ファーストキスさえ、僕たちは
唇に軽くて触れて、すぐに離れる。
舌を絡めるでもなく、体温を感じる間もなく、頬にする挨拶のように短い唇へのキスを知らなかったが、有村にはそれが限界だった。
「…………っ」
唇が離れ、視界に草間の顔が映り込んだ途端、堪らない衝動に駆られて引き寄せていた。
もっと。もっと。
小さな身体に腕を巻き付かせ、強く、強く抱きしめた。
「……ははっ、すごい、心臓の音」
「だ、だって!」
「ああ、草間さんもか。自分のがうるさくて、気付かなかった」
ドキドキを越えて、バクバクと。
こんなにも強く激しく脈を打っては、心臓が破裂してしまいそう。
初めての感情だった。嬉しくて、満たされて、溢れそうで、壊れそう。
ただただ好きで、愛しくて。頭の中が、それでいっぱい。
「どうしよう……僕、草間さんと、キスした……っ」
キスなんて、飽きるほどして来た。肌と肌が触れるだけなら握手程度の感覚で誰にでも、何度でも、幾らでもバラ撒いて来た。けれど、この一回ほど、記憶に残るキスはない。
胸に焼き付く、ほんの数秒間。
この満たされる感覚が幸せというものなのだと、否応なしに自覚する。
どうして、なんで、と戸惑うほど幸せがせり上がり、全身の隅々にまで行き渡っていく。
「……君に、キスをするのが怖かった。このままで充分で、君としか出来ないことがたくさんあって、君じゃなくてもよかったことを君としたら、何かが変わってしまう気がして」
耐えても震えてしまう背中に、細い指が触れる。服の上に乗るように軽く落ちて来て、それから少しだけ力を込め、肌に体温を伝えてくれる。
「……どう、だった?」
「ダメ。もう、ダメだ」
「えっ」
「ダメだ、こんなの。嬉しくて、幸せ過ぎて、壊れる」
「…………っ」
離せない。離れられない。泣きたいくらい、息まで苦しい。
頭では理解している。これ以上の力を込めたら草間が苦しいかもしれない。なのに、腕を解けない。どれだけ強く抱きしめたって足りもしない。
「……なんだよ、これ。知らない、こんなの。愛してるじゃ足りない。君の方が本、読むし。言葉、知ってるだろ? 教えて。もっと好きで、愛してるって、なんて言えばいい?」
「…………」
「知らなかった。幸せってこんな、泣きたくなるものなんだ……」
背中で草間の指先が服を掴み、静かに解けて上から下へ、短い距離を撫でて繰り返す。
「幸せなの? 有村くん、私とキス、して」
「うん」
「あんな短いの、でも?」
「うん」
艶やかな髪に頬を摺り寄せ、限界を超えて抱きしめるよう、顔を埋めた。
欲張っちゃいけない。欲しがるなんて贅沢だ。そこにあるものだけで充分だ。充分、だったのに。
好きで、好きで、愛おしくて、堪らなくて。
吐く息が毎回、溜め息のような音を持つ有村の胸に埋まり、草間がポツリと呟いた。
「……なら、もう一回、する?」
身体を浮かせて、草間の目を覗き込んだ。躊躇いがちの黒目の大きな草間の瞳が揺れながら、「いいの?」と尋ねる有村を映している。
「あれくらいで、有村くんが幸せとか、言うなら……私も、そうだし……んッ!」
言い終わるのを待てなくて、有村はまだ閉じていない草間の唇を塞いだ。
愛しい。可愛い。どうしようもない。合間に名前を呼びながら、小さな口を啄んだ。好きだ。好きだ。仰け反るほどに抱きしめて、思う分だけ、何度も。何回も。
「ちょ、ま……有村く……まっ……っ!」
「草間さん。可愛い。好き。可愛い。草間さん」
「まっ! まっ、ふっ! 待って! 有村くん!」
――ペチン。
パシパシと何度も叩かれていた背中を気にせずにいたら、身じろいで顔を逸らした草間の手が顔面に落ちて来た。鼻の先に強い衝撃。口元を覆われたまま幅を増した目で草間を見れば、その頬の赤さは歴代上位の茹り具合。呼吸は荒く、肩で息をしている。
「ごめん。息、苦しかった?」
「ちがっ! わたし、一回って言った! なのにこんなっ、何回も……!」
「一回? ああ、一回って重ねた回数か。知らなかった。ごめんね。でも――」
呼吸の乱れで言うならば、有村も似たようなもの。吐く息が熱い。頭の中が朦朧としていて、過ぎる甘い香りに当てられてしまったみたいだ。
可愛い。何をしていても、草間が可愛くて仕方ない。
手の小ささまで最高に可愛くて、そっと手を添えた草間の右手に、触れていた掌にもキスをした。
「――草間さんが可愛過ぎて、止まんない」
「――――ッ!」
しっかりと触れるキスをして、離れてからも位置を変え、指先が丸まれば爪の上にもキスをする。
このままそこら中にキスの雨を降らせたい気分だ。同じ場所にくちづけても、以前とはまるで違う。
止まらない。やめられない。好きな人にするキスは麻薬みたいだと思った。
「しまって! しまって、有村くん! 出てる! なんか、すごいのが出てる!」
「うん?」
「目が……なんか、ぜんぶ……色気がぁ……!」
「ああ」
いけない。草間が構えてしまうものなら片付けなくてはと思うが、如何せん草間を可愛がり足りなくて離れ難いのだから、多少は漏れても仕方がない。
「ごめんね。これで、やめる」
「…………ッ!」
細い手首の内側にキスをした。離れた場所には、薄い赤。
「…………」
そう、赤い色が付いていたのだ。跡が残るほど吸ったわけでもないのに。
「……あ!」
そこで、有村は気が付いた。慌てて見遣った草間の口元も赤い。触れた場所、唇からはみ出してついた赤は、掠れ滲んだ人工的な色。
姫コン前に落合が塗り直してくれた、深紅の口紅の色だ。
「ごめん、草間さん! 僕、メイクしてるの忘れてた!」
「えっ」
「ついてる。すごく、ついてる!」
「うそ! え、ついて――」
弾かれるように離れた草間が姿見を覗き込み、惨状と言っても過言ではない、生肉を頬張ったあとのゾンビのように真っ赤になった口元に短い悲鳴を上げた。
「どうし……あ! メイク落とし! だ、大丈夫。これで拭けば、ちゃんと……」
どうしよう。どうしよう。呟きながら、草間は取り出したシートで口元や手を必死に拭き取る。
しばらくはその光景を眺めていた。しかし有村は、込み上げるまま笑ってしまった。短く、フッ、と。
「なに?」
「いや。あんなに悩んで、やっと君とはじめてのキスをしたのに、必死に拭かれてるの、おかしくて」
「だって!」
「うん。仕方がないんだけどさ。キスして口を拭かれたのは初めてで、なんとなく、僕たちっていつも決まらないなぁって」
そもそも偽物の胸まで着けたメイド服じゃなぁ、と、有村の笑みは大きくなる。メイクをして、ウイッグも着けたまま。決まらないと言うか、締まらないと言うか。今更に、余裕のなさ過ぎた自分を笑うしかない。
ただ、決して悪い笑みではなかった。初恋同士。これでいいのかもしれない。
必死になるなんて、草間はまた、初めての感情をくれたのだ。
「ねぇ」
一瞬だけ申し訳なさそうにはしたものの、草間とて口元を綺麗に拭き取らなければみんなの元へ帰れない。作業を再開した草間を閉じ込めるように背後に立ち、有村は姿見の両側に手を着いた。
「まさかとは思うけど、女性のような恰好をした僕だから平気だったなんて言わないよね?」
「……え?」
「なぁに? 今の変な間は」
「ち、ちがうよ? 違うます」
「動揺してる。嘘っぽいなぁ」
鏡越しに見つめる草間は目を泳がせ、碌に有村を見ようとしない。
幅の細い姿見の中には、口元をシートで隠す草間と、それを見下ろす格好の美女。先程、校内一とのお墨付きをもらったばかりの有村はいま、間違いなく絶世の美少女だ。
男らしさと言えば、背中の丸い草間をすっかりと影の中に収める身長くらいなもの。
有村は鏡の中の草間を見つめたまま、その耳元へ深紅の滲んだ唇を寄せた。
「ねぇ、違うって言うなら今日中に、着替えた僕ともう一度キスして」
「へっ?」
「メイクを落とし、ウイッグを外し、いつもの制服に着替えた僕と、キスを」
「……わ、わかった」
「約束だよ」
「…………っ!」
鏡の中、草間の頬が再び茹る。ポンっと音がしそうだ。瞬間湯沸かし器みたいに脳天から湯気が出そうな草間さん。そんな彼女も堪らなく可愛い。
振り向いた草間は有村を見ずに胸を押し返し、「しまって!」を繰り返した。今のは少し意図的だった。装いで誤魔化されてしまう分、草間には異性であって彼氏であるのを意識してもらわなくては困る。男の子だと、忘れて貰っては困るのだ。
「じゃ、じゃぁ、わたし先に戻るから! 有村くんも早くしないと、みんな待ってる」
「うん。ふたりで何してたんだろうと思われちゃうしね」
「なっ! もう! 有村くん!」
「ははっ」
「笑い事じゃないぃ!」
少しやり過ぎてしまっただろうか。草間は頬を膨らませ、有村の胸を叩いてドアの方まで一目散だ。照れた草間も可愛らしい。見送る有村の口角はずっと、上がりっぱなし。
しかし、ふと足を止めた草間が振り向いて、有村は少々表情を引き締めた。
「あの、背中のファスナー、本当に自分で出来る? 着替えの時は、キミちゃんが……」
また、ヤキモチかな。気まずく思っている草間も可愛らしいが、有村は笑顔で首を横へ振った。
「本当に届くし、落合さんには手伝ってもらったことが、あ、言い方ヘンだ。誰にも手伝ってもらってないよ。着たあとで微調整があってね、胸の。落合さん、そこに並々ならぬ拘りがあるみたいで」
「あっ、そうなんだ。そっか」
「因みに、この下はアンダーウェアだけ。あ、それはちゃんと自前の、男物だよ? 草間さんなら、僕は見て確かめてもらっても」
「見ません! 意地悪しないで、もう!」
「ははっ、ごめん。またあとでね」
「そうだね! また! あとで! ……あと、あとでちゃんと、話、したい。私、色々早とちりして、勘違いして、酷いこと言った。ごめんね。そ、それじゃぁ、演奏、頑張ってね!」
勢いよく閉まるドアに瞬きは落せど、困っていても慌てていても『ごめん』と『頑張って』を忘れない草間が、やっぱり好きだ。
ひとり残され、静かになった衣裳部屋、と言う名の物置。有村はまずウイッグを外し、蒸れていた髪を風に晒す。ハイヒールとウイッグを外しただけで、この解放感だ。服を脱いだら、さぞかし。思いながら首の後ろのファスナーに手をかけ、あと半分を下ろすのに腕を下から回し込んだ。
「…………」
そうして身を捩る格好になると、視界の隅には姿見が映る。鏡は嫌いだ。自分の顔は、あまり見たくない。
「…………」
見たくはないのに、逸らした目線を再び向けた。顔ではなく、首から下。ファスナーを下ろして露わになる背中は、そういえば久々に鏡に映して見た。
あると知っているから見えるのか、知らなくても気付くくらいに目立つのか。
醜い背中だと思う。何度でも。いつまでも。
「……草間さんが見たら、どう思うだろう」
何を想うだろう。これまで何人かがしたように、気の毒そうな顔をするのだろうか。
「……見せられないよな。こんなの」
下まで下げたファスナーがメイド服を緩め、袖から両腕を抜く。
素肌を晒した腰から上。姿見に映る白く骨張った背中はまるで、幸せになるなど許されない罪人のようだった。
颯爽と短い階段を上がる有村は脱いだ衣装を携え、待ち構えていた鈴木たちは焦れた様子で、その悠然とした歩調を急かした。
「遅ぇよ、有村。もう出ねぇと」
「わかってる」
舞台上の準備は万端。体育館には学校中の在校生や来場者が詰めかけ、優勝バンドの登場を今か今かと待っている。
衣装を置いて身軽になった有村に、久世が近付いた。行けるか。かけた言葉は力強く、久世らしい持ち物だ。
「有村」
呼びかけるなり、久世は拳を繰り出した。右手で受け止めた有村へ、久世はニヤリと口角を上げる。
「ぶちかましてやろうぜ」
「ああ、バカになりに行こう」
ライヴ前特有のスイッチを入れた久世は雰囲気が違う。顔つきが変わるのもいつものことだ。しかし無性に、鈴木の胸が騒いだ。ザワザワと。奥の方から、じわじわと。背筋にひと筋、何かがゾクリと駆け抜ける。
眩しいステージへ先に出て行く、久世、石巻、桜井。ギターを下げた有村の背中に、鈴木の口角もまたつり上がっていく。
胸が躍る。何かが始まる予感がする。鈴木の目が煌々と輝く。
その正体は、高まる期待。身体の外へ飛び出しそうな、高揚感だ。




