本物の才能
突き抜けるような悲鳴が聞こえた廊下はざわつき、落合が繰り返したノックと呼びかけにようやく応え、草間が後ろを気にしながら教室のドアを開けた。
「さっきの悲鳴、どうしたの。何された? てか、どうなった?」
「うん……」
顔を出した草間は戸惑っていたが、頬はピンクで、目もどこかキラキラと輝いている。
少なくとも怖い想いをさせられたり、ショックを受けているという風ではなかった。藤堂でもわかるくらいだから、落合は相当に混乱した様子で教室の中を覗こうとする。
「ダメ!」
それを、草間が落合を押し返す形で止めた。描くところは見ないで欲しいって言われたでしょ。続いた台詞で有村が描き始めたのを知り、廊下では安堵の歓声が上がった。
「チョーク、すごく使うかも。たくさんある?」
「一応、色はあるだけ貰って来たけど、追加でもう少し貰って来るよ。なに色、使いそう? やっぱ、白?」
「わからなくて。ごめんね、キミちゃん。全部の色、いっぱい持って来てもらうのって、出来る?」
「やるけど、そんな使う?」
「たぶん。すごい速さでなくなってって……あっ、また! ちょっと、ちょっと待ってね!」
「うん」
駆け戻って行く草間を追って、藤堂は落合と共に教室の中を覗き込んだ。一応、他の面々には見せないように、自慢の体格を壁にしながら。
そこで、藤堂は目を丸くした。忙しそうな草間がちょこまかと動き、床からせっせと何かを拾っている。ふと、有村が黒板の方を向いたまま、身を捩るようにしてブレザーを脱いだ。それを見もせず、後ろへ投げる。気付いた草間が拾いに行き、少々困惑した顔でこちらの方へ戻って来た。
「……え? 姫様、なんかワイルド」
「……投げたな、服」
こちらも一応、草間の言いつけを守っているフリで気付かれる前に乗り出していた身体を引き、藤堂と落合は素知らぬ顔を貼り付ける。しかし、どうにも口がへの字になりたがるのだ。潔癖症の有村が真後ろへ、脱いだ服を投げ捨てるなど。
「ごめんね。それじゃぁ、チョークお願いします」
「了解。他にも必要ものあったら言ってね」
「うん。あっ、また! じゃ、じゃぁね! 終わったら、声、かけるから! あ、その時、濡らした雑巾が一枚、ほしいです」
「雑巾?」
「よろしくね。行くね、もう……あっ、また!」
閉められたドアの向こうで、走る草間の靴音が遠ざかっていく。藤堂が視線を向けると、落合が丁度、見上げる角度で上げている途中だった。
目を見合わせ、どちらからともなく首を傾げる。横から鈴木に「描いたのか?」と訊かれれば「描き始めたみたいだ」とは答えたし、落合も湯川に詰め寄られて「描いてたよ」とは答えるものの、すぐにまた顔を見合わせ、藤堂とふたり、自然と首が傾いてしまう。
「あれかな。絵を描く時、性格変わる系の人。だから見られたくない、とか?」
「いるのか? そういうヤツ」
「あたしの周りにはいないけど、ウチの顧問が言ってた。画家にはいるって。描き始めると、周りが見えなくなる系の人」
「お前、なに部?」
「美術部。行ってないけどね。一応。つか、待って。いろいろ気になって、黒板見るの忘れた」
「俺も」
少し、悩みはした。けれど藤堂は数センチだけドアを開け、胸や腹の前に身体を捻じ込んだ落合と共に、もう一度、教室の内部を覗く。
「ズルいよ! 君佳ばっかり!」
「シーッ!」
異を唱える百田へ向け、落合は口の前に立てた人差し指で「静かに」を訴える。
チョークを持って来る自分は、多く使われている色を調査したいだけ。そんな言い訳が通用するはずもないので、藤堂は自分だけを庇うよう「俺は有村のツレだ」と、隙間に入り込もうとする鈴木や山本を腕力で制した。
「俺と落合は前にもアレの絵を見てる。それに俺は、あとでブーブー言われても気にしない」
「いや、気にしてあげなよ。泣くよ、姫。そろそろ」
「別にいい。いいから、お前ら邪魔すんな。黙ってろ。草間に気付かれるだろうが」
「暴君か!」
隙間を狙う面々を退け、上には藤堂、下の方から落合が顔だけを出し、カツカツ、ガッガッ、と黒板に当たるチョークの音だけがする中を覗いた。
草間が『また』と言っていたのは、有村が足元に捨てる小さくなったチョークのこと。慌てて拾う草間が通った場所に、踏み潰したのであろう白い汚れが広がっている。
そんなことはともかくだ。藤堂は有村が向かう黒板を見た。教室を追い出されてからまだ、最初の五分も過ぎていない。なのに、有村は既に髪の長い横向きの女を大凡、描き上げているようだった。
前に立つ有村が邪魔で碌に見えていなかったのだが、急に振り返り、脇へ寄せられていた教卓を動かそうとして退いたので、藤堂と落合に見えた格好だ。持ち上げもせず引き摺るし、脚をあちこちにぶつけるから、ガタガタ、ガタンと大きな音がする。草間は慌てて、椅子を一脚、持って行った。有村は椅子を受け取り、上履きのまま上に立つ。渡した草間はその傍らで両手をあわあわと上下へ動かしたあと、草間には重たいであろう有村が移動させた教卓の天板を掴んだ。全身を使い、力の全部を使うようにして壇上から下ろし、元の場所へと戻し終えた草間の髪は大いに乱れきっており、どこかを見つめて動きを止める。その背中が雄弁に語るのだ。満身創痍である、と。
「草間、死なねぇか、あれ」
「ちょ、セコム、ヤバい。はっや。描くの、速っ。え、もう下描き終わってるってこと? 構図考える天才かよ」
「下描き?」
「するでしょ、普通。なに描くかとか、配置とか。ちょこっとイラスト描くのと違うんだよ? 黒板全部埋めるんだから、最初に全体の構図考えて、それぞれアタリ取らなきゃ描けないって」
「そうなのか。アタリってなんだ」
「バランスを見る為に大体の大きさとか配置を決めること、かな。漫画の下描きとか見たことない? 頭と身体、関節ごとに丸とかでザックリ描くの。アレが、アタリ」
「ああ」
「ねぇ、あたし、目はいい方なんだけどさ。セコムの方が視力いいよね。見える? 下描き。あたし、見えてないんだけど」
「……ねぇな」
「嘘だよ、よく見てみ? 絶対あるから。うっすく描いてるかも」
「……ねぇな」
「嘘だって。なくてあの速度で描くって、有り得ないよ」
「って言っても、有村だしな」
「……どうしよう。否めない。ゾッとした。いま、なんか」
我に返った草間がこちらに気付いた気がしてドアを閉め、藤堂と落合はなんとなく、ゆっくりと顔を見合わせる。
「ないよ。さすがに、ない」
「だな。さすがに、ないな」
「うん。あたし、チョーク持って来るわ。絵里奈がまだ、向こうにいると思うし。とりあえず全色、大量に」
「おう」
トボトボと歩いて離れて行く落合を見送ったあと、藤堂は中を覗こうとする面々を退けて作業を進めさせる門番と監督の役を買って出た。なんとなく、あの有村はあまり見せない方がいい。有村のことなら色々な側面を見ていると自負していた藤堂でさえ思うのだ。中にいるアレは、俺が知ってる有村じゃない。
有村はまず物を床に捨てないし、拾ってもらえば礼を言って詫びる。物を運ぶ時はしっかりと持ち上げ、なにかと物音を立てないように行動するのだ。乱暴なのが嫌いだから。
それに何が一番らしくないと言えば、草間に対する反応だ。礼も言わず、近くを動き回るのを見てもいなかった。特に、無理をして教卓を運ぶ草間を放っておくのが有り得ない。あの教卓は通常、女子ならふたりで移動させる代物だ。藤堂でも、持てば重い。それを草間ひとりに運ばせて気付きもしない様子でいるのが、落合ではないがゾッとする。
絵を描く時だけ性格が変わる画家がいる。画家。前に見た花火の絵を思い出すと、藤堂は益々、有村はそれのような気がした。
追加で落合が持って来たチョークが草間に渡り、十五分ほどが経過した。メイド服に着替えた男子は、山本を含め十数名。廊下で作業を続けた装飾パーツは粗方作り終わっており、あとは飾り付けを待つばかり。
詰まるところ、全員が入室の許可を待っていた。まだかな。あとどのくらいかな。そうした声は上がれど、藤堂が中には鬼がいるから見るなと言ったので、誰もドアに手をかけようとしない。
――バンッ!
そんな折、藤堂が控えていなかった前方のドアが開かれた。全開を越え、少し跳ね戻るくらいの勢いで。
「出て来た」
告げた落合の真後ろ、藤堂は顔を向けて視線を注ぐ。そして思った。なんだ、アレ。
閉じ籠っていた教室から出て来た有村が纏うその気迫というか剣幕というかが、藤堂をはじめ誰にも声を掛けさせなかった。鬼気迫る感じでいて、疲労困憊という様子でもある。無言で見守る中、有村は藤堂たちに背を向け、廊下を奥へと歩き出した。引き摺る踵、丸まった背中に藤堂は再び思う。お前は誰だ。
「あっ、逃げた!」
唯一口がきけた落合が叫ぶ。有村は少しだけ歩いたあと突然に走り出し、腕まで振る猛スピードが突き当りの角を曲がって消えた。
なんだ、アレ。三度目の怪訝を全身に着せたまま、藤堂は後方のドアを開いて草間を呼んだ。
「終わったのか」
「どう……だろう……手を止めて、離れてジッと見てたけど……あっ、ごめんね、メール……有村くんだ」
「有村?」
後方のドアは藤堂は全身で塞いでいた。開いたままの前方ドアには数人が詰め寄ったが、そちらは町田が両手を広げ、行く手を阻んでいる。
「まだで、有村がキレたらどうする。絶対ヤバいぞ! アイツ、キレたら!」
それには藤堂も、激しく同感だ。
ポケットで震えた携帯対電話を取り出した草間から藤堂の目線は再び、背中を反らせる格好で廊下の突き当りへと戻る。一体どこまで逃げたのか。送られてきた文面を、草間は教科書を読むように読み上げた。
「絵は、それで完成です。あとは手を加えるなり、消すなり、みんなで決めてください」
「……そうか」
「あっ、待ってね。もう一通来た。ええと、少ししたら戻るけど、戻っても絵については触れて欲しくないです。良くも悪くも、コメントはしないでください。だって」
「うん。けど、着替えがあるから早く戻れって言え」
「うん。 ……言わないでって、伝えたよ。着替えないとだから、早く戻って来てね。送信、っと。 ……あ、返事来た。 ……ふふっ」
「どうした」
「うん。ふふっ」
笑い出した草間に、藤堂は焦れる。
なにが楽しいのやら、ようやく乱れた髪を片方だけ耳にかけ、草間は藤堂のそばへと近付きながら、メール本文を向けて見せて来た。
「いま、羞恥心と戦ってるから五分ください。藤堂に探しに来るなって言って。恥ずかしくて、死んじゃう。だって」
「バカかアイツ」
「ふふっ。可愛いじゃない、有村くんっぽくて。ふふっ。うふふっ」
羞恥心が人の死因になるかはさておき、ふたりのやり取りは廊下にも聞こえていて、藤堂は背後から矢のように飛んで来る「終わったのか」、「入っていいんだよな」に頷きを返す時、何故か無意識に口角が上がった。
「やったー! ちょっと、退いてよセコム! 邪魔!」
最初に言ったのは落合だったが、藤堂は何人もに邪魔にされて場所を空けた。
待ち焦がれたC組の面々は、前と後ろのドアから一気になだれ込んだ。先頭を切った落合を皮切りに、まだ髪をひとつ結びにしている久保や手首にガムテープのロールをつけている鈴木、ロングヘアーのウィッグを装着した女装姿の山本も他の人々に押されて、転がるように教室の中へ。
そうして、恐らく最も押しこくられた藤堂とクラスメイトたちの足が、教室に入った途端、自主的に動かすのをやめてしまう。押されて揺れる、前へ出る。それ以外は棒立ちのまま、目にした黒板に数秒間の沈黙が落ちた。間もなく上がる止め処ない声の前触れみたいに。
「え……なにコレ!」
「ヤバいヤバい、ホント、なにこれ! たった三十分で、こんなの描けるの?」
「ヤバい……まお! カメラ持って来て! 写真!」
「もう撮っています! みなさん、少し前を空けて……近くの方、町田さん! 邪魔です、退いてください!」
「ごめん! てか、なんだよ、俺。泣きそうなんだけど」
「泣くな町田。及川がもう泣いてる」
「えっ、号泣?」
「すげーよ……ありむらぁ……っ」
「だなぁ、おいかわぁ!」
「八木も? 感受性どうなってんだよ! でも、やべぇ……」
「耐えろ、町田! つられる!」
「飯田ぁ……!」
さすがに、号泣は意味が分からない。しかし、黒板を見た藤堂は一瞬、息の仕方を忘れた。
この絵を見れば誰でも、この教室が不思議の国のアリスの世界観で設えられたものだとわかるはずだ。藤堂が思うにはいっそこの絵だけで、物語を知らない人にもこういうものだと教えられる。
黒板の右側には横を向いたシルエットの女がひとり描かれており、舞い上がる長い髪と大きく膨らむスカート、上がってしまったかのような自然の角度の腕や細い指先と膝を曲げた足が全体で、今まさに穴に落ちたアリスがワンダーランドへ向かっているのを見せつけて来る。
顔のないアリスの周りや黒板の全体には、一緒に落ちて来る開いた本やトランプの絵柄をしたクッキー、中身が零れかけた縁の欠けたティーカップ、白いバラとそこに刷毛から垂れる赤いペンキ、バケツなどが、それぞれ一個から数個、彩るように散りばめられていた。
一瞬、おもちゃ箱をひっくり返したような雑多な印象を受けるが、それこそが不思議の国のアリスが持つ独特な雰囲気を醸し出している。それに、雑多であるにも拘らず、全体を見てゴチャゴチャとした印象はないのだ。過ぎるほどではなく、物語を一枚で表現するのに必要な物が必要な分だけそこにあるという具合に。
誘い込むウサギも一緒に落ちていた。頭が下を向いていて、アリスと同じシルエットで顔はないのに、慌てているのがわかる。手を放してしまった時計は、上を飛んでいる鳥がくちばしで咥えている。羽を広げ、追いかけるように。
それは、見れば見るほど不思議な絵だった。目線が通る度に、描き込まれた新しい物に気が付く。落合が用意したチョークは白を入れて四色だった。白、赤、青、黄色。全体的には白で描かれた絵に見える。なのに、ふと、そうでない色、なかったはずの色が見える気がして、目を凝らせばまた別の物に気が付く。透けかけた猫だとか、逆に舞い上がって行くようなシルクハットだとか。
「……なんだ、これ……」
導かれてしまう足取りで、藤堂は黒板へと近付いて行く。わからないのだ。細かい、繊細だと思う。綺麗で上手い絵だと思う。ひとつひとつ描き上げられた物の完成度は勿論、けれどそれだけでなく、どうにも目が離せないのだ。そしてひどく、胸が騒ぐ。
アリスも他の物も落ちているはずで、落ちている速度がそれなりに速いのを教えて来るようなのに、全てが無重力空間で浮かんでいるようにも見える。少なくとも、藤堂にはこれが映画のスクリーンのように見えていて、そこに動きがしっかりと見て取れるのだ。動いている。アリスはいま宙に浮いて、落ちている。前に見た開いて散っていく前の、花火と同じで。
ふと見た草間が、小さく目元を指で擦っていた。そうして顔を上げ、笑みを浮かべる。
「すごいね、有村くん」
「…………」
「私、すごく贅沢な場所、特等席で見せてもらっちゃった。すごかったよ、有村くん。描いてる時、今まで見た中で一番、カッコ良かった」
「……そうか」
告げた草間から視線を移し、藤堂はもう一度、黒板を見た。
どうせ自分に芸術的などうこうだとか、技術的なあれこれが理解出来るはずもない。だとしたら、草間が正しい。小難しく分析するのは誰かに任せ、自分は、それだけでいいのだ。この絵はすごい。描いた有村も、すごい。それだけで。
「俺も一枚、撮っておくか」
携帯電話のカメラ機能で一枚撮った。出来栄えが気に入らなかったので藤堂は灰谷の元へ行き、あとで焼き増ししてもらえるよう頼んだ。
どうせ欲しがるだろうから、泣きそうになっている草間の分と、二枚。




