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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第六章 起動少年
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おかえり僕のいろの世界

 全貌が明らかになったC組の現状は、有村の予想以上に悪かった。

 数の多さで目立っていた装飾パーツ自体は、残りの材料と教員に掛け合って搔き集めた折り紙や薄い色紙、当校前だった数名と自転車を飛ばした何人かで近隣の店をあたり買い集めた画用紙やステッカーなどで事足りそうなのだ。問題は、前と後ろの黒板に貼っていた大物。手の込んだメニュー表と、ウェルカムボード代わりの巨大イラスト、計二枚。

 時間をかけて力作を仕上げた百田もいよいよ泣き出してしまい、草間に励まされて泣き止んだ灰谷が今度は、しきりに百田を励ましている。

「大丈夫ですよ、百田さん。みなさんで一緒に頑張れば……」

「無理だよ! さすがに、これは! すごく時間かかったもん。私、二日もかかった!」

 百田の言う通り、時間がないというのは確かにある。ただ、そもそも同じサイズの用紙が用意出来ない。後ろの黒板に貼ってあったメニュー表の方は最悪、ダンボールなどで代用が出来るとして、前の黒板に貼っていた大きな紙は草間が久保と落合と共に電車に乗って専門店へ行き、わざわざ用意したものだ。

 黒板には直接、描けない。百田はそう言って泣き出した。

「どうする、有村」

「うん……」

 尋ねられて有村は町田にそう答えたけれど、どうするもこうするもこの黒板を使うなら、直接描く他はないと思ってしまう。

 黒板にチョークじゃ、上手く描けない。百田はそう言う。落合に確かめると、彼女も黒板に描くのは紙に描くのとかなり勝手が違うのだと答えた。自分も、上手く描ける気がしない、と。

 なら、他にどうする。こちらもダンボールを繋ぐ要領で埋めてしまうか。確か、そうやって黒板を隠しているクラスが他にあった。通りすがりに見ただけだから、たぶんという具合だけれど。

「有村」

「うん?」

 悩む有村の元へ、藤堂がやって来た。ワイシャツの袖は、肘の上まで腕捲り。藤堂のブレザーはいま、移動に次ぐ移動で誰の物かわからなくなった机の上で丸まっている。

「描けよ、お前」

「え?」

 ふと、そんなことを言ったのだ。いつも通りのすまし顔、無表情で強面な、涼しい顔をして。

 言葉に詰まる有村を置き去り、藤堂は立ち尽くしている全員の方を向いた。そうして告げたのだ。高らかに。敢えて声を張らずともやけに遠くまで響いてしまう重低音を自覚していない藤堂が敢えて、堂々と宣言するかのように。

「聞いてくれ。コイツは絵がめちゃくちゃ得意だ。得意なんてもんじゃねぇ。本当は、死ぬほど上手い。壁に直描きしたのも見た。平面なんて屁でもねぇ。俺はコイツにやらせたい。いいか」

「藤堂! なにを勝手に……ちょっと!」

 慌てて藤堂の腕を引き、有村はその耳に必死の囁き声で訴える。描こうと思っても描けない時はまるで描けない。描いた絵を人に見られるのは嫌だ。どちらも花火の絵を見られた時に伝えたことだ。

 聞き終えた藤堂は『だからなんだ』という顔で、つまらなそうに有村を見る。そして口でも「だから?」と、ひと言。有村の表情は忽ち歪み、藤堂が久々に鬼か悪魔に見えた。

 そして、残酷なことに、悪魔の囁きとはやけに人を引き付ける。誰かが「そうなの? 姫」と口にしたのを皮切りに、女子から、男子から、矢継ぎ早に詰問色の声が飛び出してしまった。

「描けるの?」

「描けるんなら早く言えよ!」

「時間ないんだぞ! 早く始めろって!」

「……いや、ええと……」

 声でもにじり寄る足でも圧倒され、有村の背中は間もなく黒板にぶつかって、完全に退路を断たれる。描けよ。描いて。描いてくれ。そう言われても応える自信のまるでない有村を、クラスが一丸となって身も心も追い詰めていく。

 それは、川で魚を釣った時とそっくりな恐怖感だった。そういえばあの時も、藤堂は嫌がる有村を当然のように無視した悪魔だった。

「そうだよ! 姫様、めちゃくちゃ上手いじゃん! あたしも見たよ。パパっと描いた落書きで、めっちゃリアルなネコ描いたの!」

「キミちゃん!」

 中でも勢いの凄まじい落合を草間が止めてくれて、有村は女神に出会った気がしたのだ。やっぱり、僕の救世主は草間さんだ。後光が射しているようにすら見えたし、頭には白い布がなびいている気がした。

 なのに、今日の藤堂はきっとサタンで、草間はたぶん駆け出しの女神だった。

「草間。お前、コイツをあと、もう一押ししろ」

「そんな。出来ないよ……有村くん、絵は本当に人に見られるの、嫌だって……」

「それは俺も聞いた。ただ、冷静に考えろ。実際、ここを埋めるにゃ直に描くしかない。ダンボール繋いでもいいが、それじゃ見た目が良くないって話で、お前が用紙を買いに行ったわけだろ。ないよな。予備なんか」

「そう、だけど……」

「つーか、お前だって言ってたじゃねぇか。また見たい。他のも見たい、って」

「藤堂くん!」

「俺は見たい。この邪魔臭ぇ緑の下地に有村がどんな色を使って、どんな絵を描くのか」

「…………」

 頑張って。祈る想いで、有村は草間を見つめる。頑張って。負けないで。今は君だけが頼りだ。必死に目で訴えたけれど草間は下を向いていたので、届かなかったか、足りなかったらしい。

「……それは、私も見たい……」

 呟く声を聞いた途端、有村の脳内で勝者を知らせるベルが鳴り響いた。

 頭では、わかっている。なにせ今は時間がない。担任から開場と同時に開けなくてもいいと言われていても、遅れたとして九時半には始めるよう指示を受けていた。残すところ、あと五十分。有村が渋る理由のひとつには、自分が一枚の絵を描くのにかかる時間を把握していないからというのもある。

 引き受けたとして、一体、何分かかる。そもそも、今日が描けない日だったらどうする。湧き出る不安は尽きなくて、久保に「どうしてそう渋るわけ」と言われてしまった有村は、正直に白状することにした。

「絵は、昔から描いてる。でも、人に見せたことはあまりなくて、自分では別に、上手いとかは……」

「上手いよ、姫様」

「そう。落合さん。それは、ありがとう。で、なんていうか、ずっと描いてたんだけど、描こうと思って描いたことがなくて。気が付いたらいつも、描いてた感じで。だから、ここを任せてもらっても、その、描けるかどうか……描けたとしても、どのくらいの時間がかかるか、わからなくて……」

 今日が描ける日なら、無理ではないかもしれない。でも可能性で言えば、有村はゼロに近いと思う。絵が描けたのは花火を見たあとの一回だけ。それ以来、まともに線すら引けていない。

 出来ないと思うのだ。だから自分は適任でないと思う。言葉を途切れさせた有村が唇を噛んで俯くと、百田の声が「いいよ」と言った。

「やってみて、描けなかったらそれでいい。代案を考えながら待ってる。描けるけど時間がかかるなら、終わるまで時間を稼ぐ。前に君佳から聞いてたの。姫は絵が本当に上手くて、見たら絶対、ビックリするって」

「百田さん……」

「クラス対抗は売上でも客数でもない、人気投票なの。時間がないから適当に埋めるんじゃ違うと思う。時間はないけど、いま出来る全力を全部ぶつけなきゃ、あとで後悔する。黒板の担当は私。私は、姫に賭けたい」

「…………」

 そう、言われても。

 俯いて頭を掻いた有村の肩に手を置き、藤堂が横から、一時間と少し前に有村自身が口にした言葉を投げて来る。全員を鼓舞する中で、少しでも円滑に進むかと選び、告げた言葉だ。

「お前が言ったんだ。得意な物を率先して引き受ける。全員で協力する、ってな。ダメ元でいい。試すくらいしろ。有村」

「…………っ」

 尚も目付きで威圧して来る藤堂の指摘は耳が痛く、賭けたいと言ってくれた百田の真っ赤な目は胸に痛い。有村も協力はしたいのだ。応えたいし、頑張ろうとは思うけれど、有村の絵は如何せん『描いていた』か、『描いてしまう』もの。描かなければいけないタイミングで、描ける気がしない。

 幾つか、自分を呼ぶ声がする。わかっている。それでも、自信がないのだ。

「有村くん」

「……うん?」

 俯く視界に爪先の欠片が映り込み、その持ち主の声がしたから無条件で顔を上げた有村の正面に、強い目をした草間がいる。彼女は、嫌なことをさせて申し訳ないと言った。しかし、そのすぐあとで二つ折りになるほど深く、頭を下げた。

「もう、それしかないと思うの。試すだけ、お願いします!」

「やめて、草間さん! 頭なんか下げないで! 顔を上げて、早く!」

 慌てた拍子に、草間の肩を掴んでしまったが最後。覗く瞳の切実があまりに強くて、強過ぎて、有村は大きく息を吐いた。

 これは本当に賭けだ。そうとわかっていないはずのクラスメイトに納得してもらう方法も、他に思い付かないが。

「わかった。試してみる」

「…………っ」

「でも。でもね、本当に描けるかどうかわからない。描こうと思ったって、描けない日の方が圧倒的に多いんだ。頑張ってはみる。だけど、あまり期待はしないで欲しい。それでも、いいなら」

 振り向いた草間が後ろの人たちに、明るく跳ねた声で是非を問う。いいよ。無邪気過ぎる返答が、有村にとっては残酷だ。

「僕に、五分ちょうだい。描けるなら、その間に描き始められると思う。ダメな日は、それ以上待っても描けない。その間、教室に僕ひとりにしてほしい」

「わかった!」

「それでね。描き始めたら描き終わるまで、入らないでほしいんだ。誰も――」

「どうしたの? 有村くん」

「――いや。草間さんだけは、残ってくれる?」

「私?」

 ふと、不思議な感覚が有村を襲った。どうしたの、と見上げて来た草間に、胸が少しざわついたような。

 すぐさま鈴木が先導し、作りかけの装飾パーツと材料を全て持って廊下へ出るよう指示を出す。描き始めた時の為にチョークを貰って来ると言ったのは落合で、草間は「お願い」と応えたあと、再び有村を見上げて頬を緩めた。

「残っていいなら、私、嬉しい。手伝えるかな。なにか」

「…………」

 教室からぞろぞろと出て行くのに藤堂は隣りで動こうとせず、有村は視線を投げて「君も出て」と、ひと言。藤堂は舌打ちをして、渋々と書かれた背中を有村へ向ける。

 ドアが閉められ、教室には有村と草間だけが残った。有村は黒板を離れ、教室の中程に立ち、これからスケッチブックになり得るかもしれない長方形の全体を見つめた。

「まだ教えてもらってないんだけど、装飾は何をイメージしていたの?」

「不思議の国のアリスだよ。カフェだから、狂ったお茶会のイメージかな。トランプの柄がたくさんあるでしょ?」

「ああ、そういうこと。星はなんで?」

「可愛いからかな。イメージだから」

「そう」

 不思議の国のアリス。その物語は、幼い頃に小説で読んだ。著者はルイス・キャロル。

 確かに読んだが、覚えているのは『不思議というか、夢の中の話だしな』と思ったことくらい。話せるだけでなく読めるようになろうと、翻訳版が有名な作品の原作を幾つか続けて読んだ中のひとつだったという程度。

「君が思う不思議の国のアリスとは、どんな物語だい? 随分前に読んだけど、あまり印象に残ってなくて」

「うーん……私、アリスは本を読んでなくて、子供の頃にアニメで見たの。だからその印象が強いんだけど、可愛くて、ちょっとだけ怖くて、ドキドキして……でも、やっぱり可愛いアリスの大冒険ってイメージかな」

「こわい?」

「所々で画面が暗かったり、チシャ猫とか可愛いけど、ちょっと不気味な感じがして……あっ」

「なに?」

「夜、森で迷った時、葉っぱがカサカサ揺れたり、鳥が鳴いたり、別に何か怖いものを見たわけじゃないのにっていうあの感じ、だったかも」

「そう」

 ごめんねと謝れたので、有村は何も謝る必要はないと答えた。一ヶ月以上も前のことで、とやかく言うつもりはない。いま知りたいのは、感受性豊かな草間の中にある『不思議の国のアリス』だ。

 だだっ広い黒板を眺め、それからも少し草間にアリスの印象を語ってもらった。物語について。登場するキャラクターについて。アリスについて。幼い頃の草間は、大冒険に挑んだアリスに多少の憧れを抱いたらしい。

 大きくなったり。小さくなったり。逃げるウサギや猫を追いかけ、トランプや女王に追われて逃げ回る。アリスを知った女の子なら、一度は自分がアリスだったらという想像をしたことがあるとも草間は言った。小学生の頃にそう話した時、久保には『ない』と即答されたらしいが。

「本当に穴に落っこちたらね、怖くって動けないかもしれないけど。それでも、先へ進んで帰って来たら、きっとまた行きたくなるんだろうなぁ。ワンダーランド」

「なぜ? 怖い想いをしたのに」

「その時はね。でも、アリスはすごく楽しそうだったから。明日もしあの穴を見つけたら、ワクワクしながら入っちゃうんだよ、きっと」

「夢の中で?」

「あっ、そうか。夢を見てたっていうオチなんだよね。忘れてた」

「うん?」

 覗き込んだ草間の頬は桜色で、閉じた唇を軽く内側へ巻き込んでいるのがやけに幼い少女のよう。

 ウサギを追い駆け、穴に落ちる。冒険の入口。ワンダーランドへ。

「私、アリスは本当に行ったんだと思ってる。夢の中じゃなくて、本当にあった、不思議の国へ」

 照れ臭そうに笑った草間を映したまま、一回の瞬きを落とした。すると、有村を取り囲む世界は静まり返り、一度、風も匂いも何もない真っ新な空間になる。

「行くか。ワンダーランド」

「え?」

「落ちてみるか。穴の底に」

「えぇ?」

 有村は脇へ手を差し込み、小さな悲鳴が聞こえはしたが草間を軽々持ち上げて、近くの机に乗せる。

 移動させる間には大きな悲鳴が聞こえたけれど、全く気にならなかった。

「立って」

「えっ」

「立って」

「……うん」

 机の上でゆっくりと立ち上がる草間を待ち、有村は一歩、二歩と後ろへ下がる。

 そして、見上げる首はそのままに、膝を折ってしゃがみ込む。

「どうぞ」

「えっ、なにが……」

「飛んで」

「えっ、無理だよ! 高いし、こわい……それに私、スカート……」

「飛び降りて」

「むり……」

「飛べ」

「あ、有村くん。私、本当に……」

 瞬きも惜しんで草間を見続け、有村は待つ。机の上で草間がスカートを握ろうと、何か言おうと、画面の奥の出来事のよう。

「飛べ。落ちろ。アリス」

「…………っ」

 ようやく、草間が飛び降りた。スカートを押さえ、目は硬く瞑って、着地するなり床にへたりと座り込む。

「飛んだよ! いいの? これで!」

 座ったまま、草間が何やら叫んでいる。見えたとか、見えてないとか。有村は何も答えずに踵を返し、目についた使いかけのチョークを拾い上げた。

 静かな世界で、草木が揺れる。鳥が囀り、風が舞う。光が差し込み、溢れて弾け、喉の奥からせり上がって来る衝動に身を任せ、上を向いて開けた大きな口から、果てしない色彩が一斉に飛び散る。

「…………っ!」

 色の洪水。空気は色。

 吐き出しきるまで色に溺れ、吸い込んだ色が『僕』になる。

 チョークの先がぶつかった。ここから先が、僕の世界。

 他には何もない世界。優しい、優しい、色の国。

「…………」

 おかえり、色彩で出来た『僕』。

 ずっと、キミを待っていた。

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