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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第七章 開花少女
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心に灯る火を消すな

 リリーに最後の絵を描いてから、有村には幾つかの変化があった。

 まず最初に、不眠症が多少、改善された。眠る度に見ていたリリーの夢を見なくなり、夜、横になって休むのが怖くなくなったようだ。

 まだ、眠れても二時間から三時間。だとしても、一睡も出来ない夜が続いていた有村には目覚ましい変化だ。日々、決まって睡眠を取れるようになった有村は、以前よりも糖分補給が忙しくなくなったように見える。心なしか顔色もよくなったようで、草間はこれが一番嬉しい。

 そして、二番目にして今も喜びを隠し切れないでいるのが、有村が積極的に絵を描くようになったこと。決して褒められることではないが、たまに授業中も教師の目を盗んで描いている。

 放課後も急ぐように美術室へ向かい、先生が例の遊びを始める前から持ち歩くようになったスケッチブックを広げ、部屋の隅の方で美しい風景や可愛い動物を描いている時の有村は真剣なうえ、楽しそう。言い方は悪いかもしれないが、お絵描きが大好きな七歳くらいの男の子のようだ。描き終わる頃に声をかければ草間たちに見せて来て、それがまるで『上手でしょ』と誇らしげにしているようだから堪らない。

 三つ目、これが草間が気付く大きな変化の最後であり、草間の胸が温かくなること。

 泣きながらリリーを描いたあの日から、有村はとても涙脆くなった。

 草間たちが何かして喜ぶと、嬉しいと言いながら泣いてしまう。草間の家の花壇の花が咲いて、みんなで見に来た時にも泣いてしまった。止まるのに最も時間がかかったのが、落合の飼い犬が誤飲で動物病院に運ばれた時。大事なく無事に帰宅したトイプードルを抱きしめて、頑張ったね、偉かったねと泣き出した有村は落合の母親と共に玄関で大号泣。これには草間も、少し困った。

 泣き虫になったわけではない。草間の印象では、元々の感動屋さんがパワーアップしたという具合だ。これまでに溜めて来た涙が、今は外へ出たくてウズウズしているのかもしれない。出て来るものは、出してしまうのが一番だ。

 これに対しての落合たちの反応は、草間の予想を遥かに超えて寛容だった。あとで聞いた話だけれど、落合は鈴木から、久保は藤堂から、三年分の悲しみが決壊させてしまった有村の涙腺はまだ壊れたままなのだと説明があったらしい。

 クラスでの反応も近しい。喜んだついでに目が潤んでしまう有村は概ね、可愛いと評判だ。男子から『有村らしい』との反応があったのは意外だったが、彼ら曰く、有村は以前から感動屋だし大袈裟である、とのこと。当初は多少あった戸惑いも、二日もすればなくなった。

 これにより、校内にあった『クールな王子様たる有村洸太』というイメージは崩壊してしまったが、草間はそれも嬉しく思っている。有村は元々冷静で客観的に物事を捉えることが出来る人なのであって、感情表現自体はとても豊かだ。身体で、行動で、言葉で、有村ほど『嬉しい』や『楽しい』を真っ直ぐに表現する人を草間は他に知らない。

 ただ、何かが変われば弊害も付きもので、夜に眠るようになり、感情表現が更に豊かになり、絵を描くことに積極的になった結果、有村と藤堂は駆け込み登校が日課になった。

 今朝も藤堂は窓際の一番後ろの席で、大きく呼吸を乱している。前の席の有村は真っ青な顔で机に突っ伏し、電車酔いで弱ったところを藤堂に担がれ走られるという酔いの二重併発で重症。ふたり共この状態が一時限目の初めでは大抵、全快に至らないのだ。これだけは何かしらの策を講じるほかあるまいというのが、近頃の草間たちの課題である。

 言ってしまえば、久保の指摘通りに簡単なこと。有村が家で絵を描くのをやめればいいのだ。

 藤堂曰く、毎朝ボコボコにして尻を叩きまくって支度をさせて家を出る。このタイムロスをなくせばいい。ただ、それがどうにも有村には難しいらしい。頭では理解しているのに、絵を描く衝動を抑えきれない。もはや中毒、禁断症状かよ、と落合が呆れるのを聞いて、草間はふと閃いた。

 自分に置き換えてみたのだ。本の続きが気になって仕方ない。次の巻が気になって仕方ない。そんな時はもう、最後まで読み切るしかない。

「一回、思い切り描いてみるのはどうかな。週末とか、時間を気にしないで、有村くんがやめたくなるまで、思い切り。まだ描きたいのに途中で切るから、もっと描きたくなるのかも!」

 顔色が改善しても口数が回復しない有村へ提案したアイディアを、草間は早速その日の放課後、身近にいる絵の専門家に相談してみることにした。

 選択授業の美術教師、裸足にサンダルがトレードマークの安田先生だ。

「まぁ、ないことはないかもね。満足してないから、欲求がもっともっとと上積みされていく。俺にもそんな頃があったよ。描きたいけど他にもしなくちゃいけないことがあって、頭の中は常に絵を描くことでいっぱいだったなぁ……まだ、自分が天才だと信じて疑ってなかった頃」

「ああ……」

 放課後に入ったばかりの先生は今日も、コーンポタージュで暖を取る。

 相変わらずコーンが落ちずに真上に向けた缶の底を叩いた先生は、コーンを待つ口で「いい案があるよ」と言った。

「本当は有村の絵を描くことに対する遠慮とか、そういうのがまるっきりなくなってから勧めてみようと思ってたんだけど、最近は進んで描いてるみたいだし、頃合いかな」

「どんな?」

 温かい紅茶で手を温めつつ尋ねた草間へ、残りのコーンを諦めた先生が不敵に笑う。

「有村はね、たぶん色だよ。物を線や形で捉えてない。彼は色彩に、かなりの拘りがある」

 そういう人間にうってつけのものがあるのだと言って、先生は美術室のドアに手をかけた。

「それでさ、草間さん。今週の頭だったかな。一回、有村から油彩絵具の臭いがしたんだけど、何か思い当たること、ある?」

「……あっ! 絵具!」

 ある。絵具で思い当たること。あの大雨の日に小夜啼のおじいさんがくれた、二色の絵具。

 思い付いた草間は先生より先にドアを抜け、窓を背にするいつもの場所でスケッチブックを抱える有村を見つけるなり、開口一番に叫んだ。

「有村くん! 絵具、試したの?」

「……あ」

 あとから入って来た先生はクスクスと笑いながら「今日も寒いねぇ」とサンダルの底を鳴らし、閉めたドアに鍵をかけた。



 足は肩幅でなく腰に手も当てていないが、スケッチブックを胸に抱き背中を丸める居心地悪そうな有村の正面を陣取り、存在感としての仁王立ちで憤る草間には、列記とした理由がある。

「試したら、教えてくれるって言った」

「……ごめん」

「試したあと、お礼しに行くって約束した」

「……ごめん」

「なんで教えてくれなかったの?」

「……ホント、ごめん」

 あれからもう二週間以上も経っているし、草間は一日でも早く行きたいと思っているのを、有村に二度は伝えていたのだ。その時、試したら言うからと有村は答えたのに、今日はもう木曜日。草間は最低でも四日間、秘密にされていたことになる。教えてくれるのを、待っていたのに。

 怒っているぞの顔をする草間とひたすら申し訳なさそうな有村の間を取り持ち、安田先生は「まぁまぁ」と割って入る。今日は藤堂たちもいる日だった。彼らはここへ来ても特に絵を描かずに過ごすのが定番になっていて、放課後の美術室を体の良いたまり場にしており、ジュースを飲みながら、お菓子を食べながら、はたまた読みかけのマンガを持ったまま、草間が発する険悪の行く末を見守っている。

「ハマっちゃいそうだったんじゃない? 正直に言えば真面目な草間さんはその日にでも、画材店へ行こうとする。足を踏み入れたら他の絵具も買ってしまうかもしれない。画材屋さんは勧めるだろうしね。買っちゃって手元にあったら、使いたいもんなぁ? わかるよ、有村。新しい画材を手に入れたら色々試したいし、時間なんかいくらあっても足りない。わかる。わかる。それでよく、俺も遅刻したっけ。サボりもした」

「いや、そこは認めちゃダメでしょ。教師やで、一応」

「まぁねぇ」

 横槍を入れる落合とヘラヘラと笑う先生が曰く、絵を描くことが大好きな人あるある、なのだそう。

 草間が脳内で変換するに、発売日を待ち侘びていた本を発売日に買って、読み始めるのを何日も我慢出来るか、という話のようだ。それはつらい。ちょっとくらい、冒頭くらいと悪魔は引っ切り無しに囁くだろうし、その誘惑に草間は勝てる自信がない。

「絵具、気に入ったの?」

「うん」

「楽しかった?」

「うん」

「……我慢、したんだ?」

「うん」

 そこへ来て、有村はそもそも買わないという選択をしたのだ。手元に無ければ悪魔が囁こうと実行へ移せない。

 理性的だった有村を頭ごなしに責めてしまい、草間は素直に頭を下げて非を詫びた。

「ごめんね。怒っちゃった」

「ううん。約束を破ったのは本当だし、試すのを週末まで待てなかった僕が悪い」

「……えらいね。有村くん」

「それでも毎朝描いてるけどな。殴ってもやめねぇけどな!」

「セコム。それは、あとで聞こう」

 無事に和解した草間と有村は和やかに、小夜啼へは今週末に行こうという約束を交わし合う。

 その背後から、実態を持った悪魔が静かに近付いて来ていた。サンダルの底を鳴らし、じわじわと。

「でさ、有村くん。ここに、たくさんの油彩絵具があるわけだよ」

「安田先生!」

 せっかく我慢している偉い有村の前に長細い箱を差し出す先生を、草間の目が鋭く射抜く。

 禁断のアイテムを手にして、有村がこれ以上、絵を描く衝動を抑えきれなくなったらどうする。そうなった時の藤堂の激高を誰が止める。無言で睨む藤堂に気付けば安田先生は見なかったフリをし、いつものヘラヘラとした笑い方でまた「まぁまぁ」と、のんきに窘めようとするのだ。

「俺だって教師の端くれだよ? 可愛い生徒が不良に成り下がるのを、応援なんかしないよ」

「だったら、そんなの見せないでくださいよ! 我慢してるのに!」

「セコム。教師を殴ったらアカン」

「まだ殴ってねぇ」

 そうは言っても握った拳が準備万端である背後の藤堂を気にしつつ、安田先生は立ちはだかる草間へ「いい案があるって言ったろ?」と、節度ある大人みたいな顔をする。

 節度ある大人なら、耐えている生徒に甘い誘惑などかけないものだ。番人たる草間を避け、先生は後ろで箱を見ないようにしている有村へ直接、語り掛けた。

「要は、さ。有村の絵への欲求を満たして、かつ、学校生活に支障がなくなればいいんでしょ? だからね、これは提案。ここには絵具も、筆もある。で、俺は朝からここでよく、絵を描いてる」

「はい?」

「実を言うと、奥の部屋を半分、アトリエにしてる。油彩絵具って臭いんだよ。部屋で描くと寝る時つらいし、俺も時間を忘れちゃう方だから、学校で描いてる。だからさ、有村もおいでよ。朝早くに学校に来て、ここで始業時間ギリギリまで描く。ここから教室までなら何分もかからないだろ? 俺も時間になったら声をかけるし、心配なら誰か迎えに来ればいい」

 言われてから見てみれば、先生が持って来た箱は使用感たっぷりに汚れている。

 ある道具は使っていいし、見守りもしてあげる。そう告げる先生は、絵はここで描くと決めさえすれば絵具を家に置かない前提もクリア出来、自分から早くに登校するようになり、藤堂の負担も減ると付け加える。

 ついでに草間は、早朝に登校すれば有村が苦手な満員電車を回避出来るのにも気が付いた。欲求を満たし、遅刻の恐れもなくなり、苦手も避けられる。事項としては、受け入れて何も損がない。

「どうかな、有村。そもそも、油彩絵具は他の絵具と違って、乾くのに時間がかかる。だからこそ、これでしか表現出来ない迫力や、色がある。何日もかけて描くものなんだ。少しずつ、塗り重ねて。用意した道具も全て置いて行っていい。俺が答えられる範囲でなら、技術的なことも教える。だけど、基本は放任。芸術は自分の中から生み出すもの。口は挟まない。君にやる気があるのなら、毎日でも歓迎する。どうせ描いてるんだしね。美術教師として、絵を愛する生徒の手伝いをするのは、言ってしまえば本望さ」

「……僕は、途中で描くのをやめられません」

「みたいだね。だったら、これは訓練にもなる。大人になったら今以上に、ずっと絵だけを描いては過ごせない。描けない日もある。描きたいのに。そういう自分を自分自身で、欲求をコントロールする練習だ。俺だって描きかけの絵は他人に見せたくない。奥の部屋にしまって、俺にも見られたくないなら絶対に見ないよ。教師として頼ってくれ。で、同じく絵が好きな人間、先輩として甘えてくれ。最初から思ってた。君にはきっと、絵具が合ってる」

「何故です?」

「足りないんだろう? 色が。君の中にある色には、番号が付いていないんじゃない?」

「…………」

「それは君の武器だよ、有村。君の色彩には、君だけのルールがあるのでは? 慣れれば絵具で作れない色はない。途中で止めるのは苦しいかもしれないが、理想の色彩を目の前に置くのと、どっちがいい?」

 先生の提案を、有村は少し悩んで受け入れた。

 連絡先の交換をし、けれど先生は毎朝六時半には学校へ来て美術室で絵を描いていると告げ、放課後も下校時間ギリギリまで入り浸っていいと重ねる。無論、草間たちは大賛成だ。特に朝の格闘に苛まれなくなりそうな藤堂は俄然乗り気で、自分たちも見に来る了承を取り付けた。

 草間は、早起きには自信がある。六時半登校など余裕だ。しかも、絵を描く有村を見られるのなら、スキップで登校してしまうかもしれない。

 先生はまず、奥の部屋から自身の作品を一枚、持って来た。

「上手い下手は置いておいてね。みんなは、所謂、油絵。こういった物に触れたことはあるかな」

「ないです」

「ないでーす」

「まぁ、大抵はそうだよね。なら、実際に手で触ってみてもらいたいんだけど、油絵の最大の魅力はこの厚みだ。これにより、自ずと絵に奥行き、深み、迫力、説得力が生まれる。一見すると、絵画に代表される油絵は美術館で展示されるような高尚で難しいもののように思えるかもしれないが、実際に扱ってみると、これほど自由度の高い画材はない。乾くのが遅いという特徴を生かして、じっくりと描くことが出来るんだ。乾いてしまえば上から塗る色の邪魔をしない。これは隠蔽力が高いという性質によるもの。滲んだり、透けたりしない。手順さえ踏めば必ず、思った色がそこに乗る。有村」

「はい」

「君は、色への拘りが強いね? 油彩は、そういう人間に向いている。偶然の誤魔化しはない。自分のつけたひと筆だけが色彩を乗せる。それが絵になる。君に、これと同じサイズのキャンバスをあげよう。自由に使って描いてごらん。他にも試したい人がいたら用意する。前に言ったね。絵を描くことは義務じゃない。だから、上手いも下手も関係ない。やりたい人はやっていい。誰だって。絵は、とても身近な遊び。 ……大半の人間にとっては」

 生き生きと話して聞かせた先生は最後、微笑み交じりの真面目な顔で有村を見た。

 それで草間は、以前に先生とした会話を思い出す。同じ絵を描く人間として、有村に敗北感を得たと言った安田先生は今も、有村を見る目に少しだけ不思議な翳りの色を差す。

 少なくとも悪いものには見えなくて、草間は初めて直接触れた油絵の表面、筆が通った足跡のような痕跡を指で辿る。持ち運ぶには両腕で抱えなくてはならないサイズのこの中に、先生が入れようとして入れたひと筆以外がないというなら、草間にはそれだけでこの一枚が安田先生自身の欠片に思え、感動すら覚える。

 ふと、考えてしまったのだ。同じように有村がこのキャンバス一枚を全て、彼の欠片、色彩だけで埋め尽くしたら、どれほど素晴らしいだろうと。彼がたったひとりで生み出す、彼が持つものだけで作り上げられる絵。世界。

 無性に見てみたくなって有村を見遣れば、同じく有村を見つめていた先生の目にも期待が過る気がした。草間と同じ、まだ見ぬものへの大きな期待や、希望が。

 先生は少しの間見つめた有村から視線を浮かせ、静かに聞き入る七人全員へと語り掛けた。

「絵に限らず、人には無性に心が叫ぶ瞬間があると思う。物に対して、事に対して、時には人に、誰かに対して。これがしたい。これがほしい。掴みたい、なんとしても。その叫びは、心の奥に住み着いた、何度種火になろうと消えない、めげない炎だ。年齢を重ねるとそれを抑えなくてはならない時、殺さなくてはいけない時、いっそ消えてしまえばと思う時も来るかもしれない。けどね、その炎が灯るうちは、君たちひとりひとりの未来がまだ、情熱を持つ君たち自身の手に委ねられている証拠だ。悔しくても、苦しくても、決して自分から吹き消さないでほしい。その炎を、どうしようもない叫びを、大切にしてほしい。君たちがみんな、ひとりひとり、君が君であることをやめないで。捨てないで。忘れないで。恥じないで、炎を灯す胸を張って。 ……なんて、たまには先生っぽいことを言ってみようと思ったんだけど、どうかな。やっぱ、似合わない?」

 お道化て見せる安田先生を囲み、草間たちはそれぞれに頬を緩めたり口角を上げたりしたが、誰も似合わないとかガラじゃないとは言わなかった。

 草間は本を読むのが好きで、落合は絵を描くことと服を作るのが好き。鈴木はスイーツを作るのが好きで、山本は食べることが大好きだ。草間がまだ知らないだけで、久保と藤堂にも止められないことがあるのかもしれない。

 そういう、それぞれの持つ『好き』を、やめなくていい。同意してもらえなくても、認めてもらえなくても、隠す必要などない。たとえ笑われても、自分にとって大切な、自分の一部。安田先生は、そう丸ごと肯定してくれたのだと思った。

 照れ臭くなったらしい安田先生は項を掻き、友達が遊びに誘う気楽さで「どうする?」と、有村へ問いかける。時刻はまだ四時過ぎ。有村は真っ白なキャンバスの前に立った。

 最初は、幾つかの絵具を指へ落として、伸ばしたり、嗅いだり。ふと、口へ運んだから草間は慌てたが、先生が少しなら食べても害はないと言ったので、また座る。

 なにをしてるんだろう。声に出す落合に、「確かめてるんだよ」と先生が答えた。

「なにを?」

「なにかなぁ。あの絵具と友達になれるかどうか、かもね」

 先生タイムが終了したらしい安田先生は椅子に座って眺めていて、どうしろとも、どうしてみろとも言わない。

 好きなように遊ばせてみる先生はいま、数年の前のお絵かき教室の先生に戻っているみたいだった。

「……草間さん。君、好きな花は?」

「花? ええと、ヒマワリ」

「ヒマワリか。 ……ヒマワリ」

 咄嗟に応えてから、油絵でヒマワリなんてありきたり過ぎたかと先生に不安をぶつけた。絵画に詳しくない草間でも知っている。有名な絵、ひまわり。先生は、それでいいのだと言った。

 有村が訊いたのは草間が好きな花で、それが正解。ありきたりと言い出したら、世の中にある物の大半が大勢の絵描きが題材にしたことのある、有り触れたものになる。

 ただ、有村にはモデルは必要ないのかな、と零した。美術室にヒマワリはないし、そもそもこの季節には咲いていない。そういう時も、そういう絵描きもよくあることと、先生は笑った。

「ヒマワリ。空へ向かって伸びる花。太陽へと咲き誇る花。種を落とすその日まで、決して首を垂れぬ花……」

 ポツポツと呟く有村が、ふと、草間を振り返る。

「育む健気な君によく似合う。君の花だ」

「……あっ」

 振り向いて告げた有村は小さく笑い、視線が逸れて再び背中を向けられる前、草間は気付いて声を上げた。

 まただ。わけもわからず、彼は描くと思った。きっと、美しい絵を。

「どうした?」

「いま、有村くんの目付きが、変わって気がして。黒板の時がそうだったんです。話をして、急に有村くんの目が変わって。そこからは一度も止まらずに、絵を」

「……そう」

 見つけた瞬間はガラリと変わったように感じても、あとになれば、こうして誰かに口頭で告げてしまうと気の所為だったようにも思える些細な変化。

 目付きが鋭くなるのとは違う。形が変わるわけでもない。

 なのに、『変わった』と確かに感じる瞬間が草間にはあって、先生はそれも気楽に受け取る。

「彼は、時々ひどく、目が沈むね」

「沈む?」

「なんだろうね。深く、着地するって感じかな。大きい分、たまに目立つ」

 雰囲気としては似ているかもしれない。有村がたまにする、シャッターのような瞬きの前と後。

 その変化とも違う微妙な気配に先生も気付いている予感を、再び向けられた先生の力も気も抜けた自然体の横顔から、草間は微かに感じ取っていた。

 真っ白なキャンバスに、パレットへ数色搾り出した絵具を乗せて、有村が筆を払う。

 迷いなく次々に、白いキャンバスが色付いてゆく。

「これだから楽しいよなぁ、人生って」

 見守りながら喋っている落合と久保、鈴木と山本の声に消えそうな呟きが、先生から零れる。

「芸術に明るくない普通科高校の美術の先生も、なってみるもんだなぁ」

 呟きは恐らく先生の独り言で、見遣る草間と先生は目が合わない。

 けれど、見て悪かったかなと視線を前方の有村の背中へ戻した時、隣りから先生が草間へと顔と身体を近付けて来た。

「見なよ。いきなり描き込み始めた。まぁ、下描きも下塗りも教えてないから、知らないのかもしれないけどね」

「…………」

 楽しいねぇ、そう笑い、次第に美術室が賑やかになっても、誰かが出て行き戻って来ても、先生はずっと微笑み交じりに頬杖を着き、ヒマワリを描く有村を見つめ続けた。

 隣りで草間もそうだった。ずっと見ていたかったし、何時間でも見ていられる。下校放送に急かされて学校を出たあと、藤堂が同じことを言った。絵を描く有村は何時間でも見てしまう、と。

「なんなんだろうな。なんか、飽きねぇ」

 照れ臭そうに笑った藤堂の顔は、人なんか殴ったこともないような少年の顔だった。

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