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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第六章 起動少年
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よるをまとう

 あの日から幾度となく、想い返している。

 夏草の感触に半ば寝転ぶようにして見上げた花火が見事で、とても美しかったこと。それを綺麗だと言った草間が笑った瞬間、ドクンと一回、心臓が深く脈を打ったこと。

 それから草間を、藤堂たちを残して立ち去った記憶はある。急いで帰宅したのも覚えている。けれど、草間の頬に触れてから本当に目が覚めて目の前に草間が現れるまでの約三十六時間の出来事はどこか昨日の夢のように朧気で、何もかもが曖昧だった。

 強く残っているのは、どうにもならないほどの衝動。焦燥と言い換えても構わない。

 あの夜の有村は、たったひとつに支配されていた。描かなくては。描き留めなくては。一刻も早く色鉛筆を手にしたくて、描くこと以外は頭になかった。

 残った大量の紙を見れば、描いて、描いて、描きまくったのがわかる。まだ足りない。これじゃない。もっと鮮明に。もっと。もっと。パタリと朧気な記憶さえ途切れるその瞬間まで、遮二無二、色を塗り重ねた。

 喉の奥に詰まるものを吐き出すように。血液が丸ごと、入れ替わるように。まるで、描くことが自分に課せられた使命かのように。鼓動が止められないように、ひたすら湧き出して来る色彩に溺れた。手に、胸に残っているその感覚を何度も思い出そうとするけれど、今日もまた広げたスケッチブックは白のまま。

 初めての感覚だった。まだ絵が描けた頃、有村にとって絵を描くということは当たり前のことだった。食事をする。歩く。ともすれば、呼吸をするよりも意識の外側で行ってきた行動だ。

 目が覚めたから。誰も部屋に来なかったから、気が付くと始めていたというような行為。帰宅した和斗に見つかって朝と全く同じ場所で描いていたと指摘されることはあったけれど、やはりどこまでも普通のことだったのだ。

 誰にも、自分自身にも急かされて描くようなものではなかった。描かなくては、などという想いは、これまで一度としてこの胸に沸いたことがない。目覚めたあとのクリアな感覚は、リリーがいた頃と同じだったようにも思うのだけれど。

 思考に靄がかかっておらず、見える景色が二段階ほど明度を上げている。吸い込む酸素は肺を越え、細胞のひとつひとつにまで行き渡るようだった。軽い身体には、地面に落ちているのではなく、足裏で着地していなければと思うような微かな浮遊感があった。リリーと過ごしたあの頃には、日常的に近くにあった感覚だ。

「リリー、僕は昔からそうだったのかな。好きだったんだ。白に僕の綺麗を詰め込むのが楽しかった。色が遊んでくれているみたいで、怖いくらい焦ったことなんてなかったんだよ。早くしないと、色が逃げてしまうみたいだった。気付かなかっただけで、僕はそう感じていたのかな。ねぇ、リリー。 ……リリー?」

 見渡した部屋が、やけに閑散としていた。寒々しい静寂に、有村は壁掛けの時計を見て、マンションの外へ出た。

 ランニング用のユニホームと思っているわけではないが、そういう時くらいしか着用しない緩めのTシャツと同じくのパンツにスニーカーといういで立ちで、有村は未だ人々の行き交う夜の街を走り抜ける。

 息はまるで上がっていないし、気晴らしにもならない。向かう場所に辿り着いた時刻は概ね予定通りで、大通りから一本入った路地の手前、有村は足を止めて携帯電話でシャッターを切った。

「なにやってんの? おっさん」

 振り向いた平野は、今にも泣き出しそうだった。

「見て? よく撮れてるでしょ。どう見ても、嫌がってる女の子を無理矢理連れてこうとしてるサラリーマン。その子、クラスメイトなんだけどさ。知っててやってんなら勇気あるね。高校生だよ。未成年。淫行って何年くらうんだっけ。知ってる? おっさん」

 携帯電話のディスプレイを見せながら路地を入る有村へ、スーツ姿の男が露骨に慌てつつ、ああだこうだと言い訳を並べ立てる。腕を掴んでいた手は、すぐに離した。その場に留まる平野が丁度中間になるくらいにまで近付くと、喚く男がついに、有村の前で平野を強く指差した。

「コイツらの方から持ちかけたんだ! ネットで相手探して、小遣い欲しさに群がって来るのは、コイツらの方で!」

「だから? そんなの知るかよ。未成年に金払ってやろうとしてんのはアンタだろ。コレ、警察に見せてもいいんだけど?」

「やめろ。それだけは……」

「どーしよっかなー。アンタ、指輪してんじゃん。奥さん泣くよ? 旦那が外で未成年買ってんじゃさぁ」

「やめ……」

「消えろよ、おっさん。で、二度とこの子に関わるな。次見つけたら、コレ、ばら撒いてやるからな」

「…………っ」

 路地を奥へと逃げて行く男は足をもつれさせ、不格好にその後ろ姿を小さくしていく。

 それが見えなくなってから、有村は平野を見た。平野は首回りも太腿も随分と露出した服を着ていて、両手で提げる碌に物が入らなそうな小さいバッグが小刻みに揺れている。

「行くなって言ったのに」

「……なんで、いるの」

「いたら嫌だと思ったからだよ」

 四回目のハンカチは貸さなかったのではなく、持っていなかった。

 代わりに有村は溜め息を吐き、乱暴にうなじを掻いて平野にひと言、「場所、変えよっか」と告げ、目の前を通り過ぎた。



 この辺りはギリギリ、セーフゾーンだ。一本奥は所謂ホテル街で、飲食店も住宅もある手前には、子供が遊ぶより休憩中の社会人が似合いそうな、閑散とした公園がある。

 外灯脇のベンチに座る平野の隣りに腰かけ、有村は二つ買って来た缶コーヒーを翳して見せた。

「ブラックとカフェオレ、どっちがいい?」

「カフェオレ」

「はい。どーぞ」

「…………」

 ベンチの背にもたれかかり、脚を放り出した有村はプルタブを開けてひと口飲んだが、平野は口の開いていない缶で包む両手を冷やしている。

 平野の制服は、近くのコインロッカーにあるらしい。さすがに制服ではまずいと思っている辺り、金を払う方も受け取る方も、薄暗い路地がお似合いだ。

「……訊かないの?」

「なにを?」

「さっき、おっさんが言ってたこと。まりあが適当に、相手探してる。自分がやりたくないのを、アタシに」

「興味ない。正直言うと、関わりたくない」

「そっか……そう、だよね……」

 飲みなよ、と勧めてようやく、平野が隣りでプルタブを開けた。

 随分と静かな夜だ。風はそよぐ程度に吹くだけで、車の走る音もかなり遠くでしているよう。

「走ってんだ?」

「うん」

「やってんだね、そういうの。やっぱ――」

「――なんで来た? 嫌だったのに」

「……まりあが、怖くて……」

「だったら邪魔した? 今日のこと、橋本さんの耳には入るよね」

「……だけど、アタシやっぱり嫌で。行きたくなくて、抵抗して。だから……」

「…………」

「……ありがとう。助けてくれて」

「うん」

 遠くから段々と近付いて来る男女の耳障りな話し声と笑い声が、背後の路地を通り過ぎる。

 遊具のある公園の中にいて、ここは違うと言ってみたところで、向こうとこちらに明確な境界線があるわけではない。一本奥がどういう場所か知っている有村も同じ、曖昧で汚らわしく、さもしい生き物だ。偉そうに倫理など説ける口ではないし、そんな面倒を買って出るつもりもない。

 ただ、ふとポケットから、おもちゃみたいなマスコットを取り出した。ボール状のチェーンが付いていて、平野がストラップにしていたものだ。

「これ、返す」

「え?」

「九月の頭? 携帯、落としちゃったことあったでしょ。あの時、外れたみたいで、ずっと鞄に入れてはいたんだけど、中々返すタイミングがわからなくてさ。橋本さんがいたらダメだし、ひとりの時は、呼び出されて忘れたりして」

「……ずっと、持ってたの?」

「うん。ごめんね、早く返さなくて。いないといいなと思って来たけど、もしいたら渡そうと思ってさ。あー。やーっとスッキリしたー」

 缶はベンチに置き、有村は両手を上げて伸びをする。そのままコキリと、曲げた首を鳴らしたりした。

 外灯の下には時計が付いていて、それが示す時刻は十時四十五分。用件は大凡済んだことだし、そろそろ帰路に就くとして、帰宅する頃には草間の入浴時間も終わっているはずだ。電話をするのに丁度良い。

 視線を戻した時、平野は返したキーホルダーを手に乗せて見つめていた。手の中をそれを指差し、有村は少しだけ頭の位置を下げる。

「あ、けどさ、壊れたりしてないかな。一応、よく見はしたんだけど、もし壊しちゃってたら言ってね。弁償する」

「……なんで?」

「うん?」

「なんでこんな優しくするの? アタシずっと、草間さんをイジメてたのに……」

 キーホルダーをぎゅっと握り、平野は肩を持ち上げて、背中を丸めた。

 震えているのも見て取れる。有村は目線をまた公園のどこかへ移し、起こしていた身体も再びベンチに預けると、星のない空を見上げた。

「まぁ、それを言われちゃうと……うん。気分的には、よくないけどね?」

「…………」

「だからって見て見ぬフリをするのもね。実際に草間さんが君たちに何をされたのか知らないし、現場を見たわけでもないから、そう思えるのかもしれないけど。僕としてはさ、君がいま草間さんに意地悪をしていないなら、もうしないでくれるなら、それでいいような気がしてる」

「……お人好し」

「ははっ。うん。たまに言われる。だけど、僕だって期待くらいする。今がいいならそれでいいってのはあるだろうけど、去年の草間さんの気持ちをラクにしてあげられるのは、いなかった僕じゃないんだよ。久保さんでも、落合さんでもない」

「…………」

 探すつもりになれば、小さい光がひとつくらいは見えただろうか。

 星があろうとなかろうと関係ない今は、あるかもしれない光ではなく、有村はそっと隣りに座る泣き顔を見遣る。笑って見せたのは、ただのついで。

 ふと、公園のベンチは何人掛けなのだろうと考えた。きちんと並べば四人座れる。無理をすれば、細身の人を集めれば五人座れるかもしれない。恐らくは各自がゆったり座れる三人掛けで、端と端に座ったとして、平野と座るには少々狭いような気がした。

 そう思いながら、有村の脇には缶を下ろして充分なスペースがある。平野の奥にも、同じくらい。

 肩先が触れるほどには近くないが、形を歪ませる目の表面に水が溜まっていくのは見えてしまう距離だった。

「……バカにしたり、突き飛ばして転ばせたりして笑ってた。ちょっかい出してたのはまりあだけど、止めなかったし、笑ってたから、アタシも同罪。樹里は可愛いし、まりあのお気に入りだからいいけど、アタシは止めたりしたら、まりあにすぐ捨てられると思って」

「……そう」

「謝ったら、許してくれるかな……酷いこと、たくさんしたけど……」

「それは僕にはわからないよ。平野さんの伝え方と、それがどれだけ伝わるか、相手次第なんじゃない?」

「…………」

 時計の長針が、てっぺんの近くに差し掛かっていた。少し、長居し過ぎてしまったようだ。

 これでは多少、帰りに気合を入れて走らなくてはならない。一分でも長く話していたいのが正直なところだが、最低でも三十分は草間の声を聞いていたいのだ。それでもどうせ、今夜も眠れないのだろうけれど。

 シャワーを浴びるのは電話を切ったあとでいい。帰ったら水を一杯飲んで、ベランダに出て、電話をかける。さて、今日の夜は何を話そう。草間は気に入ったようだから、桜井と石巻の話でもしてみるか。

「……アタシ、これからどうなるんだろう」

 考え事はそのままで、有村はニコリと口角を上げる。

「きっと、なるようになるよ。とりあえず、もうすぐ文化祭だ。平野さんにその気があるんなら、午後の時間、C組に戻って来たら?」

「誰も混ぜてくれないよ。嫌われてるもん、アタシ」

「意地悪をしていた、橋本さんの顔色を窺っていた平野さんは、そうかもね」

「…………」

「だけど正直に話して、悪かったことは謝って、それでも話も聞かないくらい心の狭い人たちじゃないと思うなぁ。優しいよ、みんな」

 色々と考えていたら、早く草間の声が聞きたくなった。

 決めた。帰りは全速力で走るとしよう。誓う有村は珈琲の残りを飲み干し、近くのゴミ箱へと投げ捨てた。「よし」。カランと小さな音を鳴らして、空き缶がゴミ箱に溜まったゴミの仲間に加わると、有村は足に手を乗せ、ペンキの剥げた古いベンチから立ち上がる。

「それじゃぁ僕、そろそろ行くね。帰り、本当にひとりで平気?」

「うん。大丈夫」

「そっか。気を付けて帰ってね」

 ここからそう遠くないという平野の自宅がどちらの方角にあるのかを有村は知らず、更にはまるで興味がない。制服がしまわれているロッカーは駅の近くのあるのだろうが、それに付き合う義理もない。

「…………っ、有村!」

 頑張れば二十分で帰れないかな。二十五分なら、いける気がする。

 軽く足首を回した有村は平野に呼ばれ、手首を回しながら振り向いた。

「あの……ありがとう」

「うん」

 じゃぁねのひと言を残し、有村は走り出した。最初は助走がてら軽めに流し、明るい通りへ出る手前から格段に速度を上げる。百メール走でタイムを計る時の速度だ。これが続く限界が、今のところ大体、約二十分。

 今夜は新記録を樹立するつもりで、有村は夜を駆け抜けた。

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