ライヴと熱とバカ野郎
先程から引っ切り無しに、体育館への来客を促す放送が流れている。
集団で、少人数で、時にはひとりで、次から次へと観客が流れ込む体育館の出入口で、藤堂は草間を待っていた。近くには着替えを済ませた山本や落合、久保がおり、予定通りに一度こちらへ出て来るはずの草間を待ちながら、体育館の中を覗いていたのだ。
遠巻きに眺めるだけでも、中の熱気はかなりのもの。去年も見に来た落合が言うに相当だった去年よりも人が多く、密集が生み出す温度も体感で納得出来るくらいに熱い。
これからここへ入るのか。眺めてしまうと溜め息が零れるが、藤堂に入らないという選択肢はない。
先の演奏も見たが、どれほど見事な女装もさすがに演奏中は邪魔だった。次は着替えて、制服で出て来る。楽しみだ。
そうして、ふと浮かべた藤堂の薄い笑みは、いつの間にか後ろにいた草間がかけた声に驚き、あっさり消える。草間は別の出入口から出て、裏手から回り込んだようだ。手を洗って来たらしい。まだアライグマのように、ハンカチでせっせと手を拭いていた。
「お待たせ、しました」
藤堂には、登場した方角より気になるものがある。
喋り方が腹話術師のようになっている草間の、妙に赤い顔。やけに口元を気にして、アライグマの右手を拳にし、口へピタリとつけている。こうもわかり易いと苦労しそうだ。何かあったのが明らか過ぎて、藤堂は見なかったことにした。
山本も勿論。落合はテンションが上がっていて見ていないのかもしれないが、久保はたぶん同じだろう。
「着替えは済んだみたいか?」
「うん。たぶん」
「そうか。じゃぁ、行くか」
「うん」
楽しみだねと落合が言う。前まで行くのは無理かしらと言ったのは久保だ。藤堂の体格をもってしても、ステージ近くまで縫っていく人の隙間はなさそうだった。
「仁恵ちゃん! こっち! こっち!」
すし詰め状態の前方からそんな声と、真っ直ぐに伸びる手が上がった。
ヒラヒラと振っている男とその隣りのやけに背が高い男の顔に見覚えはないが、更に隣りのロングヘアーの人物と精悍な顔立ちをした男、軽薄さが全身に表れている男には見覚えがある。
名前は確か、レイナとキイチ、あとカケルだ。草間がレイナを呼び、五人は藤堂を先頭に人混みを分け進んだ。
「すっごい人だね。最前じゃないけど、一緒に見よ?」
「はい。ありがとうございます。モモさん」
モモ。名前を聞けば、藤堂も知っていた。今日は女の格好をしていないのか。ふと気付いて目を遣れば、自分よりも身長の高い男にも察しが付く。この集団は有村のバイト先であるノクターンご一行。あのドラァグクイーンとかいう装いをしていた店長、キャリーだ。
男の格好をするとそれなりに見栄えの良いキャリーは藤堂へ顔を寄せ、口の前に人差し指を立てた。
「久しぶり。今日は、ミツルでお願いね」
「うっス」
山本や落合が誰かと訊くので、藤堂から有村のバイト先の先輩だと紹介した。加えて草間がレイナとモモを紹介する。恐らくフルメンバーと対面済みの藤堂と違い、草間はキイチやカケルとは初対面のようだった。
「やっと会えたわー、洸太のカノジョ。なぁ、もうヤッた?」
「カケル。そういう言い方はよせ。無視して、仁恵ちゃん。ごめんね」
「いえ……」
見掛け通りに軟派なカケルと赤面症の草間が合わないのは、予想通りだ。
とはいえ、ノクターンの面々が場所を確保してくれていて助かった。藤堂たちが陣取ったのはステージの右側。真ん中よりもだいぶ前だ。
藤堂が首を伸ばして眺めてみたところ、これより前は異常なまでに女が多い。発表はまだとはいえ、これから出て来るバンドをとうに知っているのだ。ジャングルに響く鳥の声みたいに、突発的に放たれる「有村くん!」が飛び交っている。
「ねぇねぇ。セコムは、なんの曲やるか知ってる?」
「曲名は知らないが、なんて言ったか、鈴木が好きなバンドのだ。歌詞がエロいやつ」
「ヤスりん来る? マジか! どれだろ」
「お前も好きだったか?」
「うん! 鈴木、ハイトーンまじで抜けるし、めっちゃ楽しみなんだけど!」
「……だな」
珍しく素直な落合と同じくボーカルの鈴木を待っている女ははて、どのくらいいるのだろう。
ステージ上に久世を筆頭にした三人が出て来て、それぞれの持ち場につく。その時点で体育館は悲鳴の嵐だ。姫だの、王子だの、有村くんだの。耳が痛いほどの歓声に、ノクターンの面々もどことなくの苦笑い。
別に気を遣ったわけではないけれど、藤堂は背の低い草間を自分の前に作った隙間へ押し込んだ。
「出て来た!」
後ろの女が、叫ぶ落合と同じく手を上げたのだろう。藤堂は背中に殴られた衝撃を食らう。
苦しそうな横顔が見え、久保も草間の隣りへ引き込んだ。どうせ聞こえないだろうから何も言わず、見上げた久保も無言で収まったので、藤堂の視線は舞台上へ向いたまま。
「……うるせぇな」
引っ切り無しに飛ぶ声の大きさたるや、年に一度の祭りを締め括るに相応しいとして、体育館の窓が割れてしまいそうなくらいに容赦がない。鈴木がスタンドマイクの前に立っても、ステージの右側でギターを構える有村への悲鳴は止む気配すらなかった。
これでどうやって始めるのか。さっきまでいた司会者が『静粛に』とでも言うのを待っていた藤堂は、動かした視界の一部で身じろいだ有村を捉えた。
――ギュイィン。
文字にするなら、そんな音をギターが鳴らした。
一瞬、体育館全体が静かになる。鳴らした有村は涼しい顔で、そのまま弦を弾きだした。しかし、音漏れを垂れ流していた、どの曲とも違う。急遽、追加曲でも出来たのか。藤堂がそう考えていると、突然、知っているメロディーが聞こえた気がした。
たぶん、今のはサビだ。有村はサビのメロディーラインにアレンジを加えて弾いている。
藤堂が気付いた次の瞬間、ステージ上で久世と他の二名が目配せをした。そして、響き続ける荒々しいギターの音色へ一斉に、ドラム、ベース、キーボードが加わった。
「……来たー!」
両腕を突き上げた落合にも、演奏される曲がわかったようだ。似たような反応をした拳が、藤堂の視界だけでも無数に上がる。今度の悲鳴は、列記としたバンドへの歓声だった。
両手でマイクを握った鈴木が歌い出す。カラオケで見るのと違い、爆音の領域である楽器の音に負けない、力強い歌声だ。歌詞に合わせて、小柄の身体に似合わない激しいアクションをする。声で、歌で、手で、全身で客を煽る鈴木はいま、たった百五十センチちょっとの小男ではなかった。
音楽になど然して興味のない藤堂の目が、ステージの全体へと縫い付けられて離せない。
この感覚はなんだ。巻き込まれる。引き込まれる。身体に当たる音が聞こえなくする鼓動を乱すような、胸の内側でも響くような。五名が躍動するステージ上、そこにあるのは、圧倒的な熱量。
喉をゴクリと上下させ、藤堂は近くを見渡した。ふと向けた視線の先で、ノクターンの面々がそれぞれに笑っていた。
人一倍、嬉しそうに微笑むレイナが言う。
「洸太はホント、アレがあるから底知れない」
隣りでモモが、キャリーへ言った。
「あのバンド、スカウトしたいでしょ」
返した笑みは、同意、という意味だろう。
カケルは得意気に顎を上げ、対照的にキイチは笑顔で顎を引く。
「やべーな、アレ。あんなのが高校の文化祭で出てるとか」
「ああ。金を出して観たいステージだ」
音楽に特化しているわけないけれど、ショーを仕事にしている人たちだ。そんな彼らが舞台上のバンドを認めている。何故か、藤堂の胸も熱くなった。
マイクを握り『こんなもんじゃねぇぞ!』と叫ぶ鈴木は、まるで別人。いつものお調子者からは激変の出で立ちだ。そして有村も、見たことがない顔をしている。観客へニコリとも愛想を振り撒かず、一心にギターをかき鳴らす姿は『微笑みの王子様』からほど遠く、随分と勝気で、いっそ狂暴にすら見える。
そんな有村は、はて、草間にとっては如何だろう。視線を手前へ落とすと、チビな草間は頭を上下へヒョコヒョコと、なにやらおかしな動きをしていた。
「草間。どうした。チビ過ぎて見えねぇか」
「え?」
「ヒョコヒョコ跳ねて、どうした」
「あっ、いや、えぇと」
「あ?」
威嚇する気はなかったが、返した藤堂の声は怒声に似ている。
しかし、今は草間にもその理由がわかるのだろう。特に怖がる素振りはなく、頬がじんわり赤いままだ。
「聞こえねぇ。なんだ。どっか痛ぇのか。ハッキリ言え」
「痛くない」
「あ?」
「痛くないです!」
二曲目が始まり、体育館は一層に騒々しくなっていたのだ。
身体を折り曲げ顔を下げ、耳を近付けてやってもまだ、歯切れの悪い草間は口だけを動かしているみたいに見える。
「圭一郎。そんな声で仁恵に話しかけないで」
「仕方ねぇだろ。うるせぇんだから」
「は?」
「テメェもムカつく顔してるからな!」
兎にも角にも、聞こえない。そんな声、などと言って寄越した久保を無視して、藤堂は再び草間へと問いかけた。
これで実は怪我でもしていたら、あとが面倒だ。無論、目で怒る有村が、である。
「い、意外と、大きいなって思って。背。有村くん」
「意外? ああ、隣りの鈴木がチビだからな」
そんなことかよ。足でも踏まれていたのかと考えていた藤堂は身体を起こそうとして、また何か言った気がした草間へと耳を戻した。
「あと、あの、男の子だなぁと、思って」
「そうだが?」
「そうなんだけど、動きとか腕とか、なんだかすごく、そう思って」
「…………」
次は、お前もかよ、が顔に出た。
あの整った女顔の目眩ましは理解するが、有村を女のように見たり扱ったりする輩の目は節穴だ。
せめて、お前はやめてやれ。そう目が訴えようとも、如何せん、表情が薄い藤堂だ。草間は気付かず、頬の赤を耳まで広げた。
「カ、カッコイイな、と、思って」
「今か」
「え?」
三つ目は声に出て、藤堂は草間へと耳ではなく口を近付けた。
「今更だ。そうだ。お前の男はいい男だ。普段はアレだが、見栄えは特にな」
「な……っ!」
「だから、よく見ておけ。アレがお前に心底、惚れてる男だ。これが終わったらお前、どうにかしろ。お前といられないってだけでストレス溜めて、頭おかしくなりそうだったんだぞ」
「そんなに?」
「話したい。抱きしめたい。お前が足りない、ってな。だからまぁ、ここ一ヶ月の奇行は許してやれ」
いい機会かと思ったのだ。既に機嫌は直っているようだが、さすがの草間でも先程の名前絶叫の件は不可解に見えたに違いない。
それ以外にも幾つか思い当たる節がある藤堂は有村の肩を持ってやるつもりで言ったのだが、草間は一気に首までが真っ赤に茹った。
「なんだ。アイツ、さっきまた何かしたのか」
「いや……」
「あ?」
「き、着替え! 背中のファスナー手伝おうとしたら、激しく、断られて」
「ああ」
ふたりは一応、ステージを見ている。二曲目も一曲目に負けずハードなロックサウンドだ。
落合や周囲の曲を知っていそうな輩は全身でノっていて、方々で揺れる頭で浮き上がる髪が少しおかしい。
「アイツ、背中に傷がある。自分じゃ見えないからな。そう目立たんが、気になるんだろ」
「傷?」
草間にだけ教えるべく放つ声は小さくなる分、藤堂の口はもう草間の髪にも触れそうだった。
「だいぶ薄い古傷だ。初めて見た時、気色悪いモンを見せたと詫びられた。大方、そう言われたことでもあるんだろ。まぁ、見たいモンでもないしな。アイツは、見せないようにしてる」
「そうなんだ……大きいの?」
「いや。大したことはない。傷自体は」
「そう……」
「あ?」
「ううん! 教えてくれて、ありがとう!」
教えて良かったのか、悪かったのか。有村は言わないだろうから、藤堂は息を吐いて身体を起こす。
そうして改めて眺めたステージでは二番のサビが終わり、有村のギターソロが始まるところだった。中々の速さで鳴り響く音に、熱狂する歓声に幾つかの男の声が混じる。スゲェ、と誰かが言っていたので有村が何か凄いことをしているようだが、藤堂にはさっぱりだ。
ただ、ギターソロ終わりの転調で歌い出した鈴木が近付いて行き、首に片腕をかけられた有村は大概だった。
言わずもがな、落合をはじめ女たちが大熱狂。男を誘う女目線の歌詞に等しく、鈴木はやけに妖艶だ。それに有村が口を開け、噛み付くような仕草で応える。当然、一段と大きな悲鳴が上がった。
「甘味ゼロ来たぁ!」
「なんなの! 絶対的攻め様感! ご褒美か!」
「妊娠する!」
叫んで崩れ落ちたのは落合でなく、三人挟んだ隣りにいた、見知らぬ女子。
ギョッとした藤堂の前で、草間もまた数ミリ跳ねた。
藤堂からすれば、大丈夫かコイツら、という話だ。何か見ただけでするわけないだろうが。しかしながら、鈴木と離れ、今はベースの桜井と向き合ってギターをかき鳴らしている有村は全く以て可愛くなく、確かに噎せ返るほど男臭い。
「…………」
それでも、藤堂の目に有村はひとつ頭の抜け出した一等星の如く、視線を奪われ、息を飲むほどにキレイな男だった。
一曲多い三曲の演奏を終え、舞台袖へ捌ける有村は、顎先へ伝う汗を手で拭う。
「やっべー! 今までで最高だったわー!」
先頭の鈴木が叫び、その声も紛れるほど舞台下からのもう一度を求める歓声は鳴り止まないが、拡声器を使った誰かの声がこれで閉幕と繰り返している。
もうおしまいです。順次、退場してください。
アンコールも文化祭も、お開きの時間だ。
「おつかれ!」
背中を叩かれて振り向くと、同じく汗にまみれた久世が満面の笑みを浮かべていた。
「どうだよ、バカは。いい景色が見れたろ」
「見せようとして煽った? やっと、わかったよ」
誇らしげに久世が笑う。手を持ち上げられたから、有村はパチンと掌を打ち付けた。
演奏しながら気が付いた。楽譜通りじゃなくていいから、バカになれ。毎日の練習を強いた久世の思惑に乗せられたわけだ。悪くないから、笑みを湛えた。
「またやろうぜ。今度はギターで、お前とやりたい」
「僕も、いい加減で久世くんのギターが聴きたいよ」
「ありがとな、有村」
「こちらこそ。楽しかったよ、久世くん」
握手を交わし、その腕を引いて、久世が顔を近付ける。
「ひとつ、いいか?」
「なに?」
「俺はギターで、音楽だ。お前はなんだ」
やっぱり、久世が持つこの色が好きだ。清々しくて、嘘が吐けない。
「僕は色で、絵を描くこと」
「そっか。今度、見せろよ」
「うん」
そこへ、ふたりでズルいと桜井がやって来る。後ろには石巻もいた。鈴木も飛び込み、有村の首に腕を回してぶら下がる。ステージ上で似た仕草をした時には、有村がやり返して来て驚いたのだそうだ。数分前の出来事が、あまり記憶に残っていない。バカになっていたから仕方がない話だ。
久世が言うバカとは、湧き上がる、込み上げるものに支配された状態のこと。
有村はギターを鳴らし、ステージで音という名の色で絵を描いた。
吐き出したあとの高揚感がまだ、指の先まで滾っている。鮮明になった景色。飛び回る色彩が、世界を新しくしたみたいに踊り狂っている。
「王子! アンコール前になんかあった? 全然違ったんだけど、音が!」
「あったと言えば、あったかな」
「なに?」
「内緒」
「なんでー!」
残念がる桜井の奥、汗を拭いた石巻も、一番いいあっちゃんを見た、と、小さく笑う。
彼の笑顔はささやか過ぎて、企み笑いに見えてしまう。それが石巻の持ち物だと知っているから気分良く、有村は桜井のあとで石巻とも手を打ち鳴らした。
「あっちゃん、弾いてる時、なに考えてた? スコアじゃなかった」
「わかる?」
「うん。ロックは音符なんか追わない」
何を考えていたか、か。確かに、譜面など一度も思い浮かべなかった。手が覚えるまでに練習をさせてくれた久世のおかげで音が飛ばずに済んだだけ。頭も意識も、別の場所にあった。
「鈴木! 姫様! おつ!」
返答を考えていたら、「最高だったよ!」と手を上げる落合を先頭に、藤堂たちがやって来た。
足を止めた落合は真っ先に、鈴木とハイタッチを決める。珍しくも朗らかな藤堂が向けた親指で、脱いだメイド服を回収しに来たのだと教えてくれた。その後ろには久保がいる。彼女も珍しく表情を和らげていたが、有村の視線ははしゃぐ落合も藤堂もその他の何も映しておらず、最後尾で俯き加減のたったひとりに釘づけだ。
「あっ、お、おつかれさま。見てたよ。すごく、かっこよくて……っ」
歩み寄る有村に気付き、草間が頬の赤い顔を上げる。
演奏中、何を考えていたか。
そんなもの、ひとつしかない。
「あの、有村く――ッ!」
柔らかい頬へと両手を這わせ、有村は立ち止まると同時に草間の唇を塞いだ。
触れて、離れる。それが、草間のキス、一回のカウント。
隙間の空いた唇を離し、有村は正面から目を全開にした草間を見下ろす。
「ずっと、君にキスすることだけ考えてた」
「……なっ……なっ!」
草間のことだけ。草間で頭をいっぱいにして、弦を弾いた。
今も草間とたったふたりの世界に浸る有村の周りで、息を飲む山本、鈴木。驚愕の藤堂と久保。色めく落合、その他諸々。
久世だけが小さく吹き出しただろうか。草間はそれを合図にしたみたいに、みるみる首から上を茹らせた。
そして。
「――バカぁ!」
――パチン!
小さな手を振り抜かれ、気が付いたらという具合で、有村は横を向いていた。
叩かれたけれど、これっぽっちも痛くない。幸せ効果は絶大だ。
「なんで! なんで急に、するの!」
「着替えたらするって言った」
「言ったけど!」
「約束した」
「したけど! なんでこんな、みんなの前で!」
「ふたりきりがよかった? なら、場所を変えよう」
「そうじゃないぃ!」
どこへ行くとしようか。
どこかの空き部屋か、遠いけれど屋上か。思案はしつつ、有村は何食わぬ顔で腰を折り、草間の膝裏へ片方の腕を回す。その肩を、草間が強く押した。
「なにしてるの!」
「え。移動」
「しないよ!」
なんなの。なんなの、もう。草間がそう喚き散らしながら、何度も手を振り下ろして来る。
体勢を低くしていた有村は、その打撃の大凡を頭や顔に受けた。パシパシパシ。多少は痛いような気もするけれど、そんな草間も可愛らしい。微笑む有村を、草間は尚も叩き続ける。
「やめてよ、もう。可愛い」
「しまって! なんかもう、色々しまって!」
「照れてるの? 可愛い」
「有村くん!」
存在を忘れられている藤堂たちは困惑。久保は当然、爆発しそうな鬼の顔。落合だけははしゃいで「うひょ」などと漏らす中、十数発分の平手の雨が降っただろうか。
暴れる草間と叩かれて笑う有村を前に一番手で我慢しきれず笑い出したのは、やはりというか、久世だった。
「やっぱそうか! 草間さんか! でもさ、有村、ちょっとは気にしてやれよ。彼女、涙目」
「うん?」
言われて見れば、確かに草間は涙目だった。首から上が真っ赤で、涙目というより、もう泣いているみたい。
「あっ、ごめん」
「バカぁ!」
しまったなと思い、身体を起こして姿勢を正すと、ようやく草間の打撃がそれなりに痛い、本気の抵抗だとわかった。
「ごめんって。なんかちょっと、変なスイッチ入ってた」
「ちょっと! ちょっとぉ?」
「ごめんって。ごめん。みんなの前では嫌なんだね。覚えたから、ごめんって」
「バカ! もう、バカぁ!」
手が止まらない草間は「どうどう」と宥める落合に引き剥がされ、有村のみぞおちには久保の鋭い拳が減り込む。
咳込む有村を傍らに、藤堂はひと息吐いた。
バカ野郎とは思うけれど、なんというか万事解決。産むが易しということだ。




