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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第六章 起動少年
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へたくそ

 予想通り草間に『会えない』と言われてしまった週末を過ぎ、夜の電話も二日続けて断れてしまった火曜日の夜。有村は淹れたての珈琲をふたつ持ち、ソファで寛ぐ藤堂に片方を渡した。

「はい。食後の珈琲」

「サンキュ。しかし美味い肉だったな。佐和さん、自分が食いたくて買って来たんじゃねぇのか?」

 隣りへ座る有村のマグカップには、ブラックコーヒーの表面に溶けた氷の白い名残が雲のように浮かんでいる。それでも息を吹きかけて口に含む有村は微笑み、首を柔く横へ振る。今夜の食卓は肉メイン。ふたりで五人前は平らげた。

「ううん。貰い物だって。佐和さんのお肉好きは有名らしくてね、手土産に。でも佐和さん、また忙しくしてるみたいで。良いお肉は冷凍しないで食べろって言われたけど、あの量だからね。来てくれてよかった」

「ああいう肉ならいつでも大歓迎だ」

「ははっ。で、どうする? 泊まってく?」

「平気か?」

「もちろん。お風呂はもう少しあと?」

「だな。まだ腹が切れそうだ」

「食べたねー、今日は」

 時間は九時を回った辺り。満腹の余韻で欠伸が出そうになるが、大人しく寝るにはだいぶ早い。

 特に見る気のないテレビはつけただけで、チャンネルを弄らずに番組の変わるまま、賑やかな人々の声を流し続けている。それは宛ら、近頃の教室のようだった。

 去年を知らない有村にはない感覚が、藤堂にはある。去年とはまるで違う、今年のC組。男子で唯一裏方仕事に勤しむ藤堂は、鈴木より山本より、衣装制作に掛かりきりの落合や装飾担当の久保よりもクラス全体の状況を把握していて、こうして時折、有村の住むマンションへとやって来るのだ。

「今んとこ順調だ。特に問題も起きてない」

「ごめんね。全然、手伝ってなくて」

「お前だけじゃないだろ。つか、いたって男はほぼ仕事がない。女共は楽しそうだけどな。色んなヤツが言ってる。去年のリベンジだと」

「へぇ」

 どの口が言うんだよな、と言って寄こすその口も、一体どの口なのだろう。藤堂本人も思ってはいるらしく、今年は去年やらなかった分も頑張るそうだ。

 クラスで小間遣いをさせられている藤堂の見立てでは、忙しくなるのは前日と当日の二日間だけ。それも調理担当の女子の話で、男子は腹を決めて女装をする以外、特にすることはないだろうとのことだ。部分的にお手伝いをしているだけの有村も、そんな気がしている。

「お前の方はどうだ。バンドと、女装」

「バンドは相変わらず練習漬け。ふたつ目は訊かないで」

「慣れたか? ヒール」

「慣れないよ。爪先が潰れそう。日常的に履いて歩いてる女性って、すごい」

「そんなに?」

「そんなに。立つだけで激痛。足っていうか、骨が痛い。で、足首つらい。ふくらはぎも太腿も攣りそう」

「マジかよ。で、部屋の中でも履いてると」

「足が痛いくらいで無様な歩き方はしたくないんだよね」

「お前らしいな」

 組んだ態勢で揺らして見せる有村の足には、黒のパンプス。ヒール高は七センチ。因みに、ピンヒール型だ。

 ヒールの高い靴を履く先輩として、キャリーに上手な歩き方を教えてもらった。その時ついでに訊いた早く慣れる方法として提案されたのが、とにかく履いて馴染ませること。そうして家の中でパンプスを履く生活が始まったのが、四日前。草間に『キミちゃんたちと出掛けるから、ごめんね』と言われた、土曜日から。

 思い出した途端に有村は足組みをやめ、下した両足に肘を着いて深々と項垂れた。

「……はぁ」

「溜まってんなぁ」

 教室での草間はもはや、練習頑張ってね、しか言ってくれない音声ガイダンスのようだ。それも全く悪くないのだけれど、有村が聴きたいのは草間がしてくれる草間自身の話であって、見送ってくれる時の小さく手を振る仕草も大変に可愛らしいが、それより求めているのは草間そのもののような穏やかな会話と、時間。

 足りないのだ。圧倒的に、草間成分が。

 身体を起こせば起こしたで天井を仰ぐ姿勢で顔面を覆う有村を見遣り、藤堂はひと口、珈琲を飲む。

「そんなに溜め息つくならしろよ、電話。まだ起きてんだろ」

「疲れてるから早く寝たい、って。そんな風に言われたら、かけられないよ」

「かけろよ。はぁはぁ、はぁはぁ、ウゼェから」

「ひどい! そんなに何度も吐いてないもん!」

 口に含み、藤堂はほんの少しいつもより濃い気がした。もっと濃くても好みの範疇なので、そのままゴクゴクと飲み込んでいく。

 そういえば、先程食べた夕食は随分と藤堂好みの味付けだった。と、いうことは、有村にしては濃い味付けだったということだ。

 今日も部屋は綺麗に片付けられている。床にも棚にも埃はない。しかし、料理中に有村は白の炒り胡麻を買い忘れたと言った。すり胡麻はあったので、藤堂の口では別になんら変わりなく、とても美味なナスの味噌炒めだったので問題ない。

「けどまぁ、今の草間見てると水は差せねぇな」

「うん。頑張ってるもんね、草間さん」

「変わったよなぁ、アイツ。今日も色んなヤツに声かけて、足りないモンはないか、欲しい物はないかって訊いて回ってた。普通のことだけどな。草間がって思うとまぁ、頑張ってんな」

「男子の方はどう?」

「まぁまぁ普通に話してる。声かけられると二、三歩下がって妙な距離が空くけど、草間だからな。された方は笑ってる」

「そっか」

 神の舌など持っていない藤堂が味付けに口を出すとすれば、好物の出汁巻き卵が甘くなるくらいでようやくだ。そこまでの誤作動を有村が起こすはずもないので、藤堂はだいぶ前から有村が口で言う以上に限界であるのを知りつつ、なんら指摘もしないでいる。

 当人がどう思っているにせよ、有村は確実に苛ついている。顔には禄に出さないが、代わりに目付きが言っているのだ。鬱憤が溜まりに溜まっている、と。

 鬱憤。鬱憤が、溜まる。胸の内で復唱し、藤堂はコトリとカップを下ろした。

「気に入らねぇか?」

「なんで?」

「自分は碌に話してもいねぇのに、他のヤツらと仲良くやってる」

「まさか。そこまで幼稚じゃないよ。草間さんが困ってないなら、それが一番」

「ふーん」

 隣りから向けられる有村の大きな目が、不満気な藤堂の意図を探っている。教えてやるように、藤堂は真っ直ぐ見つめ返した。

 佐和は忙しくて、しばらく帰って来ていない。先程、料理をするのは久々だと言っていた。掃除も前ほど念入りではないのだ。時間はあるのに手につかない。見たところ、有村は無自覚のようだった。

「お前、自分で思ってるよりストレス溜まってんの、気付いてるか?」

「自覚はある。けど、そんなに露骨?」

「お前にしちゃ珍しい」

「そう」

 他人から見れば十二分に特技でも、当人にとっては習得しただけということが有村には多い。同じく、これとい言って趣味もないのだ。読書や映画鑑賞は有村にとって、ただの暇潰しなのである。

 そこで藤堂は考えた末、自室の壁に貼り付けて飾っている奪い取った花火の絵を思い出した。

 少なくともあの絵はそもそも得意だったとして、一朝一夕には描けない代物だ。

「絵、描いたらどうだ?」

「なに。急に」

「あれだけ描けるようになるには、相当練習したんだろ。アレはお前の趣味だよな?」

 要は、何かしらのストレス発散を提案したいのだ。没頭して、気分が少し軽くなるような。

 藤堂から見るに有村はインドア派で、ジョギング中も余計なことを考えていたりする。なので持ち出してみた絵だったのだけれど、有村の反応はあまり良くない。

 氷の助走をつけて今や冷たくなっているであろう珈琲をマグカップの内側で揺らし、有村の手は円を描くようにゆらりと回った。

「まぁ、たくさん描きはしたね。趣味って言うと、ちょっとピンと来ないけど」

「ん?」

「ちょっと違う。描くのが好きだったけど、好きで描いてるっていうよりは、描いてたって感じ」

「……それ、どう違う」

「わかんない。けど、そんな感じ。試してみたけどなんか違うから、やっぱり描けないのかなって思ってる」

「……そうか」

 曰く、描き通して丸一日抜け落ちたあの一回がまぐれであったらしい。その前も後も有村は思うように絵が描けず、もう描けないんだと思うという発言も藤堂には二度目だ。

 勿体ないとは思うが、趣味は無理強いするものでもない。藤堂は引き下がることにし、冷めつつある珈琲を飲み干した。

「なら、これから少し走りに行くか。まだ早ぇし、二時間も流せば多少はスッキリするだろ」

「ああ、気分転換を勧めてたのか。やっとわかった」

「他に何がある。電話したいけど出来ないしって思いながら家に居るから、辛気臭ぇ溜め息つく羽目になるんだろうが。そういう時こそ身体動かせ。相手が要るなら、いつでも呼べ」

「別に夜道は怖くないよ?」

「ひとりで走ると草間の家まで行きそうだなぁ、今のお前は」

「……確かに。でも、この靴で走るのは、ちょっと」

「いや、ヒールは脱げよ」

 行くと決まれば適当な服に着替えさせろと藤堂は有村の自室へと消えて行き、取り残された有村は再び組んだ脚の浮かせた方、その足にピタリと嵌るパンプスの先を、そっと撫でた。

 背中を丸めて、ふと、草間を想う。思い切り笑い合ったのは、どのくらい前のことだろう。

 彼女が今、どんな本を読んでいるのか知らない。先の楽しみに、何が待っているのかを知らない。

 最近見た可愛いもの、聞いた面白い話、それを語る草間が何も思い当たらない。他人に言う気のない本音や本心を引き出せるほど、草間と口を利いていない。それが何より、有村の中で引っかかっている。

「…………」

 嫌な予感がしている。大人し過ぎる橋本は何かしら企んでいる。絶対に、なにかする。

 そうなる前に、大事になってしまう前に手を打ちたいが、必ずしもそう出来ると自信を持つには草間との距離が開き過ぎていた。草間にも、何かある。多忙で余裕がなくなっているだけにも見えてしまうのが、有村自身、疲れている証拠なのだろう。

 草間はきっと、どうにもならなくなる最後まで、自分から助けてくれとは言って来ない。動けなくなるまで、ひとりで抱える。そうさせたくはないのに、至らないのは承知している。

 もどかしい。

 たとえ、種まき程度の下準備は着々と整えていたとしても。

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