多忙の国のアリコちゃん
人間とは、かくも不思議な生き物だ。
入り口には大々的に『女装カフェ』の看板が掲げられており、服の下にある肉体は自分と同じと知っているはずの客から挨拶のように、キミ本当にキレイだね、可愛いね、と飽きるほど言われ、有村はしみじみ思う。
不思議な生き物。いや、人間という括りではなく、見た目重視の悲しい男性のサガというものかもしれない。見える物はさほど重視しない有村にはよく、わからないけれど。
作り物の胸でも触りたいらしく、何度も触ってみたいと言われたし、尻や腰はそれ以上に触られた。女性は見て騒ぐだけ、男性は手が出る。ノクターンで『僕は身も心も男だから碌な反応も出来ず、なんだか申し訳ないな』と思うそうした扱いには慣れている有村はまるで気にしていないのだけれど、C組の壁には急遽、『おさわり禁止!』の張り紙が出され、特に落合がナンバーワンウエイトレス有子こと有村を守るべく躍起になっていた。
「触らないでくださいね! 写真は毎回、本人に許可を取ってから! だから! おさわり禁止って書いてあるでしょ! 触らない! 出禁にするよ!」
別に減るものではないからいいのにな、と、思いつつ、有村は紅茶や珈琲、ロールケーキやプリン、マドレーヌなどを、せっせとテーブルへ運ぶ。考えているのは、ただひとつ。草間が無事に戻って来ること、のみ。
「あの……美味しくなーれ、とか、やってもらっていい? メイド喫茶みたいに」
「いいですよ。はい、美味しくなーれっ」
「くッ! これが男児とは、世界はなんて残酷なんだ!」
「……よかったら、おかわりもどうぞ。気に入って頂けたなら、またしますね。不思議な呪文」
「ありがとう! 有村ちゃん!」
「……いいえー」
有子と、有村ちゃん。どちらが良いかはともかくとして、後者を招く胸元のカードサイズの厚紙に散るハート柄は、自分には少し可愛過ぎると有村は思う。
しかしながらこれも、男子全員に衣装班が一枚ずつ作ってくれた物だ。事前に生徒会からの通達で、全男子生徒に最低限、苗字の書かれたネームプレートの着用が指示されいた。ご丁寧に、ミスコンには不参加の方も必須という但し書きのおまけ付き。無論、裏方の藤堂と鈴木も、制服のどこかしらに付けている。
この可愛らしい名札を見て、来場客は外見の素晴らしいと思う男子に一票を投じるわけだ。テーブルでいそいそと記入している客も多くいたので、ともすればC組の中から藤堂のライバルが現れるかもしれない。藤堂は無事、二連覇を達成するのだろうけれど。
「草間さんと藤堂、まだ戻らない?」
紅茶ふたつをトレイへ乗せ、有村は受け渡し係のひとり、落合に尋ねた。因みに防犯の観点から、女子は名札の着用が寧ろ、禁止されている。
代わりに『お手伝い係』とだけ書かれたカードを胸に着けている落合は携帯電話を取り出し、表示画面を有村に見せた。
「まだだけど、さっきセコムからメールが来たよ。仁恵を見つけて、せっかくだからチラシ配って戻るってさ」
「藤堂が、草間さんと?」
「仁恵はともかく、セコムは似合わないやね。押し付けそう。受け取れ、ホラ。みたいな」
「わかる」
「けど、ひとりじゃないなら安心だね。仁恵が戻ったら姫様も休憩入って、少し校内見て来たら?」
「いいの? 結構、忙しいけど」
「大丈夫でしょ、少しくらい。せっかくの文化祭だもん、楽しんでおいでよ。あたしらも様子見つつ、順番で抜けるつもりでいるし」
「ありがと」
「で、ライヴ前に充電しておいで。顔に出てる。仁恵に癒されたいー、って」
「あら」
これはこれはお恥ずかしいとばかりにペチペチと頬を叩いてみるが、実際、癒しも休憩もすぐに欲しいくらいには、二年C組は大盛況であった。
それからまた少しして、草間と藤堂がようやく教室へと戻って来た。チラシは追加分まで全て配り終えたそうで、有村には落合から約束通り、「休憩行っておいで」の声がかかる。
「草間さん。これから少し、校内を見て回らない? 戻ってすぐでアレだけど、落合さんが抜けていいよ、って」
「……そう。なら、行こうか」
「うん」
少々、戻った草間の様子がおかしい。藤堂から特に心配していた事態には見舞われなかったと聞いていたので、チラシ配りで疲れてしまったのだろうか。どうにも視線が下がり気味で、あまり、目が合わない。
疲れているなら体験型のクラスではなく、座って満喫出来るクラスがいいかな。ワクワクと思考を巡らせる有村を、受け渡しカウンターの奥から百田が呼んだ。
「姫。悪いんだけどさ、抜けるなら途中で調理室寄って、珈琲と紅茶の追加、頼んでもらっていい? 次からは二本ずつ」
「オーケー。とりあえずって言われたら、どっち優先?」
「珈琲。つか、そっちはすぐにでもほしい」
「了解。他に伝えることは?」
「プリンの捌け方が異常。在庫数、こっちでも把握しておきたいかも」
「かしこまり。で、百田さん? 忙しいのわかるけど、顔、怖くなってるよ」
「マジ? やば、気をつけないと」
「あまり気を張り過ぎないようにね。それじゃ、あとをよろしく」
客は廊下にも並んで待っている状態で、使える物はなんでも無駄に出来ない気持ちはわかる。
話を終えて視線を戻すと、草間が久々にスカートの裾を握り締めていた。
「お待たせ。行こう――」
「――やっぱり。私、ずっと外に出てたし、混んでるみたいだし、休憩、あとでにする」
「えっ」
「有村くんは、行っておいでよ。藤堂くんと。たぶん、どこかで珈琲飲んでるだろうし、合流して」
口調に感じるだけでなく、草間は焦っているようだった。責任感の強い草間のことだからとは思えど、益々下を向いて行く首の角度が気がかりで、有村は窺うように名前を呼ぶ。
「草間さん?」
「……それじゃぁ私、行くね」
「草間さん」
「…………」
廊下にひとり取り残され、草間の背中を追って教室の方を向いた有村は、一部始終を見ていたらしい百田の微妙な面持ちに、愛想笑いをひとつ。
「……調理室、行って来るね」
「……よろしく」
草間がいないなら意味がない。調理室での用事を済ませた有村は藤堂を探しに行かず、次にいつ行けるかわからない手洗いと水分補給だけをして、休憩は十五分ほどで切り上げた。
文化祭の当日も、実行委員だからか働き者だからか、草間は教室を出たり入ったりで忙しそう。
本心では手伝いたいが、有村も給仕で大忙しだ。代わりに手伝いに行く藤堂には、途中で何度か目配せをした。よろしく、だったり、お願い、だったり。体よく女装免除を勝ち取った時は人でなしかと思ったが、だからこそ自由に動ける藤堂がいてくれて良かった。
待望の当日だもの、草間はきっと気合が入っているのだろう。頑張り過ぎているようには見えるが、それをいま伝えるのは水を差してしまうことになりそうで、有村はひたすら自分の役目を全うする。
「姫! ロールケーキ届いたから、配って来て!」
「了解!」
お待たせしました。ごゆっくりどうぞ。笑顔と愛想を振り撒いて、相変わらず、しれっと尻を撫でられる。例の呪文も急こう配で練度上昇中の最中、C組の教室へ桜井が呼びに来た。
顔を見て、黒板上の時計を見遣れば、既に時間は一時半。昼食を取り損ねた有村は草間の様子を気にしつつ、鈴木と共に体育館へと向かう。久世の計算では、出番は二十分後。それまでには補充を終えて、藤堂は草間と落合と久保を連れて見に行くと言ってくれていた。照れ臭い気もするけれど、鈴木の歌と久世たちの演奏は是非、草間にも聴いてもらいたい。
気に入ってくれるといいな。ピンヒールの踵をカツンカツンと鳴らしながら、有村の口角は無意識に上がって行く。どれも素敵な曲なのだ。ハードだけれど、メロディーラインが実に繊細。歌詞の方は多少、表現が露骨なので、あまりじっくり聞き入らないでほしいところなのだけれど。
「ふたりはさぁ、昼メシ、ちゃんと食べた? 俺、さっき食ったんだよね。なんか忙しくて」
「俺も。隅の方でコソッとな。有村は食い損ねてる」
「そっかー。まぁ王子は大人気だもんなぁ。想像以上の美人で、ビックリしてる」
「どうも」
「あ。けど、ウチのクラスじゃ黒板の絵も話題になってたよ。いまチラッと見たけど、すごいね。文化祭終わったら、消しちゃう前にじっくり見に行かせてよ」
「おう。来るまで消すなって言っておくわ」
「ありがとー」
そちらの羞恥心はまだ癒えていないので考えないようにしていた黒板の絵については、有村の申し出で作者不明、C組の全員が誰か描いたかわからないと答えるよう、口裏合わせが済んでいる。
なのに鈴木がジロジロと見て来るので、有村は桜井に見つからないよう、その肩を肘で突いた。ヒールを足した有村は藤堂よりも高身長。C組最小男子の鈴木の脇腹を歩きながら狙うのは、いつも以上に難しい。
「王子さぁ、ちょっと緊張してる?」
「どうだろう。楽しみかな。早く始めたい気分」
「いいね! そうだ。彼女、草間さんだっけ。見に来るの?」
「そのはず。用事を済ませて、藤堂が連れて来てくれるって」
「じゃぁ、燃えるね」
「燃える?」
「聴かせたい相手がいると、気合入るでしょ」
「そうだね。うん……そうかも」
見に来る彼女がいなくても俺だって燃えてるよ、と、桜井は両手を突き上げ、今日も元気な彼らしい。
到着した体育館では、別のバンドが演奏を披露していた。観客は在校生と来場者を合わせ、全校集会の時よりも大勢の人々が詰めかけている模様。通り過ぎた後方の隙間を見ての感想だったので、前の方のすし詰め状態を見た時は、有村でもふと目を疑った。確実に、全在校生よりも多くいる。
隠れるように裏手へ回り、声を潜めて入り込んだ舞台袖では、既に準備を整えて待っていた久世と石巻が流れる曲のリズムを足で取り、こちらへ向けて小さく手を振る。
「おー、噂通りの美人じゃん。有子、だっけ?」
「久世くんまで……有村って呼んでよ。普通に」
「わるい。わるい。すぐ抜けられた? C組に行列出来てたって聞いたけど」
「おかげさまでね。言っておいたから、気持ち良く送り出してもらったよ」
「いいなぁ、C組は仲が良くて」
「いやいや」
「あっちゃん、可愛い。お嫁さん」
「ありがとう、石巻くん。最後のは聞こえなかったことにするね」
歓声に見送られたバンドが反対側の袖に消え、次のバンドが照明の下へと出て行く。ノクターンでも演奏の演目は多くあるが、殆どがピアノかギターの弾き語りで、ロックサウンドはなかったかもしれない。
唸るようなエレキギター。壊してしまう勢いで叩いているように見えるドラム。客を煽るベーシストに、ボーカルはマイクを両手で握り締め、振り絞るようなシャウトを決める。袖にいると、重たい音が体内を使って好き勝手に反響しているかのよう。曲と曲の間にふと気が付けば、その音に負けじと心臓が強く脈打っている。
ドキドキして、ワクワクして、ウズウズする。それを鈴木が、「アガる」と言うのだと教えてくれた。
鼓動が、興奮が、高揚が、その全てが何段階も天井知らずに上がって行く感覚。やってやろうな。鈴木はそう言って握り拳を見せて来て、有村に同じ形でぶつけるよう求めた。
これで合っているのか恐る恐るな有村をチラと見て、久世はふと揺らしていた脚を止める。
「有村さぁ。俺、練習中に曲のこととかギターとか、昨日もああしろ、こうしろって色々言ったけど、これから表出て演奏中、もし楽しくなったらさ、俺が言ったこと全部忘れて、やりたいようにやっていいよ。演奏も、パフォーマンスも」
やけに楽しそうな顔をしていた。笑顔と言うほど笑っていない久世の色が、今日は一段と強い。
「でも、それじゃぁ……ちゃんと合わせる練習したのに」
「ライヴってそういうもんだからさ。頭使って覚えてなんだってのは、この袖まで。ステージに上がったら頭の中カラっぽにして、気持ちで弾く。俺も賢人もヨミも、忍だって、そういうのが最高に気持ちいいんだぜ? グルーヴっつーの。正確じゃなくても、イイ音楽」
「そうなの?」
これから有村たちが披露するのがロックなのだとすると、いま演奏しているバンドの曲はメタルというらしい。向こうの方が激しいなというくらいしか違いのわからない有村を、口角を上げたままステージを眺める久世の横顔は知っているみたいだった。
「見てみろよ、演奏してるアイツらの楽しそうな顔。アイツらって、向こう三年だからアレだけどさ。でも、俺はそれでいいと思うんだよ。ここにいるのはみんな音楽バカで、バンドバカ。バカが集まって自分が好きなモンを見せつけ合ってんだ。バカは頭なんか使わない。身体使って、他人に言われたことなんか気にしない。上手に、ちゃんと弾こうとなんてしなくていい。イイ子じゃなくていいんだよ。あそこに立ったら、全員、バカ」
「…………」
自分とは違う有村を知っている顔で、久世がニヤリと見つめて来る。
今の久世は有村の目に、渦を巻いた色が人間の形を象っているように見えていた。言われるまま明るいステージ上を眺めれば、そこにも似たような人型の色が、別の巨大な色の中を踊り狂っているみたい。
そうか。この色は自分を、仲間を、強く信じている色だ。後も先もなにもない。計算も思惑もない。この瞬間にだけ咲き誇ればいいとでも思っているかのような、潔いほど真っ新な情熱の色。剥き出しになった本能。
欲望のくせに、気高い色――そんな色は初めて知った。
「有村も一回、なってみなよ。楽しいぜ? バカは」
「…………」
前のバンドの演奏が終わり、鈴木に背中を叩かれた有村もギターを下げて、久世や石巻や桜井に続いて、袖を出る。
人の形をした色と、それを包み込む色。その中でふと視線を落とした自分の手だけが、生身の現実。自分にだけ、色がない。
「…………」
有村は顔を上げた。最初の曲はギターで始まる。
弦を弾き、音を奏でる。そういう彼らと、自分は違う。
だから有村は、初っ端からギターをかき鳴らした。他の三人に負けないように、鈴木の声を押し上げるように。額には汗も滲んだ。弾いて、弾いて、真っ白な照明がやけに、熱かった。




