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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第六章 起動少年
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近頃の憂い

 覚束ない手付きでネクタイを気にする有村を見つめ、藤堂は一学期と同様に目隠しの壁になりながら、ついにという風な溜め息を吐いた。

「何度も言うようだが、夏場のネクタイは任意だ。苦しいならボタン開けろ。取っちまえよ、そんなもん」

 きつい気がするというのは、迎えに行ったマンションのエントランスで、出会い頭から漏らしていたことだ。

 苦しいと言い出したのは電車に乗った直後からで、ただでさえ吐き気と戦う移動中、有村は藤堂に緩められるままネクタイの結び目をだいぶ下げ、第一ボタンも外していた。

 その着け方が気に入らないと言える程度には回復したとはいえ、藤堂が見下ろす顔色はまだ青白い。

「ないとなんか、だらしない。イヤ」

「私服のシャツは開けてるだろうが」

「私服は私服。制服は、制服」

「なら、もう少し緩めとけ。まだ吐きそうなんだろうが」

「うん……」

 藤堂が持っている水のペットボトルは、残量、残り半分というところ。もっと飲むかと勧めてみるが、有村は「うん」と答えたところでキャップも碌に開けられない有様である。

 電車内と同じく開けてやり、藤堂は有村の長い前髪を耳にかけてやった。俯く角度では、すぐにハラハラ落ちて来る。頬に柔らかそうな髪が降ると、さすがの美人も薄幸そうに見えて来るものだ。

「今日、いつもより、混んでた」

「今日もいつも通りに混んでたな。一ヶ月ぶりの満員電車が堪えただけだ。気にするな」

「元に戻った気分」

「何度だってイチから慣らして行けばいい。付き合うからよ。飴でも食うか?」

「とぉどぉ……君はどうしてそうカッコイイの?」

「生まれつきだ」

 背中を丸め倒れ込むようにもたれかかる有村を、藤堂は胸と腕で支えてやる。多少、慰めるように二の腕を撫でてもやった。甘えたくもなる。二つ目の駅で真っ青になりながら、途中で降りることなく辿り着いたのだ。褒めてやるつもりで受け入れる藤堂の胸の中、有村が小さく「おぇ」と言った。こうなる予感がしたからこそ、藤堂は今朝、早めに迎えに行ったのだ。

 待ち合わせの時間から見て、二本前。改札を出てからは、そろそろ十五分ほどが経つ。

 震えは治まり、顔色もこれでだいぶマシになってはいるが、約四十日間の夏休みを経て満員電車への免疫が粗方消えているだけでなく、藤堂から見るに有村は回復力まで落ちている。さすがにここまでとは藤堂も思っていなかった。明日からは、もう一本前を目指さなくては。

「どうしよう、藤堂……全然、気持ち悪いのなくならない」

「楽しいことでも考えろ」

「どんな?」

「なんだっていい。モフモフの毛玉とか、草間とか」

「草間さん……ねぇ、草間さんって言えば、なんだけどさ」

「ん?」

 切り出した有村がすぐに返事をしなかったのは再び「おぇ」が込み上げたからで、藤堂が渡す水を飲み、のろのろとキャップを閉めたあとで少々思い詰めた面持ちになり、話を続けた。

「最近、ハグするとキスしたくなって、困ってる」

「……ん?」

「前から、ハグとキスは好きなの。お付き合いを始めてから他の人にはしてないから、回数減って、セットでしたくなるみたい」

「うん」

「我慢はしてるんだよ? 草間さん、どっか行っちゃうし。だけどこの前、口にしそうになって。慌てて誤魔化したんだけど、口は意外だった」

「ん?」

「草間さんは大体、ハグするとキスしたくなっちゃうからね? 試しに今朝、佐和さんにしてみたの。別にしたくならなかったから、たまたまだったのかな。朝だったの。時間帯でも、なかったみたい」

「ん? ん? 佐和さん?」

 上目遣いで不安気に「佐和さんは浮気にならないよね?」と訊いて来る有村に、「家族みたいなもんだから、ならない」とは答えるものの、なんとか答えた藤堂の方が余程、困惑を露わにしている。

 正直、九割方、わからないでいる。スキンシップが過多なのは承知済み。春頃、お礼のついでに頬にキスをされかけたことがある藤堂は、有村のそれが単なるコミュニケーションなのを知っている。

 その上で、だ。見下ろした親友が久々に、異国の人間か宇宙人に見えた。

「草間だからだろ?」

「うん。でも口は、ビックリして」

「ずっとだろ?」

「初めてだよ。一回だけ。旅行の最終日の朝」

「デコにして気絶させたろうが」

「したかったからね。可愛くて。草間さんの頭、綺麗な丸なの」

「敢えて、頭に?」

「うん。藤堂はしないの? さっちゃんもしたくなる頭、してるのに」

「したのか」

「うん。さっちゃんもお返しに、してくれるよ? 頭とか、頬に」

「貴様!」

「キャッ」

 辛うじての理性と良心でヘッドロックは避けたものの、胸倉を掴んだ藤堂は、眉を下げ絵に描いたような『しゅん』とした顔で瞬きを繰り返す有村に何も言えず、視線と手をすぐに外した。

 妹におかしな癖が付いたらどうしてくれる、というのは、ひとまず後回しといこう。

 いま藤堂を激しく困惑させるのは、ドン・ファンも宛らに数多の女を渡り歩いた有村が、したくなっただけのキスひとつに悩んでいること。したければ、すればいいだろうが。言ってしまえばそれで済む藤堂は考えた末、有村は律義に草間と交わした約束を守ろうとしているのかもしれないという可能性に行きついた。

 一度、張り手で拒絶されて以来、したくなったら言うと取り決めたらしい、草間の主導。

 あの赤面症の脳内お花畑が自分からしたがるなど、藤堂は未だ、世界が滅亡しても有り得ないと思っている。

「もう、いいんじゃねぇか? 付き合ってんだし、キスくらい」

「手とか髪にはしてる。口、以外」

「拘ってんな。口の話だ」

「それは、草間さんが平気になってから……」

「お前、アレが本気で自分から言うと思うか?」

「思ってるよ? 草間さんは、やるって言ったら、やるもん」

「口、尖ってんぞ。こっち見て言え」

「……思ってる」

「膨らんでんだよ、頬が。なんだ。お前そりゃぁ、したくねぇみたいな反応だぞ」

 思い付きの軽口で言ってみて、藤堂は顔面を手で覆いたくなった。

 有村がして見せる、微妙な顔。他には鈴木と山本くらいしか見つけない些細な気配に気付けるようになってしまったことはいい。嘘だろ。胸中で呟く藤堂は、わかってしまったのがつらい。

「お前、したくねぇのか」

「別に、したくないわけでは」

「なら、したいか」

「敢えて口でなくても、とは」

「…………」

 勘弁しろ。次は、そう毒吐いた。同じく、心苦しい藤堂の胸の内で。

 これはきっとまた禄でもないか面倒臭い、有村なりの理屈が根っこにある。せめてそれを訊き出すのが精々で、だいぶ有村の思考回路を理解出来るようになってきた気がしている藤堂もまだ、そこから方向転換する手段までは掴めていない。

 さすがに、そこまでするのは面倒臭いというのも本音だ。面倒臭い繋がりで、更に拗れたあとを想像してしまうからこそ、「なにが気になる」と尋ねるだけで。

「口って、塞ぐイメージがある」

「うん」

「会話が要らない。話したくないっていう、イメージ」

「うん」

「草間さんとは話したい。知りたいんだ、彼女のこと。僕のことも、ちゃんと伝えたい。そこに気持ちが、感情がある。僕の」

「うん」

「何もなくてもしてた。同じことをして、同じになったら、どうする」

「ん?」

「口を塞いで、草間さんがもし会話の要らない女性に見えたら、ただの男の戻った僕は今と変わらず、草間さんを好きでいられるかな」

「…………」

「好きでいたい、草間さんのこと。出来れば、ずっと」

 溜め息を吐く以外、一体なにが出来ただろうか。

 背中が丸まるほどに吐き出して、上げた視線は睨む角度で有村へ向かう。物憂げに俯いている姿を見て、藤堂はもう一度、大きく息を吐いた。

「試してみりゃぁいい。女は草間だけじゃない」

「草間さんは、ひとりだよ」

「…………」

 次は、見つめただけだった。溜め息も出ないくらい、瞬きも忘れるくらいだったのは、呆れではなかった。驚いたわけでもない。強いて言うなら『面食らった』が近そうで、しっくりこない感覚も藤堂の胸に残る。

 有村の目は、妙に意志の強そうな色味をしていた。何かに憑りつかれたでも、何かに囚われたでもなさそうな、顔。それを見て湧き起こる感情は藤堂にとって、あまり馴染みのないものだった。

「有村」

 ふと呼びかけてはみたけれど、なにが心に引っかかるでもなければ、有村が言う『悩み』に対してアドバイスがあるでもない。再びに向けられる上目遣いの大きな目を見た藤堂は口をへの字にし、話題を変えた。

「そういやお前、今朝は覚悟しといた方がいいんじゃねぇか」

「なんの?」

「朝のアレだ。パレード。四十日ぶりだろ。しつけぇぞ、今日は。たぶん」

「……あー……」

 すっかりと忘れていた。有村はそう答え、表情も同じことを言っていた。

 朝の恒例行事。王子様の安売り。取り決めの条件とはいえ、思いあぐねる様子の有村の風体は恙なくやり過ごしていた一学期の頃より、振り撒く愛想を憂鬱に感じているようですらある。

 死んでも嫌だと思う藤堂からしてみれば、今の反応の方が普通だ。誰がしたいものか。朝っぱらから、キャーキャーうるさい女共の相手など。それでも約束だからやめないと言い張る辺り、藤堂はやはり有村を真面目なヤツだと思うし、存外、苦労性だと思う。

「一応、草間は先に教室、連れてくぞ。チビが潰されでもしたら気の毒だ」

「うん。お願い。でも、草間さんはチビじゃない。小柄なの。可愛いサイズ」

「お前も適当に切り上げろよ。たぶん、キリがねぇから」

「そうする」

 別の憂鬱が吐き気をどこかへ追い遣ったらしく、いつの間にか肌に血色の欠片が戻って来ていた有村は溜め息のあと、ふと視線を投げた改札の方向へ満面の笑みと、軽快な手を振る。

「おはよう。今日も暑いね」

 近付いて来る落合は顔のそばで手を仰ぎ、隣りの久保は涼し気。ふたりの奥で草間は「おはよう」と「そうだね」を告げたが、三人の足が止まっても、その立ち位置から動こうとしない。

「……なんか、距離ない?」

 前へ出ないどころか目も禄に合わせない草間に振っていた指を萎れさせる有村は、藤堂から見ても寂しげである。ショック。しょんぼり、という感じ。

 存分にリボンを緩めた首筋に汗を滲ませる落合は恐らく、間を取り持つつもりで有村に近づき、内緒話を持ち掛けた。

「太ったんだって。朝からめっちゃ、気にしてる」

「え。いや、そんな風には」

「うん。あたし達もそう言ってんの。でも、きつい気がするんだって。久々に着たら、ブラウスが」

「そう……」

 どうにかしてよと、落合が言う。嫌そうな表情といい、それなりに手を焼いたあと、という風体だ。

 そこまで露骨でないにしろ、後ろで草間に声をかけている久保も眉を弱々しく下げている。

「あっ、成長期」

「オイ。そんなんで誤魔化されるのはよっぽど無邪気か、姫様みたいなガリ痩せだけだ」

「ひどい!」

「女にとって体型維持は死活問題。成長期なんてふざけた誤魔化し、すんな?」

「……はい。ごめんなさい」

「よし」

 顔面目掛けて指をさす落合に自分の口調を奪われた藤堂が見ても、草間は別に太っていない。確かに痩せてもいないが、小学生の頃から草間はずっと、そんなものだ。

 丁度良い範囲内だとも思う藤堂と、落合に叱られて詫びる有村は同意見であるらしい。お返しのように手を添えた口を近付けて、「無理なダイエットとかは止めてよね」と、逆に頼み込んだりする。

「それを姫様から言ってって、言ってんの」

「言えないよ。女の子に体型の話なんて、デリケートなこと」

「言えよぉ。使えない口達者め。姫様が言えば仁恵、聞くから」

「ダメだって」

 言えよ、言えないの押し問答の末、いつの間にか横並びで楽しげに話し始めた有村が草間に伝えたのかどうか、久々の通学路を進みながら、藤堂は心底、どうでもいいと思った。

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