立ち位置
有村の携帯電話に一通のメールが届いた。一ヶ月前と比べ、格段に賑やかな昼休みが終わる直前のことだ。
机の下で一読した有村はいつものように昼食のゴミを捨てたあと、手を洗いに行くフリをして教室をあとにし、屋上まで階段を上った。
「さっき、まりあが送って来た。今月、二人目」
階段の下や途中からは死角になる、広めの踊り場として横へせり出した壁の奥。
最初に連れ込んだ時に隠れさせたのと同じ場所にしゃがんで待っていた平野が差し出して来る携帯電話を受け取り、有村はそこに表示されているスクロールすら要らない短いメールを、時間をかけてゆっくり読んだ。
「これがあれば証拠になるよ。脅されてるって、先生か警察に相談した方が」
「出来るわけないでしょ、そんなの。学校と親にバラされたくないから、いうこときいてんのに」
「でも、嫌なんでしょ?」
「…………」
「平野さん。僕に、何をして欲しい?」
「…………」
草間にした約束があるので、俯く顔を覗き込むだけで有村は平野に指一本、触れていない。
触れる気もない。ただ、平野が顔を上げるのを、目線を投げて寄越すのを、ジッと見つめて待っている。目の形が歪んでも、中の瞳が水を溜めても、それが頬を伝ってもただ、ジッと。
「……わかんない。アタシ、どうすればいい? 本当に、軽い気持ちで一回だけって思っただけなの。まりあは普通にやってるし、行けなくなって困ってるって言うから……こんな風にするなんて、されるなんて思ってなかった……」
「うん」
「…………助けて、有村」
胸に縋り付いて来る手は一回だけ力強く握るフリをして外し、有村は橋本が平野に宛てたメールを、自分の携帯電話へと転送する。
そうして言った。深刻そうに、音階を落とした声色で。
「穏便に済ませる方法がないか、考えてみる。今日は体調が悪いとか言って、断って。絶対に、行っちゃダメだよ?」
「…………」
「ダメだ、平野さん。こんなの、許されることじゃない。自分をちゃんと、大事にしないと」
「……うん」
ハンカチを貸すのは三度目になる。二回目からはすんなりと受け取るようになった平野は「ありがとう」と呟き、有村はそれに応えるよう、微笑んで見せた。
一回目と同じで、平野には泣き止んでから階段を下りるように伝えると、有村は先に二階分の階段を下る。屋上へ出る扉の前は、告白に相手を呼び出す定番スポット。そこから降りて来る有村も、時間差で降りて来る誰かのことも、今や気にする人はいない。
下りながら考えてみた。さて、どうしたものか。平野はきっと、橋本に従う。それを理由に見切りをつけて、熱血漢の学年主任辺りに掛け合うのも手だ。明るみになれば上等。無用な配慮がされたとして、騒ぎになれば橋本は更に肩身が狭い想いをする。そうなれば残りのひとりもあっという間。
独りぼっちになった女王様はさて、如何にして威厳を保つか。
見物にもならないなと思いながら、教室へ向かった。
「――いい加減にしてよ! 結局、去年とおんなじじゃん! 口ばっかりで、出来もしないクセに!」
階段からは手前になるD組の教室の前方扉と後方扉の中間辺りで、割れんばかりに飛び出した怒声を聞いた。怒声だからというだけでなく気の強そうな今の声は多分、長谷の持ち物だ。
響いたのはC組の教室。急いで駆け寄る有村が到着するより早く、目指す扉を駆け出した長い黒髪が過った。
「草間さん」
「…………ッ!」
咄嗟に腕を掴んで引き止めた有村は、息を飲む。髪を乱して振り向いた草間は大粒の涙をポロポロ零し、歯を食い縛らせて力一杯に有村の手を振り解いた。
そうして駆け出す後ろ姿にもう一度、「草間さん!」と、ありったけの声で叫んだ。この一瞬で脈が暴れ回っている。焦っていた。目の前が暗くなるほど。案じていた最悪が突然、草間に降って湧いたのだ。
追いかけようとする有村は、「私が行く」、そう言って脇を走り抜けた久保に遮られ、小さくなる背中に唇を噛む。何が適切だ。どうするのが正解だ。同性同士の諍いならば、異性の自分が出て行くべきではないかもしれない。鼓動は強く胸を締め付けたまま、有村は教室へと足を踏み入れた。
「なにが、あったの?」
半数が席を立っていた。全員が、有村が入った、草間が出て行ったばかりの出入り口を見ていて、誰かという声色で問う有村に応えてくれる者はいない。
運の悪いことに、教室には藤堂も鈴木も山本もいなかった。あと数分でチャイムが鳴る。この時間、彼らは一階の購買か手洗いに行っていて、いない方が自然だった。
未だ怒りの治まらない様子で肩を揺らす長谷の背を、友人の野田が上下に優しく擦っている。
近くには机に突っ伏し、泣き出している女子もいた。どうしよう。どうすればいいの。そんな声が、嗚咽に混じる。
「……仁恵が、当日の調理室の使用許可、書類出すの、忘れたみたい」
鉛のように重たい沈黙を裂いて、教室の奥、草間の座席の近くから、絞り出すように落合が言った。
「忘れたで済むか! 校内で作った物しか出せないのに、調理室使えないで、どうやって出すもの用意しろって言うの! 出しておくって言った! 申請書持ってるのは見た! なのに出してないって、どういうことよ!」
「そんな……あたしだって、知らないよ……」
気圧された落合は俯き、怒鳴りつける長谷を宥める野田が「君佳に言ってもしょうがないよ」と、怒る身体を横から抱く。後ろで泣いているひとりと、その肩を撫でてあやしているもうひとり、そして、長谷と野田を含めたその四名は、当日の調理担当を引き受けているグループだ。
先日、華やかな装飾で可愛らしく描き上げたメニュー表を、有村も見せてもらったばかりだった。教室から調理室までの距離はそれなりにあるけれど、力を合わせて出来る限り温かい状態で出せるようにしようねと、彼女らが目をキラキラさせて話していたのも知っている。
輝いていた長谷の目が今は怒りに満ちて、有村へと鋭く向けられた。「謝らないよ」。浴びせられるそのひと言が、痛くて重い。
「もちろん。そんなの要らない。だけど、長谷さん。野田さん。三木さんに、由利さんも、出来ればもう少しだけ詳しく、教えてくれないかな……」
「…………」
「わかってる。頭から草間さんの肩を持とうとなんて思ってない。謝るべきは、非がある方だ。付き合ってるからじゃなくて、このクラスのひとりとして、いま何が起きているのか知りたい」
「…………」
「いま、出来ることをしたい。考えたい。だから……お願い。教えて……知ってること、なんでもいいから」
発しておいて自分で思う。結局は草間の為だ。だからこんなにも、胸が苦しい。
クラスの問題ならなんとかしたい。解決に向かわせたい。その、手伝いをしたい。そう思う気持ちは嘘ではないのだけれど、それより強く草間を助けたい。
演技でなく、一切の演出ですらなく下を向いた有村に『草間の為』と突き付ける人はいなかった。
そうしてやっと、椅子に腰かけた長谷の代わりに野田が、口を開いた。
「調理室は毎年、オーブンとか道具の取り合いになるの。だから一週間前に申請を締め切って、先生が時間を調整して区切って、ローテーションのスケジュールを組む。ウチらは文化祭が始まる前にクッキーとか焼きたかったから、最初の一枠を朝一番でって申請した。何時から使えるのか気になってて、他のクラスにはスケジュールが来たって聞いたから、四人で訊きに行ったの。そうしたら、ウチのクラスは申請書が出てなかった。今からじゃ、どこにも入れる隙間がない」
「見落としではなくて?」
「うん。私たちもそう言って、先生がもう一回ちゃんと調べてくれたけど、出てなかった。草間さん、確かに書いたのに。私たちの前で書いたんだよ。朝一番、出来るだけ早い時間から使いたい、って。なのに、出してないって、どういうこと」
野田は無理にでも、冷静に話そうとしていた。声を落ち着かせ、事実だけを述べるように努めたのが、ひしひしと伝わって来る。
また、泣いて済まそうとして。堪えた野田の傍らで、有村に背を向ける長谷が呟く。野田が続けた話では、草間はただ、ごめん、としか言わなかったそうだ。
息を吐いて自分を落ち着かせ、有村は教室の対角線上にいる落合を呼んだ。跳ね上げた顔は今にも泣き出しそうで、間に机を幾つも挟む距離でさえ、震える口元が見て取れる。
「これから先生の所へ行って、なんでもいいから借りられる物はないか訊いて来てほしい。交渉とゴリ押し、君の得意分野だ」
「でも、無理なもんは無理……」
「僕が行って交渉したらまた、他のクラスから不満を言われるかもしれない。期日を過ぎてるのに、ズルいって。始まる前からケチをつけたくないんだ。言い方は悪いけど、君は強引にもぎ取るのが上手い。調理室に行ったことがないんだけど、冷蔵庫とかレンジはないのかな。当日が無理でも、前日とか」
「無理だよ……」
「無理でも、試して欲しい。頼むよ……力を貸して、落合さん」
「……姫様……」
教室を横切るように、端から端でやり取りを交わす有村と落合の間に、行方を見守るクラスメイトたちがいる。彼ら、彼女らは、互いだけを見つめ合う有村と落合を交互に見ていた。そして、その大半が有村の方で視線を止め、数人が息を飲む音がした。
ふと、窓際の前方で会田が席を立つ。「有村」。呼びかけた声は常日頃の軽やかなものでなく、今の有村へ向けるのに相応しいような、とても静かなものだった。
「調理室の隣りに、準備室がある。いつもは授業で使う食材が入ってるけど、今は授業がないから空いてるはずだ。最悪、購買の奥に調理場がある。去年、B組が泣きついて、そこを使ったって聞いた。あと、レンジなら化学準備室と教員室、主事室にもあった気がする。どれかしらなら、いけると思う」
告げたあとで、会田は視線を落合へと移した。
真っ直ぐに向けるその目はまるで、やると言えと言っているかのよう。強いが睨んでいるのとは違う目付きでいて、しっかりと目を合わせてから会田は再び、有村を見た。
「…………」
そしてそのまま、クラス全体を見渡した。
「もう時間がない。起きたことは仕方がない。だから今は、今年は、俺たち全員で動いて乗り越えようぜ。いま、出来ることをしよう。一位取るぞ、文化祭!」
会田の上げたひと声が会田と仲の良い男子数名から始まり、間もなく、教室全体へと広がっていく。
道具くらい持参しても良いはず。使える物でメニューを決め直せばいい。人手が必要なら自分も手伝う。方々で上がる声は他にもみるみるうちに数を増し、やがてその輪がクラスをすっかり包み込むと、「あたし、もぎ取って来る!」、そう言って落合が教室から飛び出した。
「行け、有村」
「会田くん……」
「行け。泣いてる彼女、他人に任せんな。失敗くらい誰でもする。謝りゃいいって連れ戻せ!」
放つ会田に、頷いて見せた。その時丁度チャイムが鳴り出し、踵を返したドアを出る直前で有村は、やって来た担任教師と肩を掠めて擦れ違う。
「おい。もう始めるぞ。どこに行く?」
先程、草間を引き留めた時のよう、腕を掴まれ、有村は顔だけをそちらへ向ける。
「草間さんを、迎えに」
「……そう、か。わかった。でも、早く戻って来いな? 一応、授業中だから」
「はい」
握る指が緩んだので、外れる前に有村は教室を出て行った。
残された担任教師が口元を動かし、気を取り直して教壇へ上がる。
「……今の見た? 姫の顔」
「……こわっ」
座席に着いた誰かが、誰かに言った。
「……あれくらい許してやれよ。どっちの味方も出来なくて、有村だって、つらいんだ」
返したのは町田で、「静かに」と、教卓の向こう側から担任教師が窘めた。




