響く」
「なら、他の店員さんに」
「それが無理だから困ってるの。運が悪いことに、その店舗の他の店員は軒並み背が低い上に、ぽっちゃり。服を美しく見せるには相応しくない。嫌な話だけど、見て、欲しいと思ってもらえないと意味が……て、いうか、用意した服が入らないの。信じられる? 閉まらないのよ、ファスナーが! その服を売ってるショップの店員なのに!」
「でも私、そんな大役、自信が……」
「ショーとはいっても客は騒ぐし、あくまでイベントの一環。合図が出たらステージへ出て、ランウェイを歩く。一番前で一周回って帰って来る。それだけ」
「でも!」
どこをどう走ったのかわからないが、佐和の車はビルの前で停車した。シートベルトを着けたまま、戸惑う久保を見つめる佐和の顔は真剣そのものだ。
「本当に、困ってるの。一般人から適材を見つけるのは難しい。洸太の友達を仕事に巻き込みたくないから最後の手段にしたけど、本来ならね、絵里奈ちゃん。あなたはスタイルがいい。手足が長くて、顔も小さい。プロのモデルと比べれば小柄だけど、百六十七センチなら申し分ない。真っ先に電話して、依頼して雇ってでも出てもらいたいくらいの、逸材」
「…………」
「もちろん、バイト代はお支払するわ。気が進まないのもわかってる。だけど……私を助けてくれないかしら、絵里奈ちゃん。友人のイベントを、完全な形で成功させたいの」
久保の視線は佐和から下へと落ち、揃えた膝の上で握った自分の手を映す。
不安はある。けれど、佐和の役に立てるならと思った。
「あの……その間、仁恵と君佳は?」
「ふたりさえよければ、会場でイベントを楽しんでもらえたら。軽いケータリングがあるし、好きなファッションかはわからないけど、展示もあって賑やかよ。帰りはまた送って行く。絵里奈ちゃんも、ショーが終われば……」
「本当に、歩くだけでいいんですね?」
「ええ。それだけで充分」
「わかりました」
ただ服を着てステージへ上がるだけで、こんなにも困っている佐和の助けになるのなら。自分でいいと、言ってくれるのなら。
佐和の真摯な目が仕事にプライドを持つ大人のそれに見えたから、久保は引き受けることにした。
けれど、微笑みを浮かべて、久保はひとつだけ拒否をする。
「でも、お金はいりません。私は急場で呼ばれただけ。佐和さんの知り合いとして、出るだけです。それでももし本当に役に立てたなら、また今度、この間みたいにみんなで食事を。いいですか? それでも」
「寧ろ、絵里奈ちゃんはそれでいいの?」
「はい。楽しかったので。あと、仁恵と君佳。私、きっと緊張するから、私の時だけでも見える所で見ていてくれる? ふたりの顔が見えたら、頑張れそうな気がする」
「わかった! 一番前で見てる!」
「もちろんよ! 死ぬほど心強い応援するぜ! 任せろい!」
「ありがと」
泣き出しそうなほど喜んだ佐和が、この前よりもっと美味しい店に連れて行くと約束してくれて、久保の笑みは大きくなる。役に立てるか、事足りるかもわからないのに、対価を貰うのだけはどうしても気が引けたのだ。それに、後部座席の草間と落合が今のこの応援を会場でもしてくれたら、頑張れそうな気がする。
本当は、草間の前で格好つけていたいだけの、上がり症の自分でも。
車を降りて進んだビルの五階がイベント会場。通りすがりに眺めた入口は似た黒い服装の人たちで賑わっており、久保は密かに安堵する。どうやら佐和の言う通り、ショーはお祭りイベントの一部という認識で良さそうだ。厳粛なムードでないなら好都合。久保の不安が、ひとつ減る。
モデルの着替えは会場の裏手、別のドアから入った奥でする。会場前で別れようと、草間と落合が足を止めた。気合を入れる久保の前で、佐和がそっとふたりを振り返る。
「仁恵ちゃんは一回、付いて来てもらえると助かる……かな」
「どうしてです?」
既に多少の距離を取っていた草間と落合は心底不思議そうな顔して、けれど、自分たちにも出来ることがあるならと、数歩分を駆け寄る。
久保が目を細めて『あーあ』と思うに至ったのは、誰よりも近い距離で仕事を離れた佐和の顔を見たから。それが彼女のもうひとつの顔、アレの姉の顔だったからだ。
そういうことか。佐和は本当に、切実に、途方もなく困っていたらしい。アレの面倒臭い性格は、十二分に熟知しているはずだから。
気付いた久保より、察しの良い落合より、名前を聞いて全てを悟る草間と同じくらいには。
「実は、頼んだもうひとり、洸太なの。困ってるならって引き受けてはくれて、あの子のことだから本番までにはモチベーションを上げて、やり切ってくれるとは、思うんだけど……」
「……落ち込んじゃってるんですね? 有村くん、目立つの嫌いだから……」
「……お願い、していい? なんていうかもう、声もかけられないくらいの悲壮感が漂っちゃってて……君佳ちゃんも、出来れば……」
「はい。想像、出来るので……ね、キミちゃん」
「だな。こうなったら乗り掛かった舟よ! お嬢を盛り上げるぜ!」
「ありがとう! なんかもう色々ごめんね! 三人とも、大好き!」
叫んでドアを開ける佐和の後ろ、有村の名前を出されてついて行く草間の後ろで、久保は続く落合に声を寄せる。
あの男の性格は面倒だ。することの意味がわからないし、拘りはもっと理解が出来ない。ただ、久保はまるで腑に落ちていなかった。有村が自分の容姿の出来栄えを自覚しているのは知っている。そこが気に食わないわけだから。人前に立つのも難なくこなすくせをして目立つのが嫌いとは、久保には草間に対するいつもの『ブリッコ』に思えてならない。そこはもっと、気に食わないのだ。
「ねぇ、アレがどうして悲壮感漂わせるわけ? もってこいでしょう。なに。仁恵がいないのに素敵な自分を披露しても仕方がないってこと?」
「いんや? 姫様はあれで、マジで目立つの嫌いだよ? 目立つけどね、いるだけで」
「は?」
「目立ち過ぎるから嫌なのかもね。顔で人が寄って来るでしょう? ウザいのかも。あと、色素薄いのは気にしてるっぽい」
「色素?」
「文化祭の時、黒髪の被ったじゃん? ボソッと言ったの聞いたんだよね。黒がいいなぁ、って。で、前に仁恵から聞いた。あたしも綺麗な色だと思うけど、姫様は自分の目の色、たぶんコンプレックス。まぁ、わかるけどね。自前なのに、カラコンですかは気分悪いて」
「…………」
「なにが武器で弱点かは、他人にはわからんもんだよね。あんなパーフェクトな美貌をお持ちでも、自覚してるのと誇りに思えるのは別の話なんじゃん? 体型も気にしてるしねぇ。太れないんだってさ。体質? 藤堂が羨ましい、とか。絞め殺したくなったけどね。要らないならくれよ、その便利な体質」
「……そう」
意外だった。久保が有村を嫌う理由の上位には、ナルシストだから、があったので。
惚れている草間が言うならまだしも、落合はこれで物の見方は比較的中立だ。過剰な肩入れも、頭ごなしの否定もあまりしない。そんな落合までが言うのなら、久保も多少は考えを改めざるを得ない。性格的に合う合わない、好きになれないこととは別として。
歩調の緩んだ久保の半歩前で、落合は「そんなことより」と先を急ぐ。確かに今はそれどころではない。再びに気を引き締め、久保は戦場と化した会場裏へと足を踏み入れたのだった。
これより先は気を張っていないと久保も、『久保絵里奈』でいられなくなる。




