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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第七章 開花少女
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積み重ねてきたもの

 美術室で円形に並んでいた椅子は、小学校の工作室で使ったような、四角い座面の木の椅子だった。

 足の間が一面だけ板張りになっていて、鞄を置く時に気付いた草間は、この椅子を台にして初めてノコギリを使った時を思い出す。なんだかとても、懐かしい。

 そこへいくと、この美術室の主である安田先生の、高校の先生というよりは小学校の先生のような物腰もまた懐かしい感じだ。

「じゃぁ、何をして遊ぼうか」

「やっさん。遊ぼう、て」

「ん? 遊びだろう、落合。授業じゃないし。みんなも小さい頃にクレヨンとかでお絵描きしなかった? それと一緒。絵を描くことはまず、遊びでいいんだ。楽しくなくちゃ始まらない」

 最初に座った有村をはじめとすると、その左隣りの一段後ろに藤堂が、その更に左奥の有村と同じ最前列に落合が座っていて、隣りは山本。真ん中のスペースにいる安田先生を取り囲むようにして、山本からひとつ置いた椅子に鈴木がおり、隣りが久保で、すぐ隣りが草間になる。

 草間と有村は間に椅子をひとつ置いていたので、落合に「そうなの?」と草間が尋ねるには、それなりの声の大きさが必要だった。

「そう。よく言ってる。娯楽は楽しんでこそ、でしょ。耳タコ」

 呆れたように答える落合は、安田先生を先生らしくない人だと言った。スタンスが軽いし、裸足だし。言われて足元を見てしまえば、草間と久保は笑ってしまう。

 ピコピコ。丁度、安田先生がそんな感じで、見せびらかすみたいに指を動かしたりするからだ。先生らしくないというか、これでは小学校の先生ではなく、幼稚園の先生みたい。

「でも、大事なことだよ。遊びは大変じゃダメ。そう感じないのが、自分に合った遊びなの。いい? 勉強と仕事は必要だからやるんだ。だから嫌でもやらなきゃいけない。だからこそ休み休み、無理のない程度に頑張る。で、遊びはやらなくてもいいんだ。なのにやるんだから、やってる時は一生懸命、満足するまでやる。これね、俺のポリシー。仕事はそこそこ、遊びは真剣」

「仮にも教師が言うことかい!」

「だから、今は授業じゃないんだもん。今の俺は、絵を描くのが大好きなおじさん。で、なにして遊ぶ? とりあえず、絵でも描く? 描いちゃう? どう? みんな!」

 本当に安田先生はノリが軽くて、気さくな近所のお兄さんのよう。

 描いちゃうも何も既に全員の前には絵を描く為の台、イーゼルがあるわけで、安田先生は返事も聞かず「描いちゃうか!」と、ひとりひとりのイーゼルに一枚一枚、木の板を立て掛けた。

 次いで、真っ新な紙を一枚ずつ板に置き、削られている鉛筆も三本ずつ配る。そうしてどんどんと用意を進め、描く物まで「花でいいよね」と、真ん中に置いた椅子の上に花瓶に生けた花を乗せた。

「単純に、俺が花を描くのが好きなの。これもね、この放課後に描こうと思って、朝、駅前の花屋さんで買って来ました。キレイでしょ。この花、誰か何かわかる人!」

 詳しい有村はまだ下を向いているし、他の誰も動きそうになかったので、草間が手を上げ「ガーベラですか?」と答えた。正解。そう言って付き出す人差し指が力の入れ過ぎで反っていて、草間はまた笑うのを耐えるので忙しい。

 安田先生。今日、初めて話をしたけれど、面白くて良い先生だ。

「この、可愛いガーベラちゃんを描いてみよう。ま、得意不得意もあるだろうし、繰り返すけど、これは授業じゃないから気楽にね。上手がどうかじゃなくて、自分なりにこのガーベラちゃんの似顔絵を描く感じ。採点も講評もしない。あ、講評っていうのは、ここがどうでああとかチクチク言うヤツね。アレ、俺きらいなの。大学でトラウマ。恥ずかしかったら、見せなくてもいいよ。俺は描いてる間うしろを通るけど、それも、邪魔だったらそう言って。遠回りして歩くから。時間は、三十分で切ろうか。それで、終わった時に俺が何か言うから、それをちゃんと描いてた人の勝ちでどう? 花の数かもしれないし、花瓶の形かもしれない。でも、奥のカーテンはない。ここにある物だけ。いい? 描き方も、美術の授業で習ったデッサンでもいいし、落合は得意だね、マンガみたいなイラストでもいい。決まりはナシ。ただ、消しゴムは使っちゃダメ。貸さないし、自分のを出したら遠くに投げてやる。それじゃぁ行くよ? よーい、スタート!」

 パチンと手を打ち鳴らした安田先生は、口でも「ピー」っと笛の真似をした。それを、真面目な顔をしてやるのだ。草間は笑ってしまって前が向けず、しばらく久保とどうしようもなく笑い合う。

 しかし、安田先生はきちんと時間を測っていて、壁掛け時計で四十八分までだと言う。急いで鉛筆を持ってから、草間は自分が絶望的に絵が下手なのを思い出した。

 いつもなら、なにがなんでも絵は描かない。落合と久保だけならまだしも、他の人の前では絶対に。安田先生はやっぱり、持って行くのが上手い。

 他のみんなはもう描き始めていて、草間は気付いてしまった不得手に苦い顔をしつつ、全員を見渡した。みんな、真剣に描いている。久保や鈴木、藤堂までも。

 けれど、有村だけはまだ真っ直ぐに前を向いていた。手は足の上に下ろしていて、鉛筆すら持っていない。

 やっぱり、みんなの前で描くのは嫌なのかなと不安になった。また、無理強いしてしまっただろうか。唇を噛んだ草間が瞬きの増えた目で見ていると、安田先生が「五分経過」と告げて間もなく、突然、有村が鉛筆を掴んだ。

 そこからは、ずっと目の前のイーゼルに向かったまま。草間もようやく、戸惑いながら花瓶の縁になる上の横線を描いた。

「はい、三十分! みんな! 手を止めて、鉛筆置いてねー。終わりだよー」

 せっせと何かをしている時の三十分はあっという間だ。

 鉛筆を置いて落合と鈴木は天井を仰ぎ、「疲れたー!」と声を揃える。全然間に合わなかったと言ったのは山本で、久保も描き切れなかったようだ。

 しかし、間に合わないくらいならまだいい。三十分を懸命に費やした草間は絶望に暮れ、見たくもない紙の存在を忘れたいみたいに、顔を手で覆った。下手だ。自分でわかる。下手過ぎてもう、目も当てられない。ひどい。あまりにも、自分の描いた絵が酷い。

 とはいえ、手を止めさせてから後ろを一周見て回った安田先生は本当に誰の絵にも詳細なコメントをせず、草間のひどい絵を笑ったりしなかった。気落ちしているのはわかってくれて、「草間さんはきっと真面目な子なんだね」と言っただけ。なのに落合が走って来て、見るなりゲラゲラと笑い出した。

「仁恵! コレ、花描いてない! 花瓶の絵じゃん! しかも、めっちゃイビツ! さすがだよ、画伯。期待を裏切らない、ふにゃイラ!」

「だって! 花瓶から描いたら、ガーベラまで行けなかったの! 笑わないでよキミちゃん! ひどい!」

「そうだよー、落合。人の絵を笑うのはね、自分の絵に途方もなく自信がある人って相場が決まってるの。だからぁ……みんな見てー、コレが落合の描いたガーベラだよー」

「ちょっ! 掲げて見せんな! やっさん!」

 返せと飛び跳ねる落合をものともせず、安田先生はイラストタッチのガーベラの絵を高く掲げ、まるでラウンドガールのような堂々たる足運びで中央の空間を二周もした。

 さすがの落合も頬が真っ赤だ。得意で上手な絵が描けても、そうやって晒されるのは恥ずかしいらしい。

「あのね。こういうタッチの絵を描くのも個性なら、どこから描くかも個性なの。それに、制限時間内に描くってのは、本当は練習が必要な高度な遊び。描き慣れてない人は描ききれなくて当然だし、机ならともかく、斜めの板に描くのは初めてなら難しいものだよ。なのに、みんな頑張った! 先生は、とても嬉しいです!」

「わかったよ! わかったから、返して!」

「はぁい」

「もう!」

 もしかすると、安田先生はいつもそうやって生徒と遊んでいるのかもしれない。

 今は落合で遊んでいるのかもしれないが、真っ直ぐに目を合わせて、「いいんだよ」と言ってもらった草間は少しだけ、気持ちが軽くなった。

「花瓶は似てるわ。花瓶なら、仁恵の勝ちよ」

「絵里ちゃん……」

 そういうことでは、ない。

 安田先生はタイムアップを告げてすぐに、座ったままでいるように言った。なのに駆け出した落合へのペナルティも済んだところで、約束のお題が発表される。

「ひとつ目、ガーベラをちゃんと五本描いてた人、一点。四つよりひとつを少し小さく描いてた人は、プラス一点。誰だ?」

 落合と山本が手を上げる。嘘だと言って鈴木が覗き込んだが、山本は本当に五本描いたうち一本を、一回り小さく描いていたようだ。

「ふたつ目、花瓶の間口を広く、くびれがある形で描いてた人、二点。で、ちゃんと片方に持ち手を描いてた人は、プラス一点! 誰? 草間さん、手を上げて。三点ゲット!」

「……ありがとうございます」

 ズルいと落合が言った。確かにこれは花瓶しか描けなかった草間への救済処置だ。

 おまけで三点も貰ってしまい、申し訳なくなった草間が見遣ると、安田先生はイーゼルを前に視線を下げる有村を見ていた。そういえばまだ一回も、有村は手を上げていない。

「最後に、ガーベラの花弁を塗った人、一点。いるかな。影でもいいよ。濃淡で色を付けた人」

 これには誰も手を上げない。そこまでいけないよと嘆いたのは落合で、鈴木や山本も「無理だ」と言った。

 同じく一回も手を上げていない藤堂が、斜め後ろから有村を見ている。有村の絵を、かもしれない。有村はまだ下を向いていて、安田先生がゆっくりとそちらの方へ歩いて行った。

「見事だよ。君だけだ。加点も入れて、計六点。パーフェクト」

 安田先生が告げた途端、藤堂以外の全員が席を立った。真っ先に後ろへ回り込んだ落合が息を飲み、続く鈴木と山本、久保までもが目を見開いて、一瞬、何も言わない時間が流れる。

 短い沈黙を裂いて「早過ぎるでしょ」と落合が放ち、鈴木と山本から「スゲー」や「マジか」が零れた。遅れて、草間も久保の隣りに入れてもらう。予想していなかったわけではないのに、言葉が全く出なかった。

 有村はこの三十分間で、くびれのある持ち手付きの花瓶に生けられた五本のガーベラを描き切っていた。黒の濃淡で、花弁に色を付けて。椅子の上の現物と見比べてみても、それはまるで写真のように精巧だった。

 みんなが詰めかけたことで、有村は更に下を向く。殆ど真下を向いてしまった有村の後ろに立ち、安田先生は楽しげに笑った。

「ピカソの有名な逸話に、こんなのがある。ある日、絵を描いてほしいと頼まれて一分で描いた絵に、彼は二万ドル、まぁ大体二百万くらいの値をつけた。一分で描いた絵なのに言われ、ピカソは言った。一分じゃない。四十年と、一分だ。この話を知った時、俺は少し気合が入ったんだよね。ああ、そりゃそうだって。道は、まだまだ長いなぁ、ってさ」

 もう胸との間に頭を下げる隙間がなく、有村は背中を丸くしていった。小さく小さくなっていく有村の肩に手を置き、安田先生はゆらゆらと前後へ揺らす。

「有村も、三十分じゃない。一般的なスケッチブックは、一冊で二十五枚くらいかな。それが、四十八冊。単純に計算して、まぁ、軽く千枚を超えてるね。だから、千百何枚描いた十何年と、三十分の絵だ。ただ絵が上手な人なんていないんだよ。いるのはただ、誰よりもたくさん描いた人、真剣に絵と向き合った人だ。やっと、ここまでになったんだよな。上手になったんだ。それ相応の、時間をかけて」

 ゆらゆら揺らす安田先生に、有村はか細い声で「やめてください」と言う。恥ずかしいから、やめてください。ちゃんとハッキリ言ったのに、安田先生はさもおかし気に笑うだけで、肩に乗せた手をグッと押した。

 なにが恥ずかしいもんか。そう言って笑う安田先生は優しい顔をしていて、ちっとも先生らしくない先生ではなかった。

「もう一回、訊くね。いま、描くの楽しい?」

「…………」

 肩の上から覗き込むようにして、安田先生は見上げた有村に微笑みかける。

 絵を描くことが楽しいか。その質問は二回目で、今回も有村は答えない。草間たちにとっては有村と安田先生を見守る時間が、それからあと数秒間だけ続いた。

「……楽しくはないです。ずっと」

「じゃぁ、どうして絵を描くの?」

「…………」

 答えない有村に、安田先生が静かな声で呼びかける。これまでと同じように、言いたくなければ言わなくていいと諭しながら、もしよければ教えてほしいという、窺う態度だ。

 楽しくはないと聞いて、草間たちの方は少々ざわついた。楽しくないのに、描いている。口に出した落合を遮ったけれど、草間もつい思ってしまう。そんな人が、いるのだろうか。

「ここは美術室。数学や理科みたいに、そもそも、正解なんてものがない科目を教える部屋だよ。思ったままでいい。ここでは、感じたままが、有村の答えが正解。見てよ。サンダルに裸足の先生なんて他にいる? 俺ね、靴下が大っ嫌いなの。だから寒くて指先が真っ青になっても我慢して、一年中裸足。そんな大人にさ、ちゃんとした説明なんていらないよ?」

 その時、俯いた有村が短く笑った。ふふっと小さく漏らして、聞こえた言葉は「僕も嫌いです」。

 靴下が嫌いです。言って顔を上げた有村はどこか、晴れ晴れとしていた。

「描くものなんです。描かなくちゃと思う時も、あるんですけど」

「もう、一部みたいになってるんだ? 昼になったから、何か食べなきゃ、みたいな」

「近いかもしれません。出来なくても、やめられなくて」

 ずっと黙っていた藤堂が椅子に座ったまま、今朝の話をして聞かせた。やっとの想いでやめさせて、担いで教室まで運んだこと。聞いた安田先生は高らかに笑い声を上げて、藤堂に「いいやつだなぁ」と特大の笑顔を向けた。

「中々いないよ。寝ちゃったからって、担いで連れて来てくれる友達なんて。確かに、学生が学校行く時間まで描いてるのは良くない。けど、そういう人に出会うのは久々で、個人的には、ちょっと嬉しい」

「嬉しい、ですか?」

「嬉しいねぇ。やめなきゃいけないのはわかってるのに、やめられない。認めてあげるといいよ、有村。楽しいとか好きとかを通り越して、絵が描きたくてどうしようもない自分を、ね」

 先生らしく諭した安田先生を、有村は先生がまた中央の空間へ戻るまで目で追いかけていた。

 戻った先生はもう一度、手をパチンと打ち鳴らす。時間はまだ大丈夫かと全員へ尋ねて、ひとりも帰ると答えないのを見るや、得意気にニヤリと口角を上げた。

「じゃぁ、二回戦目にいきますか! モチーフを変えるよ。時間は同じ、三十分。一回やってみて、三十分が意外と短いってわかったでしょ? 今度は、さっきより時間を意識してみて。でね、ちょっとだけ自信を持ってほしい。一個だけ、絶対って言えることがあるんだ。絵は、もう上手い人と、まだ上手くない人しかいない。描いた分だけ、上手くなる!」

 安田先生は次に、おやつとして持って来ていたバナナを真ん中の椅子に置いた。描かなければならない物が減って、草間には有難い題材だ。

 今度こそはおまけでない一点を手に入れようと、草間は早くも鉛筆を手に取る。スタートを告げる前に、安田先生は有村にみんなのヒントになるからと、ひとつだけ質問をした。

 尋ねたのは、絵を描く時に最初にすること。有村の答えは、よく見ること。

「あと、考える。どんなバナナかな、って。あのバナナはまだ、ちょっと早い」

「そうなんだよ。さっき一本食べたんだけど、甘くなくって」

「だと思います。皮も硬そう」

「その辺りの表現力を見て行きたいね!」

「やっさん! ハードルが急に高いよ!」

「アハハ! ウソ、ウソ。今回も、さっきと一緒。気楽にね。楽しく。じゃ、始めるよー。よーい、はい」

「軽い!」

 二回戦目、安田先生はこっそりと、苦戦する草間に後ろから少しだけ描き方のヒントをくれた。

 それでも点数は五点中二点の出来栄えで、満点だったのはやはり、最初の五分間を動かずにいた有村、ただひとり。今度は素直に「ありがとうございます」と会釈をしていたが、何度も上下した有村の首は耳と同じで真っ赤だった。

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