別格
二年C組は二位だった。三位とは僅差。一位とは十点の差があったので、校庭から教室へ賑やかに戻る間も、簡単なホームルームの最中も、そのまま銘々帰宅する頃になっても、C組のメンバーたちには『やるだけやった』という、晴れやかな面持ちだけが貼り付いていた。
一位でないのが残念ではある。しかし、全員が笑顔で「おつかれ」を言い合い、元気に帰って行くのだ。手を振って見送る草間の笑顔も花のようで、彼女のリベンジは成功でいいのだろうと、有村はそっと頬を緩める。
校庭での出来事は、誰も口にしなかった。ここより先は任せてくれと、ホームルームで担任が言ったからだ。そこに、橋本とお付きの姿はなかった。
「えっ、来てたの? 全然、気付かなかった」
やっと言えたという顔で、草間が取り出した靴を履く。
散り散りに解散したあとの、昇降口でのことだった。来ていたと知らされれば、有村は会えなかったキャリーたちに会いたくなってしまう。
「つかさぁ、姫様って何のバイトしてんの? そういえば、知らないんだけど」
昇降口には七人が揃っていて、鈴木と山本は藤堂をせっついている。知ってるんだろ。あの美人は誰だと山本が言ってからは、美人に反応した鈴木がヒートアップ。さすがの藤堂も言葉を選ぶあまり、傍目には参っているように見える。
演者だと言えばいいのに。有村は返答のお手本のように、興味津々の落合に答えた。
「バーだよ。ショーを観ながらお酒が飲めるお店。裏で料理を作っています」
「そーなんだ! で、なんで仁恵は顔見知り風だったわけ? 店長さんだっけ。背の高いイケメンに、遊びにおいでとか言われちゃってさぁ」
「イケメン?」
「あー、キミちゃん! その話は、またあとで!」
店長は確かに高身長だが、はて、イケメンとはどういうことだろう。
店へ出るフルメイクでなくても、キャリーは普段からつけ睫毛とルージュ、ハイヒールだけは欠かさない。イケメン。キイチのことだろうかと考えていたら、しどろもどろな草間が落合を振り切り、有村の手を掴んで他学年の靴箱の蔭へと逃げ込んだ。
そうして、そのまま腕を下へ引いたのだ。腰を折る格好になった有村は靴箱に頭をぶつけかけて、慌てふためく草間を見つめる。
「あのね。今日はキャリーさん、モモさんも、男の人のカッコしてて。モモさんのことはモモさんって呼んじゃったんだけど、キャリーさんのことは、本名なのかな、ミツルさんって、本人が。だからね、キミちゃんたちはキャリーさんのことをミツルさんだと思ってて。ああもう、先にそれだけ言っておけばよかった」
「なんで? キャリーがメイクしてなかったってこと? 見たことないよ、僕」
「そう! キャリーさんに言われたまま言うけど、TPOだって。使い分けだって、有村くんには言うように言われた」
「学校に普段の服装で来るのがそぐわないってこと? 僕はそんなの気にしない」
「わかってる、って。キャリーさんも、モモさんも。有村くんがどうじゃなくて、自分たちの為だって。すごいね、キャリーさん。言ってたまま言う、有村くん」
「だから、ノクターンの話をする時は、キャリーとモモさんを男性と思って話せってこと?」
「そう!」
「なら、もうこの話はしない。キャリーもモモさんも、僕にとっては女性だ。譲れない」
「ああもう本当にすごいね、キャリーさん! 有村くんのこと、よく知ってる!」
背後を気にしつつ、草間は一層の小声で「藤堂くんのこととかあるでしょ」と言うのだ。つまり、生まれ持った性別と異なる生き方をする人に対する偏見や、その他諸々。キャリーは総じてそれらを面倒だと告げたようで、草間は有村がうっかり『キャリー』と呼ばないよう、釘を刺す役目を仰せ付かったらしい。
可愛い草間が小さな口を一生懸命に動かして、自分もふたりにはキレイでカワイイ恰好をしてもらいたい、せっかく会えるのならそういうふたりに会いたいと訴えている。悔しいとも言った。何故かはわからないが、そう思うのだ、と。
「……って、聞いてる?」
「うん。聞いてる。わかった、ミツルさんね。呼ぶことないと思うけど」
「でも、これっきり全く話さないっていうのも」
「わかってる。その辺はまぁ、上手くやるよ」
「本当? 有村くん、そういう話はちょっと頑固になるでしょ? しまった、みたいな顔してもダメだからね? キャリーさんたちがそうしてって言ってるんだから、守ってね? ちゃんとだよ?」
「うんうん」
「ほらぁ! 生返事風!」
デリケートな話なんだよ。有村くんの気持ちだけじゃなくて、キャリーさんたちの想いも大切にしなきゃなんだよ。続ける草間の、よ、で終わる口の隙間が気になる。ちょっとだけ開いてる。突き出したあとに、ちょっとだけ。
気になる。前々から小さな口だとは思っていたが、閉じてしまうと小粒イチゴほどの面積もない。色は国産のサクランボみたい。いや、もう少し淡いから、桃の方が近いかも。赤過ぎず、自然に色付いている感じ。何はともあれ、途方もなく可愛い口だ。
「――でね、サワさんが今日も帰らないなら」
「ん? 佐和さん?」
「うん。サワさんっていうんでしょう? 有村くんが一緒に暮らしてる人。キャリーさんがそう言ってた」
「うん。そう。で、なに? ごめん。聞いてなかった」
「だから、サワさんが今日も帰らなくて暇なら、お店休みでみんなでお酒飲んでるから来ないかって。キャリーさんからの伝言」
「ああ、はい。了解です」
「うーん。なんか有村くん、ちゃんと聞いてない気がする」
「きいてる。きいてる」
「そういうところ!」
まじまじ見ていて気付いたが、草間は語尾で口に隙間が空きやすく、それが閉じ切るのにタイムラグがある。最初の頃はしょっちゅう固く閉じていたから、気を許してくれているようで嬉しい。
表情自体もかなりバリエーションが豊富になった。素直な変化は元からでも、今して見せるようなぷっくりと頬を膨らませる仕草などは途中からのもの。膨らませても柔らかそうで、尚一層、リスみたい。リスといえば頬袋。草間は食事姿も愛らしい。お菓子も料理も小さな口で一生懸命、美味しそうに頬張る。そして、何でもよく噛む。モグモグ噛んで、パクパク食べて。モグモグ。パクパク。モグ。パク。パクパク――パクッ。
吸い寄せられるように、有村はまだ喋っている草間の口を食べた。勿論、唇で軽く。
「……なっ! なに! 急に!」
「可愛くて」
「…………ッ!」
わなわなと大きく開く口を見た。開いた状態でも、小さい方だと思う。身体が小さいのだから口だけ大きいのもバランスが悪いだろうが、草間は頑張ってもゆで卵に五口以上は費やしそうだ。
「しないでって、わかったって言った!」
「みんなの前でしてない」
「いるよ! 向こうに!」
「でも、見えないようにこんな物陰に連れ込んだんでしょ? するよね、そりゃ。チャンスがあれば」
「しないで!」
「見えなくても?」
「そう! 急にはやめて!」
「言えばいいの? じゃぁ、していい?」
「ダメ! そういうことじゃなくて、学校……こういう所とか、外はダメ!」
「ダメ」
「そう!」
「わかった」
真っ赤になった草間は必死なようだし、恥ずかしがり屋だから仕方ない。拘りを無視するつもりはないので、有村はまた草間にキス出来る条件を頭の中で書き直す。
そうして草間が騒いだからか、壁にして挟んでいた別の靴箱の向こうから落合がひょこりと顔を出した。あちらはあちらでこれからどこかへ寄り道しようと相談していたのだけれど、こちらが気になっていないはずはないという勢いだ。
「なぁにぃ、仁恵ぇ。姫様連れ込んで、またキスぅ?」
「してないよ!」
「いいんじゃなぁい? 姫様も我慢したぶん、しますよねぇ、そりゃぁ」
「しますね。色々吹っ切れて、とても清々しい気分だし」
「なにが!」
あれだけ悩んで、やっとのキスだ。気分が良いのは本当で、怒ってこちらを向く草間にも、そっと触れる軽いキスを額にひとつ。
草間はすぐさま額を抑え、嘘吐きを見る顔を有村へ向けた。
「だから! わかったって言ったそばから!」
「口じゃなければいいのかと」
「どこでも一緒! どうしたの、有村くん! 今までは、そんな……っ」
「うん。我慢してた反動かな。可能な限りしたい」
「まぁー」
「まぁ、じゃないよ、キミちゃんまで! やめて、有村くん! どこにもしないで!」
「全部? 指や髪にも?」
「そう! 全部! しないで、もう!」
「……うん。わかった」
残念だけれど、草間が嫌なら仕方ない。出来るには出来たのだし、これをいい想い出と思って過ごす他ないか。
キスをしたあとの今も有村は草間と楽しく過ごせれば満足で、デートをし、手を繋ぎ、そうして恋人としてそばにいられるなら幸せだ。幸せ。自分の中に初めて出て来た単語だけれど、思い浮かべる度に温かい気持ちになる。これが、幸せ。なんて素晴らしい響きだろう。
うっとりと微笑む有村に、草間が言う。
「本当にわかった?」
「うん。わかったよ、ちゃんと」
草間はなんて可愛いのだろう。微笑み続けていたらまた「しまって!」と言われたが、これだけはよくわからないでいる。何をしまえと言っているのか。何かが出ているらしいが、出した覚えがないので対処が難しい。
「わかっとらんやろ、姫様。仁恵は、そのセクシーキラキラオーラをしまえと言っている」
「そっかぁ。ごめんね?」
「だからぁ!」
「……しまう気ねぇな、こりゃ」
うんざりと呟いた落合の後ろ姿を眺めていたら、藤堂は腕を久保に突かれた。
「話があるの。ちょっといい?」
「ああ」
行き先もまだ決まっていないし、落合はもうしばらく草間を構いたそうだ。すぐに戻ればいいだろうと、藤堂は久保について、先に校舎の外へ出た。
正面には門がある。有志のひとりとしてアーチを立てた場所だ。辺り一帯も粗方片付けが済んでいた。アーチ自体はまだ解体をされておらず、隅の方で転がっている。
久保は門より先へ出るつもりではなさそうで、進む先にはゴミ捨て場と運動部の部室が軒を連ねる別棟へ続く脇道を少しだけ進んだ。
単に距離を取っただけ。そんな風に思える場所で、何気なく久保が振り向く。
「さっきの、なに? 見たの、私。殴られそうになった時の、有村の顔。アイツ、やれるものならやってみろって顔したわ。横顔だったけど、背筋が凍った。初めてよ、顔を見ただけで足が竦むなんて」
「…………」
「なにが、話のわかる相手よ。わからせたのよね、アイツが。相手も、アンタもそう。アイツ一体、何をしたの。なんなの、アイツ。知りたいの。教えて、圭一郎」
「…………」
十月の末。秋の冷たい風が吹く。裾を出した藤堂のシャツを揺らし、向かい合う久保の長い黒髪を揺らし、地面に落ちた葉をどこかへと連れ去っていく。
「お前が見たままだ。有村はただ見て、話をした」
「誤魔化さないで!」
「誤魔化してねぇ。それで充分。そういうもんだ。格の違う相手とする、ケンカなんてのは」
「……………」
落ち葉は僅かな音を立て、風の気の向くまま、少しずつ遠くの方へと消えて行く。
藤堂は視線を数ヵ所へ動かし、諦めたように溜め息を吐いた。
「アイツには、飲まれる、敵わねぇと思わせる圧がある。場数は踏んでない。生まれ持ってのモンだろう。有村は根っからの、従える側の人間だ」
「…………」
「ただ、アイツはそもそも勝ち負けに興味がない。出来るだけで、やりたくないってのは本心だ。他人とはあくまで、対等であろうとする。暴力が嫌い。少々、手段を選ばないところと、テメェを過小評価してるきらいはあるが、アレの平和主義は筋金入りだ」
流されるまま吹き飛ばされていた落ち葉が、離れた場所で停止した。そこに風が吹いていないのだと、有村に出会う前の藤堂なら疑う以前に考えもしなかった。
例えば、有村は落ち葉がそこを選んだのだと言うかもしれない。吹かれたふりで、風に運んでもらっただけだ、と。どうでもいい。久保が「敵わない相手だからそばにいるの」と、尋ねたからでなく、藤堂は鼻で笑った。
「俺は、勝つか負けるかだと思ってる。何にしろ、勝たなきゃ意味がない。大事なのは結果じゃないなんて言うヤツは腰抜けだ。負け犬がほざいてるだけ。だが、有村はそうじゃない。誰かより、なんてのは、アイツには価値がない。誰が何を言おうと関係ない。自分がどうしたいか、どうありたいか。そんなアイツを見てると、他人を使った尺度でしかテメェを測れねぇ自分が、小さく思える」
「…………」
「最初は思ってた。一度、ブチギレたアイツとやり合ってみてぇ。だが、今はそうでもない。下に就く気もないが、捩じ伏せたいとも、勝ちを誇りたいとも思わない。アイツだけだ。有村だけは、勝ち負けじゃなくていい」
多少の沈黙を置き「意味がわからない」と久保が言うので、藤堂はまた笑った。
藤堂自身もそうだった。理解じゃない。理屈でもない。ただ、直感がそう訴えている。拳で、力で他を圧倒し、最後まで立っていた者が強者。そう思っていた藤堂の価値観を変えた有村は、どこまでもイレギュラーなのだ。
殴り倒して地面に転がした有村を見下ろしてもきっと、少しも勝った気がしないだろうと藤堂は思う。疑いもしなかった価値観が、そこで息をしていない有村の前で意味を失くす。それが妙に心地良い。気が付いたら、いつの間にか。
上も、下もない。そんな相手を、藤堂はようやく見つけた。
「やっと、肩並べて立てるヤツに会った。面倒臭ぇし世話が焼けるが、退屈しねぇし悪くない」
ほくそ笑むように片方の口角を上げ、藤堂は久保へ「面白ぇぞ」と告げた。有村といるのは面白い。被る面倒など、どうでもよくなるくらいに。
「……なんか、煙に巻かれた気がするんだけど」
「そんな気はない。本心だ。あとはお前くらいじゃないか。気付いてねぇのは」
「なにが?」
「一遍、有村と肩並べて立ってみろ。落合の裁縫、鈴木の菓子作りみたいに、本当に大事な真ん中以外はどうでもいいと、たぶん、お前自身が見えて来る」
「……は?」
「意外と難しいだろ。好きなものが好きだ。貫きたいから貫く。有村の強さってのは、そういうモンだ。ガキっぽいだけに真っ直ぐで、浴びれば誰でもあてられる。頭の中ほど小難しくない。ある意味、アイツは俺よりシンプルだ」
「なに言ってるの」
「ふっ」
春に出会い、夏を超えて、また季節が変わる。
ひとり増えたからでなく、有村が加わったことで変化したそれぞれに訪れる、新しい季節。開かれた目に映る真新しい景色を予感する藤堂は笑い、全身に怪訝を纏う久保と、まるで子供の視線を重ねた。




