王子様の朝とチョコレート
我らが王子様には、彼の健やかで恙ない高校生ライフをサポートするという名目の下結成された、数十名からなる親衛隊が定めた幾つかの掟が存在する。
深追い禁止。待ち伏せ厳禁。靴箱や机の中に贈り物を忍ばせるなど言語道断。
そうした規律を順守する代わりに、有村は毎朝テーマパークのメインキャラクターよろしく声を投げた全員と挨拶を交わし、笑顔を振り撒く。その間は学年に関係なく誰でも王子様と会話することが出来、運が良ければ名前を呼んでもらえたり、ちょっとくらいは触れたりしても御咎めなし。これが譲葉高校に於ける朝の恒例行事のあらましである。
そんな大仰なと思うかもしれない。しかしこれのお陰で遅刻する生徒が減ったとは気難しい教頭も認めるほどで、今や教員たちも忍びないとは思いつつ有村に声援を送っている始末だ。だから騒ぎがどれだけ大きくなろうと止めには入らないし、止めたら余計に暴動が起きると傍観を決め込んでいる。
「有村くーん! おはよー!」
「きゃぁっ! 今日はブレザー着てないよっ」
「腕まくり来たーっ」
「姫ー! 朝のスマイルちょーだーい!」
廊下の向こうから。階段の上から、下から。はたまた通りすがりの教室から。
あらゆる方向からそれはもう引っ切り無しに、大量の「おはよう」が有村へと向かって飛んで来る。その全てを卒なくいなして廊下を進むのは、もはや技術。若しくは天性の才能あってのこと。
アイドルになるべくして生まれる人がいるとしたら、それは間違いなく有村洸太の他にいない。外見も、中身も。
「おはよ。おはよー、みんな。今日も元気があっていいねー。ああそう、一時間目は体育なんだ、頑張ってね。あ、ごめんね、プレゼントは受け取らないことにしてるから気持ちだけ、ありがと。うん似合ってるんじゃないかな、可愛いと思うよ。っ、大丈夫? 怪我してない? ごめんねー、押さないでねー。あと、通る人もいるから道を開けて。おはよー、ちゃんと聞こえてるよ! うん? そっか蟹座は今日一位ね、りょーかい、覚えとく。おはよ。奥の子も、おはよ!」
リクエストに応えて微笑めば彼方此方で悲鳴が上がり、手を振ればその直線上にいる女子たちがキャーキャーと飛び跳ねる。これが、毎朝。まあ普通の神経をしていたら出来ないだろうな、というのが、その輪に入らない人たちの思うところだ。が、それだけで済まないのが我らが姫様である。
理由は様々あれど有村は男子からの人気も高く、擦れ違いざまにその肩を叩き、歩く速度を落とす輩も多い。
「よっ、有村。今日も美人が暴走してんなぁ」
「はいはいどーもありがとー」
「お前いつ女体化すんのー?」
「満月になったらするかもでーす」
「すんのかよ! やべー」
通りすがりの軽口への返しもまた手慣れたものだ。「じゃぁな」と走り去っていく中には上級生も下級生もいたが、有村の対応は概ね変わりなかった。
それは性別も例え教師であろうと関係無いようで、何と言って呼び掛けられても立ち止まりこそしないが、誰であっても視界に入ればひと言ふた言のやり取りはする。
これが、切らせた肉。やっぱりちょっと次元が違う、と、いつの間にやら追い抜いて先に階段を上がり始めた落合は、チラチラと振り返ってみたりした。あれが草間の彼氏様。不安しかない。
けれど護衛に就いた彼女たちの不安はそれだけではなかった。心配とも言い換えられそうだったのだけれど、落合より頻繁にチラチラ振り返る草間のことだ。
「噂には聞いてたけど、本当にこんななんだね。すごいね。はじめて見た」
目を丸くして呟くのが誰に向けたものなのか、草間をよく知っている落合たちにはこれだけハッキリと言っておいて独り言の可能性もあると判断出来るのだが、たったひとり、藤堂だけはずっと怪訝な顔をしている。
こちらは人殺しでもして来たような顔などと言えなくもない感じだ。連れ立って歩くのは久々だったけれど、距離を置いていたここ二年くらいで彼は一層強面に磨きがかかった様子。
「すごい、すごい、ってお前。さっきから、どうして嫌がらない」
なので恐らくは普通に気になったから問いかけただけだろうに、投げた重低音のひと言で草間は露骨に肩を跳ねさせた。持ち前のその声もまた少し低くなっている気がする。殿を努めていた落合が思うに、であるけれど。
しどろもどろに「いや、ってことは」と言葉を濁す草間を見るのに、そんな殺傷能力の高そうな眼力はいけない。怯える仔犬を庇いがてら「嫌じゃないって言ってるのよ」と返す久保も睨むから、下の階の華やかさと相まって、こちらは殺伐とした戦場みたいだ。
気まずいなぁ。丁度中間に立つ落合の救世主はどこにいるのだろう。
「仲良くいきましょうぜ、皆の衆。セコムはさ、姫様がみんなにニコニコ振る舞うのが気分的に嫌じゃないのかって、訊いてるんだと思うよ?」
怖くない。怖くない。そう諭しながら殿を藤堂に委ねた落合は階段を進み、草間と同じ踊り場へ着くと、閉じてしまった目もそのままに口許にだけ笑みを浮かべた。
「アレ、もう仁恵のなわけだから」
「なっ……!」
昇降口での有村は中々男前だった。これも落合が思うに、だ。いつもふわふわ愛想を振り撒いているから軟弱者なのかと思いきや、あそこまで正々堂々と断言されてしまうと草間の友人として見直す他がない。
やっぱりすごくキザだったなとは思うから、こうして草間の揶揄いに用いたりはするけれども。草間は途端に首から上を真っ赤にして、開いた口をあわあわと戦慄かせた。
「あっ、有村くんは、有村くんの、だよ」
「いや、今はそういう真面目なの要らないんだ。あたしもちょっと思うよ? 普通、彼氏さんが愛想振り撒いてたら嫌だと思う。あたしなら、なにしてんだコラって殴る」
「なぐ……っ」
「まぁ殴るのはアレだとしても、嫌だよ、普通に。見たくないよ、絶対」
「そう……なのかなぁ」
そうしてモジモジと人差し指同士を擦り合わせた草間は俯き、またチラと階段の下を見て、唇を少しだけ平坦にする。
「あの、なんて言うか……有村くんが、その、私をって言ってくれたのは、もう夢じゃなかったってわかったんだけど、まだ実感とかないし……あ、有村くん、だし……ああやってるの、王子様っぽくて、有村くんって感じでキラキラしてて……あんな大勢に囲まれるなんて、私には無理だし。やっぱり、すごいなぁ、って」
「……マジ?」
「う、うん……」
「……だって。そういうことみたいです、藤堂先生」
「正気か」
「いや、そこは本気か、で止めておいてもらえないスかね?」
「本気か、草間」
「う、うん……」
これも痘痕も靨ということなのだろうか。
はたまた彼女には恋人らしい有村よりも、王子様然とした有村の方がいいということなのか、笑ってくれと願い出て微笑みを向けられた他の女子たちと同じような反応を示した草間は幸せそうにはにかんでいる。
「私、これを仁恵に見せるのが心配で、脇腹殴ったんだけど」
「わかるよ。あたしもやきもち焼いて朝から大泣きしたらどうしようって、ちょっと思ってた。けど仁恵っぽいって言えば、すごく、ぽい」
やめてくれと言ったところで難しいこの彼の日課が、草間にとって苦痛でないのはいいことだけれど。
これから先を思えば一抹どころではない不安を覚えて声を小さくする久保と落合を横目に、彼女たちより一足早く見ていられなくなった藤堂がその肩に触れた。
「草間」
「はっ、はいぃっ!」
「お前が素直なのは知ってるが、流され過ぎたら痛い目を見る。アイツのことは少々口の上手い犬だと思え。犬の躾はしたことあるか」
「なっ、ないですっ!」
「簡単なことだ。待て、お座り、伏せ、この三つを覚えておけ。それで手に負えないと思ったらすぐに言え。俺の携帯は知ってるな? 夜中でもいい。困ったことがあれば連絡を寄越せ。いいな」
「は、はいっ!」
震え上がった草間はあと少しで泣き出しそうだけれど、落合も久保も今は藤堂に任せておくことにした。あれだけ凄まれれば、幾ら浮ついた草間と言えども肝に銘じるはず。そういう喝も時には必要だ。
こと有村使いに関しては、藤堂の右に出る者はいないわけだし。
「姫様ってなんなんだろ。あたしの中のイメージ、今朝で結構グッチャグチャなんだけど」
「軽薄なバカ」
毒づく久保の視線に気付いたらしい有村が、不意に顔を上げてニッコリと微笑む。
ようやく階段に差し掛かったその場所からは、踊り場にいる四人の姿が逆光にでもなっているのだろうか。向けられる険しさなどまるで無視をして、有村はパパラッチに囲まれたハリウッドスターのよう、大きくなった人垣の中心から『ヤッホー』とばかりにヒラヒラと手を振っている。
「アイツ、本気で頭沸いてるんじゃないの」
「すっごいイイ子なんじゃない? 一周回って」
「アレはなんでも面白がるんだ。世間知らずの箱入りだから」
「は?」
落合と久保の声が揃ったところで、藤堂は大声を上げた。
「そこまでだ! 有村、さっさと上がって来い!」
「はいはーい」
語気の強い低音が廊下に響き、「えー」と残念がる波紋が広がっていくのもいつものこと。
元気よく返事をした有村はとびきり良い笑顔で周囲へ断りを入れ、あっという間に身軽になると四人の元まで駆け足で戻って来る。
「犬だ」
「犬ね」
「犬、がどうしたの?」
「お前は確か犬派だったな」
「ん? うん。あーでも猫も好きだよ? 動物は、みんな可愛い」
にゃあ。そんな風に軽く握った両手を拱く仕草に、下から見ていた生徒たちがまた「可愛い!」と色めき出す。草間だってまた然り。けれどそんないっそあざとい有村を、それ以上追いかけて来る者はいない。
そこでまた例の掟が発動するわけだ。有村がここまでと区切りをつけたら朝の日課はもうおしまい。それ以上は強請らないというのが彼の不文律だった。
階段を登り切り、今度は隣りにつけた有村とふたり並んで先頭を行く藤堂が唐突に投げかける。
ここまで来れば安全圏というわけでもなかったけれど、同じ教室に向かうのだから草間たちが一緒にいてもおかしくはない。彼女たちはその後方で窮屈に肩を寄せ合っていた。
「そういやアイツら今日はいなかったな。いたか? 新垣たち」
ホームルーム前のこの時間、五人が差し掛かった教室を望む廊下にはびっしりと人が溢れ返っている。女子も男子もクラスも、いっそ学年も超えて賑やなのはいつものことだが、そこにあるべき顔ぶれが会いたい今日に限って全く見当たらない。
「ううん。いなかったと思うよ?」
ペリッ。既に三つ目になるチョコレートが有村の口の中へ消え、それがストレスから放り込まれたものだと知ると草間の胸にも過るものがある。お菓子ばっかり食べて可愛いなと思っていたのが申し訳ない感じだ。
「思うよ、じゃなくて。連絡しろって」
「えー、いーお。次ろやふみじあんに会いに行くひ」
「食いながら喋るな。甘い」
「……食べてる時に話しかけるから」
「いいか? こういうのは早いに越したことないんだ。次の休み時間なんて言ってないで、って食うな。チョコを」
「らいろーぶらって、ひゃんろふるはら」
「畜生しかも今度はミルクチョコか、なお甘ぇ。ちゃんとって策はあるのか」
「策って言うか……ふふーにはらふらけ、らよれ?」
「……てめぇ」
「痛ッ!」
チョコレートの四角が薄らわかる頬を指で弾いた藤堂には焦りが見えるが、痛みに悶絶する有村の方は至って平常心、寧ろ全く案じていないようですぐに次の封を切ろうとしている。
次から次へ、ぱくぱくと。不意に「三人もどう?」と差し出されたチョコレートは、中にイチゴソースが入っているらしい大粒のミルクチョコレートだった。甘い物で誤魔化すほどのストレスなんて草間は縁がないけれど、今は少しこの甘さが必要なのかもしれない。
大丈夫だと有村は言うし、きっと大丈夫なのだろうと信じてもいる。でもこれから見るであろう大勢の不思議顔や冷めた視線を思うと、多少胸の中がモヤモヤした。
「……あまい」
多少、なんて大嘘だ。本当は今すぐにでも逃げ出したいくらいにドキドキしている。不釣り合いという言葉では足りないほど、苦いブラックコーヒーを好む有村がこんなに甘いチョコレートを幾つも食べる以上の不似合が自分自身なのだから。
「でも、美味しい。すごく」
「そう? それはよかった。じゃぁもうひとつどうぞ」
「あり、がと」
どうなってしまうのかな。隣りで封を切った落合が「あっま!」とおかしな顔をしたところで、正面へと向き直った有村の足が止まった。
「あの弾丸走法はのんちゃんと見た」
「またうるせぇのが来やがった」
大きな背中がふたつ並んでいると、草間にとってはもはや壁だ。両脇に構える久保と落合はそれぞれ横から覗き込んで確認したようだけれど、草間にわかるのは廊下の奥から猛スピードで近付いて来るけたたましい足音がふたつあるということだけ。
なので耳をそばだてていると、間もなく持ち主の声がした。
「ぬぉーっ!」
「やぁっと見つけましたぁ!」
のんちゃんこと鈴木忍の声と一緒に聞こえたのは、同じくクラスメイトである灰谷苺音の声だ。男子最小の鈴木と、女子最小の灰谷の通称ミニマムコンビ。その組み合わせは二年C組では珍しくもないが、競うように廊下を駆け突進して来る表情が見て取れるほどになると、まず落合の視線が泳いだ。
何か変だ。それくらいは、何も見えていない草間にもなんとなくわかる。
「どうしたのー、のんちゃん。そんなに慌ててぇ」
「有村、おま……っ、何を暢気に! つか、なんで落合たちと一緒に来てんの?」
そう言って有村の腕に縋りつく鈴木も鈴木なら、ふたりの間を抜けて草間たちの方へと一目散、「まさかこの中にっ!」と血相を変える灰谷も明らかに様子がおかしい。
「まおたん、どした? 目、血走ってるよ?」
「朝から有村さんを探して、鈴木さんと校内を走り回っておりましたので! 行き違いにならず、よかったです!」
「んん?」
有村と落合がそれぞれ探りを入れようとも、ふたりの息遣いは荒いまま。
特に灰谷の興奮ぶりは激しく、警察犬の如くクンクンと鼻を鳴らす仕草を草間が怖がれば、見かねた有村がその脳天に人差し指を翳して「鎮まれ」と、うねる癖っ毛に埋もれた旋毛を押す。
「どうしたんだい、掌サイズの灰谷さん。見つけたって、俺に何か用?」
答え賜え、小さき者よ。
灰谷の口調を真似て有村がそう促せば、百四十センチあるかないかの彼女は殆ど真上を向くように顎を上げ、よくぞ聞いてくださいました、とさして迫力のない緊迫の表情を浮かべた。
「いま、教室が、大変な騒ぎになっていてですね!」
それに被せて鈴木も身を乗り出す。
「湯川が三年のフロアで噂んなってるって言って!」
気合だけは伝わって来るものの的を得ないふたりに苛つきをにおわせる藤堂を制し、有村は「どういうこと?」といつも以上に優しい声で問いかけた。
困った子たちだね。いっそ微笑ましく見つめる有村は、まるで保育士のような佇まいである。話してごらんと再び促された鈴木と灰谷は一度顔を見合わせ、声を張るのではなく身を寄せて小さな声で言い放った。
「有村に――」
「――かっ、彼女さんがいらっしゃると」
その、次の瞬間。
「へぇ、それは好都合だね。なら、始めようか」
「ふぇ?」
呆然とするミニマムコンビと同じくらい、振り向きざまに手を差し出した有村と目が合った草間の口はあんぐりと隙間を開ける。
「行こう、草間さん」
「は、えっ」
「変えに行こう。君の、これまでを」
「あっ、ありむらく――!」
浚われた手を引かれ、一歩踏み出した草間の目前にはキラキラ眩しい王子様の笑顔。
「ふたりで、一緒に!」
一拍置いて、廊下には割れんばかりに飛び出した悲鳴が、そこかしこから溢れ返った。