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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第一章 初恋少女
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月曜日はやって来る

 甘い夢を見ていた。そう、あれは何処かで見たお伽噺だ。


 人里離れた森の奥でひっそりと暮らしていた少女と、突如現れ彼女に手を差し伸べたひとりの男性。『さぁ』と促されて手を取れば、彼は紳士然とした振る舞いで、至極当然にその甲へと触れるだけのキスをした。

 柔らかな唇の感触。ちゅ、と可愛らしい音を立てて離れていく些細な衝撃に、木々の合間から『たいへんだ』と小鳥たちが囀る。

『まぁ、なんということ』

 驚きに目を丸くする彼女を見上げ、彼は一歩下がると恭しく頭を下げる。

『これは失礼。あなたの美しさに心奪われ、つい自分の名も忘れてしまいました』

 おゆるしください。

 右の手を胸に当て、許しを乞う姿に少女の胸がざわめく。

『ご冗談はおよしになって。わたしは恋も知らぬ不束者。あなたのような紳士様に、乞われるほどの価値もない』

『可愛らしい小さなお口で、おかしなことを仰る方だ。ひと目で恋に落ちるのに、清水の如き純真な眼差し、それに勝るものなどありますまいに』 

 彼は彼女の手に触れたまま片膝を着き、その前へと傅いた。

『ああ、ようやく出会えた愛しい人。どうかこの哀れな旅人に、命のひと雫をお恵みください。あなたのその透き通る純潔で、私の渇きを癒してほしい』

 木々を抜ける白い光に照らされて、うっとりと彼女を見つめる彼の瞳は宝石。揺れる髪は絹に負けずしなやかで、声を上げれば空が色めき、身じろげば風が躍る。

 世界を作る全てのものに祝福されているような美貌を持つ彼が、一度、深い瞬きをした。

『わたしは、なにを』

 少女が尋ねる。

 この世のすべて、そんなあなたに何を返せるだろうかと。何を捧げられるかと。

『そのままで結構。あなたが望むなら、あの雲もあの太陽も、夜空に浮かぶ月さえ差し出してみせましょう。私のこの愛を受け取ってくださるのならば、この世の全てを差し上げて構わない。あなたこそが――』

 紳士が答える。

 あなたこそが、私の世界そのものなのだ、と。

 ――これは、ゆめだ。

 いつの間にか同調していたらしい少女に成り替わり、感情までが込み上げてくる。嬉しく思うと同時に、感じる恐怖。それは失う怖さであり、見限られる怖さ。

 怖いのは辛い。怯えて暮らすのは耐えられない。それならばいっそ、わたしなんかが愛されるはずがないと最初から思っていればいい。期待しなければいい。そうだ。わたしは愛されない。私は誰にも気付かれない。あのきれいな目に映るのさえ本当は奇跡のような出来事で、身に余ること。わたしなんかが、私なんかが、その手を取っていいはずがない。

 ――ゆめだ。

 そう強く念じた時、どこからともなく風が吹いた。瞬間、目を開けていられないほどの花吹雪が舞って、視界の全てを埋め尽くしてしまう。

 それが過ぎたあと少女の姿を借りた草間の前には見知らぬ紳士ではなく、ずっと憧れていた窓際の彼の姿があった。

 白く長い指、栗色の髪、黄色にグリーンの光が差す柔らかな瞳。

『好きだよ、草間さん。どうか、好き勝手に描いた頭の中の俺じゃなく――』

 ――生身の俺を愛して?

 静かに鼓膜を揺らせる心地の良い声に射抜かれて、淡かった世界が一気に鮮やかさを取り戻していく。

 一面に咲いていた花は消え、四角い教室が現れる。

 取り囲んでいた木々もその姿をクラスメイトに変え、遠くに聞こえる小鳥の囀りは人の声へ、纏うドレスは制服になり、それでも指先を包む有村だけがそこに留まる。

 夢を見ていた。とても暖かく、優しい夢を。

 手の甲にくちづけて、腕に上がって、頬から忍び込んだ指が髪を掻き分けて、うっとりと見つめて来るヘーゼルの瞳が、瞳が――。

 ――見え、ない?

 ぱちっ。

 目が開くと、そこには見慣れた天井があるばかりだった。

 ジリジリジリジリ。ピピピピピッ。

 目覚まし時計と携帯電話のアラームが鳴り響くは草間の部屋。昨夜睡魔の限界で潜り込んだベッドに横たわり、掛け布団を握り締める草間は数秒間の沈黙の後、みるみるうちに茹で上がった。

「……アアーッ!」

 断末魔の叫びを上げて、長く伸びた尾が爽やかな朝に木霊する。

 もう少しで触れそうだった口元を押さえ、悶える足が布団の端から出たり入ったり。シーツの上を闇雲に転がる草間の枕元からボトリと落ちた携帯電話の充電は、残り三十パーセントと表示されていた。

「なんてことっ! なんて……ッ、アアーッ!」

「っ、ひとえっ! ひとえ、どうしたの! なにっ、なにごとっ!」

 ドアと一階までの階段越しに慌てふためく母親の声が轟く中、夢で見た有村の妙に生々しい色香が目に焼き付いて、草間は再びはち切れんばかりの羞恥に悲鳴を上げた。

 なにを期待いっぱいに見つめ返しているんだ、夢の中の私。と、言うか、なんて夢を見てるの私。

 恥知らずも、大概にして!

「アーッ!」

「ひとえー!」

 そうして騒がしく幕を開けた新しい一週間の初日、月曜日。草間は週末に輪をかけて寝不足気味だった。

 一昨日の晩には久保と、昨日の晩には落合と深夜まで長電話に耽っていたからだ。何時に眠ったのかすら、よく覚えていない。

 おかげでたいぶ地に足が着いた気がするが、単に寝足りないだけなのか、夢の余韻か、重い瞼は今日も今日とて眩しい太陽を前に殆ど開く気配もなく、食卓に並ぶ朝食を眺めた草間はこの世の終わりのような深い溜め息を吐いた。

「どうしたのよ。一昨日デートから帰って来てからずっとご機嫌だったのに」

 それでもなんとか制服に着替えてオレンジジュースに口をつける草間を見やり、皮を剥いたリンゴを三欠け乗せた皿を差し出した母親がそう問いかければ、隣りで新聞を広げていた父親が静かな声で「母さん」とそれを窘める。

 そんなやりとりに口を挟む気力すらもなかった。フォークを握るのも億劫だし、リンゴをひと欠け食べるにも時間がかかる。

 シャリ……、シャリ……。

 スロー再生でももう少し生き生きとしているだろうという娘の様子にいよいよ重症だと察したらしい父親が「そっとしておいてやれ」と庇ってくれたのは嬉しかったが、そのくらいで引き下がらない母親だとも知っているから、草間はまた大きく項垂れた。

 シャリ……、シャリ……。

 蜜が入っていて甘いはずのリンゴが、ただ水っぽくて食べ難い。

「だって気になるじゃない」

「だって、とか言うんじゃないよ。珈琲、おかわり」

「なによ、お父さんだって気になってしょうがないくせに」

「母さん。珈琲」

「はいはい」

 昨日から興味津々の様子で隙あらば娘の恋路に首を突っ込みたがっている母親とは対照的に、元より落ち着いた風体の父親は草間を案じ、終始その矢面に立ってくれていた。

 話したくないわけではないが母親にはどうも人を茶化す癖があって、話を最後まで聞かないせっかちなところがある。早とちりをして、勝手な勘違いで暴走するような人だ。そこが良くないと日頃から言っている父親だから、追及されたくない草間の気持ちもわかると気の毒そうな顔をする。

「言いたくなければ、いいさ。気にすることはないよ」

 渋々キッチンへ戻る母親の足音にホッと胸を撫で下ろす草間の頭を撫でた父親はそう言って、柔らかく微笑んで見せた。

 母親は時に笑えばいいと思って、などと零すが、草間は幼い頃から父親が見せるこの笑顔がとても好きだ。心優しい父親の全てが詰まったような笑みには、それだけで心を落ち着かせる効果がある。

「ありがとう。話したくないわけじゃ、ないんだけど」

「わかってる。今はまだ、だろう? いいんだ。そういうこともある。母さんには少し難しいだろうが――」

 そこまで言って、父親は草間と目を合わせると小さく笑った。

「母さんの恋人はテレビの中だから、並んで歩ける仁恵が羨ましいんだよ。困ったもんだな」

 囁くように呟いた父親の、持ち上げた新聞紙で隠した大袈裟に口の端を下げる情けない表情を見た草間は思わず、つられて「ふふっ」と笑みを零した。昔からこのおかしな顔には弱いのだ。

「いい子なんだろう?」

 だからつい、その隙をついて問われると口が軽くなってしまう。

「うん。すごく」

「そうか。パパよりカッコイイ?」

「うん」

「なにぃ? それは聞き捨てならないな」

 形ばかり怒っているぞという風に眉を上げる父親にまた頬を緩めた草間は、「でもね」と今度は自分から距離を詰める。

「すっごく、ビックリするくらいカッコイイんだけど、それだけじゃないの。本当に優しくて、いっつもニコニコしてて、すっごく周りに気を遣ってくれる人なの。成績も良くってね、中間は学年でトップだったんだよ。なのに全然自慢げじゃなくて、たまたまだとか言うの。あと、読書家でね。私より読んでるんじゃないかな。それにね。私、ずっとちゃんと話せなくて、話しかけてくれても無視とかしちゃってて、本当に走って逃げちゃったりとかしたのに全然怒らない、って言うか嫌な顔もしないで、寧ろごめんねって謝ったりするような人で。有村くんは悪いこと全然ないのに、絶対にね、人を責めたり、悪く言ったりしない人なの。なんかね、おっきいの。背もなんだけど、こう、心が…………あ。」

 堰を切ったように捲し立ててから、それを静かに見つめる父親の視線に気がついて、草間はゆっくりと身体を引き元の位置へと戻った。

 いつもこうだ。言いたくないならと言うくせに、父親はいつも母親より先に草間の口を割ってしまう。思えば父親のこういうところは有村と少し似ているかもしれない。彼も彼でいやに聞き上手、引き出し上手なところがあるし、昔なにかの雑誌で結局父親と似た人を好きになると読んだ時まさかと思ったのも強ち見当違いでなかった、ということなのだろうか。

 くやしい。勝手に話しておいて、だけれど。

 気まずくなってフォークに刺したリンゴを大口で放り込み、小動物よろしく頬を膨らませてシャリシャリと噛みだした草間を笑う声が、俯いて向けた脳天の近くから聞こえて来る。

「……有村くんに、よろしく」

「お母さんには黙ってて」

「言わないよ。その代り、朝ごはんは残さず食べなさい」

「はーい」

 昨日は落合に、一昨日は久保にも言われたのだ。

 話したいの、話したくないの、どっちなの、と。

 その時はただ照れ臭くて誤魔化してしまったが、どうやら自分は誰かに話したくて仕方ないらしい。やはりあの母にしてだなと、草間は少しばかり感慨深くふたつ目のリンゴに手を伸ばした。

 そんなどんより曇り空な草間の耳に入る声は、もうひとつある。

 いつ、如何なる時も爽やかな、アナウンサーたちの声だ。

「ああ、今日も暑くなりそうだ。今年は空梅雨だったな」

 時計代わりにつけているテレビでは、今日も晴天、夏の陽気とオレンジ色の太陽マークが列島全域にひしめいている。父親の台詞に草間もなんとなく記憶を遡ってみるが、最後に傘を差したのがいつだったかもすぐには思い出せないくらい、今年は本当に短く雨の少ない梅雨だった。

 衣替えの移行期間に入った初っ端から、こんなにもブレザーを着ずに学校に通うのは初めてではないかと思えるほど。今日も明日も、気温は二十五度を大きく上回るらしい。まだ六月、夏休みまであと一ヶ月弱もあるのに。

 まだ、六月。そう思ったところで、草間はふと壁掛けのカレンダーへ目をやる。思い返せば有村に初めて話しかけた時も暖かくて、舞い込んで来る風は早くも初夏の香りを混じらせていた。

 そうか、まだ一ヶ月も経っていないのか。目に見える数字としてたった一枚に収まってしまうこの三週間と少しを振り返ってみると、草間はそのあまりの目まぐるしさに気が遠くなる。

 話したこともないクラスメイトから友人を飛び越して恋人になんて、そんな急展開があるか。これぞまさにシンデレラストーリーだ。立ち居振る舞いからなにから王子然としている有村にして、まったくそのままじゃないかと胸の内でツッコミを入れれば、ニヤけた口元をまた父親に笑われて頬が熱くなった。

 それから食パンを一枚食べ、ジュースがコップにあと半分ほどになった頃、ピンポーンと自宅のチャイムが鳴った。テレビ画面の隅を見れば、時間は大凡事前の打ち合わせ通り。

「あら! お迎えかしら!」

 いそいそと駆け出す母親を目の端に留めて、草間は「ごちそうさまでした」と手を合わせる。

 そんな落ち着いた様子に迎えが件の王子様でないことを悟った父親が呆れ顔で珈琲を飲んでいれば案の定、いつもより少し高い声で「はーい」と玄関の扉を開けた母親に応えたのは、元気に挨拶を返す落合の声だった。

「ひとえー。君佳ちゃんよー」

「おばさーん。がっかりしすぎ」

「だって、そうかと思ったんだもん」

「もし来たら、おばさんきっと慌てるよ? メイク薄いーって」

「ヤダッ、そんなに? ねぇちょっと写真とかないの?」

「ないよー。けど文句なしにウチで一番の美形だから」

「藤堂くんより?」

「ちょっと系統違うんだよね。藤堂くんは男前系だけど、なんたってあだ名が姫だもん。目なんかぱっちり二重でさぁ、色白極めちゃってドールフェイスとか言われてて。あ、そうだ! おばさんが前に見せてくれた、あの球体人形みたいなキレーな顔してるよ」

「うそっ! 今度、撮ってきてっ、正面から」

 小声にしても聞こえて来る壁越しの会話が心臓に痛い。

 母親と仲が良い落合がうっかり何か話してしまう前にと急いで身支度を整えれば、父親もテーブルに置いていた携帯電話を手渡しながら、早く行った方がいいとそれを後押しする。

「迷ったら笑顔だぞ。笑顔で元気よく挨拶すれば、あとはまぁなんとかなる」

「ありがとう、お父さん。私、頑張る」

「ん。そこそこにな?」

 出された掌にパチンと自らのそれを合わせ、草間は鞄を掴むとリビングを出た。

 そこでは母親と落合が顔を寄せて加速する内緒話に花を咲かせており、草間はパタパタとスリッパの底を余計に鳴らして玄関までの数歩を駆ける。

「悔しいけど見た目はほんっとーにパーフェクトで、彫刻か絵画かって感じ」

「あら、ヘストンね」

「ヘストン?」

「やぁねぇ、アメリカの俳優さんよぉ。きみちゃん、知らない?」

「知らない……けどっ、日本人離れはしてるかも! イケメンなんて言葉じゃぬるいくらいの超絶美人で、確かハーフ」

「ハーフはおばあちゃんだって言ってたよ。薄い割に良く出たって」

「え、なにその染物みたいな言い方」

「だって、本人がそう言ってたんだもん」

 うっすらと頬を染める母親の脇をすり抜けた草間は、「どこの?」と畳みかける落合に「そこまでは」と言葉を濁して玄関へと降りた。

 もし知っていたとしても、母親の前で話すわけがない。

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