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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第六章 起動少年
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不可侵領域

 草間と久保は渡り廊下を抜けてすぐの、旧校舎の踊り場の隅にいた。

 真っ赤な目をした草間の涙は止まっていて、久保は有村を見ただけ。いつものように睨まない。

「久保さんは先に教室へ。草間さん、ちょっと話せる?」

 握り締めたスカートが丈を短くして、白い太腿が露出しかけていた。草間は有村を見ずに首を横へ振り、そうして乱れてしまった髪を久保が優しく、指先で梳く。

「行っておいで、仁恵。有村にも話せないなら、それでもいいから」

「…………」

 浮いた毛束を散らしてやり、俯く頬を隠してしまうサイドの髪は耳へとかける。久保はその手で何度も、草間の頭を撫でた。見つめる眼差しは慈しむようで、草間を待つ有村へ久保はひと言、「仁恵をお願い」、それだけ言って真正面という場所を譲る。

 勝気な久保の意地が口を固く結ばせているだけで、合った視線は落合のよう、草間と一緒に泣いていた。

「草間さん。少し、話そう?」

「…………」

 華奢なその手に触れるのは久々で、気持ちの上では実際よりも久しく感じ、有村は握り返して来ない草間の手を離さぬよう、しっかりと繋いで廊下を渡る。覚束ない足取りに合わせて、ゆっくり歩いた。向かう階段も一段ずつ、ゆっくりと。

 登り切った階段の終着点で、有村はポケットから鍵を取り出す。未だ教員から預けられたままの屋上の鍵だ。これを使うのもまた、随分と久しぶりだった。

 空が、晴れていてよかった。厳しかった残暑も翳りを見せ始め、十月の青空には短そうな秋の気配が漂っている。

 通った扉の鍵は閉めた。これで、ここにはもう誰も入って来ない。

「僕と、草間さんだけだ。教えて欲しい。なにがあった?」

 今日はカラスさえ一羽も休んでいなかった。

 施錠をした有村が振り返ろうと、爪先同士があと数センチの距離にまで近付こうと、草間は顔を上げずに無言を貫く。持ち上がる小さな肩が、ほんの僅かに揺れていた。耐えて、耐えてという風に。

「教室で少し聞いたよ。落合さんが先生に掛け合ってくれてて、全員で、どうにかしようってことになった。失敗は誰にでもあるから謝ればいいって、会田くんが」

 久保が耳にかけてやった髪は落ちてしまっていて、有村はそれを、もう一度かけてやる。耳の縁を指先が掠めたら、草間の身体が小さく弾けた。

 丁度、会田の名前を出した瞬間でもあった。だから有村は、ここにいるのは去年の草間だと思った。自分が出会う前の、草間仁恵。泣けば済む。泣いて誤魔化す。もしも今の草間がそうだとしたら、有村はそんな彼女こそ、ありのまま、ありったけを受け入れたかった。

 喪失が息衝く夏を越え、身を以て知ったから。草間が教えてくれたのだ。人間がこさえた傷は跡形もなく消えることはなく、瘡蓋になり、薄いただの線になり、そうなったあとでも言葉ひとつで救われ、報われることがある、と。

 俯く草間を、有村は見つめた。胸が、酷く軋んでいた。

 床に落ちた埃のように、色彩が、沈んでいた。

「でもね。僕は君が、大切な申請書を出し忘れるなんて、しないと思うんだ。君は何度も確認するし、きっと急いで出しに行こうとした。そんな気がする」

「……ちがう」

「なら、その紙は今どこにある? 鞄の中?」

「……ううん」

 たったひと言を絞り出しただけで、草間の目から涙がポロポロ溢れ出す。

 止め処なく、尽きることもないかのように。それほどの涙を人知れず溜め込んでいたのだと思うと、有村は気付かなかった自分が果てしなく情けない反面、草間がただ、愛おしい。

 かけるべき言葉はあったかもしれない。相応しい言葉はもっと、きっとあった。

 しかし有村はたったの一度、目の前にいる愛しい人の名前を呼び、そっと腕を広げた。

「おいで」

「…………っ」

 草間は少し躊躇った。けれど嗚咽を引き連れて、有村の胸の中へと飛び込んで来る。

 ワイシャツの胸を掴む小さな拳が細かく震える。縋り付く身体が、切ないほどに耐えていた。泣きじゃくる草間を抱きしめて、有村は何度も頭を抱える手の甲越しにくちづける。背中へ回したもう片方は耐えても、草間を一層、引き寄せた。

 なにがあった、と、もう一度だけ尋ねたのだ。そうして草間は途切れ途切れに、ポツリ、ポツリ、と話し始めた。

「期日があるから、早く出さないとと思って。書いてすぐ持って行こうとしたの。途中で、橋本さんに会って、実行委員の仕事、手伝ってあげるって。自分で出すって、返してって言ったけど、親切なのに、同じクラスなのに疑うの、って。それで、私……」

「うん」

「そうかなって、思ったの。疑っちゃダメだって。でも、出してくれたか心配で。だったら、次の日にでも先生に確認して、出てないなら、すぐに書き直せば間に合ったのに。私、結局、確かめに行かなかった。何度も行こうとしたけど、教員室の前でなんて言えばいいんだろうって。橋本さん、出してくれたかって訊くのは変だし、そもそも出すのは、私の仕事で……もし、ちゃんと出してくれてたらって、思ったら……」

「うん」

「出してくれないかもって思ったのに、取り返さなかった私が悪い。心配だったのに、確認しなかった私が悪い。私、実行委員なのに、責任者なのに……また、みんなに迷惑かけて……全部、私が、わるい……」

「……それは違うな」

 胸の中、草間は強い口調で「違わない」と否定する。話すというより、それは叫びに近かった。

 布を握るのをやめ、草間の拳は繰り返し有村の胸を叩く。一回。二回。回数を増すほど、草間がどれだけ悔しいか、骨の内側にまで沁み込んで来るようだ。

 悔しいはずだ。情けないはずだ。今年こそ頑張って全うしたかった、草間だからこそ。

「君は自動車に跳ねられて、歩道を歩いた自分が悪いと言うのかい?」

「…………」

「目に浮かぶようだよ。君は何度も、返してくれと言ったんじゃないか? 彼女は笑って、返さなかった。ちがう? またいつもの意地悪だと思った。それでも君は橋本さんを信じたかった。同じクラスの仲間だから。そういう君の根本をどうか、悪者にはしないで」

「…………」

「君が、言いかけてやめたのは、これだね?」

「……うん」

「ごめん。心配で、ひとりで、苦しかったね」

「…………っ」

 身じろいでも、拒絶のように暴れても有村は草間を離さずに、何度も何度もその艶やかな髪を、頭を撫でる。何度も。何度も。草間が声を上げて泣き出し、それが徐々に消えるまで。

 今日は風が凪いでいた。だから雲が流れない。それでいい。変わらない空でいて、この時間が永遠でも構わない。草間の涙が、枯れるなら。

 しゃくり上げる背中で手を弾ませ、髪の上にキスをした。

「君はもう、何も心配しなくていい。思うように、君の頑張りたいを貫いて。胸を張って、正しいと思ったことをすればいい。間違ってたらちゃんと言うよ。君をもう、ひとりで悩ませたりしない」

「……うん」

「させないでね、草間さんも。ホント、水臭い検定とかあったら絶対、余裕で一級取得してるよ?」

「……もう。なに言ってるの……っ」

 胸の中から黒目がちな草間の瞳が有村を見上げ、細められた。綻ぶように、緩むように、そうして草間が小さく笑えば今回もまた貰ったのは自分の方だという感覚になり、有村はつられて笑う。

 濡れた顔を拭ってやり、改めて髪も手で整えた。泣き過ぎて熱を持つ頬に両手を添え、有村は肘の曲がる至近距離から草間を見つめる。

「大丈夫。もし、君が自信を持てずにいるのなら、本気で君を信じている僕を信じてよ。うん?」

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 両手を動かして頬をグリグリと潰してやったり、赤くなった鼻先に触れたり、摘まんだりした。

 やめてよ。そう言って、草間がやっと笑い声を上げた。クスクス。アハハ。可愛くて、嬉しくて、有村はもうしばらく遊んだあと、最後にギュッと抱きしめる。

 この腕を解いたら、さすがにそろそろ教室へ戻らなくては。

 抱擁の最中、柔らかく細めていた目を徐々に見開き、有村は屋上の床を見据えた。口では「そろそろ戻ろうか」と言い、胸の内では『やったな』と、その四文字が酷く重たいスイッチを入れた。

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