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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第七章 開花少女
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お絵描き大好きお兄さん

 今日の有村はボロボロで、腕時計が手首にないのに気が付いたのがホームルームの直後なら、代わりの携帯電話がポケットに無いのに気が付いたのも放課後になってからだった。

「携帯。携帯もない」

「ほら。あんま充電出来てねぇぞ」

「あ。ありがとう」

 きっとまた床に転がして絵を描いていたのだろう。帰り支度をしつつ微笑んだ草間の隣りで、有村が「あ!」と大きな声を出した。

「ごめんね、草間さん! 昨日、電話くれたんだ。気付かなくて、無視しちゃった……ああもう、なにやってるの、僕。ごめんね!」

 必死に手を合わせて来るのを見て、今更、責めるつもりはない。おかげの寝不足も、草間の方はもう意識の外だ。気にしてないよと言って、笑って見せた。すぐさま両腕を広げた有村が一歩踏み出したところで躊躇うので、草間の方から両腕を前へ出してみる。出すとは言っても、ほんの少し浮かせた格好だ。

 嬉しそうに笑った有村が抱き着いて来て、昨日の僕を叱りたい、とか言う。着信に気付かなかったのが大罪のように嘆くから、棒立ちのまま、草間はつい笑ってしまった。

「草間さんと話せるチャンスが……」

「今日、たくさん話そう?」

「三十分?」

「一時間でもいいけど、今日は帰り、ゆっくり歩いて帰らない?」

「賛成!」

「ふふっ。じゃぁ、行こっか」

 心の中では詫びもしたし、反省もした。

 電話に出られなかったくらいでこんなに落ち込む有村くんが、飽きたのかも、なんて。きっかけがあったとはいえ、酷い想像をしてしまったものだ。



 美術部の部室である美術室は、旧校舎の四階にある。

 新校舎とを繋ぐ渡り廊下は一階から三階までしかないので、三階で渡り、古い階段を一階分上った。先頭は落合。向かいながら聞いた話では美術部は弱小で、落合を入れて五人しかいない部員の全員が幽霊部員なのだそう。描きたい時に場所を借りるスタンスで、行けば道具は自由に使わせてもらえるのだとか。

「一応、コンクールとかにも出してくれるよ。タイミングが合えばだけど」

 まだ一回も作品を出したことがない落合の推理では、実質稼働してしていない美術部は、放課後に他の部の顧問をやらされて美術室を出たくなかった安田先生の隠れ蓑。

 先生は美大の出身で、なにより絵を描くことが好きな人だった。

「やっさーん。いるー?」

 先に落合がドアを開け、中を確認してから、残りの六人で押し掛ける手筈でいた。顔だけ中へ入れた落合の名前を呼ぶ声がして、落合が他に誰かいるか尋ねると、気さくな声が「いないよー」と返して来た。

「寝るなよ、有村」

「さっき、ちょっと寝たから大丈夫。五分」

「今日は、ちゃんと寝ような」

 いいよ、の掛け声と共に、草間たちは美術室へと足を踏み入れた。

 そこは、学校で授業を行う教室として、とても特殊な空間だった。

「おー? なんだ、なんだ? お客さんかー? いらっしゃい」

 机の代わりに、背もたれのない椅子と対で置かれているイーゼル。教室の中央へ向くように、中央の何もないスペースを取り囲むようにして円形に配置されたその組み合わせが、全部で十五から二十。

 安田先生はその内のひとつに座っていて、手を拱いて招き入れると立ち上がり、不思議そうに落合の後ろの草間たちを眺めた。

 歳の頃は三十代の半ばくらい。一番上までボタンを留めた白いシャツに、紺色のカーディガンを羽織っていて、温かそうな上とは対照的にスリッパを履く足元が裸足。結構な痩身で、耳の辺りから纏めた黒い髪をゴムでひとつに束ねていた。襟足は肩にギリギリかからないくらいなので、有村のように前髪が長いのかもしれないと草間は予想する。

「んー? なんか、有名人も何人かいるけど、どしたの?」

「連れて来たんだよ。やっさんが会いたい人」

「会いたい……え! まさか黒板の? だれ? だれ?」

「やっさん、ステイ。落ち着きなされ」

 手を上げて手を上げるようせがむ安田先生を身を挺して止めながら、落合はチラリと振り向く。

 草間の隣りにいる有村は下を向いていた。逆隣りの藤堂に小突かれ、小さな声が「僕です」と答える。

「そっか! 嬉しいよ! 会いたかったんだ!」

 落合を追い抜いて駆け寄る安田先生のはしゃぎようは子供のようで、目の前に立たれた有村がそっと、半歩下がった。

「はじめまして。美術の安田です。安田(やすだ)憲明(のりあき)。安田でも憲明でも、好きに呼んで」

「僕は……」

「有村だろ。有村洸太。知ってるよ、ウチの王子様だもん。でさ、ちょっと、手を見せてもらっていい?」

「……はい」

 通学鞄を肩に掛けたまま両手を出した有村に、安田先生は「触っていい?」と問いかける。

 見つめる目がキラキラと輝いていた。戸惑い気味に「はい」と答える有村の了承を得て、両手で大事そうに安田先生が触れたのは、右手だった。

「ああ、もうちゃんと、描く人の手になってる。少し赤いけど、最近描いた?」

「……昨夜から、今朝方まで……」

「登校時間ギリギリまでな」

「まで、です。はい」

「そうか!」

 藤堂の訂正を受け入れて認めた有村には、然して驚いていない様子だ。安田先生はそれどころではないとばかりに有村の指を撫で、その顔がやけに嬉しそう。

「この形は、鉛筆……いや、指先も少し薄くなってるな。色鉛筆?」

「はい。どうして、わかるんですか?」

「俺も似たような変形してるから、当てずっぽう。高校の頃までは色鉛筆だったんだ。手に入り易いし、馴染みもある。文具の中では自由が利くし。どんな絵を描いてた?」

「いや……」

 さすがは美術教師、というところだろうか。触れただけで随分と描いていることまで当ててしまい、最後に有村の指先を大切そうに包み込んだ安田先生の顔は、その手が宝物のように草間には見えた。

 言葉を濁す有村に代わり、藤堂が鞄から角の不揃いな紙の束を取り出して、「こんなのを」と安田先生へ手渡す。なんで持ってるの、と有村が問い質せば、藤堂はしれっと、あとでよく見たいからに決まってるだろうが、と言う。不満気な有村を気にしつつ安田先生の手元を覗き込んでみたところ、そこには二十枚程度の夕焼けの絵があった。

 濃いオレンジ色の、見事な夕焼け。動物園で見た夕日に似ている。

「有村は、さ。絵を習ったりした? 技法とか、表現方法とか」

 一枚一枚をじっくりと見ながら、安田先生が問いかける。

「いえ。まったく」

 厚手の紙を次々送る面持ちは真剣で、「他人が描く絵を見たことは?」と尋ねる時も、視線を絵から動かさない。

「ないです。描いているだけで。描くだけで、見るのは、別に」

「……そうか。これは、さ。写生かな? こういう景色を見て描いた?」

「見て、描きました。見たものを、かな……」

「なるほど」

 ありがとうを告げて絵の束を返し、受け取った束を横から藤堂に奪われる有村に、安田先生は描き上げないのはいつもなのか尋ねた。顔と目線で藤堂の鞄を指し、それが完成形なのか、と。

 問われた有村は驚いたようで、戸惑いの色を濃くしては、「いいえ」と首を振る。

「違います。描きたいのは、これではなくて」

「頭の中には、もっと鮮明な絵があるんだな? 一枚一枚はもうこれでいいけど、それじゃない」

「はい」

「わかった」

 そうして安田先生は再び落合の脇を通り抜け、有村に椅子へ座るよう勧めた。

 ようやく目を遣った草間たちにも、好きな場所に座ってくれと言うのだ。有村は躊躇い、躊躇う横顔を見つめたら、草間は自分以外の全員が有村を見ているのに気が付いた。

 頼りなさげに、背中は丸く。右へ左へと泳ぐ瞳は少しも、有村らしくない。

 ただ、絵にまつわる有村としては、とてもそれらしかった。絵の話をしている時、実際に描き始めるまで、有村は随分と自信なさげだ。

「安心して。俺は、有村の絵の先生になろうなんて思ってない。描くのが大好きな先輩として、伝えたいことがあるだけ」

「…………」

「俺はね。絵は、誰かに教えてもらうものじゃないと思う。好きなように描けばいい。でもね、好きなように描く為に、知ってると便利なことがあるんだよ。違うんじゃない? なにか。なにもかもが」

「…………」

 ゆっくりと、有村が視線を上げた。それを見て、草間は静かに安堵する。

 絵のことだけ、有村はやけに頑なだ。それだけ大事なものなのだろうけれど、出来れば、同じく絵が大事なのかもしれない先生を受け入れてほしい。

 受け入れ始めたように見えたから、草間はきっと安堵したのだ。

「全くの独学でそこまで描けるのは、正直すごいよ。そうなるまでに何十枚、もしかしたら、何百枚も描いたんじゃない? 黒板の絵を見て感動したんだ。あの絵には無駄がない。アレは、完成した一枚絵だ。でも、計算し尽くされているかというと、そうでもない。だからスゴイ。あの絵は感性で描かれてる。ベースだ。基本。有村、君は絶対に、もっと描ける。もっと、もっと、君の感性に技術が追い付いたらきっと、君の世界はもっと、もっと、躍動するはずだ」

 熱弁を揮う安田先生から再びに視線を外し、有村は右手の指を爪で引っ掻くように擦った。

 その目がまだ揺れている。戸惑っている。躊躇っている。草間はそっと、折り曲げられた腕に触れた。おずおずと向けられる眼鏡レンズ越しの瞳と目が合うから、そのまま小さく笑って見せた。

「今はまだ、描いてるだけで満足かもしれない。でもね、思ったように描けないっていうのはいつか、絵を描くことを苦しいことにしてしまうんだよ。もし、有村が描くのが好きで、描きたいと思っているなら、ここに座って、ちょっとだけ練習してみない?」

「…………」

「大丈夫。部員になれなんて言わないし、来年は美術を選択してねとも言わないよ。嫌だったら帰っていいし、二度と来なくたっていい。描くの、楽しいか? いま、ちょっとだけ前より楽しくなかったら、座ってみて? まずは、座るだけ」

「…………」

 安田先生の言い方は上手い。強制されれば嫌だと開きかけた扉を閉じてしまうかもしれないが、とりあえず座るだけならば、言葉の上だけでも受け入れやすい。

 落合が何か言おうとしたので、草間は首を振って待ってもらった。これは、有村が選ぶべきことだ。急かしても、誘ってもいけないこと。いつも彼がしてくれるように、草間は待った。力を抜いていつまででも待つつもりで隣りに立っていたら、有村が一歩、足を前へ出した。

 勧められた椅子に座る前、そこに立つ安田先生へ有村はそっと会釈をする。鞄を足元へ置き、下を向いたまま腰を下ろした。

「……四十八冊です。スケッチブック」

「黒とオレンジが表紙の? 何歳まで? 今までに?」

「はい。十四歳、まで」

「そっか。じゃぁ、この二年? 三年? ちょっと、つまんなかったね」

 有村が見上げて、安田先生が優しく笑う。そうして草間たちにも改めて、好きな席に座ってと言った。

「立ったままもなんでしょ。授業終わって疲れてるだろうし。あ、鍵も閉めちゃっていいや。どうせ誰も来ないしね。お菓子食べてもいいし、ジュース飲んでもいいし、寛いで? その方が、俺も気がラクだからさ」

 鍵は落合が閉めに行き、すぐに戻って来た落合と山本に次いで、意外にも藤堂が適当な椅子に腰かけた。有村と同じように鞄を足元に置き、目の前の木組みを指して「コレなんスか」と尋ねたりする。

「イーゼルだよ。絵を描く時の台、机かな。そこにキャンバスを置いたりするんだ。木枠に布を張った物ね。イーゼルの小さいのはよく、オシャレなカフェとかで小さい黒板のメニューが乗ってたりするね。物は同じ。写真立てにもおススメだよ。ポストカード立てとか」

「そっスか」

 質問しておきながら、イーゼル自体には然して興味がなさそうだ。顔を見ればそんな風に感じるけれど、本当に興味がなかったら藤堂は質問などしない。

 草間と久保も、鈴木のあとからそれぞれ椅子へ腰かけた。

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