風が吹く
藤堂曰く、無駄に動く癖がついているという有村の頭はまず、空になるということがない。
息を上げ、汗を滲ませ、時折音が飛びそうになるほど遮二無二ギターをかき鳴らしたけれど、大きな拍手に見送られて再び袖へ帰るまで、有村はついぞ、久世の言う『バカ』にはなれなかった。
とはいえ出来は上々だったらしく、袖へ捌けて下ろしたギターを久世へ返す頃になっても、上がった拍手が鳴り止まない。歓声も、口笛も止まない。反対側の袖では次のバンドがしきりに、出るタイミングを見計らっている。
「すげーよ、有村! なんだよ、お前、めちゃくちゃ気持ち良かった! 俺、しこたま叫んでやったわ! 最っ高! あー、やっぱライヴ気持ちいー!」
飛びついて来た鈴木がかけた腕で引き寄せた首にぶら下がり、腰を折る体勢になった有村も笑みを浮かべる。久世も石巻も桜井もご満悦。最高だった、良かった、と、何度も言い合い、言ってくれる。
「な! 楽しかったろ、ライヴ!」
「うん。楽しかった」
興奮しきりの鈴木へ返した通り、本当に楽しかった。とても。
けれどバカには、なれなかったのだ。
相手の熱意を理解してもそれに追いつけない時、有村は先程のライヴやノクターンのステージで、酷く申し訳ない気持ちになる。ここに自分がいるのは間違いだと、明確に感じるのだ。懸命な人の様子を見て合わせて弾いて、同じ場所に立ったような顔をするのは、たぶん、違う。本当は、申し訳ないと思うことすら失礼だ。そこには異物を混ぜてはいけなくて、絶対に水を差してはならない。
ふと、藤堂に以前、気軽に言った『野球を教えて』は、それと同じだったような気がした。
だからと言って今更詫びるつもりもなく、詫びられても邪魔にするであろう藤堂は、有村と鈴木の帰りを体育館の外で待っていた。隣りには、力一杯に目を輝かせる落合と、彼女にしては表情に出して興奮気味の久保もいる。
「あれ? 草間さんは?」
不思議に思い、有村は藤堂や落合や久保の後ろや脇、見える限りの周囲や足元なども目で探す。そこまで小さくないと鈴木は笑うが、ステージ上から見つけられた背の高い藤堂の隣りには確かに、草間がいたのだ。こんなにも求めて止まない彼女の姿を、見間違うはずがない。
「草間なら、教室が心配だって、すぐに戻った。俺は、待っていてやれと言ったんだが」
「なんか急いで帰ってったねー。でも、ライヴ中はめっちゃ興奮してたよ! つか、あたしもホント、興奮した! 鈴木ぃ、今年も選曲攻めてたねぇ。ナイス!」
「おう!」
息ピッタリにハイタッチを交わす鈴木と落合は置いておくとして、いないと言われても有村の目は、草間を求めて探してしまう。今日はなんだか、擦れ違ってばかりだ。
ここまで来ると有村には、単に草間が実行委員として奔走しているからだけだとは思えなくなって来る。彼女に避けられる原因になるような、何か気に障ることをしてしまったのだろうか。不安要素は十二分にある。夢の中にいたかのような、絵を描いていた間の数十分間。あの時間は有村にとって、空白も同じ。
最中に、何か言ってしまったのだろうか。何かしてしまったのか。その割に、直後のメールの返信はいつも通りだった。どこから、おかしい。どこから、擦れ違っている。考えて最初に思い当たるのはやはり、一緒に取ろうとした休憩を断られた時のスカートを握っていた手。俯いた、草間の顔。
憂う有村を察した藤堂がまた肩を手を置き、「気にするな」と、出来そうにないことを言って寄こす。
「お前もわかっちゃいるんだろ。張り切ってんだよ、草間は。いざ始まってみりゃ去年とはまるで違って、廊下の行列は尽きない大盛況だ。軽音が終われば、文化祭は終盤。ここらが踏ん張り時だとでも思ってんだろ」
「そうかなぁ……」
ついでに背中を叩いた藤堂の言い分は理解する。そうだろうと納得もする。それでも表情が晴れない有村へ、様子を見ていた落合と久保も口々に、草間はまだリベンジに燃えているのだ、終われば元に戻ると、励ましの言葉をかけてくれた。
より身近な彼女らが言うのならと思い、大きな痞えのような物を努力して飲み込めば、閉場までのあと三時間弱、自分がすべきは悩み落ち込むことではないと気を持ち直すことは出来そうだ。
「まぁ、そうだね。今は僕も、頑張らなくちゃ」
不思議なもので、無理にでも口に出せば、ほんの少し気分が変わる。
碌な休憩も取らず、せっかくの文化祭を教室の中で費やして頑張っている、みんなと一緒に。本心では、頑張る草間に応えたくて。いま有村に出来るのは精一杯のおもてなしと、それで一票でも多く稼ぐこと。
息を吐き、パチンと手を打ち鳴らして、有村は口角を上げた。
「よし! 僕らもこんな所で油売ってないで、早く教室へ戻ろうか。こんなに大勢で抜けてたら、きっと大忙しになってる。スイーツの残量も僅かになってたみたいだし――」
「――ああ、それならもう、なんとなかった。なったって言うか、したって言うか……」
いざ行かんとばかりに歩き出そうした折、首から上を挙動不審にした鈴木がゴニョゴニョと、なにやら複雑そうにひとり、苦い虫を噛んでいる。
合っては逸れ、また合う、物言いたげな鈴木の視線。首を傾げる格好でその顔を覗き込んだ有村を、鈴木は眉を存分に吊り上げて軽く睨んだ。
「桜井が呼びに来る前、長谷たちがどうしようって揉めてたからさ。ちょっと、口挟んだ」
「……のんちゃんが?」
尋ねる有村と同時に、落合も「鈴木が?」と怪訝そうにするが、籠っている想いは微妙に違う。
例の、鈴木が秘密にしている素晴らしい趣味のことだ。調理班の長谷たちの話し合いに鈴木が参加したのなら、それを明かしたのかどうか。引き続き窺う有村を鋭い目付きで見上げる鈴木の口元は、見事なまでのへの字を描く。
「俺だってさ、悪いことしたって思ってんだよ。久世がボーカルは絶対、女装じゃダメだって言うし、ダメ元で話したら久世が言うんじゃって、あっさり免除になるし。けど、お前が知ったら自分もヤダって言うかもって、女子が、お前には内緒にしろって……それで結局、騙すことになって。ごめん。ホント」
突然の謝罪もそうだが、有村は意外でつい、返す言葉を選び損ねる。
騙されたとは思っていない。知った瞬間は多少、ひとりだけズルいと子供みたいに拗ねてしまったけれど、カッコイイ音楽をセンターで披露するボーカリストが女装では締まらない気が有村もしたので、今ではすっかりと納得している。それは鈴木を見る限り、彼もわかってくれているようだった。
「でさ。たぶん俺、気まずくて、いつもよりお前のこと見てたの。そしたらさ、まぁいつもの如く楽しそうに見えたんだよ。知ってるし、わかってる。お前は能天気そうにどーでもいい話しながら、誰か困ってないか、出来ることないかって、頭使って気ぃ遣って身体使って、めちゃくちゃ頑張ってた。でも、めちゃくちゃ楽しそう。なんでかなって考えたら、お前ってきっと、いっつもやり切ってるから気持ちが良いんだよな。全部やって、全部出して。そういうヤツ見て楽しそうでいいなってさ、思うんならやればよくない? 俺も」
「のんちゃん……」
「女子に絡まれるのうぜぇとか、カッコ悪いとか笑われたくねーとか、小せぇ小せぇ。いいじゃん、別に。なんだって、楽しんだもん勝ちだろ? だから、長谷たちに言った。家がケーキ屋だからじゃなくて、趣味で色々作ってるから相談乗れるって。つか、俺も混ぜろって頼んだ」
「のんちゃん!」
嬉しくて、有村は鈴木に抱き着く。いつもより身長差のある鈴木の顔は偽物の胸元に埋まり込み、苦しげな声が聞こえても放してあげる気にならない。
驚くほど、有村は嬉しかったのだ。鈴木の趣味は、隠しておくのが勿体ないとずっと思っていた。
明かしたくないから仕方がないと諦めていたけれど、鈴木の素晴らしいスイーツ作りの腕前を多くの人が知ってくれたのが、堪らなく嬉しい。何度でも、深い吐息が漏れてしまうほど。
「それで、のんちゃんはどんな提案をしたの? 僕の予想ではね、きっと採用された。だって、のんちゃんは本当にスイーツに詳しいもの。嬉しい、のんちゃん。僕ね、とっても、嬉しい」
「わかった! わかったから離せって! 作り物だってわかってても気まずい!」
「悪くない感触だと思うの」
「だったら余計に気まずいだろうが!」
脇腹に拳を食らい、離れれば背中や脚に蹴りを食らい、それでも有村は嬉しくて、湛える笑みが消えそうにない。胸がポカポカと温かくて、照れ臭い鈴木が「死ね!」と叫んでも、その耳の先や頬に灯る赤が持ち上がってしまう頬を下げさせてくれないのだ。
気が付くと、見守っていた藤堂や落合、久保も、解けるような笑みを浮かべていた。
「てか、ホント、なんで姫様が嬉しそうなわけ」
「だって、嬉しいよ。のんちゃんが作ってくれるお菓子はね、本当に見た目も綺麗で、とってもとっても美味しいんだから」
「だから、なんで姫様が誇らしげなの、って。ははっ。まぁ、姫様っぽいか」
誇らしげと指摘されれば、間違いではない。そのくらい、鈴木の趣味は素晴らしいのだから。
笑った落合はどこかスッキリとした顔をして、「早く帰ろ」と背を向けた。久保もいつもの口調で「いつまでも遊んでないで」と呆れた風に言うけれど、その声はいつもより格段に優しい。行くぞと放ちつつ、先に歩いて行かない藤堂も。
「それで、何に?」
「トライフル。サイズがデカくて使わなかったプラカップが大量にあるって言うからさ。卵と牛乳も残ってて、カスタードはレンジで作れるし、スポンジと生クリームとフルーツくらいなら近くのスーパーで買える。カスタードは多めに作って、一個、見本で置いて来た」
「そう。じゃぁ、今頃長谷さんたちが作り溜めているのかな。いいなぁ、僕も食べたい。話してたら、お腹空いて来ちゃった」
「美味いのか、それ。ケーキなのか? 聞いたことないが」
「あり合わせで作る、つまらないものって意味のスイーツ。俺が、最初に作った菓子。シンプルだけど、俺は好き。甘過ぎなくて、軽くて食べやすくて、見た目もカラフルで可愛いしさ」
答える鈴木の耳はまだ赤く、藤堂は珍しく自分も食べてみたいと申し出る。ひとつくらい余るだろ、なんて、どうしても食べたいみたいに。
しかし、どうせなら鈴木の手で作り上げられたトライフルが、藤堂の口に入ればいいと思う。スイーツは見た目も肝心。鈴木は特にそのセンスが抜群だ。
先頭を行く落合が振り返り、「あたしも食べる」と言うが早いか、久保も軽く手を上げ続く。「私も」。
「わかったよ。あとで、文化祭終わったら……お前ら用に、作る」
「やったー!」
もう一度抱きしめたくなったのを堪え、有村は嬉しそうにクルクル回る落合を碌に見られない鈴木へ、笑みを零した。
鈴木が美味しいスイーツを作ってくれるなら、美味しい珈琲や紅茶で応援するとしよう。紅茶。そんなものから簡単に連想してしまうだなんて、いよいよ末期だ。
早く、草間の可愛い笑顔が見たい。




