禁断症状まったなし
「心配かけて、ごめんね」
久しぶりのふたりで歩く帰り道。草間がそっと呟いた。
否定はしないけれど、教室へ戻った有村を見て不思議そうにしたクラスメイトたちへ伝えた通り、有村は一日くらいC組の準備に混ざりたかったのだ。混ざって気付いたこともある。思いの外、放課後は部活の方へ行っている人が多いこと。残っているのは女子ばかりで、それも六割程度であること。その所為で当たり前に力仕事が後回しになっていたこと。気付けば今日も、放送に急かされての下校だ。
夕暮れ時の明かりの所為か、草間の横顔が疲れいる。安堵したようでもあるのだけれど、頑張り過ぎは確かなようだ。
「練習には行ったよ? 戻って来たのは、一日くらい手伝いだかったから。そう言ったでしょ?」
「…………」
「あ、疑ってる。まぁね、タイミング的にはそう思われても仕方ないけど。のんちゃん曰く、僕はいま、草間成分欠乏症なので」
「なに? それ」
「鋭いと思った」
「ふふっ」
ようやく笑ってくれた草間は散歩のような歩調に合わせ、本当は少し避けてしまったと打ち明けてくれた。
ふたりで帰れば、電話をすれば、胸の不安を吐き出してしまいそうで、したくないから避けていた、と。有村は避けられていたのに全く気付いていなかったフリをして、吐き出して欲しかったとは言わずにいた。何から何まで、彼女らしい。
「ありがとう。橋本さんのこと、内緒にしてくれて」
「言わないでって言われたらね。お咎めなしは気に入らないけど、草間さんの気持ちは尊重する。けどね?」
「……なに?」
隣りから覗き込む草間の髪は頬を大きく隠してしまい、有村は歩きながら、それを少しだけ指で除ける。異性の身なりに何を想うこともなかったのだけれど、もしも草間に尋ねられる日が来たら、あともう少しだけ前髪を短くして欲しいと言ってしまうかもしれない。きっと似合うだろうし、黒目がちの可愛い瞳はいつでも、きちんと見ていたいものだ。
彼女自身のように素直な目を。真っ新な瞳を。
「二度目は僕も、黙ってないよ。これは、草間さんにも、だからね」
「私?」
欠片もわかっていない顔で、草間はきょとんと目を丸くする。
忙しそうな瞬きも、数回。だから有村は、草間の瞳ばかりを見てしまう。
「全く、情けないったらないよ。そうかもしれない、だっていい。ひとりで抱え込んじゃってさ。相談くらいしてもらえないんじゃ……僕ってそんなに頼りない?」
「まさか! 頼りにしてるし、頼ってるよ。いつも訊いてくれたでしょ? なにか困ってないか、手伝えることはないか、って。なのに、言いたくなかったのは、私の勝手で……」
「拗ねますよ」
「えっ」
「拗ねます。楽しい話ばっかりしちゃってさ。自分だけ、カッコつけて」
「……ふふっ」
「笑い事じゃないんですけど。人のこと相談下手とか言って、自分だってそうじゃん。なんだよ、もう」
「ふふっ。ごめんね?」
拗ねてるの? 拗ねてるよ。覗き込もうとする草間から顔を逸らす素振りをして、有村は気付いたように頬を片方、膨らませる。
うっすらと開けた目で、笑い出した草間を見てホッとした。彼女は、そうでないと。ひとりで泣かれるよりは、いいけれど。
「ありがとう、有村くん。私、久々に笑った気がする。あははっ」
嬉しくて。そして、途方もなく可愛くて、満面の笑みを浮かべる柔らかい頬へ手が伸びる。
肌と髪の隙間に滑り込ませるように触れた指先が、小さな耳にも触れたのだ。可愛い。可愛くて仕方がない。愛おしくて堪らない。笑顔は漏れなく心地良いとして、どうして彼女だけがこんなにも胸を温めてくれるのだろう。
きっと、彼女を愛しているからだ。さもしい僕が初めて、愛おしく想えた人。
代わりはどこにもいないだろうし、こんなにも美しい人には二度と出会えないだろう。出会えてよかった。彼女でよかった。もう何度目になるか、改めて深く思った瞬間、有村はまたあの欲求が湧き出て来るのを感じ取り、悪戯な手を草間から離した。
「有村くん?」
さすがにこうも頻繁だと、純粋な草間でも不穏に感じてしまうかもしれない。以前の素行やこの身体が清廉潔白でないことは知られているとはいえ、草間は透き通るように無垢な少女だ。触れられた手が欲を纏う穢れたものなら気分が悪いだろうし、そんな手で彼女に触れてはいけない。
抱きしめたいのを我慢して、有村は微笑みかけた。胸の内は罪悪感でいっぱいだ。本当は、その唇を奪いたい。藤堂にどう濁したとて、有村はもうどうしようもなく、重ねてしまいたいのだ。
「こんな時間じゃ、どこにも寄れないね。コンビニでも行く? アイスでも食べようか」
「…………」
残暑の頃は過ぎたというが、腕捲りのシャツでも多少涼しい程度の夕暮れ。今月の初めから、制服は夏服と冬服を各自選んで着用して良いことになっている。それでもまだ草間や藤堂をはじめ、クラスの殆どが半袖の夏服を着ている気候だ。まだ、肉まんよりアイスだと思った。
「……藍色だね。空」
「うん?」
先に少し歩き出し、呟いた草間を振り返れば、彼女はまだ立ち止まった場所にいた。
教えられて、空を見上げる。確かに、これは夕暮れというより夜の間際だ。有村にとって、自分の内側が悪さをする時間帯。草間に触れたくて仕方がない今は特に、早く見送って分かれた方がよさそうだ。
「そうだね」
返した有村を見上げた草間が少々見つめて、また、視線を下げる。
「……手、繋がない?」
「ああ、そうだね。もちろん」
「…………」
控えめに持ち上げられた草間の手を、有村は通学路を引き返して掴んだ。
いけない。これはきっと、末期というやつだ。手を繋いだだけで抱きしめたい衝動がやたらと疼くし、それに負けたらまた草間にキスがしたくなる。
若しくは、禁断症状というものかもしれない。なにせ今の有村は草間成分欠乏症だ。癒しが足りない。過ごす時間が、会話をする時間が足りない。彼女が足りない。自覚するほど、有村は繋いだ手をしっかり握り込めなくなった。
「……ねぇ、有村くん……」
「なぁに?」
呼びかけに応えて見遣った瞳が、不安気な色を滲ませていた。
気付かれたかもしれない。後ろめたさが込み上げて、有村は草間へニッコリと微笑みかける。
「……まえ……なんだか、すごく前な気がするけど。図書館、私まだ行ってなくて。文化祭終わったら、一緒に行かない?」
「うん。行こう。約束ね」
「うん……」
なにか、誤魔化された気がした。いや、確実に、草間はいま何かを飲み込んだ。
疲れていても無意識に見える色が頼りになる有村は、草間が本当に言いたいのは図書館への誘いではないのに気が付いたのだけれど、優しい彼女が見逃してくれたのかもしれないと思ったら、それを確かめるのは至難の業、素直に言えば無理だった。




