三年分の、さようなら
例えばこれが落合なら草間は部屋で本を読み、十分でも二十分でも気長に待つ。
しかし、それが有村となると、草間は五分前からソワソワと携帯電話を見つめては、どうにも胸騒ぎが止まらない。
昨夜はメールの返信が来た。十時に家まで迎えに行くと。まだ過ぎているわけではないし、焦ることでもないのだろうが、常に時間厳守の有村が三分前になってもまだ来ない。
朝のおはようメールの返信があったなら、草間はここまで気にならなかったかもしれない。なかったのだ。いつもはすぐに返って来るのに。そして、十時ピッタリに電話を鳴らしたが出ない。これはもう、明らかにおかしい。有村であるが故に。
草間は玄関で「いってきます」の声をかけ、十時五分に家を出た。
連絡が取れないのは二回目だ。一回目はあの、夏の終わりの花火のあと。
あの時と同じことが起きている気がして有村の家へと向かった草間の頭に、それ以外で有村が連絡を返して来ない可能性は少しも、全く掠りもしなかった。
なので、向かう途中で藤堂にメールを入れた。藤堂は有村の家の鍵を持っている。玄関の外で落ち合った時には、今日は佐和がいるはずだと聞いて藤堂には悪いことをしたと思ったけれど、彼は今回も快くついて来てくれた。
「迎えに行くって言ったんだろ? なのに、メールも返さないってのはおかしい」
「でも、佐和さんがいるなら……」
「今日はアテにならないかもな。あの感じじゃ、酒飲んで寝てそうだ」
「あぁ……」
藤堂の話では、久々の休日を過ごす佐和の定番であるらしい。
特に有村が出掛けるのなら勝手に出て行くのも知っていて、下手をすればまだ寝ているかもしれないと十時半近くに言った。休みの日には寝溜めする。佐和の多忙はかなりのようだ。
手順は前回と同じ。エントランスでチャイムを鳴らし、出なければ暗証番号を押してエレベーターへ乗り込む。七階の角部屋、ドアの脇についているチャイムも鳴らした。中から「はーい」と答える声が聞こえ、ドアを開けたのはやはり、眠たそうな佐和だった。
「あら、藤堂くんに仁恵ちゃん。おはよう。昨日はおつかれさま。どうしたの? 約束?」
「有村、います?」
「んー……お風呂じゃないみたいだけど。私も今のチャイムで起きたところで、走りにでも行ってるのかしら」
時間を間違うなんて珍しい、と零れる欠伸を手で隠す佐和は、本当にたったいま起きたという風体でいる。羽織った丈の長いガウンの前を閉めるけれど、下は寝間着のままなのだろう。合わせた隙間から覗く白い足が、スリッパだけでは足りず寒そうにしている。
「こんなカッコでごめんね? だらしなくて」
「いえ。お休みの日に、起こしてしまってごめんなさい」
「ううん。ありがとう、来てくれて」
「そんな」
寝起きの佐和は全くの素顔で、髪もゆるい三つ編みにして下ろしている。それでもとてもキレイな人だと見つめていたら、無断で靴箱を開けた藤堂がひと言、靴はあると言った。
その瞬間、朧気だった佐和の目がハッキリとした。慌てた様子で振り返り、そのあとを藤堂も靴を脱いで追い駆ける。
「……鍵がかかってる」
遅れて玄関を上がった草間が到着する頃、佐和は動かないドアノブから離した手でドアを叩き、「洸太!」と名前を呼び始めた。
「ここを開けて! 開けなさい、洸太! 洸太!」
「佐和さん。スペアは」
「ある。持って来る」
急いで奥へと駆けて行く佐和はガウンの裾をはためかせ、ノックと呼び掛けを代わった藤堂の険しい横顔に、草間にも緊張が走る。
密室が苦手な有村は以前、ドアには鍵をかけないと話していた。雨に降られて風呂を借りた日、着替えに使うならと教えられるまで、草間はこの部屋に鍵がかかるのを知らなかったくらいだ。
「自分で入ればマシってだけだ。長くいりゃ、そのうちパニクる」
「どうなるの?」
「息が出来なくなる。でも、なら出ようと騒ぐはずなんだ。こんなに静かな方がおかしい」
草間も加わりドアを叩き名前を呼ぶが、中からは全く物音のひとつすらもしない。
その方が怖いと藤堂が言うのだ。禄でもないことをしているかもしれないと。その禄でもないことが草間には想像出来なかったが、藤堂を見るに良くないことで、急を要する事態なのはわかった。
「ないわ! あの子、持って中へ入ったのかも!」
リビングの奥から佐和が叫ぶ。彼女はすぐさま駆け戻り、また有村を呼び始めた。
「……壊していいっスか。ドア、蹴破っていいっスか!」
「お願い。やって、藤堂くん。仁恵ちゃんは、危ないから下がって」
「有村! ドアの近くにいるんじゃねぇぞ!」
藤堂が蹴りつける度に、耳を覆いたくなるほどの激しい音が立つ。
三回目で鍵が壊れ、四回目でドアが開いた。
「有村!」
「有村くん!」
「洸太!」
呼びながら部屋の中へとなだれ込んだ草間は、藤堂の隣りで足を止めた。
藤堂の奥にいる佐和が、呟くように名前を呼ぶ。藤堂は肩で息をしていて、草間は声が出なかった。
「…………」
足元には、いつかのように無数の紙が落ちている。描きかけの絵。ただ色を塗られただけの紙が、床を埋め尽くすほどに散らばっている。
「……有村くん?」
呼びかけても応えない。草間たちが見つめる部屋の中程で、有村は蹲っているように見えた。
「有村くん!」
叫ぶ草間が駆け寄ると、床へ蹲るようにして絵を描いている有村が低く唸り、身体に触れようとする草間を腕で邪険に振り払った。
その右手には黒色の色鉛筆が握られている。先が丸くなった、色鉛筆。同じ物が床にも三本落ちている。厚みの不均一な削りカスと、削るのに使ったのであろう刃が丸出しのカッターも、草間の近くに落ちていた。
「有村くん!」
振り払われても構わずに、草間は再び動き続ける腕に抱き着いた。
止めないと、やめさせないといけない気がする――聞き取れないくらいに小さな声で、有村がブツブツとなにか言っている。
「やめて、有村くん! やめて!」
「…………っ!」
突き飛ばされて床へ倒れた草間の元へ、藤堂が駆け寄った。肩を抱いて草間を支え、藤堂もまた「やめろ!」と怒鳴る。
いい加減にしろと、藤堂の手が有村の肩を掴んだ。その瞬間、有村が目線を寄こした。
瞳だけをギョロリと動かしたのだ。その目付きも顔付きも、草間の知らない有村だった。
「……藤堂くん離れて! 仁恵ちゃんも、早く!」
「…………っ」
飛んで来た佐和の声に身体が反応する前に、草間は藤堂に後ろへと突き飛ばされた。
「藤堂くん! やめて……やめなさい、洸太!」
草間が床から顔を上げた時、泣き出しそうな佐和は膝を着いていて、草間を庇った藤堂は仰向けに押し倒され、色鉛筆を高く振り上げた有村に馬乗りになられていた。
振り下ろされる手を押さえて必死に抵抗しながら、藤堂は何度も名前を呼ぶ。苗字ではなく、洸太と何度も。鬼気迫る有村と藤堂の力は互角か、藤堂の方が押されているように見えた。
「邪魔するな! 僕の、邪魔をするな!」
「しっかりしろ洸太! 目ぇ覚ませ!」
「返せ……返せよ! リリーを返せ! ぼくの……ぼくが、リリーの……リリーを、ぼくが……返せ! 返せ!」
「洸太!」
泣きながら佐和は部屋を飛び出して行き、閉じられなくなった草間の視界も揺れ始めていた。
手首と首を掴まれて押し返されながら、体重をかけて身体を下ろしていくあの人は、本当に彼なのだろうか。髪の色はそう。聞こえる声も彼の物。それでも、開き切った目で喚き散らす、そんな有村を草間は知らない。
「返して! 返せ! 僕のだ! ぼくの、リリー!」
押し返されても名前を叫ばれても構わずに、藤堂へ向かう有村の口が大きく横へ裂けていく。
剥き出しになる、四本の尖った牙。オオカミのような顔を、そんな顔をする有村を、草間は知らない。床を捉える草間の手が爪を立てた。
きっと、これだ。藤堂が有村を患者と呼ぶ理由。昨日、佐和が話した、目撃したという有村が抱えている問題の露呈。混乱しているのに、頭の中で色々なことが繋がって行く。
充分でなかった設備。だから、先生は別の病院を勧めた。専門の、病院を。
こうして暴れてしまうことが、過去にもきっと、あったのだ。
「リリー、どこ? なんでいないの……リリー、どこにいるの……怒ってるの、リリー……」
「洸太!」
「やくそく、やぶったから? うそ、ついたから? いっしょにいけなかったから、おこってるの、リリー。リリー……リリー!」
「…………っ」
大きく開かれた彼の目はいま、何も映していない気がする。子供みたいな話し方。リリーを呼んで、叫ぶ声。何もかもが、自分の知っている彼じゃない。
もう見ていられなくて、聞いていられなくて、草間は有村に抱き着いた。
こんな有村を知らない。こんなにも苦しくて痛い声を知らなかったから、草間はしがみ付いて離れなかった。
「聞いて、有村くん! リリーちゃんはもういないの! 死んじゃったの!」
ウソだ、ちがう、と言いながら、有村は藤堂に跨ったままで身を捩る。振り解かれないように、草間は巻き付けた自分の腕を痛んでなお、強く掴んだ。
藤堂や電話を手に戻って来た佐和が離れろと言うけれど、離す気などない。離しちゃいけない。いま、この腕だけは絶対に、解いちゃいけない。何があっても離さないと、力の限りに抱きしめた。
「呼んでも来ないの! 会えないの! リリーちゃんは来れないの、もう!」
「嘘だ!」
「リリーちゃんはもういないの! 有村くんの、中にしか!」
「嘘だ!」
藤堂の手が、有村の首に指を食い込ませているのが見える。草間はそれを離せと藤堂へ言った。放してくれと頼んだ。必死に抱き着いて、泣きながら。
「会いたいだけだよね。寂しいんだよね……大好きだったから、苦しいね、有村くん」
「…………っ」
「でもね。死んじゃったら、リリーちゃんも有村くんに会えないんだよ? 会いたくても、そばにいてあげたくても来れないの。リリーちゃん、心配してるよ? 優しい子だったんでしょ?」
「……ちがう……リリーはいつも、僕のそばにいて――」
「そうだよ。リリーちゃんはずっと、いつまでもそばにいる。誰も、有村くんから取ったりしない。私も、藤堂くんも佐和さんも、誰も取らない」
藤堂が手を外した有村の首には指の跡がついていて、解放されたもう片方の右手は床へ落ちると、そこから色鉛筆が転がり落ちる音がした。
痛い。痛い。草間はひたすら、締め付けられて痛む胸が苦しい。
悲しい。悲しくて、寂しい。それだけが、呼吸を荒く、徐々に揺れが大きくなっていく有村の全身から伝わって来るようで、ただただ痛い。リリーを想う有村の気持ちを想って、つらい。こんなにも大切なリリーを失くした傷の大きさが思い知らされるようで、苦しい。
藤堂が有村の下から這い出して、立ち尽くす佐和の隣りで草間たちを見ている。
出来た空白分をペタリと降りて、有村は床へ座り込んだ。
だから、草間は正面へと回り込み、有村の首元に抱き着いた。
「いいよ、有村くん。いいよ、泣いて」
「…………っ」
「わかるから、いいよ。泣いてあげよう? 三年分。リリーちゃんの為に」
「…………っ」
抱き返して来た有村の腕は徐々に上がり、厚手の上着の背中をゆっくりと握り締めた。
その指は強く立てられ、多少は痛いほどだった。けれど、草間は全く痛くないふりをして、実際に気にもならずに、丸まって震える有村の背中を撫でる。
いつかの自分がしてもらったように、優しく、何度でも。
「……っ、あぁ……あぁっ!」
三年の時をかけて堰を切った有村の慟哭は深く激しく、悲鳴のような泣き声だった。
五分、十分と肩も背中も濡らして、草間は背中を撫で続ける。有村は叫ぶだけで、リリーの名前も呼ばなかった。草間はそのまま何も言わずに三十分は撫でていただろうか。時間など長いも短いもなく、有村が泣き止むまでずっと背中を撫でていた。
ただ、受け止めたかった。やっと泣けた有村の涙を、悲しみも、全部。
藤堂も佐和も黙っていた。部屋中に散らばった真っ黒で塗り潰されただけの紙が、三年越し、大切な友達へのサヨウナラのように、静かに床を埋め尽くしていた。




