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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第六章 起動少年
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蕾は枯れない

 スカート丈が極端に短い派手な平野と、きっと卒業まで大きいままの制服を着る灰谷という組み合わせは、通りすがりに眺める藤堂に背中を反らさせてまで注目させる代物だった。

「なんだアレ。アイツ、脅されてんのか? 笑ってるけど」

 どういう理屈だと問う藤堂へは、ハート型に続き女子がした下描きをペンでなぞる相方である鈴木が答えた。簡潔に、橋本にハブられて居場所がないんだと、と。そう教える声色が、露骨に有村を責めている。

「何枚噛んだ」

「精々、一枚。橋本さんと揉めてるのは知ってた。草間さんに謝りたいって言うから、好きにすれば、みたいなことを」

「お前が」

「うん」

「そうか」

 そして藤堂は溜め息も吐かず、有村が向かう画用紙に大きな影を落としたまま、やはり簡潔に「顔を貸せ」と言って寄こした。

 そうなるのはわかっていたことだ。有村は大人しくペンにキャップをし、順番が来るから早く戻って来いという落合の声に手を振って応えながら、階段を上がって屋上へ出た。

 威圧感の権化と化した藤堂に連れ出される形でここへ来るのは、二学期に入って初めてだった。同じ期間、ただサボりたくて有村から鍵を奪わなかった藤堂は出入り口の鍵を閉め、高くそびえるフェンスの近くで足を止める。

「別に何もしやしないが、面倒が起きた時に内容は知っておきたい。お前が知ってること、粗方話せ」

 既に相当に面倒だという声色の藤堂に訊き出されるまま、有村は正直に打ち明けることにした。

「橋本さんと鶴崎さんは、援助交際の常習犯だ。平野さんは嫌々、断り切れずに一回だけのつもりで引き受けた。その時に撮られた写真をネタに橋本さんから強要され、数人の相手を」

「誰から聞いた」

「平野さん本人。嫌だと言って、親にばらすと脅されて泣いていたのを偶然見つけた。で、話を聞いた。僕みたいに好き好んでやってたならいいよ。けど、身体なんて嫌々売るもんじゃない」

「お前は別に金もらってないだろうが」

「同じことだろ、根本は。自分を商品にするのは自分自身でないとダメだ。だから彼女に、嫌ならやめるよう言った。次の日時を聞いていたから、もしもと思って見に行った。必死に抵抗している平野さんを見つけて、相手を追い払った」

「なにやってんだ、お前。また、橋本がやかましくなる」

「もうなった。けど、今度は僕が写真をネタに彼女を脅した。約束させた。もう僕に付き纏わないと。草間さんも、煩わせないとね」

「信じるのか」

「まさか。写真は消してない。彼女が口止めを迫る音声と一緒に、僕の手の中」

「録音」

「他にもある。使える物は使う。草間さんが出し忘れたことにした申請書を奪って処分したのは彼女だ。けど、草間さんが言うから手出しが出来ない。お咎めなしだ? 冗談じゃない。相応の痛みは、受け取って貰う」

「平野は駒か」

「信頼を得るには裏切りが手っ取り早い。悪くない手土産だったから、もう少しだけ庇ってあげてもいいかな」

「怖いなぁ、お前」

「悪びれないよ、今更」

 ありったけを白状する有村を藤堂は責めず、ただ首筋を撫でて背中を向けた。

 フェンスの向こうに何を見ているのか。雲のない空か、それ以外か。特に何を見たというわけでもない顔で振り向き、背を向けた時と全く同じに揺るがない有村の視線と目を合わせるなり、藤堂はその大きな身体でフェンスを鳴らして寄りかかる。

「望みは退学?」

「いや。大人しくなれば、それでいい」

「寧ろ、殺してやるって風に見えるがな。やめろ、その目。俺でも怖ぇ」

「…………」

「少し冷静になれ、有村。これ以上、お前は動くな。わかってんだろ。叩かれたらお前も、似た場所から埃が出る。騒ぎを起こすな。問題を起こすな。坊ちゃんを連れ戻したいヤツに、餌なんかくれてやるな」

「…………」

 ようやく落とした瞬きで、有村は瞳の表面が乾いていたのを知った。微かだが、痛みがある。どの辺りから忘れていたのか。藤堂が口を開いた最初からか、その前からだったような気もした。

 草間を想う延長線上に橋本がちらつく度、思考が冷えて仕方ない。邪魔だ。あの女が目障りだ。自分のというより、草間の前から消してしまいたい。言ってしまえば、平野ごと。

 揮われた痛みの記憶は消えないのだ。どれだけ時間が経とうとも。

 断ち切れない影のように。水に垂らしたインクのように。全てが消えてなくなることはない。

 謝って済むのは、致した方の気分だけだ。された方は忘れない。腹が立っていなくても。憎んでなどいなくても。裂けた皮膚や流れる血の感覚は、いつまでも有村の背中に残っている。薄くなるだけで消えない、傷跡と一緒に。

「有村」

 呼びかけられて、有村は視線を上げる。

 受け取った藤堂はその頭に手を乗せ、久々にグルグルと回す仕草をし、最後に軽く突き放した。

「お前は充分、手を打った。だからもう橋本に関わるな。相手にするな。こういうのはお前の領分だろうが。これ以上がしたいなら俺にやらせろ。そいつは俺の領分だ」

「君は、殴るしか能がない」

「だったら俺に、橋本を殴らせろ。手加減くらい出来る。信用しろ。俺を」

「…………」

 確かに、互いの領分はいま、逆転している気がした。

 言い聞かせようとする三白眼を見つめ、有村はふと息を吐く。少なくとも、この自分はらしくない。不慣れなものに手を出している疲労感が、ドッと押し寄せて来た。

「僕いま、怒ってる?」

「そうだな。それで違うって言うんなら、まぁ、嘘だと思うな」

「そっか。そうだね」

 どちらにするか悩み、有村は藤堂に礼を言った。短気な藤堂に窘められるのは、落ち着きを取り戻した有村にとって自己嫌悪の種だ。本当に、らしくないことをした。

 藤堂もまた、他人のことは言えない風体でいた。言いたいことを諸々飲み込んだ顔で、物分かりの良いフリをする。胸倉くらい掴みたいところなのだろう。掴まれても文句の言えない有村だから、何を言わずに下を向く。

「今の顔、間違っても草間に見せんなよ。トラウマになる」

「見せないよ。本当は、怒りたくない。怖いんだ。気持ち悪い。頭の中が、真っ黒で」

 窓のない物置部屋の夜より、真っ黒で。その色が自分の中に入り込む日はリリーの食事の時間さえ、随分と過ぎてから思い出すくらいだった。

 他に何も考えられなくなる。真っ黒で。ただただ、真っ暗で。何も見えなくなることは、痛む背中を丸めて床に転がるひとりぼっちの物置部屋よりずっと激しく、怖いこと。

 色がないのは酸素がないと同じだ。呼吸が出来ない。

 リリーを失くして色彩が消えても、灰色だけは残ったから息をしていた。それさえ見えない真っ黒が、有村は怖い。

「普段は?」

「わからない。でも、黒は他の色を飲み込んでしまうから、廊下で僕を見た草間さんの色が実は殆ど見えなかった」

「申し訳なかったけど、嬉しかったとよ。さっき聞いた」

「そう」

「お前にまた助けられたってな。気にすんな。草間はどうせ気付かないし、気付いたって、お前が橋本に腹を立てるのくらい理解する」

「怒りたくない」

「わかってる。だからそれを俺にやらせろって言ってる。な。俺の領分だろうが」

「バカみたい」

「ぬかせ」

 全てを飲み込んでしまう黒がいつか、自分を正真正銘の化け物にする気がしている。

 二本足で歩けもせず、地べたを這う黒い塊になって、何本も生やした鉤爪の手で辺り構わず他人を切り裂き、幾重にも連なる牙しかない鋭利な歯をむき出しにしながら涎を流して耳まで裂けた大口を開け、何もかもを噛み砕いて食らってしまう、化け物。

 久々に、数年ぶりに、実家にいた頃ぶりに、いつからか稀に脳裏に浮かぶようになった化け物の鮮明なビジョンが、俯く視界で自らの広げた手を見つめる有村の中で姿を現す。それが、言葉にならない声で言っている。これがお前の成れの果て。いつか、お前を飲み込んでやる。お前を食らい尽くしてやる。だから早く、諦めろと。

「有村?」

「…………」

 諦めて、早くこの身を差し出せと、黒い化け物が言っている。クツクツと笑いながら。濁った涎を垂れ流しながら。

「……こわい。藤堂」

「…………」

「止めて。怒りたくない。僕を止めて。この黒は、嫌だ」

 人ではないものになる。人形よりも醜いものになる。

 穢れの結晶。醜悪の結合体。なりたくない。そんなものに、成り果てたくない。

 全て忘れて夢の中で生きる父親の方がまだマシだ。美しさに憑りつかれて全身にメスを入れる母親の方がマシだ。この世で最も存在してはならない化け物の核が、この身体のどこかにある。手を突っ込んで千切り取りたいのに、どこにあるのか、わからない。

 こめかみの辺りから滑り込ませた両手で頭を抱え狼狽する有村を引き寄せ、藤堂はしっかりと呻く身体を抱きしめる。

「わかった。止めてやる。俺が、必ず」

「…………」

「大丈夫だ。お前は負けない。ひとりが不安なら、俺を巻き込め。引き上げてやる。何度でも」

「…………」

 藤堂が触れる、傷だらけの背中が疼いている。皮膚の下の肉が歪に盛り上がり、そこから鉤爪の手が生えて来る気がする。何本も、何本も、ただ、他人を傷付ける為だけに。

 詰まりたがる息を吐き、有村は藤堂の胸を押して、身体に回る腕を解かせた。

「らしくないよ、藤堂。男同士で抱き合うなんて」

「抱き合ったんじゃねぇ。掴んだだけだ」

「そう……」

 息を吐く度、頭の中の映像は煙のように消えて行く。

 化け物のビジョンも姿を消し、あとにはいつも、途方もない疲労感だけが残る。

 有村はポケットから携帯電話と小型のボイスレコーダーを取り出し、藤堂へ預けた。

「写真と音声、君に預ける。消すなり使うなり、好きにして」

「なら、写真はメールで寄越して、お前の方は消せ。こっちは受け取るが、携帯預けたら困るだろうが」

「そうだね。なにしてるんだろ、僕」

「ホントにな」

 慣れた手つきで有村の携帯電話からメールでデータを転送し、藤堂は写真の削除までを終わらせて、有村の手へそれを返した。ぶら下がっている、草間がくれたストラップが揺れている。ゆら。ゆら。ゆら。止まるまで見ていたら、泣けない自分が嫌になった。

 らしくないことをするからだと、藤堂が言う。したこと自体は潔癖症の有村らしいとしつつも、お前は他人を陥れる画策を進んで出来るタマじゃない、と。

 そうであれば、いいけれど。最後の告白に、有村は平野に対し、あの目を使ったのを告げた。

「そんな顔すんなら、これでもう本当に、二度と使うな。あんなもんを使わなくても、お前が誘導なんざしなくても、学校のヤツらはとっくに、お前を買ってる」

「いい子のフリをしてる僕をね」

「いい子には違いねぇ。ちょっとばかり、良くない頭も回るだけだ」

「物は言いよう」

「折れろ。いい加減」

「うん」

 次はどちらか悩まずに、有村は藤堂へ向けて「ありがとう」を投げる。藤堂が何に気付き、どこまでを承知して屋上まで連れて来たにせよ、問い質して止めてくれなければ有村は橋本をもっともっと懲らしめていたに違いない。救世主のフリをして、助けられたと思い込ませた平野を最後の最後まで利用し尽くしていただろう。そうする自分が、あまりに容易く想像出来る。

 陰湿なのは僕の方か。他人の苦痛を、好機と捉えてしまうだなんて。

 預けたふたつがこのまま日の目を見ることなく藤堂の記憶からも消えてしまい、いつか掃除のついでに見つけて捨ててくれればいいと、早く戻らないと女子が煩いとぼやく藤堂のあとを追う有村は、見つめる背中にもう一度だけ、声には出さない『ありがとう』を告げた。

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