出会い
玄関で靴を履き、草間は元気に「いってきます」を告げる。
父親からの返事はリビングから聞こえ、しなかった母親が慌ただしくエプロン姿で飛び出し「洸太くんと?」と尋ねて来るが、残念ながら今日はデートでも、遊びに行くのでもない。
「バイト」
「日曜日なのに?」
「店長がたまに行ってるもうひとつの方でサイン会があるの。その間、人手が足りないからレジをしに。堀北さんと、ふたり」
「そう。場所はわかるの?」
「前にもヘルプで一回行ったし、本を買いに行ったことがあるから大丈夫だよ。お昼までだから、終わったらキミちゃんと絵里ちゃんとお買い物に行って来る。帰りは、そんなに遅くならないと思う」
「そう。気を付けてね。いってらっしゃい」
母親は駆け出すように元気良く出て行く娘へ手を振り、閉まった玄関扉の前でふと、物思いに耽る。頬は緩み、柔らかい表情だ。
そこへ新聞片手の父親がやって来て、開け放たれたリビングの出入口から半身を出した。
「活発になったというか、アクティブになったねぇ。前は知らない所へ行くのは嫌だと言っていたのに、あんな笑顔で」
「洸太くんのおかげ」
「違うだろー」
「きっとそうよ。仁恵だけじゃない。最近ね、キミちゃんも絵里ちゃんも、なんだか前より明るい気がする」
「彼のおかげってことは」
「そうなの。ヤキモチ焼きのお父さんは黙ってて」
「はいはい」
もう高校生、と、不意に考えないでもなかった母親だ。初恋に早いも遅いもないのだろうが、草間家の二女は今日も健やかに、健全で可愛らしい中学生のような恋愛を楽しんでいる。
繁華街とビジネス街の中程に建つ系列書店へ応援に駆り出されるのは、二回目になる。
当時の草間はようやく接客に慣れてきたところで、まだ全ての言葉をレジカウンターの向かいまで届けられずにいた。今回同様に草間を推薦した堀北は自店より大きな店舗を見せてくれるつもりだったのだろうが、草間にとっては戸惑うばかりの三時間を過ごした苦い想い出の場所だ。
あれから、大凡一年。客として訪れたとて草間は真っ直ぐ文芸書コーナーへ向かうので、売り場を把握していないのは前回と同じ。顔見知りも増えていない。業務内容も前回と同じだ。草間はレジに入り、「ありがとうございました!」で会計を終えた客へお辞儀をする。
正面を向いて笑顔で告げた「またお越しください」は、手前のフロアへ出ていた堀北にも届いた。
「仁恵ちゃん。声、よく出てていいね。笑顔もいいよー? 華やかぁ」
「ありがとうございます」
この書店でサイン会のある日は、会場になる二階のレジが忙しくなる。応援者の草間は一階のレジを三人ないし五人で回しており、客足はギリギリ、列にならない程度だ。
一応はサポートの扱いなので、基本的には会計以外の問い合わせ等をこの店の店員に委ねてもいいことになっている。しかし、今日は日曜日。客入りは多く、対して応じるスタッフは他店から駆り出されるほどに足りていない。なので草間は自主的に、というほどの意識も特にせず、書店員としてレジカウンターの中で行える作業を淡々とこなした。
客足を見て、出来そうな、手に負えそうな作業を探す。雑誌の付録付けや、途中で中断を余儀なくされたのであろう新刊コミックにビニールのカバー、シュリンクを掛けて棒立ちになる時間を避けるのはいつものことだ。
合間には草間が思う書店員の本領発揮、求める本を探して迷子になった客の手伝いをする。曖昧な記憶やヒントを頼りに正解の一冊を渡せた時の喜びというのは、店が変わっても変わらない。
レジを受け、接客をし、短い距離を駆け足で急ぎ、顔見知りでない店員と業務上のやり取りをする。そうして忙しく動き回っていると、いつの間にかサイン会が終わっていて、あっという間に上がる時間の十三時になっていた。
呼びに来てくれた堀北に教えられて気付いた草間は急いで後片付けをし、簡単な着替えを済ませて店を出る。「お疲れ様です」と「お先に失礼します」を告げた時、レジでずっと一緒だった数名に、「また来てね」と言われた。それがなんだか、とても嬉しかった。
「お仕事に慣れたのもあると思うけど、仁恵ちゃんはね、めきめきパワーアップしてるんだよ? 真面目で丁寧なのは最初からだけど、他のスタッフとの連携とか、お客さんとも積極的に話すようになって、今や遅番に欠かせない、スーパー書店員さんなんだからぁ」
帰り道に堀北はそう微笑み、草間の頬を指でつつく。仁恵ちゃんは私の自慢の後輩。堀北がよく言ってくれるその言葉が、草間の大きな自信になっている。
まだ、自分ではよくわからない。今でも焦ること、困ること、戸惑うことはよくあって、堀北や他の先輩スタッフに助けてもらってばかりだ。
けれど、気付いていることもある。最近、以前よりもバイト時間が楽しい。
次もあったら助けてあげてね、と、堀北が言った。その時少し、不思議な言い方だとは思ったのだ。恐らくはそれがきっかけで、赤信号に足を止めた点字ブロックの内側、爪先を揃えたその場所で堀北が改めて名前を呼び、話しかけて来た。
「仁恵ちゃん。駅まで歩きながらでいいから、少し、お話聞いてくれる?」
「はい。なんでしょう?」
改まって何を、とは思ったが、堀北の表情は彼女らしい朗らかなものだ。
仕事のことかと思い、バッグから急いでメモ帳を取り出す草間を「可愛いんだから」と笑い、堀北は「仕事のことだけど、そうじゃないよ」と、ほんのり頬を色付かせた。
「実はね。私、あと数ヶ月したら、お店、辞めるかも」
「えっ! なんでですか? なんでそんな、急に」
嫌です。寂しいです。思わず堀北の腕に触れ、草間の口が考えるより先に言葉を吐く。
一番話しやすいからではない。親しいから、というだけでもない。草間は堀北が好きだったので、すぐに眉が泣き出す前の形に歪んだ。
「赤ちゃんが出来たの。で、結婚する」
そう、堀北が幸せそうに笑うまで。
草間の頬は一気に、堀北のそれより赤らんだ。
「え……えっ、赤ちゃん……おめでとうございます! えっ、うそ、嬉しい。おめでとうございます、堀北さん! あっ! ご結婚も、おめでとうございます!」
「ありがとー」
堪らないという風に堀北は笑い、「嬉しいの?」などと訊いて来るものだから、「嬉しいですよ!」と返す草間の声は食い気味の、被り気味。
嬉しいに決まっている。堀北のおなかに今、幸せが宿っているのだから。
「泣かないのー」
「だって。なんか、もう、嬉しくて……」
自分のことのように嬉しくて涙が出て来る草間を、堀北は歩きながら優しく、横並びのまま抱き寄せる。肩に預けさせるようにして引き寄せた頭で堀北の手が柔く弾むと、草間は益々泣けてしまう。
色々な話をして来た人だから、彼女が長く同棲していることも、相手のことも少しは知っている。知っているだけで会ったことはないのに、もしも今ここに未来の旦那さんが現れでもしたら思わず駆け寄り、握手くらいは強請ってしまいそうだ。
「あ、あの、それで体調はどう……あっ、それでお店を。そういうことでしたか。そうですね。赤ちゃんと、堀北さんの身体が一番ですもん。嫌だとか言って、ごめんなさい」
「ううん。嬉しかったよー? だからね、ちょっと迷う」
「ふぇ?」
「もー。かわいい!」
「えぇー」
蛇行してしまうくらい、堀北は草間の頭に自分の頭を擦り付ける。グリグリグリと当てられて、草間はまるで溺愛される子猫のよう。仰け反る頬は潰れて苦しいが、少しも避けたい気持ちにならない。
「店長はね、産んだら戻っておいでって言ってくれたの。ママさんは他にもいるし、協力するから、って」
「じゃぁ……」
「うーん。気持ちとしてはねー、良い職場だし、本が好きだし、続けられたら嬉しいけど。でも、初めてで、どうなるかわからないでしょー? 迷惑かけたくないから、うーん、って」
「無理は、してほしくないですけど。堀北さんが辞めちゃった方が、みんな困ると思います。来れなくても、戻って来てくれるって思えば」
「仁恵ちゃんは、もー」
ギュウっと抱きしめられた草間の頬はもう、ぴったりと貼り付く堀北の頬と一体化してしまいそう。
いよいよと足も止まり、堀北はしばらく、されるがままの草間を抱きしめていた。
「もう少し考えてみる。今はまだ悪阻もないし、出来たって言っても、写真でココですって教えてもらって、なんかいるなーってくらいだし」
「そんなに小さいんです?」
「小さいよー? まだ人間って感じ、しなーい」
「そんな……」
性別なんか全然先だよ、と、堀北らしい柔らかな語尾が伸びる。
満足したのか抱擁を解いた堀北と草間は再びに駅へ向かって歩き出し、「どっちがいいとかありますか?」と尋ねる草間に笑いかける堀北は少女のようで、もう母親みたいに温かかった。
まだ全く膨らんでいない、堀北のおなか。コートの上から手を当て、堀北は溢れんばかりに幸せそう。
「私、女の子が好きでしょー? だからね、なんとなーく、産むなら女の子がいいなぁって思ってたの。彼も知ってて、女の子だといいね、って。でもね、不思議なんだぁ。あんなに小さくて、本当にこれが人になるのかなって感じなのに、いるんだなって思ったら、男の子でも女の子でもいい、元気に生まれてくれたらそれでいいな、って思って」
「生まれますよ。元気いっぱいの、可愛い赤ちゃん」
「うん。早く会いたい。それこそ、気が早いけどねー?」
予定日は夏頃で、自分も九月生まれだからちょっと嬉しいと笑う堀北が、草間はまた大好きになる。辞めるにしろ、休むにしろ、会えなくなるのは正直、寂しい。
でも、それ以上に嬉しかった。身近な人の結婚も妊娠も初めてだったが、こういう嬉しい報告は聞く人をも幸せにする。
私も、早く会いたい。生まれて来る可愛い子供に、ママになっても可愛いはずの堀北さんに。
「それでね。どっちにしろ、すぐには抜けられなくて。引継ぎもしないとだし」
「あぁ、それで。私、頑張ります」
「ちがうー」
「え?」
「店長にはすぐ話したけど、スタッフには内緒にしてもらってるのー。仁恵ちゃんには自分で、一番に言いたかったから!」
頬をぷっくり膨らませる堀北の人差し指が、草間の額をつつく。痛くはないけれど咄嗟に手を寄せ、草間からは頼りない「堀北さぁん」の声が出た。
体調次第ではシフトの代理を頼むかもしれないとか、一緒にやっているコーナーを草間に任せることになるとか、堀北が申し訳なさそうに言って来たり、草間から申し出た話は少しだけした。何を置いても、堀北の身体が一番。無理のない範囲でと繰り返せば、一度は離れた堀北の肩がまた草間にグッと近付いた。
「でね。仁恵ちゃんに一番話したかったのは、私が辞めても休んでも、また、お茶してくれる?」
会えなくなるのは寂しいよ。言葉と態度と表情で伝えてくれる堀北へ、草間は大きく、ニッコリ笑う。
「もちろんです。私からも、お願いします。会いたいです。堀北さんに」
「仁恵ちゃーん」
「堀北さーん」
道の真ん中で抱き合い、草間と堀北はグルグル回って笑い合った。
駅前で堀北と別れ、草間はバスで待ち合わせの場所へ向かうことにした。用事があるという堀北を引き留めてはいけないし、それなら少し散歩気分で、この喜びをもう少し育てたい。
この辺りにあるはずのバス停を求めて歩く草間の頬は緩んだままで、胸がポカポカ、温かい。落合へバイト終了のメールをし、歩調もかなり軽やかだ。
男の子だろうか、女の子だろうか。どちらでも堀北の子供なら可愛いこと間違いない。
「どうしよう。ニヤニヤしちゃう」
これではどうにも不審者だ。改めなくてはと頬を叩く草間の正面、数メートル先で、向かいから歩いて来た女性が激しく咳込み、崩れるように膝を着いた。
「だ、大丈夫ですか!」
すぐさま駆け寄り、苦し気に咳をする女性の隣りで膝を着くと、草間は利き手で強張る背中を撫で擦る。激しく、重たい咳だ。なにか病気なのかと思い、草間は喋るのも辛いであろう女性へ、返事は頷くだけでと話しかけた。
「なにか、お薬は持っていらっしゃいますか?」
問いかけに、女性は首を縦にも横にも振らない。
病気ではないのかも。そうだとしても苦しがっている女性をこのまま、道路の真ん中には放置出来ない。立てますか、と問いかけて、草間はやっと首を縦に振ってくれた女性の腕を肩に掛け、落ちている革のハンドバッグを拾って道路の脇へと移動した。
道路沿いには、植えられた植物の為のコンクリートの出っ張りがあった。見たところあまり綺麗ではなくて、草間は気休め程度に手で表面を払うと、ゆっくり女性を座らせる。
胸元を押さえる女性は、かなり苦しそうだ。咳が多少弱まると、代わりに隙間風のような喘鳴が聞こえて来る。喘息の発作か、他の何かか。様子を見ていて草間にはやはり、彼女が何かしらの病を抱えているように見える。女性はとても痩せていて、細い指では銀色の指輪が緩そうにしていた。
「救急車、呼びましょうか?」
中にはそれを嫌がる人もいる。尋ねる草間へ、その人も首を横へ振った。
「少しすれば、落ち着くから……」
「わかりました。ごめんなさい。話すの苦しいですよね。バッグは横に置いておきます」
「……ありがとう」
こういう時、見ている以外に何も出来ないのが悔しい。草間は女性の正面にしゃがみ、手を強く握りながら必死で考えた。
いま、自分に出来ること。自分なら、なにをしてもらいたいだろう。きっと、外で体調を崩し、この人はいま心細いはずだ。そばにいる以外に、なにか。
「あの、少しだけ待っていてくれますか? すぐに戻ります。だから、ここにいてください!」
確か、少し手前に自動販売機があった。草間は全速力で駆けて行き、水とお茶、冷たいのと温かいのを買い、女性の元まで駆け戻る。
「もし、飲めそうなら」
「……わるいわ……」
「そんなこと言わないでください。体調の悪い時は、どうか。どれなら飲めそうですか?」
「……じゃぁ、お水……」
「わかりました」
きっと力も上手く入らないだろうから、草間はキャップを捻って開けて、弱々しい女性の手にミネラルウォーターのペットボトルを握らせる。持っているだけでも辛いかもしれないから、空いた手はそのまま女性の近くに残しておいた。
その人はひと口、ふた口、と水を飲み、苦しげな音が鳴る胸を押さえて「ありがとう」を吐き出した。
「もう少し飲めますか? 無理そうなら、一度キャップを」
少しだけペットボトルが前へ出て来たので、草間は受け取りキャップを閉めた。
それからも草間は女性の咳が治まるまでそばにおり、落ち着いた頃に近くの公園へと、バッグを預かり肩に掛け、両腕で身体を支えて移動した。所々が欠けたコンクリートよりは木製のベンチの方が、咳で疲れた身体が少しでも休まる気がしたからだ。
その人はやはり、肺に病気を抱えていた。突発性の咳に苛まれることはたまにあるそうで、疲れ切った顔があまりに申し訳なさそうに「ごめんなさい」を言って来るから、草間は座るベンチの隣りで「いいえ」と笑った。
「親切な人もいるものね。お水、ありがとう。おかげで少し、ラクになったわ」
「よかったです。無理をせず、もう少しお休みになって。何か出来ることがあったら教えてください」
「あなた、いい人ね。なにもないわ。ありがとう」
聞くところによると、その人は通院している病院の帰り道だった。薬局で薬を貰い、草間が見つけた道路を抜けて出る大通りで、タクシーを捕まえるつもりでいたらしい。
「なら、大通りへ出てタクシーに乗るまで一緒にいます。いいですか? いても」
「でも、あなただって用事が……」
特に伝えていないのに『用事』を持ち出され、草間はゆったりと微笑みかける。
あるにはあるが、まだ時間に余裕がある。昼食をとり損ねても、一食くらいは些細なことだ。
バイト終わりなのだと答え、草間はニコリと口角を上げた。
「お節介なのはわかってるんです。でも、もし、ご迷惑でなければ。このままだと、帰っても気になるというか……」
「あなた、本当に優しいのね。学生さん? お若いけど」
「高校生です。二年生で、十六歳です」
「そう。しっかりしたお嬢さんね。じゃぁ、甘えてもいいかしら。本当は少し、歩くのがつらくて」
「はい。もちろんです。是非、お手伝いさせてください!」
「ありがとう」
向けられた微笑みは疲労と、あとはやはり痩せ過ぎに見える頬や目元に落ちる翳りの所為で、ひどく弱々しい。けれど、黒髪のショートカットが似合うその人は目鼻立ちのハッキリとした、とても美しい女性だった。
公園のベンチで充分な休憩を取り、草間はゆっくりなその人の歩調に合わせて、ほんの少しの会話をしながら大通りまで戻った。幸いにもタクシーはすぐに捕まり、後部座席に乗り込むのを見て、草間はようやく安堵する。
「今日は本当にありがとう。私こそ、あなたが嫌でなければお礼がしたいわ。また会ってくださらない?」
「そんな。私は、お礼なんて……」
先程は草間から握った手を、その人はタクシーの中から両手で包んだ。
随分と冷たい手だ。冷たくて、とても細い。
「本当に、嬉しかったの。誰かにこんなに優しくしてもらったのは、何年ぶりかしら……」
その、骨の形までわかりそうな痩せた手に、草間はふと最後の入院をした祖母を思い出してしまった。目を覚ましている祖母と、最後の会話をした日。きっと帰るからねと言って頭を撫でてくれた祖母の手は、こんな風に冷たかった。
「これ、私の名刺。電話でもメールでも、朝でも夜でもいいわ。連絡を」
「でも……」
「本当は、お礼なんて口実なの。また、もう一度、あなたに会いたいだけ。少しでいいわ。待っているから、連絡をちょうだい。あなた、お名前は?」
「草間です。草間仁恵といいます」
「草間さんね。ワガママを言って、困らせてしまっているのはわかっているの。でも、どうか連絡をくださらない? お願いよ」
「…………」
痩せたその人に帰って来られなかった祖母を見てしまった草間は何も言えず、差し出される名刺を受け取った。
「私、木下蘭子。蘭子と書いて、カコって読むの」
「カコ、さん……」
草間が名刺を受け取ると、その人は笑顔を残し、返事も聞かずに去って行く。遠くなって行くタクシーを見送り、草間は視線を手元へ落した。
名刺には、フリーカメラマンと書いてある。電話番号と、メールアドレスも。
お礼されるようなことをしたと思っていない。あの人が無事に帰宅してくれればと、願うだけで。
「……きのした、かこさん……」
貰った名刺の隅を持つ手にまだ痩せた冷たい手の感触が残っていたから、草間は名刺を手帳に挟み、バッグの底の方へとしまい込んだ。




