汚らわしい欲
随分と長くなったホームルームが終わったあと、今日のC組は本当に掃除が免除され、そのまま銘々流れるように解散となった。
草間も今日はアルバイトがない日だ。落合にはあるので、彼女は先に帰ってしまった。久保がそっと離脱したのは、恋人に会う為。旅行中に揉めていた件についてはひとまず、久保なりに納得出来る形で決着がついたらしい。
一学期の終わり頃からそうだった気がするが、落合と久保がいないと、藤堂たちも何かしら理由を付けて一緒に帰らない。草間とふたりの時間を作ってくれようとしているのだ。いつもはそう気付かってもらわなくて構わないと思うのだけれど、草間がたくさん頑張った今日に限っては、有村も素直に有難かった。
「ありがとう。実行委員やるって言った時、応援してくれて、嬉しかった」
今日は図書館や書店へ行きたいと言わなかった草間は急に、小さくお辞儀をして頬を染める。ついさっきまで交わしていたのは球技大会での笑い話だったので、有村としては突然だ。
「僕は何もしてないよ。頑張りたいって言った草間さんが、頑張ったの」
「うん……」
肩に掛けた鞄の持ち手をギュッと掴む草間は、嬉しそうにはにかんでいる。今年は、上手くいくような気がする。そう語る横顔が、今日も今日とて可愛らしい。
「どうしてダメだったか、ちゃんとわかった気がするの。私、去年はやりたくないって言えなくて、実行委員になって。何をしたらいいのかわからないし、生徒会の人に言われたことをそのまま、みんなに伝えるのも、上手く出来なくて」
自分が悪かったと思っているのが、痛ましいくらいに伝わって来る。担任はずっと気にかけて声をかけくれたというが、相談を持ち掛けることも、去年の草間には難しかったのだ。
草間が言うには、クラスを纏め、時には生徒会から許可をもぎ取らなくてはならないのが、実行委員の務め。一年から三年までの計十二クラスが同時に動くイベントだ。借りられる物や場所にも限りがある。去年の草間は何も勝ち取れず、貸して欲しいと一回言うのが精一杯で、どうしてもと強くは出られなかったようだ。だからクラスの不満が溜まった。草間は、そう思っていた。
「最初はみんな、やる気があったんだよ? 仲の良い子でグループを五個作ってもらって、それぞれ持ち場を決めて、大道具とかセットとか、当日も、誰がどこでどんな風に驚かすって、みんな」
「どこで、ちょっとおかしいなって、なったの?」
「わからないの。急に、最初は、会田くんたちのグループだったかな。やってられないって、放課後、残らなくなって。そのあと、他のグループも次々。私が悪かったの。みんなが借りたいって言った物、生徒会から借りられなくて。それで、怒っちゃったんだと思う」
「確かめた?」
「確かめないけど、きっとそうだよ。私、だんだん勝手に追い詰められちゃって、しょっちゅう泣いてたから。嫌にもなるよ。使えないし、泣くんだもん。纏まらないよ、そんなんじゃ。悪いことした、みんなに。なのにもう一回やらせてもらうんだから、今年はちゃんと、頑張らないと」
教室で落合がポロリと零した話では、纏まらなかったのは橋本の所為だったはずだ。彼女が何かをしたのだろうと思うが、少なくとも草間はそれを知らないか、それ以上に自分の至らなさを未だ、深く悔やんでいる。
別の角度から、例えば会田の性格を考えるなら、彼は藤堂に負けず男らしい人なので、寧ろ困っている草間を助けるような気がする。町田と仲が良いから目立って何かはしなかったかもしれないが、それでも自分の持ち場を適当に投げ出すには相当な不満があったはず。
欲しいものが手に入らないくらいで、会田はヘソを曲げたりするだろうか。有村は、しないと思う。町田もそうだ。草間のことは未だに得意でないらしいが、思ったことを口に出す気持ちの良い彼のこと、そうならそうと、もっと草間を責めるはずだ。草間の中で事例の上がる、確証になるくらいに。
最も違和感を覚えるのは、男子も女子も、という辺りだった。イベント事が好きな湯川は、責任感の強い灰谷は、一体どうしてやめてしまったのだろう。他にもC組には真面目な生徒が多く揃っている。その全員が離れたというのなら、只事ではない。
誰かが音頭を取った。そんな気もする。若しくは、誘導した。その線が濃厚か。橋本なら、ただ楽しんで、やりそうな気がした。
「頑張るのは素晴らしいことだけど、まただよ、草間さん。大事なことを忘れてる。みんなで、頑張るんだ。ひとりで背負うなんてカッコいいことしないでよね」
「でも私、実行委員だし」
「実行委員はみんなの奴隷じゃないんだよ? 出来ない時は言えばいい。手を貸して、って。全員の文化祭なんだから、それで嫌だって言う人は、よっぽど忙しいとかだよ。誰が言っても同じ」
「それは、違うと思う」
「そう?」
「うん」
ふと立ち止まった草間につられ、有村も半歩先で振り返る。風に煽られ揺れる草間の髪に、悲しい色が混じっていた。
「わかってるの。もう一度やらせてもらえたのは、有村くんがいるから。有村くんが私の味方をしてくれたから、みんな、去年と違う」
「どんな風に?」
「全部。去年は、そもそもあんなに案が出なかったの。半分もなかった。お化け屋敷でいいんじゃないって、そんな感じで」
悲しいのと、悔しい色。黒に近い、良くない色。
有村にとって、草間に抱えて欲しくない色だ。せっかく美しい彼女の色がくすんでしまう。
何を言えばいいのか少しだけ悩んだ。その隙に草間はまた、無理をして笑った。
「やっぱり、有村くんはすごいね。有村くんが言ったら、みんな、全然違う。今年は張り切って、一位を取ろうって。ウチの文化祭、クラスの出し物もどこが面白かったか投票があるって言ったでしょ? 一位になると、ちょっとだけと賞金が出るの。全員で、ジュースが飲めるくらい。絶対に取ろうねって、楽しもうねって。こんなに変わるんだね。 ……有村くんが、言うと」
「…………」
普通、こうした物言いになる人にはもう一色、別の色が混じる。妬み。恨み。そういう類の、悪意だ。
それが草間に見えないのが嬉しい反面、有村は更に言葉を悩んだ。余計なことをしただろうか。いや、したのは事実だ。確実に、有村はクラスを煽った。橋本を言いくるめるフリをして、一致団結などという縁遠いものを、聞く全員に持ち掛けたのだ。言えば届くと知っている自分という、有村洸太という代物を、あの時の有村は正義感のフリをして意識的に使った。
「……みんな、罪悪感があったんだと思うよ。去年の、君に対して」
「そうかもね。みんなに謝られた。でもそれも、私が、有村くんの彼女だから。だからどうって思ってるんじゃないの。感謝してるの、有村くんには。その分、頑張らなくちゃって、思うだけで」
また、あの笑顔を浮かべ、草間は「ごめんね」と白い歯を見せる。楽しい時にだけ笑えと言った草間が、そんな笑顔を作るのだ。作らせたのだ。所詮、人間も群れて生きるものと高を括っている、草間に隠した有村の本性が。
笑えそうになかった。笑いたくなかった。笑える立場でないとも思った。
ただ、無性に堪らない気持ちになって、考えるより先に出た手が草間の腕を掴み、その身体を引き寄せていた。
「ど、どうしたの、有村くん」
「……恥ずかしい」
「なん、で? なんで、急に……」
抱きしめて頬を寄せる頭の脇で吐いた有村の呼吸はまるで、溜め息のよう。
胸が上下するほど吐き出して、それで気付く鼓動の乱れ。心臓が強く脈打っていた。高鳴るのではなく、ただ闇雲に暴れている。
「ほ、本当に、どうしたの? あ……怒った? 私、またしちゃったかな……叱られたのに、笑ったね、いま」
「そうじゃない。笑ったけど、そうさせたのは僕だから。恥ずかしい。君はこんなに、綺麗なのに」
「わ、私は、そんな……」
「綺麗だよ。君は」
腕が解けるほどには離れず、浮かせた身体と身体に隙間を空け、そうしてジッと覗き込んでも、草間の瞳は色を変えない。
だから、草間が好きだ。変えないから、草間に惹かれる。他の女は違う。こうして真っ直ぐに瞳を見つめればすぐに、自分から唇を寄せて来る。首に腕を回し、身体ごと預けて来る。草間だけが違う。草間だけがただずっと同じ色で、この目を見つめ返してくれる。
「……有村くん?」
言葉を使えば動かせる。事実、有村は何度も言葉で草間を誘導して来た。思うように動かして来た。選択肢を与えるフリをして、何度も。つい先ほどでさえ、多少は。
白に朱色を纏う丸い頬に、指先を這わせた。滑らかな感触。温もりとはこういうものだと教えるような、優しい体温。髪を擦り抜ければもっと赤い、可愛い耳が見える。小さい耳。ささやかな凹凸。細い耳たぶ。それを掌で覆い隠して、引き寄せられたのは、有村の方だった。
美しい色を纏う人。微かに翳る不純物さえ、愛おしい人。
「…………」
ふたりと存在しない人。自分にないものばかりが、草間の瞳には瞬いている。
だから惹かれる。無条件に、引き寄せられる。
腰から上を倒してしまってから有村は我に返り、あと数センチで触れてしまいそうだった場所から急いで、身体を引き起こした。
「……有村くん?」
咄嗟に、草間の耳元から外した手で口を覆った。まただ。また、草間にキスをしようとした。許されていないのに。ほんの少し前までは、まるで望んでいなかったクセに。
「ごめん」
朝の改札で打ち明けて以来、有村自身考えないようにして来たが、どうやら藤堂が正しかった。有村はようやく、自覚したのだ。僕はこの子にキスがしたい。その唇を奪いたい――口を塞いで入り込む通路の先にはあの浅ましい、男と女の性欲が待ち構えているのに。
「ごめん」
気付いた途端、どうしようもなく吐き気がした。手を押し付けていなければ胃の中身を全てぶちまけてしまいそうなほどの、強烈なものだ。
ここしばらく、見舞われることのなかったもの。草間がいれば出会わないと思っていたものだった。それが、草間を相手に発動した。心配気に伸びて来る手を、触れられる前に、避けた。
「ごめんね、草間さん。僕、用を思い出して。だから、今日はここで」
「大丈夫? なんだか、顔色が……」
「平気。今日、暑かったからかな。大丈夫だから、ごめんね。ごめん」
「うん……」
踵を返し逃げるように、駆け足にはならないように草間から離れ、それでも徐々に足は速度を上げていく。最初の角を曲がってからは、ほぼ全速力で駆け出していた。嘔吐しそうな口に手を押し付けて、上がる呼吸で喉が窒息感が訴えてもまだ、走った。
どこを曲がり、ここがどこかもわからない。
どこでもいい。どこでもいいから、ひたすら遠くへ行きたかった。
走って。走って。擦れ違う人と肩をぶつけ、弾かれて壁に背中をぶつけて止まった。
「……ちがう……」
町は夕暮れ。まだ、空は明るい。
「ちがう。草間さんは、ちがう。ちがう。ちがう……ちがう……僕がいけない。僕が、汚い……」
違う。ちがう。チガウ。何度も口に出しながら髪を掻きむしり、背中を付けた壁を伝って、やがて地面に座り込んだ。息が上がって、ひとまず吐き気は押し寄せて来ない。しかし、いつもならすぐに落ち着く呼吸がずっと、乱れたまま戻らなかった。
息が苦しい。息が出来ない。
上下で重なる奥歯が離れず、鈍く軋む音がしている。
ちがう。彼女は、ちがう。一緒にしない。同じにしない。同じじゃない。どっちが正しい。わからない。
血流が騒いで、頭が破裂してしまいそうだった。
「……たすけて……リリー……」
リリーが来ない。リリーがいない。どうして、僕のそばに、リリーがいない。
この弾け散りそうな頭の中に、悪い虫がいる。リリーの瞼に止まった、あの虫。コイツの所為だ。
追い出さなくてはいけない。気持ちの悪い虫。醜い虫――守る為に殺さなきゃ。
「――洸太! やめさない! なにしてるの!」
誰かに腕を掴まれた。そうだ。僕はいつも邪魔をされる。
早く虫を追い出さなくちゃ――ああ、草間さんに会いたい。




