全ては君の望むまま
「さて、と」
ズラリと並ぶ靴箱へ履いていた靴をしまい、厚底の所為で数ミリ浮いてしまう蓋をした落合が溜め息交じりに吐き出すのを聞き、同じく上履きに履き替えた面々の視線が一斉に集まる。
「いやいや、そんな不思議そうな顔せんでも」
本当にわかっていないのであろう草間は置いておくとして、他の面子は自分と同じだろうという風に口をへの字にした落合の不安はひとつだけ。
事実確認がてらの会話が弾むまま校門を潜ってしまったけれど、この昇降口へ着くまでにも充分にあった朝の恒例行事はここから更に激化する。特にその当事者である有村は思いついているくせに、というつもりで、落合は一際ポカンとしている当校のアイドルを軽く睨んだ。
「ここからは別行動の方がいいんかね? もう遅いような気もするけど」
そうこうしている間にも、向かい合っているはずの王子様は彼方此方から投げられる「おはよう」に笑みを返すなり手を振り返すなりしていて、これがしばらくひっきりなしに続くのだ。
当然、近くに居れば『あれは誰だ』と落合を含め、三人にも注目が集まる。実際にただのクラスメイトである落合と久保はいいとしても、追及されて痛い草間を思えば離れておくのが賢明であろう。なにせ急展開での交際スタートだったものだから、こちらは用意諸々整っていないのだし。
「そうよ。アンタどうするつもりだったわけ?」
「別に悪いことしてるわけじゃないし、オープンにするつもりだけど?」
「仁恵はそれでいいの?」
「え?」
「だから」
まだ夢心地の草間の腕を掴み、落合はその耳元へと細心の注意を払いながら状況の説明を試みる。
校内には何十人と有村に羨望の眼差しなどを向ける女子たちが居て、草間は今日からそれらを蹴散らした勝者になるわけだ。その覚悟が出来ているのか、と。無論、言われてから慌て出す草間にそんなものはない。
そうか。彼女になるというのは、金曜日までの限りなく空気みたいだった学校生活を一変させる出来事だったのか。草間は心の整理すらままならなくて、そこまで考えが及んでいなかった。
「どうしよう……」
それに応えたのは藤堂だった。彼は相変わらずの無表情で草間を見下ろし、まだ遅いってことはない、と有村の隣りに就く。
「俺らが幼馴染みだってのを出せば、別に一緒に登校したっておかしくないだろ」
「そっか。今日たまたま合流したってことにすれば」
「問題はない。まぁ、誰にも何も言われないってことはないだろうけどな」
特に草間は、と有村をはじめ他の視線も集中するのは、久保と落合にはそれぞれそれなりの知名度と友人の多さという武器があるのに対し、草間だけがこれまで全く目立たなかった急浮上株、しかも大穴当選などという突き所が満載だったからだ。やっかみたい輩が居れば、まず攻撃は草間へ向くと考えるのが自然である。
そこでやっと有村が口を開いた。うーん、と悩む素振りを見せ、首筋を撫でたりしながら。
「本当にガッチリ守るには、正直に言っちゃうのがいいと思うんだよね」
草間さんが嫌でなければ、そう付け加える有村を藤堂が鋭い睨みで訝しむ。
「だってさ。彼女だから優しくしてねって言えば、そう変なことはされないって思わない?」
「それはそうだが」
「大丈夫だよ、みんな優しい子たちだもん。ちゃんとわかってくれるって」
「お前――」
ニッコリと目を細める有村に藤堂は一層険しい視線を向けていたが、落合たちは落合たちで草間を囲み、今更ながらにどうしたいかを確認するのに忙しくてそれどころではなかった。
藤堂の言う通りどうとでも出来ると有村は自信あり気にしているが、問題は草間本人がどうしたいかだ。特別仲が良いと言うだけでもガードは出来るとか、次から次に選択肢を増やしていく王子様をナイトが止めている間に、落合と久保は草間の肩を片方ずつ掴んで本心を問う。
「私は……」
悪いことをしているわけじゃないからという有村の気持ちは、素直にとても嬉しかった。でも自覚してしまった不安が全て晴れたわけでもない。
自分ですら、どうして私なんかが、と未だもって思っているのだもの。周りはもっとそう思うはずで、形はどうあれもう静かで差し障りのない学生生活は送れないだろうというのも重々。
「……どうしたら、いいんだろう」
一生懸命に考えた末に零れた声を、有村が拾った。
「それは君が決めることだよ。草間さん」
「えっ! いや、ちょっと。そこで丸投げはないっしょ!」
「そうよ! 無責任じゃない!」
「どうして?」
すぐさま噛み付いた久保と落合を見る有村の目はさして力んでいる様子もなく、問うた言葉通りに不思議そうな顔をして、コテリと首を傾げて見せたりする。それでもどこか堂々とした佇まいに、草間はただ次の言葉を待つばかり。
「俺は何も強要したりしないよ。好きだって言ったのも俺だし、付き合ってって言ったのもそう。受け取ってもらえただけで満足だから、草間さんが隠したいって言えば全力で隠すし、オープンにしていいよって言ってくれるなら嬉しいなって思うだけ」
「だから、そう言ったら仁恵はいいって言うんだって!」
「だとしても決めるのは草間さんだ。俺はどっちでもいい。草間さんがどっちを選んでも不自由がないようにするって約束するよ。当たり前でしょう? 好きな子を困らせたい男なんてどこにいるの」
「そうだろうけど!」
「悪いけど、俺は草間さんを脅して彼女になってもらったわけじゃない。気持ちを伝えて選んでもらえたんだって、思ってるんだけど?」
その一切迷いのない口振りといったらなかった。口が立つと評判の落合も圧され、久保も睨み付けるしか出来ない圧倒的な正論の嵐。有村が言っているのはどれも事実で、その上で出来ることはすると明言しているのだ。藤堂でさえ黙って行く末を見守っている。
「週末だけの恋人でも構わないよ。それで寂しいなんて思わない。草間さんの、好きにしたらいい」
どうしたい、と改めて尋ねられた草間は、真っ直ぐに注がれるあの透き通るような瞳を見つめた。
言葉だけを聞いていると少し突き放された感じがしたが、その目はどこまでも穏やかに、優しく草間を映すのだ。本当に、どちらを選んでもいいんだと言って寄越すみたいに。
すると草間は、その目の方がずっと簡単に信じられる気がした。自分がどちらを選んでも、なんとかしてくれる気がして。
「私は……ちょっと、こわい、です」
口に出してからそれに続く言葉が見当たらずに、草間はそっと唇を噛む。
垂らした手が強くスカートの裾を握っていた。こうしている間にも有村に向けられているのであろう視線が背中にひしひしと刺さるのだ。これらが全て自分にも向くのかと思ったら、足が竦むどころではなかった。
でも本当に一番怖いのは、どこかの誰かの視線、などではない。
「変わっちゃうの。ついて行けないかも、しれなくて……」
草間に足りなかったのは有村の恋人になる覚悟以上に、昨日までを捨てる覚悟だったのかもしれない。望んでいた場所ではなかったくせに。
「なら、内緒にしよう」
「で、でも…っ!」
やはり迷いのない声で締め括ろうとする有村を、草間は思わず遮っていた。
そう。自ら望んで、いてもいなくても変わらない空気人間でいたわけじゃない。そうするしか出来なかったのだ。人が怖くて。親しくなって、傷付きたくなくて。ずっと勇気が出せずにいた。このままじゃダメだと知っていながら、最初の一歩が踏み出せないまま。
「…………っ」
有村に向けられる声は全て、藤堂が跳ね退けているようだった。その鋭い目つきで、或いは「あとにしてくれ」と声をかけて。草間の両脇には久保と落合が居て、言い淀む背中に触れる手の感触が温かい。
なにより向かい合う有村の凛とした立ち姿が、揺れる草間を迷わせていた。選んでもらえたと彼は言ったけれど、こんな自分を選んでくれたのこそ彼の方だ。報いたい。その気持ちが大きかったかもしれない。
けれどそこには確かに変わりたいと願う草間の切なる想いが、これまでで一番強く溢れていた。
「……かな」
「うん?」
苦しい胸元のシャツを掴み、有村を見上げる瞳は縋る色を滲ませている。
「有村くんに頼っちゃ……ダメ、かな」
臆病な自分から抜け出す為に、選んでもらえた幸運を利用するのは卑怯かな。
スカートを握る手には力が籠り過ぎていて、立てた爪が悲鳴を上げていた。
有村が、そっと微笑むまでは。
「君が望むなら、なんでもするよ」
「……なん、でも?」
「うん。君を大切にしたい。誰よりも、何よりも一番に。それを許してくれるなら、他はどうだっていい。全部、君にあげるよ」
「ぜん、ぶ……?」
まだ答えを出していないなら、有村は草間に触れも、それ以上近付きもしなかった。
クラスメイトがただ立ち話をしているくらいの距離。金曜日まではこれでも充分に近いと思ったはずなのに、ぶらりと垂れ下がったまま伸ばしてもらえない手をほんの少し寂しいと感じたのは、その温かさを知ってしまったからだろうか。
一日中手を繋ぎ、何度も髪や頬に触れられてその心地良さを知ってしまったから、遠いと思ってしまうのだろうか。贅沢なことだと今でもよくわかっているのに。
願っても、いいのだろうか。受け取ってくれと言って来るような有村の瞳の中で、草間の喉が上下する。
「草間さんが俺のものになったわけじゃない。俺がなりたくて、草間さんのになったんだ。全て、君の思うがままに。俺を自由に使ってよ。その権限も君にだけ、あげたんだから」
まるで夢の続きを見ているみたいだった。望むなら、全部思いのままに差し出してみせる。そう言ったのは頭の中で作り上げた理想の紳士だったはずなのに、今は夢の中でさえ有村が傅いてくれたみたいに思えてくる。
その手を取ったら、今朝の夢みたいに、あの小説の女の子みたいに世界中に色が満ちて、全く違う新しい自分になれる気がした。
連れ出してもらえる気がした。変えてもらえる気がした。彼になら。
「わたし……」
折れそうになる心を、これまでに読んできた何十、何百という恋するヒロインたちと同じように奮い立たせ、草間は震えてしまう唇を一度だけキュッと結ぶと、真っ直ぐに有村を見つめた。
「私、もう逃げたくない……変えたい。変わりたい、本当は……!」
「これこそ、あとで取り消しは難しいかもしれないよ?」
「わかってる。それでも、もう――」
縮こまって、コソコソしていたくない。そう告げると、正面で受け取った有村は手を持ち上げようとし、草間も多分それが伸びて来るのを待っていた。
けれど。
「結論が出たようでなによりだ。ただ、どっちにせよ順序ってもんはある」
差し出す角度にもなる前に藤堂がその動作を遮り、ふたりの間に声でも身体でも割って入った。有村以上に骨張った男らしい手が、掴んだ手首を軽々と一周握り込んでいる。
「余計な騒ぎを起こす必要もない。そうだよな、有村」
投げかけた藤堂と、向けられた有村の目線が重なった瞬間、どちらの方がより無表情だったかというのは判断がつかないくらいだった。本当に一瞬だけ、目が合ったその時だけではあったけれど。
「勿論だよ」
答えた有村はまたニッコリと微笑み、藤堂が放した手首には薄っすらと赤みが見て取れた。跡が残りやすいとは言っていたが、一瞬で指の跡が付くくらい力を籠める必要はなかっただろうに。訝しむ草間と視線を合わせた藤堂は素っ気ない一瞥だけ残し、ふっと顔ごと逸らしてしまった。
そういう仕草をするから、草間は昔から藤堂が少し苦手なのだ。ただでさえ強面なのに、もっと怖く、怒っているみたいに見えるから。
「とりあえず、お前はいつも通り王子様をして来い。教室までは俺が草間につく。で、まずは新垣たちに話して地盤を固めるぞ」
「ガッキーにってことは、姫様の親衛隊に話通すってこと?」
「そうだ。アイツらはもう殆ど宗教だからな。有村が選んだって言や、草間も警護対象にする」
「警護って、大袈裟でない?」
「使えるもんは使えばいいって話だ。鶴の一声があっても、行き届いたか見張る目は多いほどいい。それでいいな、有村」
「うん。魔王様の仰せのままに」
「言ってろ」
それに男子限定ではあるけれど、すぐ相手の脳天や肩に拳を振り下ろすのも怖い。後頭部を叩かれた有村はさして痛そうでもなく「いたいよー」と暢気に零して叩かれた場所を擦って見せたりするが、ドン、とか、バチン、とか、無駄にいい音がするから余計に怖い。
しかし、そうしてすっかり萎縮してしまっていても、藤堂が不遜に顎を上げ「任せろ」と言えば、優秀なボディーガードを貸してもらったような心強さがあった。あり過ぎる威圧感といい、真っ黒な髪といい、ドーベルマンみたいだなんて落合が耳打ちして来るくらいには。
「んー。それじゃぁ、今日もお勤め果たしますかぁ」
大きく伸びをしながら左右に揺らした首を鳴らし、有村は視線を投げて最初に目が合ったらしい誰かへ向けてとびきり爽やかな笑顔を湛える。
何かのスイッチが入ったみたいな、見事な切り替えだった。いや、彼がにこやかなのはいつものことなのだけれど、表情としての笑顔と言うべきか、笑っているのとは少し違うような。
「ちょっと話し込んじゃって、さっきは無視してごめんね。みんな、おはよう」
声をかけながら一足先に草間たちから離れ、一気に賑やかになる人混みへと進んで行く有村を迎えるのは、当校朝の風物詩、王子様と交わす挨拶待ちにたむろしていた女子たちの黄色い悲鳴だ。
本当に「キャーッ!」という声が飛び交っている。毎朝のことなのに。よく飽きないものだとは軽く蔑んだ目で有村を見送った久保のひと言で、落合は溜め息を、藤堂はやはりツンとすました仏頂面で移動して行く大群を眺めていた。
「あたしアレの始発って初めて見たけど、なんかすごいね」
「いい気になって」
そして、本当に「ケッ」と口に出す人もいるのだ。草間の隣りに。
出来れば仲良くして欲しいな。そう願いつつ目線を迷わせていると、そうした悪態が久保より様になるはずの藤堂が「別にいい気になってやってるわけじゃない」と、横顔のままで親友を庇った。
「あれはまぁ一種の協定みたいなもんだ。朝の時間をくれてやる代わりに、日中はしつこくしないっていう。四月の頭頃は何回か教室移動も遅刻して来たろ? 肉を切らせてってやつだな」
「切った肉が華やかなこと」
「でも有村にとっちゃ正に肉だ。アイツは俺より、うるせぇのが好きじゃねぇから」
「え、そうなの?」
「ああ。だから終わるとアホみたいに菓子を食う。ストレス溜まってんだよ、あれでも」
「ほぇー。王子様も苦労してんだぁ」
放っておいてくれと言っても無駄なら、という話らしい。落合はなんだか、あの美男子が少し気の毒になってしまった。何事もそこそこが幸せ。それを改めて見せられた気分。
気を取り直してという風に息を吐いた藤堂はすっかりと人気の消えた廊下から視線を戻し、そう言えば何の反応も示さない草間を見やった。よく喋る落合ほど口数は多くないだろうけれども、顔を見ればどう思ったかくらいはわかるだろうと。
「……お前、なんで嬉しそうな顔してる」
「えっ」
予想通り、わかるにはわかった。
草間の頬はピンク色で、なんだか楽しそうだということは。