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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第六章 起動少年
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彼女が導き出した答えとは

 せめて、深刻な禁断症状に苛まれている腕が悪さをしないよう有村はきつく、制服と上履きを抱しめる。

 そして、何度も言い聞かせる。落ち着け。たぶん、彼女にとって名前を叫ばれるくらいは今更、大したことではない、かもしれない。そうだとしても相当に、心が折れそうになるけれども。

 会いたかったんです。話したかったんです。抱きしめたいんです。もう、どうしようもなく。

 白状してしまえばいいような気もするが、白状すれば草間は抱きしめさせてくれるだろうし、そうすると流れるように、きっとキスがしたくなる。その最後の一句だけは口が裂けても言えそうにないし、言ってはいけない。タイミングを決めるのは彼女。前科があるのだから、強請ってはいけない。

 なので、黙るしかない。袋小路の有村の前で、草間の足が止まった。

「ここです」

「……はい」

 草間は鍵を開け、部屋へ入って明かりをつける。とはいえそこは、窓もない物置部屋だ。

 明かりも照明と呼ぶには心許なく、探し物をするのにやっと手元を照らしてくれるくらいの弱光だった。

 鍵を手近な机に置いた草間が大きな布を外し、全身を映せるサイズのシンプルな姿見が出現する。それも、百田が使っていいと言った物らしい。説明をしてメイク落としのシートを鍵の隣りに置く草間は限りなく事務的で、「一応、これも」と、そばにクレンジングオイルの小さなボトルを置いた。

「座って」

「うん?」

「座ってください。足、やっぱりそのままじゃ、よくないと思うから」

「…………」

 背もたれのない椅子を押し出し、そこへ座れと言う草間は、ずっと横顔を見せている。

 ここまでくれば、見える色がどうという話ではない。誰にだってわかる。彼女がひどく、腹を立てていると。

「……はい」

 態度がよくなかったんだろうな。さっさと自分から奇行の言い訳をすればよかったな。

 反省する有村は椅子に腰かけ、靴を脱ぐ。傷になっているのは踵の上だが、半日ぶりに解放された足は爪先から指の付け根までが赤くなっていた。

「自分で貼るよ。届くし、大丈夫」

 バンドエイドを取り出した草間が膝を折ろうとするのを止め、受け取るべくの手を出してみる。

 そこでようやく、草間がチラリと有村を見た。ほんの一瞬。視線を投げただけという塩梅で、一度だけ。

「……私が触るの、嫌ですか」

「ううん。嫌なわけないよ。でもホラ、足だし、汚いし」

「汚いと思ってたんだ。私の、足も」

「思ってないよ。全然」

「なら、私が」

 どうしよう。チラチラと草間を見上げ、有村は思案する。果てしなく、草間さんが怒っている。

 腹を立てた女性特有の自分に置き換えて退路を断つ物言いやら、突き放すような声色やらが引っ切り無しに告げている。怒っていますよ。それを、我慢していますよ、と。

 これが草間でなければ、対処に困るほどではない。出来る。やってた。草間以外の女性には、卒なく。しかし、相手がその例外たる草間なのだ。上辺だけで取り繕いたくはないし、口で上手く誤魔化して、なんて、なにがあってもしたくない。

 原因はさっきの名前絶叫の件だけだろうかとも悩み始めてしまったから、有村は裸足になった足を片方、おずおずと差し出した。

 口角だけに取ってつけた出来損ないの笑顔が、途轍もなく情けない。

「……では、お願いします」

「うん」

 しゃがんだ草間は頭だけを見せ、封を切ったバンドエイドを無駄のない手つきで、擦り切れた傷口を覆うように貼り付ける。確かに、これまで数回、草間に対してしてきたことだ。同じことをされているだけ。わかっているが、草間に足を持たれて手当されている状況がまた、途轍もなく情けない。

 我慢出来ない痛みではないのに。慣れない靴が当たっただけなのに。

 いつかの草間もそうだったのに、と言われてしまったら立つ瀬ないので、有村は情けなさと一緒に込み上げて来る羞恥心を、椅子の座面の縁を掴む手で耐えていた。

「痛い?」

「大丈夫。ありがとう」

「…………」

 痛いのは寧ろ、胸の方だ。なんとなく、そもそも草間が自分の為に膝を着いていることからして申し訳ないというか、あってはならないような気がしてくる。

 しゃがんで座った制服のスカートが膝上丈になり、いつもは隠れている白い太腿が少し見えてしまったのがどうというわけでは決してなく。決してだ。絶対にない。相変わらず小さくて可愛い膝だとは、ほんの少し考えてしまったけれども。

 ダメだ、もう。有村は固く目を瞑る。草間成分が不足し過ぎて、何もかもを隅々まで見てしまいそう。絶対にダメだ。たとえ邪な想いがなくとも、草間はそういう異性の目を快くは思わない。

 冷静になれ。落ち着け。薄暗い部屋でふたりきりだとか、考えちゃいけない。

 考えない。考えるな、僕。

 言い聞かせるべく、自然と顔を左右へ振った。散らせ。散ってくれ、邪念。

「…………」

 ふと、草間が背後へ回った気配がして目を開けた。慌てて振り向くと、草間は後ろで両手を宙に浮かせている。

「なに?」

「着替えるなら、背中、ファスナー、開けてあげようかと思って」

 思わず、「大丈夫!」と、不必要に大きな声が出た。咄嗟に首の後ろへ回した手で触れるに、まだ一ミリも開いていない。今日は落合に言われて、中にTシャツの一枚も着ていなかった。瞬時に思ったのは、草間に素肌の背中を見られること。

 このくらいの照明では見えないかもしれないけれど、消えない傷が無数に残る背中を知られてしまうのが、今までで一番、怖かった。

「ご、ごめん。大きな声を出して。ビックリして。でも、自分で届くから、本当に、大丈夫。ありがとう」

 知られたくない。誰に対しても見られたくない物ではあったが、知られなくないとまで思ったのは初めてだった。

 知られたくない。見られたくない。気付かれたくない。服の下にある、醜い傷など。

「大丈夫だから……」

 首の後ろを押さえ、自然と、背中が丸まった。

「……そんなに、嫌がらなくても……」

「ごめん。ちがうよ。嫌なわけじゃ……」

「いいよ、もう。ごめんね、私が来て。キミちゃんが来ればよかったね」

「……え?」

 どうして、落合の名前が出たのか。手を解きながら振り向いた有村は、みるみる瞳を大きくした。

 後ろに立っていた草間は、きつく歯を食い縛っていた。スカートは両手で握り締めている。寄せられる眉。形を歪ませる目は赤くなり、今にも零れ落ちそうに潤むのを、草間はスカートを離した片方の手で乱暴に頬ごと拭った。

「そんなに態度で言うなら、もう、ちゃんと口で言ってよ。触られたくもないくらい、私のこと、嫌いだって」

「え? 待って、草間さん。なに言って――」

 泣くもんか。そんな気迫が、草間にあった。

 生まれて初めて頭の中が真っ白になるという経験をした真っ最中の有村を、これでもかと真っ白にしてしまうくらいの強さで。

「誤魔化さないで! 私だって……私がいくら鈍くたって、わかるんだから……」

「だから、なにを」

「わかるもん! 有村くん、私を避けてる! さっきも、私は見に来るなって言った。私は、嫌だって言った! 話しかけても愛想笑いして、楽しい日に私と話すのも嫌?」

「待ってよ。一緒に休憩取ろうって言った……」

「キミちゃんがそう言ったからでしょ! だけど、それだって、調理室に行くついで!」

「ちがう」

「ちがわない! だって……だって、藤堂くん、だった……有村くんの代わりに来たって、言った!」

「それは……」

「聞きたくない! 口が上手い有村くんの言い訳なんか、知らない!」

 何度も擦る小さな手の隙間に、溢れている雫が見えた。

 初めて見る泣き方だった。ポロポロと零れるのではなく、大きく溜まって散らされていく涙。何度も閉じる口元は怒っているみたいだ。いや、みたいだ、ではない。草間は悲しくて泣いているのではなく、腹を立てて泣いていた。

 名前を呼び、思わず立ち上がるけれど、椅子ひとつ分の距離を置いて草間へ手を伸ばすべきかが定まらない。誤解がある。解きたいとも思う。けれど今、草間に触れるのを躊躇っている、願望に塗れた自分以外の自分が有村の中にいた。

 狼狽していた。何も考えられなくて、短い言葉すらも喉の奥で詰まるよう。

「いつ、から? 夏休みが終わってすぐくらいは、そうじゃない気がした。でも、一ヶ月くらい前から有村くん、急に目を逸らすようになった。話してても、急に。そんなこと、今まで全然、しなかったのに」

 思い当たる節があり過ぎる。一ヶ月前。バンド練習が始まる頃。草間に触れたい衝動を自覚しはじめて、堪えようと目を逸らしていた記憶は、ある。

 気付いていたか。気付くだろうな、さすがに。

 申し訳なくて心苦しい今も、気付けば顔が草間に正面を向けていない。

「同じくらいから、手も、繋いでくれなくなった。言えば繋いでくれるけど、軽くて。急に帰るって置いて行かれた時、もしかしたらって」

 あの時だ。キイチとレイナにノクターンで保護された日。

 久々に訳がわからないほど混乱したあの日、有村は自分がどんな言葉を使って草間から離れたのかを、あまり覚えていなかった。碌な言い回しが出来たとも思っていなかったが。

 予想より遥かに酷い捨て台詞だったのを、今更に教えられた気分だ。

「それに……湯川さんが嫌だって、呼んだの、キミちゃんだった」

「それは」

「わかってる。私は服なんて作れないし、作れるキミちゃんが測った方がいい。だけど……お化粧は私だって、出来るのに」

「……それは……」

「キミちゃんの方が上手だけど、私だってそれなりに……きらい。こんな私、嫌い。キミちゃんに、ズルいって思った。私だってそんなに、有村くんに触ったこと、ないのに」

「……え?」

「キミちゃんが、有村くんはスベスベだって。知らない。私、そんなの」

「えぇ……」

 思い返せば落合に頬やら額やらを捏ねられて、やれ肌が綺麗だの、キメがどうだのと言われたような気もする。無を心掛けていたので、思い返してやっと思い出すくらいではあるが。

 いや、そこではなく、今のはまるで草間も触りたかったみたいに聞こえる。前に腹を見せようとした時は見せてくれるなと拒絶され、風呂で出くわした時には悲鳴を上げて泣いて逃げられ、有村はてっきり、草間は不必要な接触も見るのも嫌なのだと思っていたので驚いた。

 抱き着くのも有村ばかりで、草間は許してくれているだけなのかと。

 もしもそうでないのなら、色々と条件が変わってくる。いや、いま考えるべきはそこでもなく、取捨選択が出来ていない時点で、有村はまだ大混乱中だった。

 整理しよう。ひとつずつ。

 考えている間に、草間がまた口を開いた。

「いつから? いつから、私が、嫌い?」

「嫌いじゃない。なってない」

「ウソ! 私が暗いから、ウジウジしてるから嫌になったんでしょ。そうでしょ」

「違うって」

「だって、避けた!」

「……それは、まぁ……」

「ほらぁ!」

「だから違うって! 誤解してる。認識に相違がある。説明する。だから――」

「相違とか言う! 有村くんがそういう言い方になる時は丸め込もうとしてる時だよ! 知ってるんだから、もう!」

「うう……っ、否定もしづらい」

「ほらぁ!」

「でも、本当に違うんだ。君が好きだよ! なんだったら、好きになり過ぎて困ってるから、ちょっと嫌いになれる方法があるなら教えて欲しいくらい!」

「嫌いって言った!」

「言ったね。バカじゃないの、僕。言ったけど、そうじゃないから話を聞いて!」

 考えは纏まらないし、何を言っているかも制御しきれていないし、ただただ慌てふためく脳内が持ち過ぎた熱で火を噴きそうで、有村は思考の外で腕を伸ばし、引き寄せた草間を抱きしめた。

 嫌いになどなるはずがない。四六時中、頭の中はこんなにも草間でいっぱいなのに。

 腕の中で暴れる草間が離せと言う。振り下ろされた拳は肩や、顔にも当たった。

「泣いたから抱きしめたんだ! ずっと、しなかったのに!」

「ちがう。したかったけど、出来なかったの!」

「ちがうもん! したくなかったんだよ! なのに優しくしないでよ! 私だけなんて、勘違いしちゃうでしょ!」

「君だけだよ。草間さんだから――」

「――平野さんにも言ったんだ! 同じこと言って、抱きしめてあげた?」

「……は?」

「するよね、有村くんだもん! 優しいもんね! みんなに!」

 振り下ろされる手首を掴んだ。背中に回した手は、そのままに。

「……なんだよ、それ」

 駆け巡っていた頭の中が、放った声が、欠片の熱もなく冷えていた。

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