先生
三十分間の写生大会をしたあの日から、草間たちの放課後が変わった。
教室が閑散とし始めた頃を見計らい、落合が近付いて来て「今日も行ける?」と有村に声をかける。「いいの?」と答える有村は今日も、窺い混じりの上目遣い。その表情の可愛さたるさ、昨日も一昨日も見たからといって容易に慣れるものではない。
可愛い。可愛過ぎて、心の中の小さな自分が悶絶している。
そんな草間もこの三日間、放課後は共に美術室へ通っている。安田先生の教え方は上手く、通い始める前よりも、多少はマシな物が描けるようになった気がする。実際は気がしているだけで、草間の描く絵は相変わらず、殺人現場に残された人型のロープみたいなニョロニョロだ。
今日は鈴木と久保が行けない日だった。久保はバイトで、鈴木は家の手伝い。草間もバイトがある日だったが、シフトまでは少し時間がある。ギリギリまで粘るつもりで草間は通学鞄を肩にかけ、「私も行く」と答えた。
実のところ、この放課後にはおまけがある。担いでの登校は心底、藤堂のつらい思い出になったようで、放課後に見守る目のある中で絵を描いて、そのあと、帰ってからひとりで描き始めないという約束を、草間が有村とさせられていた。
交わした約束は、絶対に平日は描かない、というもの。草間は夜に必ず電話をして、出なかったら藤堂に連絡を入れる手筈になっている。藤堂にメールを入れたらどうなるかは、考えるまでもないだろう。彼はすかさず有村の家まで飛んで行き、描くことをやめさせる。これは藤堂に苦行を強いた有村へのペナルティだ。藤堂のつらい記憶が薄れるまで、一週間か、二週間か、草間は渋々付き合うつもりでいる。渋々だ。渋々。
草間はクラス委員を務める真面目な生徒なので、遅刻はいけないと考えている。友達にトラウマになるほどの面倒をかけるのもダメだ。けれど、それが有村の絵となると、草間は心の隅で少しだけ、好きなだけ描かせてあげたいな、と思っている時がある。忘れられないのだ。文化祭当日の朝に見た、絵を描いている時の有村が。どうしたって、もう一度会いたくなってしまう。一心不乱な横顔と、一瞬たりとも止まらない腕。草間の声など届かない背中。邪魔をすれば向けられる、鋭い眼光の一瞥。それらを、草間はふと思い出してしまう。
別人のような有村の姿。少しも優しくない、彼。思い返せば怖いくらいなはずなのに、あの有村に、草間はまた会いたいのだ。
そうした願望に然り、近頃の草間には口に出せないことが多い。
有村は今週も、キスをしようとしない。
全ての邪念を振り払うように固く口を閉じ、旧校舎へ渡るのに差し掛かる廊下の突き当りで、草間は下りなくていい階段を指差した。
「私、下で飲み物を買ってから行くね。みんなも、なにかいる?」
「僕も行く」
「いいよ、ひとりで大丈夫だから、先に行ってて」
「でも」
「じゃぁ、鞄をお願いしていい? すぐに行くから」
「……うん。わかった」
特に飲み物はいらないというし、草間は名残惜しそうな有村に通学鞄を渡し、受け取った有村を藤堂に押し付け、ひとりで階段を一階まで下りた。
未だに有村は、草間が校内でひとり歩きするのを心配する。取り囲まれてしまった前科もあるし仕方がないとは思うけれど、現在の草間は本当に何の心配もなく平和そのものだ。
小気味よく階段を下り切り、草間は真っ直ぐ購買部近くの自動販売機へと向かう。そこにはなんと、これから会いに行こうと思っていた安田先生がいた。
「あっ、安田先生」
「あー、おつかれさまぁ。財布……草間さんも、飲み物を買いに?」
「はい。先生も?」
「冷えちゃってねぇ。コーンポタージュを買いに」
「…………」
「あ。いま足元見たでしょ。そうなんだよねぇ、靴を履けばいいんだけど、それはイヤで」
「温かい飲み物、もっと増えるといいですね」
「ねー」
先生は今日も白いシャツにカーディガンで、サンダルに裸足。靴より先に靴下ではないかとも思うが、嫌なものは仕方ない。
コーンポタージュが先生に温もりをプレゼントしてくれるのを願い、草間はそっと微笑んだ。
「今日も来る?」
「はい。みんなはもう向かっていて。でも、大丈夫ですか? いいって言ってくれたから、なんだか毎日通ってますけど、本当はお邪魔では」
さっそく缶に口をつけながら、安田先生はゆるゆると、のんびり首を横へ振る。このゆるさが、草間は有難かったりする。小学校から数えても、こんなに話しやすい先生に出会ったのは初めてだ。
「んーん。来てくれるの、楽しみにしてる。美術ってさ、毎日は授業がないからね」
「ああ……」
「大丈夫だよ。へこんではない。やることはあるから、一応ね。草間さんのお目当ては?」
「私はその、二段目にあるアイスティーを。美味しいんですよ、それ」
「あ、コレね。はぁい」
ピッと押して、ゴトンと出て来る。安田先生は買い求めたアイスティーを草間に渡し、「内緒だよ」と口に人差し指を当てた。
当然、草間は慌てて返そうとした。買ってもらおうとして言ったわけじゃない。安田先生は全部わかっている顔をして、けれど何も伝わっていないゆるさで、いいの、いいの、と取り合わない。
挙げ句には「俺、紅茶を飲むとくしゃみが止まらないんだ」なんて、明け透けな嘘を吐く。仕方なく何度もお礼を言って草間は受け取り、ふたりで一緒に美術室へ向かうことにした。
「あの、先生? 少しだけ気になってるんですが、どうして私だけ、さん付けなのか」
「ああ。草間さんで覚えちゃったんだよね。王子のカノジョの草間さん。嫌だった?」
「いえ、嫌とかでは」
「なら、このままでいい?」
「はい。いいです。なんだか、もう」
覚え方はともかく、部員である落合の友達というだけで六人の顔か名前は把握していたところは、純粋にすごいと思う。安田先生は名前は大事なものだと思っていて、ちゃんと覚えたいらしいのだ。草間だけは、さんが付いた状態なのだけれど。
少し変わった安田先生のことを、この数日という短期間で、草間はかなり好きになっている。
話しやすいから。見掛けたら声をかけてくれるから。理由は幾つかあるけれど、一番はやはり絵を描く有村のことを、すんなりと受け入れてくれているからだ。
多くの人は藤堂が怒りだすまで信じなかった落合や久保のように、没頭して絵を描くあまり丸一日が抜け落ちてしまう有村を嘘と思うか、風変わりを超えた変人のように感じて、いい反応はしないだろう。最終的には笑ってくれた落合はまだしも、呆れを通り越した顔で『こわい』と表現した久保のリアクションが、草間にはかなりの痛手だった。
少なくとも草間には日を跨いで没頭する趣味はなく、そこまでの集中力もない。自分にないもの、出来ないことが出来るのだ。その一点だけでも、草間は有村をスゴイと思う。黒板へ向かう、あの背中。全てを注ぎ込むように絵を描く有村を見て、草間が得たのは感動だ。久保の言葉を思い出すだけで悲しくなるのは、その感動を否定された気がするからだろう。
それを癒してくれたのが安田先生だった。芸術家が制作に埋没するのは、よくあること。安田先生は全く驚きもせず、ただ有村を『芸術家』と呼んでくれたのだ。
「あの、先生? 美術室へ着くまででいいので、少しだけ、聞いてくれますか?」
「うん? どうした?」
本当は、誰かに話すことじゃない。ダメなものはダメで、相談ですらもない。
それでも草間は聞いてほしくて、旧校舎の階段を上る安田先生のサンダルの音を聞きながら、本当の自分を打ち明けることにした。
絵を描きたいという衝動を省けば、有村は誰よりも理性的だ。家事をこなし、バイト先では最年少にも拘らずメニュー開発や仕入れにも携わり、それだけの信頼を得られるだけのことをしている。成績もよく、どんな些細なことにも真面目に取り組む人だ。誰よりも、ちゃんとしている。だからこそ、たったひとつのワガママくらいは、我慢してほしくないと思ってしまう。
それだけだ。絵を描く時だけ集中し過ぎて、時間が来たからとやめられないだけ。
それくらい、と思うのはいけないことなのだろうか、と。打ち明ける間、安田先生は時折相槌を打ち、何も言わずに聞いてくれた。口元にずっと、微笑みを浮かべて。階段はまだ、二階を通り過ぎたばかりだった。
「たった数日だけど直接関わるようになって、有村は周りを良く見ているし、とても気を遣う子だね。礼儀正しくて、草間さんの言う通り、ちゃんとした子だ。噂に違わぬ、優等生。だからこそ、ひとつくらいはっていう気持ちは、わかるよ。だけどね、やっぱり彼は、まだ高校生なんだよ。学校へ来て、きちんと授業を受ける。学校で学べるのは何も勉強だけじゃない。大人になると、毎日同い年の子にこんなにも会う機会なんてないんだ。話して、関わって、遊びの中でだって、今ここでしか得られない大切なものがたくさんある。彼がこれからも絵を描いていくのなら、そういうのは絶対に無駄にはならないと、俺は思うよ」
優しく話す安田先生の面持ちには、諭される草間がそれらを理解しているのもわかっていると、そう言ってくれている温かさがある。
頭ではわかっている。でも。だけど。そんな悩みを抱える頭に、安田先生の大きな手が乗っかった。一回乗って、すぐに離れて行った。
「俺ね。前に、短い間だったけど、お絵描き教室の先生をしてたんだ。みんなでしてるゲームは、その頃、小学生を相手にやってたこと。俺が勤めてた教室は、描くのが好きで通いたいって言って来てた子もいたけど、情操教育の一環として親に無理矢理入れられた子もいた。苦手で描きたくない子に、どうしたらリラックスしてもらえるか。遊びのひとつとして、どうしたら楽しいと思ってもらえるか。好きになってもらえるか考えてね。上手いか下手かじゃなくて、それが描いてあるかってゲームなら、ちょっとはハードルが下がるかと。草間さんはどうかな? ちょっとは、描くのが嫌じゃなくなってきた?」
「はい」
不意に触れられた手に強い緊張を覚えなかったのは、安田先生が根っからの『先生』だったからのようだ。そっか、と綻ぶ顔は草間よりも嬉しそうで、どこまでも温かい。
小学生の先生をしていた姿が、面白いほど目に浮かぶ。きっと、人気の先生だったはず。あのゲームは実際、草間の苦手意識をだいぶ軽くしてくれている。通い始める前よりも、草間は絵を描くのが憂鬱ではなくなってきていた。
「でもね。俺はあのゲーム、有村の為にやってる」
「有村くんの?」
元々、絵を描くことが好きなのに?
思い浮かべただけで口に出さなかったふたつ目の疑問を受け取り、安田先生は飲みかけのコーンポタージュの缶を揺らした。
「彼は絵が好きだよ。大好きだ。なのにどこかで、好きなことも、頑張って身に着けた技術も、隠さなきゃと思ってる気がする。教えていた生徒の中にも、そういう子がいた。中学受験を控えていてね。絵ばっか描いてと叱られて、いつからか、親が寝たあとに隠れて描くようになった。皮肉なものでさ。短い時間で必死に描くから、どんどん上達していく。思ったように描けるようになったら、もっと描きたくなるもんだ。だけど親は許さない。その子は絵が好きな気持ちにも蓋をして、教室をやめた。今でもたまに考えるよ。あの子はあのまま、やめてしまったかなって」
大きく回すように缶を揺らして、何気なく口へ運ぶ。そうして膨らんだ片方の頬は、安田先生が浮かべかけた何かを誤魔化したみたいだった。
静かな旧校舎からは、校庭を駆け回る運動部の活発な声がよく聞こえる。何かに打ち込む。学校はそもそも、その素晴らしさと大切さを教えてくれる場所だと教えてくれるみたいに。
「絵は遊びだって言ったでしょう? どんなに真剣に取り組んでもね、どこまでも娯楽なんだよ。芸術って言い換えても、生きて行く上で絶対に必要なものじゃないことに変わりはない」
「そうでしょうか」
「うん?」
「私は、本が大好きです。確かに、一冊も読んだことがない人はいて、それで困っている人を見たことがありませんが、私は一日の中で少しでも本を読むことがとても、必要な時間です」
「リフレッシュ?」
「はい。もしも本がなかったら、私はもっと早くに、学校へ来るのをやめてしまっていたかもしれません。なくちゃダメなものでした。私には」
誰かにとってはなくても構わないものでも、草間にとってはなくてはならないものがある。
必要か不必要かは、人それぞれだ。それはきっと、自分以外が決めていいことではない。
「草間さんは、有村には絵だと思うんだ?」
「だったらいいなと思います。有村くんにもあるはずです。あってほしいんです、私。有村くんは本当に、いつも誰かを想っているから。自分を、押し込んでしまうから。だから、ひとつくらいあってほしい。誰かに止められても、いらないって言われても、手放せないものが」
真っ直ぐに見つめて告げると、安田先生は笑った。先生がよくやる、解けるような笑顔だ。楽しげに笑って、開いてしまう口を収めるように唇を噛む。
三階へ着くまで先生は笑い、次の踊り場へ向かいながら草間を見た。
「内緒話のお返しとして、有村には言わないでくれる? 悔しいから」
「はい。言いませんけど……悔しい?」
尋ねた草間は目を丸くした。先生の顔が少し、男の人の顔をしていたからだ。
優しげなのはそのままに、不意に逸らされる目付きがほんの少し、切ないような冷めたものに見えた。
「あの黒板を見た時、絵を描く者として敗北感があった。まだまだ粗削りな絵だったよ。チョーク自体は画材として悪くない。アレでしか表現出来ない面白い手法があって、有村はそれを知らない。キャンバスも道具も、その活かし方を知らないのに、あそこまで描ける。なら、知識と技術を得たらどうなる? あんな気持ちは何度目かな。けど、教員になってからは初めて。勿論、これまでに描いて来た地盤があるからゼロとは言わないけど、あの黒板はまだスタート地点。彼が自分にとっての絵を受け入れたら、どこまで登っていくだろう」
ちがう。草間は感覚として、胸に直接受け取った。
先生はいま、絵というものを挟んで、対等に有村を見て話しているのだ。同じ、絵を描く人として。
「先生は、有村くんの絵、好きですか?」
「どうかな。まだ何枚かしか見てないから、楽しみではあるとだけ」
「上手ではない、ですか?」
「上手かどうかじゃないんだなぁ、絵は。どう違ったんだろうねぇ。夕日はただ綺麗なだけ。俺はあのアリスに、恋をしそうになったけど」
「恋?」
「絵を手で描いている内はお絵描きだよ。遊びだ」
「有村くんも?」
「…………」
久々に、先生と目が合った。
覗かれているような深い目で、そこにはやはり切なさと、言いようのない感情が混ざり合っている。
「他人の胸を打つのは、必ずしも上手い絵ではないんだよ。なんて言うのかなぁ。心が震える時、俺たちは作者の、魂のようなものに触れた気がするのかもね。嗚咽しながら口の中に手を突っ込んで、内臓を引き摺り出すみたいに。俺はそこまで出来なかった。出来る人が、してしまう人が幸運で幸福なのかは、未だにわからないなぁ」
先生と草間の足が、ほぼ同時に四階へ辿り着いた。
階段を上ってすぐの踊り場から、美術室はとても近い。
「また話そう。彼は幸せだね。こんなに想ってくれる恋人がいる。理解者を得られるかどうかは、いつの時代も、アーティストたちの大いなる分かれ道だ」
告げて笑った先生はすっかりと冷めてしまったであろうコーンポタージュを飲み干し、出て来ないコーンを落とすべく間の底を叩いて、サンダルの底をペタペタと鳴らしながら廊下へ進んだ。
やっぱり、話すべきではなかっただろうか。訊いては、させてはいけない話だったのかも。
ひとり踊り場に残った草間にはまた、言葉に出来ない想いが増えた。
優しい安田先生が好きなのに、先生が有村を自分と同じ絵を描く人として扱ってくれて、嬉しい。
言えないから、草間は美術室まで走った。




