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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第七章 開花少女
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小夜啼画材店

 絵を描く為の手なんです、などという言葉がよもや自分から出ようとは、出してしまった本人とはいえ、草間は驚愕を隠し切れない。

 強いて言うならば、有村の手は有村の為にあるものだ。なのに、どうして、そんなことを言ってしまったのか。

 驚愕していて当然の有村と、草間はしばし見つめ合う。訂正も、修正も出来ないままで。

 そうした形容し難い空気を漂わせる店中で存在を忘れかけている人物が、ここにはもうひとりいる。

 草間からは有村で隠れて見えなかった老人。この店の主だ。

「やっぱりそうか。アンタは絵描きか。どれ、利き手を見せてみろ」

「……はい」

「有村くん!」

 得体も知れぬ人に言われるまま、手を差し出すなんて。

 パシパシと背中を叩く草間ではなく、有村はもう自分の右手を観察する老人を見ている。

「見た目じゃそれほどでもないが、触るとわかる。この指なら合格だ。なに、ここは絵描きくらいしか用のない店でな。たまに来るんだ、冷やかしで店を荒らす小僧共が。悪かったな、絵描きの兄さんに、お嬢さん。いま電気をつけてやろう。ゆっくり見て行くといい」

「……う、ん?」

 それだけ言って老人は去って行き、間もなく、店内に明かりが灯った。

 電気さえついてしまえば、どうということはない。大量の筆や絵具。美術室で見たキャンバスや、イーゼルもある。ペンはズラリと、多種多様。

 用途不明の見慣れない物はたくさんあるが、間違いなく、ここは画材店だ。

「メモ帳と言ったかな。こっちだ、こっち。足と目が悪いもんで、すまないが自分で見に行っておくれ。ほれ、そこの列の反対側だ」

 どうということでもなかったのは、電気をつけてくれた老人も同じだった。

 杖をつき、通路をゆらゆら。今時珍しいほどレンズの厚い眼鏡をかけ、八十歳は過ぎていそうなおじいさんが朗らかに接客をしている。

 ゾンビのように近付いて来て、恨みがましく睨んでいるように見えたのは全部、怖がっていた草間の心が見せた幻だったのだ。

「あの、さっきは、悲鳴を上げたりして、ごめんなさい」

「いいんだ。こっちは怖がらせようとしたんだよ、お嬢さん。その兄さんは、屁でもないって顔してたがな」

 深々と頭を下げた草間を笑顔であしらい、店主であるおじいさんは通路の途中で椅子に座った。棚が壁になる、少し内側。なるほど、そこに座ってこちらを覗き見たから、やけに低い位置から顔だけが飛び出したように見えたわけだ。

 通り過ぎる時に改めて断りを入れ、草間は教えてもらった棚へ向かった。探し求めた物が一面に並んでいると、まるで別世界に出会った気分だ。話に聞いていた通り、色んなサイズが並んでいる。念願の草間のメモ帳も、積まれて何冊も売っていた。

「あったよ、有村くん! あった! メモ帳!」

「よかった。どうする? 何冊か買っていく? ここなら学校の帰りにいつでも寄れるけど」

「そうだね。今日は、使う分だけで。ありがとう。有村くんのおかげで、見つかった」

「ううん。ふたりで見つけたんでしょう?」

「ふふっ。うん」

 レジが見当たらなかったので、草間はメモ帳をおじいさんの所へ持って行った。

 差し出したが、おじいさんは受け取らず、値段だけを言う。代金を渡し、どうやらこのまま鞄へ入れていいようだ。

 袋も、購入済みのテープも貼らない、この感じ。子供の頃、近所にあった駄菓子屋を思い出す。あの駄菓子屋も、買った文具はそのままだった。この飾り気のないやり取りが、懐かしい。

 見当たらなかったレジは、おじいさんのウエストポーチなのかもしれない。出て来たお釣りを受け取り、草間はメモ帳と財布を鞄へしまった。

 そうして用事は済んだのだけれど、草間は初めて訪れた画材店が気になって仕方がない。草間ほどには露骨に周囲を見渡さないが、有村も少しだけ通路の奥を眺めたりしている。

「なんだ? もしかすると、兄さんは絵描きのくせに、画材屋ははじめてか?」

「ただの学生です。絵描きなどでは」

「若いもんが、くだらん謙遜はよしなさい。好きなだけ見ていくといい。兄さん、アンタが好きな画材はなんだい。水彩か? 油彩か?」

「色鉛筆です。ずっと」

「そうかい。なら、そっちの棚を見てごらん。町の文房具屋じゃお目に掛かれないもんが、ここにはたんまりとある」

 すぐに動こうとしない有村は、落合が初めて美術室へ誘った時と同じように、あまり乗り気でない顔をする。別に、興味なんかないですよ、と、無表情を貼り付けているみたいだ。

 その時ふと、草間は安田先生の話を思い出した。親に反対されて、嫌々お絵かき教室をやめていった小学生のこと。絵を描く自分を隠したいみたいに見えると言った、先生の言葉を。

「見てみようよ、有村くん。せっかくだし」

「でも、もう用は済んだんだし」

「いいじゃん。用は済んだから、ちょっとだけ見て行こう?」

「……うん」

 草間は有村の腕を引き、おじいさんが教えてくれた棚の方へと駆けて行った。

 自分の目線程度の高さの棚一面にびっしりと並んだ色鉛筆を前に、草間からは素直な「わぁ」の感嘆が漏れる。草間の握り拳がギリギリ入るか入らないかというくらいのサイズの透明な四角形が数え切れないほどに並んでいて、そのひとつひとつに一色ずつ、お尻を向けた色鉛筆が入っている。

 下へ行くほど、ひとつ上の色がほんの少しだけ暗くなっていくようだ。膝くらいまである縦列の一番下は右から左まで全て黒に見えたのだけれど、しゃがんで良く見てみれば、それらもひとつ上より暗くなった色だった。

「すごいね、有村くん! この色、何色っていうのかな。見たことない色が、いっぱい!」

「……僕も。こんなにたくさん、初めて見た」

「ねぇ見て? この色、キミちゃんの今の髪色に似てるね! オリーブがかった灰色って言ってたけど、あるんだね。同じ色の色鉛筆!」

「…………」

「有村くん?」

「ああ、ごめん。初めて見たから、少し驚いて」

「だよね。私が持ってた色鉛筆には黄色が三色入ってて、いっぱいあるなと思ってたんだけど、これを見たら全然足りないや」

「…………」

 よかった。勧めて正解だったみたい。

 有村は並ぶ色鉛筆をじっくり見ていて、たまに下唇を触る。口元へ少し握った手を持って行くのは、有村が興味を引かれて、集中している時の癖だ。瞬きも増えているから、たぶん、とても気に入っている。

 気付いた草間は嬉しくて、下の方にあるソックリな横並びの二本をまじまじ見比べて楽しんだ。完全に同じに見えても、お尻に書いてある番号が違う。と、いうことは異なる色なわけで、それでも番号がなければ見分けがつかないこの違いを、絵を描く人は使い分けると思うと衝撃だ。

 こっちではなく、こっちだ、とか思うのだろうか。絵が下手だから色のセンスがない、とかではないと願いつつ、確認した上の方の色を思い浮かべて必死に違いを探すという遊びを、草間は段や列を変えて何度もした。

「…………」

 こうして何度も練習していたら、いつか私にも違いが判るようになるかも。一縷の望みをかけて勤しんでいた草間の隣りで、有村がふと膝を折る。

 そうして有村は、草間には殆ど黒の下段の中から、一本の色鉛筆を取り出した。

「その色、気になる?」

「……リリーの色だ。リリーの、毛並みの色」

 有村が取った黒の列の上段は赤。リリーちゃんの黒色は、赤のとても深い色らしい。やっぱり違いが判るんだな。敢えてその色を選ぶ有村に、草間は感心してしまう。

 次に、有村は草間にとっての茶色を一本、引き抜いた。その列の上段は黄色。

「リリーの、目の色に似てる。あったんだ、こんな色。ちゃんとリリーの色にならなくて、いつもリリーが描けなかった」

 やはり、有村には全部が違う色に見えているのだ。草間は膝を伸ばして、有村が持つリリーの二色を見た。

 リリーちゃんの目は黄色っぽい茶色で、身体はすごくちょっとだけ赤が入っている黒。しっかり見て、きちんと覚えようと思った。この二色は、リリーちゃんの色。そう思って見つめていると、似た色がたくさんある中で、その二色だけが特別な色に思えて来る。

「似てるのを見つけたなら、描いてあげたら? リリーちゃん」

「……描けるかな、僕に。もう、何年も会ってない」

「描けるよ。十二年間も一緒にいたんでしょ? 有村くんは、ちゃんと覚えてるよ。地図だって、一回見たら覚えちゃうんだもん。忘れたりしないよ。絶対、すっごくちゃんと覚えてる」

「……そう、かな」

「そうだよ。きっと、リリーちゃん喜ぶよ。有村くんが描いてくれたら」

「…………」

 照れ臭そうに笑い、有村はリリーの目の色を二本、毛並みの色を四本持って、おじいさんの所へ行った。

 嬉しくて笑うのを我慢出来ない草間は、会計が済むのを棚の陰から見守る。有村はちゃんと、六本買った。その六本の色鉛筆で、彼はリリーの絵を描くのだ。

 リリーの顔を知らない草間は今すぐに、描いたら見せてとせがみそうになるが、きっと嫌だと言うから注意深く描いたあとを見計らい、現物を前にした状態で強請ろうと思う。藤堂を誘うのもいい。藤堂なら、有村が嫌がっても難なく取り上げてしまうだろうし。

 リリーちゃんは一体、どんな顔をしているのだろう。想像するだけでもう、草間は楽しくして仕方がない。

 自信がある。絶対に、リリーちゃんは可愛い。リリーちゃんを描いた有村くんの絵は、絶対にキレイだ。

「……あの。ひとつ、お伺いしても?」

「なんだい?」

 会計を済ませた有村が色鉛筆を鞄にしまったあと、おじいさんの椅子がある列の棚を指差して、「これは絵具ですか?」と尋ねた。

 やっと、有村が好奇心に負けた。草間は急いで、有村の隣りへ駆けて行く。

「そうだよ、油彩絵具だ。油絵を描く絵具。見て行くかい?」

「いえ。少し、気になっただけで。こちらも種類が豊富ですが、よく見たら、パッケージが違うだけで、同じ色が並んでいたので。色鉛筆より、数が少ないんだな、と」

 本当だ。棚を眺めて納得する草間の脇で「そりゃそうだ」と言ったおじいさんはガハハと上を向き、爪先が両方上がるくらいに大きく笑った。

「色鉛筆ってのは一本ずつ、その色だけ。濃さを変えても、結局はその色だ。他の色を重ねても、それは二層になった色だろう? だからあれだけの、たくさんの色が必要になる。そこへいくと、絵具は端から混ぜて使う。もう少しこうだってのを思うまま、自分で作るんだ。匙加減ひとつで、生まれる色は無限さ。筆の先につけた一滴で、全く違う色になる。妥協しなけりゃ必ず、思う、欲しい色に出会える」

「……色に、出会う……」

 呟く有村は持ち上げた手を伸ばしかけて、絵具に触れる前に指を握り、そっと下げてしまう。

 まただ。こうも続くと、草間の頭の中で安田先生の言葉が消えなくなる。絵を描くことが好きなのに、あんなにも素敵な絵が描けるのに、いつもの有村は何にだって積極的なのに、思えば思うほど歯痒くて仕方ない。

 有村くん。そう呼びかけようとした時、不意におじいさんが草間を呼んだ。

「お嬢さん。アンタ、何色が好きだい?」

「私ですか? 私は、ピンクが好きです。気が付いたら、部屋の中がピンクばっかりで」

「そうかい。なら、これとこれだな」

 よいしょ、と掛け声をつけておじいさんは立ち上がり、絵具の赤と白を一本ずつ取る。

 そうして、棚に杖を立て掛けて空いたもう片方の手で掬い上げた有村の手に、まるで草間の祖母がお菓子をくれた時のように優しく、ふたつの、二色の絵具を握らせた。

「他の色も混ぜれば、もっと色んなピンクが作れるが、まずはここから初めてみなさい。怖がらせちまったお詫びだ。この絵具は、兄さんにあげよう」

 渡されてしまった絵具を見つめて、有村は慌てだした。売り物なのに貰うなんて出来ないと訴える声が、草間には必死に聞こえる。気持ちはわかる。今の有村は、安田先生にアイスティーをおごってもらった時の草間だ。

 だとすると、微笑むばかりで取り合わないおじいさんは、安田先生そのものだった。有村が返そうにも手を後ろで組んでしまって、棚にも戻せないように身体を盾に邪魔をしている。

「別に高いもんじゃない。年寄りの気持ちだ。こういうもんは……」

「ですが! なら、買います。売ってください」

「兄さん。このジジイはな、アンタみたいな若い絵描きが好きなんだ。くれてやると思って、受け取ってくれ。お礼なら受け取ろう。なに、ここはこんな、見ての通りのカビ臭い店さ。毎日、暇でしょうがない。たまにでいい。気が向いたらまた、お嬢さんとふたり、顔を見せに来ておくれ」

「でも!」

「有村くん」

 気持ちはわかるが、草間は有村の腕を引いて遮った。おじいさんの顔を見ていたから、おじいさんの気持ちも、わかるような気がしたのだ。

「こんなに言ってくれてるのに、あんまり言うのも失礼になるよ」

「だけど」

「頂こう? それで、また来よう? 今度はもっと早い時間に来て、私、お店の中をもっと、ゆっくり見てみたい」

「……何もしてないのに、物を貰うのは苦手なんだ」

 これで合っていると思うのだけれど、草間の視界に映る、有村の背中が揺れている。

 気を遣う人だから、きっと、私より申し訳ないんだろうな。草間はそう思い、有村の背中に触れた。予想以上に強張っていたから、一回、二回とゆっくり擦った。

「なら、今度来る時は、とびきり美味しいお菓子を持って来ようよ。いいですか? それでも」

 尋ねると、おじいさんは満足そうに笑ってくれた。ホッとしているようにも見えて、草間もつい、頬がみるみる上がっていく。

「ああ。おれはジジイだがな、洋菓子に目がない。プリンが好きだ。なんだ、小洒落たのじゃないぞ? 卵の味がちゃんとして、カラメルが苦いヤツだ。水みたいなのは勘弁してくれ。歯は、まだある」

「わかりました。とっても美味しいのを持って来ます。だから、ね? それは頂こう? ね、有村くん」

 懸命に諭してみて、目が合えば目でも『受け取って』と訴えた。それからも有村はしばらく苦い顔をしていたが、最後は折れておじいさんに最敬礼のようなとても丁寧な形で、丁重にお礼を言った。

 気が付けば、思いがけずの長居になってしまった。有村がもっと詳しいプリンの好みを訊き出すのを待って店の外へ出た時、空はもう夕焼け色に染まり切っていた。

「草間さんて、時々すごく強引だよね」

「ごめんね。私、おばあちゃんといたから、くれるっていう時にいらないって言って寂しそうにするの、見るとつらくて」

「プリン、探さないと。昔ながらのって、どんなのだろ。昔って、何年くらい前のこと?」

「なんとなく、イメージは出来てるよ。今度はプリン大捜索だね」

 草間にはもう、心当たりが幾つかある。それでも、それ以外のもっと美味しいプリンを探すのはきっと、とても楽しいはずだ。

 小夜啼画材店は駅から離れていて、有村は歩いて十五分くらいだと言った。結構長い店のように感じたから、その立地でもと思うと、もしかすればその筋で有名な店だったりするのかもしれない。

 そんな話をしながら、駅まで向かっていた最中のことだ。有村を見上げて話していた草間の額にポツンと、小さな水滴が落ちて来た。

「うん? 雨?」

「いけない。このにおいは……早く、屋根のある所へ行かないと!」

「えっ! ちょっ……待って! 有村くん!」

 繋いでいた手を急に引かれて駅の方角へ走り出してすぐ、肩が竦むくらいの雷が鳴った。それは合図か号令で、たちまち街並みが白く霞むくらいの雨が降り出す。

 見つけた狭い軒下に逃げ込んだけれど、草間と有村は一瞬でびしょ濡れ。

 季節外れの、ゲリラ豪雨だ。

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