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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第一章 初恋少女
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もう少しだけ

 それから更に路地を進んだ次の角。換気扇から盛大にカレーの匂いを撒いているレンガ風の外装をした住宅の前を曲がれば、視界の向こうに草間の自宅が見えてくる。

 頬に怠さを覚えるほど笑った楽しい時間も、いよいよあと僅か。家に着いたらお別れだと思うと残念で、知らず草間の足取りは重たくなった。

「…………」

 街灯を一本、二本と過ぎながら、口数の減った有村もそれに気が付いているのだろう。折れた角から四軒目。青々とした生垣に囲まれた白い家の前で立ち止まる草間に「ここ?」と首を傾け尋ねると、弱々しく頷くのを見て「そっか」と小さく笑った。

 ふっと零れた息が、まるで溜め息みたいに聞こえる。彼も自分と同じように、少しは名残惜しく思ってくれているだろうか。

 そんな不安とも期待ともつかない表情で顔を上げれば、その途中で自分と向かい合うように方向を変える有村の爪先が目に留まった。

「今日はありがとう、すごく楽しかったよ。映画もまた観に行こうね。その時も草間さんにお任せしていい?」

「うんっ、もちろん! ……あ、でも今度は約束通りホラーだね! 私でも観れるような、あんまり怖くないホラーなら――」

「怖くないホラーって観る意味あるの?」

「あ。」

「ホント。そういうところが可愛いよね、草間さんは」

 自宅の玄関先だからか、そう言った有村の声は殆ど囁き声のようで、草間は今日何度言われたかわからない『可愛い』の言葉と、その微かな振動のくすぐったさに首を竦めた。

 別に、これで暫く会えないわけでもあるまいし。気恥ずかしさに目を瞑りながら、指を組み重ねてしっかりと繋がれていた手が緩むのを感じた草間は、頭ではわかっているのにと小さく唇を噛む。

 週が明けて月曜日を迎えれば、またいつものように教室で会える。有村はきっとホームルームの始まる間際にやって来て、「おはよう、草間さん」と優しく微笑んでくれるだろう。

 隣りの席になってから昨日まで、ずっとそうしてくれていたように、また月曜日から。

 それを心の隅で寂しく思うこの感情は何だろうか。胸の奥からせり上がって来る憂鬱に似た息苦しさを、草間はそっと溜め息にはならぬように吐き出した。

「有村くん?」

 その目線の先で微かに動く有村の手に、視線は下ろしたままで呼び掛ける。

「ん?」

 そのまま離れてしまうのだと思っていた温かさは今、人差し指から小指までの四本の指先を包まれるようにして、まだ有村の手の中にあった。

「どうか、したの?」

「んー……」

 掬い上げる他の指とは別に、草間の中指の中程に添えられた有村の親指が、ゆったりとした動きで宛がわれるその場所を微かに撫でる。そんな仕草の意図もわからず、小さく唸ったきり黙ってしまった有村にただただくすぐったさを感じた草間は、珍しくも俯いた彼の表情を窺い見ようと首を傾げた。

 近くに立つ街灯の味気ない白色の明かりに照らされて、草間の手の甲を見つめる有村の頬には薄い影が差している。それは伏し目がちに降りた、彼の携える長い睫毛が落としたものだ。

 草間は吸い寄せられるように、そこから更に近付いて行った。

 これが魅力というものなのだろうか。真っ直ぐに見つめられば縫い留められてしまう気すらする有村の目だが、こうして伏せられていると不思議なもので、覗き込んでも見たいと思ってしまう。

 ――そう言えば、吸血鬼とかってそういうの、あるんだっけ。

 ホラー繋がりで人を惹きつけてやまないそれをヴァンパイアが放つチャームに当て嵌め、シンと静まる夜が似合う有村の佇まいをうっとりと見つめてみる。

 まったく無駄のない見事な容姿をしているものだ。改めて眺めれば半日隣りを歩いていたのが不思議になってしまうくらい、有村の浮世離れした美しさというのは慣れることがない。

 美人は三日で飽きるというけれど、まず三日も飽きるほど見つめ続ける方が無理だ。ハッキリとした目鼻立ちをしているにも関わらず、決して大袈裟ではない品のいい掘りの深さが微妙な陰影を生んで、憂う表情になんとも言えない色香を孕ませているのがまた妙に艶めかしく、有村にはどこかそこはかとない儚さもある。

 勿論そうした外見だけが有村の良さではないのだけれど、それでもこんなにも見目麗しい人が自分に出来た初めての恋人だと思うと、やはりとても信じられない思いで胸が苦しくなった。

 こんなに綺麗な人が、私を好きだと言ってくれた。

 私を。私なんかを。

 草間は色を変えた有村の気配に気付きもせず、俄かに微笑みなど浮かべて尚も見上げ続けた。綺麗だな。仰ぐ眼差しは美術品でも愛でるような純粋なもので、瞬きのあとに視線がぶつかっても微動だにしない。

 そんな草間を見て、有村はほんの少しだけ物憂げに眉を寄せた。

「――少し、寂しいなと思って」

 紡がれる声も、心なしかいつもより頼りない。

「…………ッ」

 その刹那、草間が突然頬を赤らめて身体を引いたのは、揺れる影の中で暗い夜の色を差す彼の目を見たからでも、触れられる手を熱いと感じたからでもなく、「名残惜しいね」と微笑んでようやく彼が纏う雰囲気が随分と甘やかなものだと感じ取ったからだ。

 身体中に、一気に緊張が駆け巡る。

「なんだか、今日はあっという間だったなぁ。最初はただ一緒に出掛けて、草間さんともう少し仲良くなれたらいいなって思ってただけだったのに、まさか帰りにこんな風に思うなんてね。月曜になればまた学校で会えるのに、それじゃぁなんだか物足りないような気がして。おかしいよね。頭ではわかってるんだけど、こうして草間さんの家の玄関の前で、ああもう見送らなくちゃって思うと、なんかね。ごめん」

「……ううん。そんな……」

 自分もそうだとは言えなかった。

 ぱらぱらと有村の手の中から零れていく、草間の細い指先。最後に残った中指の先が跳ねていよいよ完全に彼の体温が離れてしまうと、草間の視線はそのまま、そっと降ろされた有村の腕を追った。

「あっ、あの、有村くん」

 呼びかけたのは、半分ほど無意識のうちだった。

「きょ、今日はありがとう。私も、すごく……楽しかった、です」

 それと、髪留めも、ありがとう。

 自分でさえ聞き取れないくらいに小さく、尻窄みになった声。もしかすれば、それは口を開閉させただけで、後ろの方などは音を発してすらいなかったかもしれない。

 けれどそう吐き出すのが草間の精一杯だった。有村が自分と同じように名残惜しいと思っていてくれたこと、それを言葉にしてくれたことが嬉しくて堪らないと、伝えたい想いが急いで空回る。

 駆け足のような一日だった。そのくらいに充実した、楽しい時間を過ごせたことの感謝を、どうしても伝えたいと思った。それだけが今にも泣き出しそうに俯き、震える草間を支えていた。

「それはよかった。でもね、草間さん。どうせなら、そういう嬉しいことは、ちゃんとこっちを向いて言って欲しいなぁ」

 背中を丸める草間を見て、ふぅと吐き出される短い呼吸。溜め息のようなそれが消えていくと、頭に、ぽん、と髪を押される感触がして、草間はおずおずと顔を上げた。

「そんな悲しそうな顔をしないで? 帰り辛くなっちゃうじゃない」

「え……?」

「笑って、またねって言ってくれなくちゃ、じゃぁねって草間さんを見送れないでしょう?」

 まるで小さな子供をあやすような柔らかい手つきと声に、溢れかけていた草間の涙が引いていく。

 撫でるでもなくただ乗せられて離れて行った大きな手を目で追えば、その先にはゆったりと微笑む彼の姿がある。曇りのない笑顔だと思った。どこまでも優しく、どこまでも真っ直ぐなものだと。

 いっそ整い過ぎたくらいの有村だから、それは絵画の中の女神のようでもあったのだ。一度とてそう呼んだことはないが、姫様という彼のあだ名が言い得て妙だと思わず口許が緩んだ。

「そう。そうやって笑ってて? 俺は笑ってる草間さんが好きなんだから」

「な……ッ!」

「ははっ。そうやってすぐ真っ赤になるのも可愛いけどね」

「もう! また、そうやって」

「あはははっ」

 トン。押し返すように肩を突けば、ジャリと靴底を鳴らして有村が一歩下がる。

 触れた指先が彼のシャツを離れ、思わず視線を上げた草間と、見つめ返す有村の間に出来た一メートルほどの距離。それが、たぶん合図だった。教室で机と机が挟む、見慣れた分だけ座り心地の良いその距離に、ふたりの顔は自然と通路を挟んで隣り合ういつものそれに戻っていく。

 そこかしこから漂って来る、温かな家庭の匂い。それらを背に、いっそ不釣り合いなほど甘やかな空気を纏っていたふたり。その境界線が曖昧になって、混ざり合うみたいに、どこまでも穏やかで和やかなものに。

「それじゃぁ、また月曜日に。気まずくても無視とかやめてね?」

「しないよ、そんなこと」

「どうかなぁ。ちょっと心配」

「しないよ。絶対に」

「絶対、ねぇ」

「しないもん」

「わかったよ。あと、もう絵里ちゃんでいいから」

「なにが?」

「久保さんのこと。あと落合さんのことも、何回も言い直してたでしょ? 余計に気になるよ」

「あー……それは、ごめんなさい」

「いいえ。お構いなく」

 目が合って、ひと呼吸。そのあとでどちらからともなく笑みを零し、じゃぁ、と有村がもう一度呟いた。

 玄関前の門扉を開いて、振り返る。そこから階段を二段上がり、ドアノブに手をかけてまた振り返ると、ひらひらと手を振る有村に「そういうゲーム?」と笑われた。

「それじゃぁ、おやすみ」

「おやすみ、なさい……」

 ガシャン。

 閉まるドアの重みでふわふわと浮ついた語尾を断ち切ると、草間は冷たいそれに額を着けて、はぁと長い溜め息を吐いた。肺が空になってもまだ足りない。そのままズルズルと膝を曲げすっかりしゃがみ込んでしまうと、少しばかり歩き疲れた脚を抱えて、もう一度深い溜め息を吐く。

 まだ、足りない。

「ひとえー? 帰ったのー?」

 玄関から廊下を隔てた向こう側。明かりのついたリビングから母親の声が響いて来る。

「嘘みたい……」

 床を擦る椅子を引く音、それに続くスリッパの底を鳴らす音。

「ひとえー?」

 そんな音に日常へ連れ戻されてもまだ、繋がれていた掌や撫でられた頭に感触が残っている。

「帰って来たんなら、ただいまくらい――」

 蹲ったまま、草間は廊下に立つ母親を振り返った。膝を抱える玄関は丁度、夢と現実の中間だ。

「――そのままお風呂、入っちゃいなさい。出たら冷蔵庫にアイス買ってあるから、好きなの選んで、持って行ってね」

 そう言った母親がいつものように揶揄いもせず、そっと背を向けて「よかったわね」と言ってくれたので、草間は泣き笑いのように眉を下げて、「うん!」と大きく頷いた。



 つい長湯になってしまった風呂上りに、好きなのをとは言いながらこれがオススメなのと母親に渡されたパイン味のアイスとスプーンを持って部屋に上がると、草間はそれをテーブルに置いて勢いよくベッドに倒れ込んだ。

 ゴロゴロ。ゴロゴロ。

 シングルサイズのベッドは、一回寝返りを打てば壁が目前に迫る。だからそれを何往復もして、草間は無言のままベッドの上を転がった。

「うー……っ」

 パタン。

 うつ伏せで止まり膝を曲げて持ち上げていた脚を勢い良く降ろすと、ふかふかの布団の端が僅かに跳ねる。

「んー……」

 テーブルに置いたアイスとスプーン、それにベッドの下に置いていた鞄から取り出した携帯電話を眺めて、草間は枕に肘を着くと上半身を起こした。

 スプーンを咥え、蓋を開ける。その間に受信メールを確認すれば案の定、久保と落合から一通ずつ新しいメッセージが届いていた。時間は既に夜の九時。ふたりからのメールが届いたのは一時間ほど前だから、浴槽でブクブクと行き場のない興奮を吐き出していた頃に届いていたことになる。

「……ッ!」

 声にならない悲鳴を上げて枕に顔を埋めれば、すぐ側で冷気を放つアイスから爽やかなパインのいい匂いがした。

「……返事、しなくちゃ」

 冷静になれと言い聞かせるように、ぱくぱくぱくと口いっぱいに大口でアイスを頬張る。キーン。目頭の奥で突き抜けるような痛みが走ると、少しだけ気分が落ち着いた。

 なにから話そう。待ち合わせの時の話から順を追った方がいいのだろうか。

 それとも要点だけでいいのか、書き出しから上手く言葉が出て来ない。メールの文章だけで、ふたりは信じてくれるだろうか。自分自身がまだ夢を見ているようで、実感などまるでないのに。

 どうしよう。枕に埋もれた草間の目に、枕元に置いたバラとビジューの髪留めと、帰り道で交換した有村のメールアドレスが映った。

「あっ! 有村くんからもメール来てる!」

 受信メールの上から三通目。彼からのメールはどうやら、鞄を置こうと一度部屋へ上がり、クローゼットから着替えを出していた時に届いていたらしい。

 草間と分かれたら寝不足だったのを思い出したという書き出しだったそのメールは、改めて『おやすみ』と締め括られており、草間はそれにゆっくり休んでといったような一文と、やはり『おやすみ』のひと言を返した。

 夢でも嘘でも、妄想でもないのだ。ただ見ているだけだった、あの王子様と付き合うことになった。もう隣りの席のクラスメイトではない。恋人。その二文字を思い浮かべるだけで、手の中のアイスがみるみる溶けてしまいそうだ。

 この舞い上がるような嬉しさを、どう伝えよう。

 送信先を久保と落合のふたりに合わせ、草間はもうひと口アイスを口に含むと、うつ伏せのまま立てた脚を楽し気に揺らして携帯電話と向き合った。聞いて欲しいことがたくさんある。鼻歌交じりにメールを打ち始めた草間はこの時、過ぎた今日一日を思い返すので頭がいっぱいだった。

 これから待つのであろう楽しいばかりの毎日を思い描くのに精一杯で、どうして、なんて本当は少しも考えていなかった。

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