保護者と、守護者。
昨日の大雨の話題で持ちきりの教室の中、何人目かの登校して来たクラスメイトから投げられた「草間さんは大丈夫だった?」の問いかけに今回も笑顔で応えつつ、草間の胸にはいま、小さな気掛かりがある。登校中から薄々と、有村の様子が少し、ほんの少しだけ余所余所しい気がするのだ。
まず、あまり目が合わない。合うには合うのだが、合っている時間が短い気がする。それ以外は概ね、いつも通りだ。草間に対しても、他のみんなに対しても。概ね。概ね。
「でさ、有村。 ……有村? 聞いてる?」
「ああ、ごめん。考え事してた。なに? 会田くん」
教室のどこかで、クラスの誰かに、二回呼ばれて返事をする有村を草間が見掛けるのがこれで三度目という状況を、概ねいつも通りで片付けていいのであれば。
草間とてそう易々と同じ失敗を繰り返さないので、今回は自信のある心当たりがあるから、今はまだ様子を見ている。
理由は、朝一番で殴りかかろうとした久保だろう。人でなしのように叱りつけ、極悪人のように有村を罵った。藤堂とふたりで止めた時に悪くない有村を怒らないでと伝えたけれど、朝のあの剣幕なら、草間の見ていない所でもお小言のひとつやふたつはあった方が久保らしい。
彼は真面目な人だから、叱られて反省してしまっている気がする。そんな必要はないのに。
そう頭を悩ませながら、有村には「絵里ちゃんのことは気にしないでね」としか言えなかったのは、昨日の今日で、草間に多少の羞恥心が芽生えていたからだ。
昨夜の就寝前に教えられ、気付かずにいた草間は知ってしまった。有村がくれた全身をふわふわにしたあのキスが、所謂、大人のキスであることを。
大人のキス。大人の。久保が、そういうキスは本当に心が通じ合っている人たちがするものだから、ちきんとお互いの気持ちを確かめてからするものだと教えてくれた。
されたのかと問われ、草間はつい、数秒ほど悩んでしまったのだ。嫌だったら、とは言われた。でも、される前にああいうのだとは知らなかったので、されていないことになるのかな、と。考え込んだ数秒間で久保は無許可だったと思い込み、正直に話して訂正しても上手く伝わらなかった。
草間としては、事前に断りを入れてもらったつもりでいる。
それに、もしそうでなかったとしても、された自分が嬉しかったのだ。
嫌な気持ちも悪い気持ちもそこにはなかったわけだから、別に構わないようにも思うのだけれど、久保が自信ありげにダメだと言うし、草間の頭はずっと悶々としたまま。
昨日の、私は、嬉しかったよ。
だから結局、草間は今日の少し元気のない有村に、それだけしか言えなかった。
今日の体育の授業は近付いた運動会の種目別練習で、二枠続けて学年合同、休み時間も一斉でなく行われていた。
全員参加の競技種目以外ではクラスで身長が低い順に二名選ばれた三輪車競争に、草間は灰谷と共に挑む。こちらは落合曰くの『出オチ』種目なので、コース説明や待機手順などの説明だけで、実際に三輪車を漕ぐことはなかった。
綱引きや玉入れ、大玉転がしなどは一回ずつ通し練習が行われ、落合は棒倒し、山本はパン無しのパン食い競争、鈴木は障害物競走の実践を終え、多少疲れた様子でいる。今は学年リレーに出場する生徒たちが一ヵ所に集められ、退屈そうな久保の近くで有村と藤堂がバトン繋ぎの練習をしていた。
「よし! それじゃぁ一回流すぞ! この結果を参考して、当日の走者順を確定してくれ!」
「はーい」
リレーは男子と女子で二回戦行われる。順位ごとにポイントが設定されていて、二回の合計点を競うのだ。一回戦目は女子。各組から男女各二名ずつが選出され、八人で一位を目指す。久保は三番手だった。
思い切り走る姿はあまり見ないので、久保の俊足を応援出来ることだけ、草間は昔から運動会を楽しみに思える。絵里ちゃんは、やっぱり速い。
二回戦目の男子では、藤堂がアンカーのタスキをかけていた。これも草間にとって運動会の定番だ。有村はその前。待機中、何故か方々から「本気でやれよ!」と叫ばれている。有村は手を抜いたりしないだろうに、バトンを受け取る順番がやって来ても笑っているから、不真面目に見えてしまうのだろうか。そんなこと、ないのに。
「うっわ。はじめて見たけど、姫はやっ! つか、足が長い!」
「おぉ……っ」
「からのセコムはやっぱ、安定感が違う。ヤバ、見えたわ。勝ったわ、リレー」
「かもね! 今年は女子も勝てそうだしね!」
トラックの外側で見ていた草間の前を通り過ぎる時、有村は一瞬で駆け抜けて風のようだった。
その見事な走りも、選手たちには不満だったようだ。全く息を切らした様子のない有村に迫り、「本番はもっと必死でやれよ!」と他のクラスの男子が言った。三人も。
草間が思うに、言ったあの人たちがわかってない。有村はたぶん心拍機能が高いので、トラック一周走ったくらいでは呼吸はすぐ整ってしまうのだ。
彼はちゃんと、一生懸命走った。なのにあんな言い方をして、と、確かに憤っていたのだけれど、何故か草間も有村はあともうちょっと速く走れるような気がしなくもなかった。理由はわからない。ただ、なんとなく。なんとなく、駆け抜けた有村を見た時に少しだけ、そんな気がした。
「次、借り人競争! 出る人は中央に集合! 時間ないぞー、キビキビ動けー!」
体育教師の掛け声で、リレーを終えた久保と藤堂が草間たちの方へと戻って来る。引いたクジに該当する人を校庭内から連れて来る借り人競争以外にも、二人一組でリレーするピンポンおたま運びに出場する有村は当日、かなり忙しそうだ。
「おつかれさま。絵里ちゃん。藤堂くん。ふたりとも、すっごく速かったね!」
「ありがとう。今年は勝つわ」
「当日、楽しみにしとけよ、草間」
「うん?」
「有村はひとりで走るより、誰かと競った方が速い」
「そうなんだ」
やっぱり、もっと速く走れるんだ。藤堂の言葉を受けて納得するが、そこでまた草間の胸に疑問が湧く。でも、手を抜いていたように見えなかったのにな。
この不思議な感覚は一体、なんなのだろう。もっとがあるような気がする。しっかりと真剣にやり遂げたのは、わかるのに。
校庭の真ん中で立ったまま説明を受ける有村の後ろ姿がモデル立ちで笑えると、汗が引いて冷えて来た落合が、ジャージのファスナーを首元まできっちり上げながら言った。
三時限目と四時限目を使っての予行練習が終わると、いつもより少し長い昼休みになった。
今日の有村の昼食はゼリー飲料。運動会が終わるまでは体力をつけろというとことで、藤堂がせめてと提案したエネルギー補給のアイテムだ。有村はそれを、今週ずっと昼食にしている。
「味気ない」
「俺らから見たらプリンとそんな変わんねぇよ」
「甘くない。飽きた、もう」
「今は糖よりカロリーを取れ。家でも飲めよ、プロテイン」
「不味いんだもん」
「だったらちゃんと飯を食え。痩せんな。それ以上」
「はぁい」
口直しになればと、草間はチョコレートを差し出した。受け取って「ありがとう」と微笑み、「おいし」と言いながらニコニコ食べる有村はいつも通り。でも、見つめる横顔がどこか、いつもと違う。
絵里ちゃんに怒られたことを、まだ気にしているのかな。
不安な草間は昼食後、珈琲を買いに行く藤堂を廊下で見つけて追い駆けた。
「藤堂くん! とうど……歩くの、一歩が大きい……っ」
「ん? ああ、どうした草間。紅茶か?」
「ううん。ちょっと。ちょっと、話、いい?」
「おう。悪かったな。気付かなくて、走らせて」
「ううん。下、向かいながらで、いいから」
「ん」
後ろ姿を見た時に藤堂になら相談出来るし、何か知っているかもと追い駆けてついて来たのだけれど、そこまでしか考えていなかった草間は気短な藤堂に二回、なんだ、と急かされてもまだ、切り出し方が思い付かない。
なんて訊けばいいのだろう。なにを、どう言えばいいのだろう。
勇む顔はするものの強く見るだけの草間に、藤堂はみるみる不機嫌になる。
「オイ。俺は有村じゃねぇんだ。そんな、ん、ん、みたいな顔されても、念じゃなに言ってんだかわからねぇ」
「…………」
「いいからさっさと口で言え。どうせ、有村のことだろうが」
「……うん」
「様子が変だってか? それなら二、三日放っておけ。発作みたいなもんだ。じきに治まる」
念が、通じてしまった。
きっかけを貰った草間は小走りで、悠々歩く藤堂の隣りを死守しながら、相変わらずの無表情を覗き込む。
「発作? 絵里ちゃんが怒ったからじゃなくて?」
「絵里奈? ああ、無断がどうのと言ってたやつか。違うんだろ、実際」
「うん。でも、即答しなくて、絵里ちゃんとの間に行き違いが」
「アイツはこうと思うと話を聞かねぇからな」
「うん……」
「けどまぁ、今のは絵里奈とは関係ない。アイツ自身の問題だ」
「問題……」
「お前が悩むことでもない。気にすんな」
「……うん」
「まぁ、それで気にしないでいられんなら、お前は俺に言って来ねぇか」
「……うん。ごめんなさい」
「謝んな」
踊り場で引き離されてしまうが、階段では多少急ぐくらいでついて行ける藤堂の歩調に合わせる草間を、睨むみたいな三白眼が横目で見る。
睨んでいるわけではないのだ。ギロッと向いてジッと見るから、睨まれたような気分になるだけで。
「お前が気にすると余計拗らせる。そう言や、利口なお前は引くな?」
「……わたしの、せい?」
「ちがう。アレの頭が面倒臭ぇ造りをしてるからだ。しばらくすりゃ、勝手に飲み込む。待ってろ」
「反省……?」
「大枠は違う。先に言うが、後悔でもない」
「……悩んで、る?」
「俺からしちゃいい機会だ。これ以上は言わねぇ」
「……はい」
最後はたぶん、本当に少し睨まれた。話はこれで終わりだろうし、そうなると草間には踊り場を過ぎれば残り半分の一階へ辿り着く階段をこれ以上、下りる意味がなくなる。
踊り場までは、あと二段。先に踊り場へ着いた藤堂が、足を止めた草間を振り向いた。
「訂正だ。ひとつだけ言っておく」
「なに?」
「でかした。お前は、ひとりの男の未来を救った」
「え?」
「よくやった。それだけだ」
「え? 救う? 未来? え? なに、それ!」
余計に混乱し、草間は結局一階まで下りて自動販売機の前まで、以降ひと言も発さなくなった藤堂を追い駆けたので、買う気のなかった紅茶を買った。




