次へ、行く?
考えないように心掛けていても、ふと胸を過ってしまう事案が、草間にふたつ。
ひとつは昨晩、和斗と交わした会話の内容。その一部。つい先ほどの授業中、俺とお前の何がそんなに違うんだ、と悔しがるクラスの男子に「足の長さ」と短く答えた有村の、そのあとで小突かれながら弾けさせた笑顔が出せなくなっていた幼い頃の話。
振り撒く微笑みを数えなくとも、彼はよく笑う人だ。爽やかな声を上げて子供みたいに、本当に、楽しそうに笑う。そんな人が心を殺すように過ごすのは多分、想像を絶する苦しみだっただろう。想像する草間の胸を重く締め付ける以上に。
軽やかな有村には、自由が似合う。さっきまでは向こうにいて、今はこっちで別のことをしていて、気が付いたら姿が見えなくなっていて、いつの間にか戻って来ている。そんな自由気ままが、とても似合う。
最も、閉じ込めてはいけない人。縛り付けてはいけない人。草間がそう感じているのは、自由な有村を好いているから。贔屓目の自覚はある。それでも、草間が恋をした有村には、天井さえも似合わない。
今日は一段と、どこかで、誰かと笑い合う有村が輝いて見えた。
「で、速攻バレて、秒で白状したわけだ。和斗さん、かわいそー」
「だって、嘘は吐けないよ。でもちゃんと、無視はしないでって言ったもん」
「聞くっぽい?」
「聞いてくれたらと思う」
「嫌いなんかな。和斗さんのこと」
「本当に兄弟みたいな感じなんじゃないかな。家族なら、好きとか嫌いじゃなくない?」
「うーん。なくはない」
渋々同意した落合へは、和斗は無視を決め込まれ、近況を聞きに来ただけと伝えている。
有村にも同じ説明をしたが、昨晩の電話口より嘘を吐いた気分にならなかったのは、単に二回目だったからということで正しいのか、草間はあまり自信がない。
「けど、あの男が寒い季節にセンチメンタルねぇ。笑える。ただのヤンデレじゃない」
「絵里ちゃん」
「そーだぞー、絵里奈。ヤンデレは良い」
「キミちゃん」
「つか、ぶっちゃけ予備軍て範囲だよね。今んトコまだ溺愛で収まる気はする」
「する?」
「絵里奈はマジ、どの口だからね? 過激派一号」
「アイツよりは健全よ」
「どっちもどっちだよー」
「キミちゃん! 絵里ちゃん! いる! 私、いる!」
騒いだついでに浮かせた視線で教室を横切ると、只今の有村は自席へ着く草間からほぼ斜め前の対角線上になる会田の席で、会田がいつもつるんでいるメンバーたちと談笑中。内容はこちらまで聞こえていた。バスケ部所属の及川の声は、いつも大きい。
「えー! いや、こっから! ここから面白くなるんだって! あと二冊……三冊、頑張ってみ?」
「うーん。そんな気はするんだけどね。ごめん。今回も、ちょっと」
「絶対ハマるから! お前の小説至上主義を変えるから!」
「いや、別に至上とは思ってないし、マンガが嫌いなわけでもないよ。ただ、なんとなく先も読めたし、もういいかな」
「有村ぁ」
嘆いて仰け反る及川の、有村をマンガ好きにする計画がまた失敗に終わったらしい。草間も別に嫌いじゃないが、マンガよりも小説が好きだ。好みの問題としてマンガ好きの落合の熱量に付いて行けない経験なら覚えがあるので、「ごめんねぇ」を繰り返す有村の気持ちは、わかるような気がする。
慣れもあるだろうな、とも思う。マンガ好き、小説好きの双方に。
嫌いじゃないけど、なんとなく。この曖昧な場所から有村を引き摺り出すのは大変そうだ。
そちらの集団でも八木が及川の肩を持つより、渡した分は読み切った付き合いの良い有村を擁護していた。面白くなる巻まで一気に渡さなかった及川の作戦ミス。今回は、そこが敗因ということになるもよう。
「次な! 次こそ、早く次の巻を寄こせって言わせてみせる!」
「期待してるー」
「しろよ! マジで!」
「するするー」
「ウソくせぇー!」
一体、どんなマンガを勧められたのだろう。更によくよく覗き込むと、有村と及川の間で会田が単行本を開いていた。サイズ的には少年誌系だと落合が教えてくれ、「姫様がバトル系にハマる気がしない」と言った。本当の敗因は、そこかもしれない。
「別に嫌ってわけじゃないけど、ドンとかバンが多くて、ちょっとね」
「効果音が邪魔でマンガ苦手って理由ある?」
「まぁ、有村だから」
有村だからというより、彼が絵を描く人だからじゃないかなと、草間は思った。
今のこの休み時間は三時間目と四時間目の間で、体育終わり、ということになる。今日の片付けは藤堂と鈴木が任されていて、先に戻った有村が及川に借りたマンガを返しに行ったという感じだ。
及川たちが溜まり場にしている会田の席は、廊下側の一番前。後方のドアを猛スピードで、残像みたいに駆け抜けた鈴木が前方のドアを掴んで止まり、「オラ! お前らなにがいいんだよ!」とひと言。後ろのドアからゆっくり入って来た藤堂は「珈琲」と答え、山本は「ココア」。
なるほど、彼ら四人の競争は今回、鈴木が負けてしまったようだ。
「有村は桃のでいいんだよな?」
「僕も珈琲。甘くなくて、冷たいの」
「え。お前、まさかもう?」
「飽きた」
「まぁ、先週からずっと飲んでたもんな。じゃ、行って来る!」
「いってらっしゃーい」
チャイムが鳴るまで、あと五分。再び駆けて行った鈴木を見送る有村に、顔を上げた会田が「もう飽きたのか」とウンザリ告げる。
鈴木曰くの、桃のヤツ。どうにもクセになる味なのだと言って、昨日までは多いと日に三本は飲んでいたのに。
「お前が美味いって言うから、俺、まだハマってんだけど」
「毎日飲む物じゃなかった」
「ハマるとそればっかだもんな。凝り性だから飽きるんじゃね?」
「かもー」
終始見守る草間の近くでも、落合が呆れた笑みで「飽きるの、はや」と呟いている。飲み物にしろ、お菓子にしろ、有村にはその時のお気に入りがある。そういえばもうしばらく、草間にとっては想い出の、個包装の四角いチョコレートを食べているところを見ていない。
しかしながら、だ。草間はまた、聞こえてしまった『飽きた』のひと言で、ふたつ目の事案を思い起こす羽目になった。
和斗と会う前の考え事。世間には、飽きたという一方的かつ理不尽な理由で、破局を迎えるカップルがいる。話していた大野さんと菅井さんのこと。不倫とセットで、浮気をする男性のこと。せっかく他にはいない年上の男性と雑談を交わすチャンスだったのだから、和斗に男性側の意見のひとつも訊いてみればよかった。実際、思い付いたとして口に出すのは無理だっただろうが。
「……今日は、なにで競争したんだろうね?」
どうにも引き攣る笑みを誤魔化し、草間は落合に尋ねてみる。頭の中では別の事柄がグルグル回り、渦を巻いているみたい。
「懸垂だってさ。パワー勝負でセコムと姫様が負けるわけないのに」
一位を狙うのではなく、せめて山本に勝とうという小賢しさが鈴木の敗因。
だとすると。他所事を頭の中から必死に追い出し、草間は真っ直ぐ落合を見上げた。
「山本くんが鈴木くんに勝ったのが凄くない?」
「それな。山もっちは意外と、動けるデブ。言っても、僅差だったみたいよ? 鈴木が三回で、山もっちが四回」
「……意外と、少ない? 懸垂……そのくらいなのかな」
イメージするのは、鉄棒を使って顎先まで上げる形。想像の中でさえ一回も出来ない草間が言うことではないが、男の子なら何十回という次元なのかと思っていた。
時間がなかったから懸垂になったようだと落合が言うので、草間は握って並べた手を押し下げてエア懸垂をしつつ、小首を傾げる。男の子が、三回か四回。そんなものなのだろうか。
「出来ないヤツは一回も出来ないんじゃん? セコムと姫様は延々やってたけどね。最後は鈴木と山っちが足掴んで、それでも上がれるかってゲームになってた」
「上がれた?」
「無理っしょ。山もっちに実られて、姫様めっちゃツラがってたよ」
「……だよね」
得意の想像で懸垂で遊ぶ四人を思い浮かべ、きっと大きな笑い声が響いただろうなと思えば、草間の頬も緩くなる。
チャイムと同時に次の英語を担当する先生がやって来て、鈴木はその脇を駆け抜けて座席へ着いた。買って来た飲料はひとまず、カバンの中へ。大きく揺れている背中が、大層急いだ証拠だ。
教科書を開く有村を僅かに見遣れば、今回もすぐに目が合い、笑いかけてくれる。
いつもと同じ。いつも通り。
だけど、飛び交った『飽きた』の一句は、今の草間にはタイミングが悪過ぎた。
有村の性格を言い表すのなら、好奇心が旺盛、これは外せない。
落ち着きなく注意力も散漫にキョロキョロと周囲を見回すわけではないが、有村はふと視界を過った気になる物を見逃さない。面白そうなもの、キレイなもの、楽しそうなことを探すセンサーの感度を最高値に設定しているかのような探知力で、有村は常々、未開のジャングルを冒険しているみたいだ。
なにかと気付き損なう草間には、有村が持つその感度の良いセンサーは有難く、落合が呆れようと、久保が冷めた目をしようとも、恋人の美点に違いない。とはいえ、やはりタイミングは大事だ。
あまり聞きたくない今日に限って、有村の周りではやけに『飽きた』の言葉が飛び交った。
「えー。俺、結局、チーズ入りもレモン味も食ってねーんだけど!」
放課後の下校途中で出た『飽きた』は、夏頃には熱中していたソーセージ作りについて。燻製を覚え、素材を変えれば無限に種類が増えると話していたのはそう前のことではない気がするが、ひと通り試して満足したらしい。
悔しがる鈴木へは、「有村にしたら長く遊んだ方だ」と全種類を唯一食べた藤堂が諭している。
「作るのは構わないよ? ハーブの消費には丁度良いし。楽しくなくなっただけ」
「燻製はやってるよな。この間の半熟卵は美味かった」
「ありがとー。燻製はね、チップの種類と時間の調節で色々出来るのがいいね」
「で、次はよ?」
「何がいいかなぁ。珈琲の焙煎とブレンドには、ちょっと興味がある」
「期待する」
「あはは」
手を出すかはわからないよと有村が笑っていたが、草間は何となく二日もしたら『やってみた』の話を聞くような気がした。気になったら、やってみる。それでこそ有村だ。
興味があるのも挑戦するのも、悪いこととは思わない。寧ろ、良いこと。熱を上げる一瞬。習得すれば次へ行く。その流れも悪くないとは思うのだけれど、傍から見て有村は飽き性だ。入れあげて試し尽くし、知り尽くし、満足してやめる。嫌になったわけでも、面倒になったわけでもなく、わかったからもういい、という具合に興味の対象も気に入った物もすぐに飽きて、次へ行く。
「ずっとハマれるモンとかねーの?」
「あるよー」
「なに」
「草間さん」
「へー、へー。言ってろ」
今は、ハマっているものに加えないでほしかった。不安というほど深刻でなく、それでもどこか気になるという程度で言葉数の減っている草間の隣りに落合がいて、「そういえば」と別の話題を持ち出した。草間は、心から思う。ありがとう、キミちゃん。
因みに、今日の放課後は久保の姿がない。最近急にシフトを増やした、アルバイトの日だ。
「みんなはもう決めた? 出場競技」
憂鬱だとぼやく落合が切り出したのは、帰りのホームルームで出た話の続きだった。次の話題も、草間の口数は減りそうだ。
譲葉高校では毎年、十一月に運動会が行われる。勢いや団結ムードを保ったままという風に文化祭が終ってすぐ、という感じだ。他の高校を草間は知らないが、小学校や中学校の頃のように丸一日をかけての全校生徒によるお祭りのような感覚。それが終わると年内の大きな行事はなくなり、残すはイベント続きで不安が募る期末テストだけになる。
文化祭のごたごたの最中に行われた中間考査は、あまりよくなかった。
運動会のあとはきちんと勉強しようと考える草間は半分、苦手な運動会から現実逃避しかけている。高校生になればなくなるかもと多少は期待していた中学生の頃が少し、懐かしい。
浅めの感傷に浸る草間と同じく有村たちも選択競技を絞っていないようで、会話自体は「まだ」や「ううん」で終わってしまう。先を続けたのは有村だった。不思議そうに視線を仰ぎ、「九月にもやったのに」と、隣りを歩く藤堂を窺ったのだ。
「あれはスポーツ大会だ。二枠使って学年ごとのクラス対抗。運動会は丸一日、学年対抗で全校でやる。ウチには学年カラーがあるだろ。校章についてる。俺たちは赤。総合得点で競う」
「ふーん」
返す有村はつまらなそうだ。勝負に気合を入れる方ではない有村なので、今のは藤堂の言い方が良くない。
綱引きに、大玉転がし。その他、諸々。多分、そうして競技を羅列した方が、有村は瞳を輝かせるだろうに。
「あれ。姫様、興味ない?」
「まだわかんない」
「なんじゃそりゃ」
男子も女子も、選択参加の競技が三つも四つもある。去年のみならず、草間には落合よりも憂鬱な話だ。運動神経に自信がない。足を引っ張ってしまわないように出来るだけ大勢が参加する競技に出ようとは思うが、失敗の大小に関わらず、運動会が楽しかった例がないのだ。
帰宅してからも、草間は部屋で配られたプリントと睨めっこをした。一覧を眺め、最低でもどれかひとつには出場しなくてはならない憂鬱が、溜め息ばかり生んでいる。
本音では、どれにも出たくない。ひとつも選ばなくても徒競走ではトラックを半周しなくてはならないし、女子は玉入れと棒倒しがある。走るのは苦手だ。毎年、最下位になる。順位はさすがにもう気にならないとして、草間はあの、みんなが頑張っている中で何も出来ていない自分という情けなさが堪える。何も出来ていないから、勝った負けたで落合や久保と同じ温度で一喜一憂出来ない。その辺りが、なによりつらい。
今年こそ、前日の夜に風邪でもひかないかな。てるてる坊主を逆さに吊るように、熱が出るおまじないでもあったらいいのに。
本気で考え、運動会前は窓を開けっぱなしで寝たりもしていた草間だが、高校生にもなると出ること自体は諦めがついている。やらなきゃいけない。出なくちゃいけない。ならばせめて、得意でないにしろ自分に向いている競技がひとつくらいありはしないものだろうか。多少は、前向きになった。
相談相手として、すぐに有村が思い浮かぶ。正直に話したら、彼なら適切なアドバイスをくれそうだ。クラスでの話し合いは今週中のどこかのホームルーム。それまでに、参加希望者が重複した場合を考えて、三つは候補が欲しいところ。どれがいいか。どれならマシか。机の下で、もこもこの靴下を履いた草間の足が、ゆらゆら揺れた。
ふと見た時計で、時間は十時半過ぎ。いつもの時間より早いが、草間は有村に電話をかけた。
プルルル。プルルル。呼び出し音が繰り返す。いつもの時間じゃないから、いつもみたいにすぐに出ないのかもしれない。
プルルル。プルルル。ガチャ。話し始めようとしたら、電話口から留守番電話サービスの音声が流れた。
「…………」
入浴中かもしれないし、少し遅い夕食時なのかもしれないし、どこかを走っていて気が付かなかった可能性もある。夜に走るのは有村の日課。その線が濃厚だ。
競技の相談をするなら、落合の方が良かっただろうか。通話を切った携帯電話を持ったまま、草間は悩む。これまでは落合と久保に相談していた。やはり今回もと思い至るも、一度かけてしまったから、有村がすぐ折り返してくれるかもしれない。いつものように。
「…………」
五分ほど待ち、草間は読みかけの本を開いた。
次の章へ差し掛かる時、時計の針は十一時を示していた。折り返しは、まだない。
次の章を読み切り、一階の時計がボーンと鳴る音が聞こえた。回数は十二回。日付が変わる、十二時。
「…………」
本を閉じて携帯電話を持ち上げる。開く液晶画面は壁紙のまま、着信も、メールもない。
「…………」
草間は、もう一度だけかけてみた。留守番電話サービスに繋がり、何も言わずに切った。
十二時は、有村が電話をかけて来る時のタイムリミットだ。過ぎたらもう、今日はかけて来ない。
急用が出来たのかもしれない。それなら、草間が寝てしまったあとにメールが届くはず。気付いてすぐ、くれるはず。
別に、初めてでもない。タイミングが合わなくて、有村の用事が済んだ時間が遅くて、『おやすみ』が『ごめん』と一緒に文章で届くことは、これまでにも二度ほどあった。もしかすると、今日は通院の日だったのかもしれない。それなら、知らない落合の前では言わないし――だけど。
「……飽き性……」
言葉にしたら、声に出したら、草間は天井を見つめ、キュッと口を閉ざした。
また、ネガティブな想像が暴走しているだけだ。今日だって別れ際に見つめ合った時は、優しく微笑んでくれていたし。変わりない。有村はちっとも、自分に対して変わりない。
邪念を振り払うように頭を振り、草間は再び、本を開いた。
何気なく目を遣った時、暗いディスプレイを立ち上げて見た時間は、十二時半。
章の区切りで壁掛けの時計を見た時、一時。携帯電話は無言のまま。
「…………っ」
電話をしても繋がらず、折り返しても来なくなった、久保の彼氏。好奇心が旺盛だから、次々と新しい物事に挑戦する有村。次々と興味や関心が次へ移っていく彼は、昨日好きだったものが今日そうでなくなることが、多い。
世の中には、飽きたと言って別れを切り出す彼氏がいる。
例えば、私も。
「……ないよ。ない。有村くんは、そういう人じゃない! きっと、忙しいんだよ。そういう日も、ある!」
突っ伏した机をパタパタ叩き、草間は唸って本の世界へ逃げ込む。
その夜、草間は初めて、机の上で寝てしまった。




