音信不通
繋がらない気がする呼び出し音を聞きながら、草間は道路沿いに建つマンションを真下から見上げる。視界に入るのはグレーがかった外観と、スカイブルーの青空だ。
留守番電話の音声が流れ、終話を押した。あまりしつこくかけるのもと躊躇ってしまうから、これが三度目になる。次に草間は変化のないメールボックスを開いた。一番上と二番目にある名前は『藤堂くん』。彼から届くメールは会話と同じで大抵が短く、『すぐ行く』と、ひとつ前の『まっすぐ帰った』を読み返して、草間は再び七階の角部屋を眺めた。
一通目は先程、二通目は一昨日の土曜の夜に届いたメールだ。昨日送ったメールの返信が間にないのをおかしく感じるのは思い上がりのようにも思えるのだけれど、その違和感は草間にとって、藤堂を呼び出してでも無視出来ないものだったのだ。
遠くから名前を呼ばれ、草間は歩道の先を見る。最初の角を背に駆け足で近付いて来る藤堂へ、会釈と迷ってから手を振った。
「ごめんね、藤堂くん。呼び出して」
「いいや。言ってくれてよかった。アイツがお前のメールも電話も返さねぇってのは、おかしい」
到着した藤堂はラクそうなゆるいTシャツを着ており、下は黒いジャージ。徒歩五分のご近所さんなら、普通の服装だ。彼は草間がしたようにマンションを見上げ、エントランスでチャイムを鳴らした。二秒、三秒と待ってみるが、やはり返事はない。
「行くか。最後に話したのはいつだ」
「土曜日が最後。土手で分かれて、それきり」
エレベーターを待ちながら、草間はまるで言い訳をしているみたいに言葉を連ねた。藤堂が連絡をくれたから土曜の夜にはメールも電話もせず、日曜日になって相談の体でメールをしたのが昼頃。その時もしも有村の手が空いていなかったとしても、夜か今朝に応答がないのはおかしいと、藤堂が草間の不安を思い上がりでないと否定してくれる。
「相談?」
「ビードロと万華鏡を預かったまま帰っちゃったから、届けてもいいか訊いたの。明日になれば学校だけど、ガラスだし、荷物になっちゃうでしょ? だから」
「その返事がねぇってことは、見てねぇな」
「たぶん」
「前なら良くあったけどな。充電切れてんのに気付いてねぇとか、そもそも鞄に入れっぱとか。お前とやり取りするようになってからは比較的、見えるトコに置いてたんだが」
「そう、なんだ……」
乗り込んだエレベーターの狭い空間でふたりきりになるには、随分と気恥ずかしいタイミングになってしまった。藤堂は階数ボタンの前、草間は斜め後ろの奥まで入り、顔を扇いだ手は真夏日の所為になるよう願った。
繋がらなかったり、すぐに返事がなかったとして、有村はこれまで絶対にその日のうちに折り返してくれていた。そもそもアルバイトのある日を互いに把握しているので電話が繋がらないことは極々稀で、メールも大抵は数分と経たずに返って来るのが常だったのだ。
初めて、日を跨いだ。それがどうにも心配で不安になって、草間は勇気を出してここへ来た。
「別に、明日会ってからでも良かったんだけどね。あとになって考えてみたら、ああやって帰るの、有村くんぽくないっていうか。それでちょっと、心配になって」
「あとで? らしくねぇどころか、さすがにアレはねぇだろうが。アイツが見たいって言うから行ったのによ。お前だってほっとかれたんだ。怒りたきゃ、怒れ」
「えっ」
扉の上の数字の点灯が、二、三と上がって行く。
思わず漏れた声に振り向いた藤堂が言うには、一昨日の有村は女が腹を立てることをしたらしい。大体の女はキレるだろ、と言って寄こす藤堂の周りにいる女の子たちは短気なのだろうかと、草間は困り顔で眉を下げる。
「気にしてねぇのか、お前」
「うん」
「いつもああじゃねぇだろ? 送るだろ、アイツ」
「うん。いつもは、そうだけど。でも、それが絶対とか、当たり前じゃないのは、わかってるから」
途中まででいいと草間が言い、送りたいんだと有村が返すのは、ふたりの間で定番のやり取りだ。慣れた道を歩くのにひとりは嫌だと言う気はないし、玄関の前まで送ってくれる有村の優しさを、草間は毎回、嬉しく思って受け取っている。
正直に打ち明ける間、藤堂の口は数ミリ程度、開いていた。
「お前みたいな女、いるんだな」
「えっ」
「絵里奈に爪の垢でも飲ませろ。女ってのは軒並み、くれくれ言うモンだと思ってた」
「そうなの?」
「なにがねぇ、わかってくれない、してくれないって、そんなのばっかだ」
「……へぇ。そっ、か……」
我が儘な子とお付き合いしてたのかな。噂は色々と流れて来る藤堂も苦労したのだろうかと草間が唇を噛んだ、その時丁度、七階に着いたエレベーターの扉が開いた。
一階で『閉』のボタンを二度押してから、草間は若干、藤堂が急いでいるように感じていた。歩いて五分の道のりを駆けて来たくらいだ。せっかちな節のある藤堂だから指摘せずにいたのだけれど、どうせ様子を見に来るつもりだったと告げる背中に、草間はつい弾みのついた「そうなんだ」を素っ気なく返してしまった。
「動いた方がラクだ。気にしてるってのは合わねぇ。確かに土曜はらしくなかった。アレにはまぁ、少し厄介な癖があるんでな」
「クセ?」
「なにもなけりゃ、いいんだ」
前を行く藤堂は歩きながら、ポケットの鍵を取り出す。実際、彼は急いでいた。
ついて行くには駆け足になる速度と背中で気付いてしまう。藤堂は、知っているのかもしれない。数年前、リリーのあとを追うことだけを考えていた時期がある、有村のことを。
きっと知っている。そう気付いたとして、草間はとても確かめられそうになかった。今はもう違うのだから、今の有村の近くでしたくない会話でもある。
「暑いな。いつもはこんなじゃねぇのに」
「廊下の窓、起きてすぐ有村くんが開けてるんだって。固いみたいで」
「そうか」
一番奥のドアの前に立ち、藤堂はそこでもノックをして返事を待った。草間の心の中では、スリーカウント。出ねぇな、と呟いた藤堂がドアノブに手をかけ、動きを止めた。
「……開いてる」
「えっ」
瞬く間、藤堂の横顔に緊張が走ったのを、草間は見逃さなかった。顔つきが変わり、ドアを開けるなり「有村!」と呼ぶ声は、まるで叫ぶよう。
「んッ」
思わず飛び出した草間の声と似たものは、ひと足先に踏み入れた藤堂からも聞こえて来る。勢い良く開いたドアの奥から、下ろした髪を巻き上げるほどの向かい風が吹き込んだのだ。
咄嗟に手を翳し、顔を背けた草間の落ちた視界に、白い物が映り込む。それは風に押し出された厚手の紙で、玄関へ入った藤堂のそばにもあれば、草間を追い越して廊下まで出た物が数枚あった。
靴を脱いで上がり込む藤堂とは逆に草間は引き返し、散らかった紙を集めてから部屋へと入った。拾い上げた数枚は、全くの白紙。藤堂は近い有村の自室から出て来て、慌ただしく途中の浴室を見たあと、草間が手にするのと同じ紙が点在する廊下を抜ける。
廊下からリビングへ入るいつも開かれたままのドアの辺りが、最も風が強かった。吹き込む風は、全開になったベランダのガラス戸から入って来ていたのだ。足元には大量の、白い紙。千切られたノートのように一辺がガクガクと、おうとつの付いた厚紙。踏みつける藤堂と、踏まないように避けて通る草間はほぼ同時に、一歩か二歩入った所で足を止めた。
「有村!」
「有村くん!」
ガラス戸の手前、毛足の長いラグが敷かれてソファが置かれているその奥に、うつ伏せで倒れている有村を見つけたのだ。
悲鳴を上げた草間は拾った紙も落としてしまい、藤堂に続いてそばへと駆け寄る。固いフローリングの床の上、片方の腕を伸ばした体勢でいた有村を藤堂が仰向けにさせて抱き上げるが、くったりと落ちた手は力なく、呼び掛けようと揺すろうと、閉じた瞼が開かない。
「有村!」
「有村くん!」
動転していたし、草間は血の気が引いて、目の奥がすぐに熱を持ち始めた。
反応のない有村を見て、鍵が開いていた玄関に、最悪ばかりが脳裏を過る。悪い人たちが入って来て、まさか。周囲に血痕などは見当たらないが、頭でも打っていたら。草間は殆ど泣きながら、藤堂の腕が抱く有村の足や腕に触れてみて、藤堂には頭に怪我をしていないか確認してもらった。
「怪我はないみたいだ。脈は……あるな。正常だ。有村! 目ぇ開けろ、有村!」
「有村くん! 有村くん!」
「畜生、お前、何しやがった! ふざけんな有村! ふざけ……ん?」
「なに? どうしたの、藤堂くん!」
抱きかかえて揺らしていた藤堂が突然、微妙な顔をした。慌てふためく草間には応えず、藤堂はそのまま有村の頭に近付けた鼻先を二回、クンクンと鳴らし、「臭ぇ」とひと言。
「コイツの頭、たこ焼きとかお好み焼きの臭いがする」
「……え?」
嗅いでみろと藤堂が言うので、草間はおずおずと鼻を近付け、一回だけ嗅いでみる。
「ソース……」
「だろ」
「……え?」
「…………」
先程まで叫んでいた騒々しさが消え、藤堂と草間の間に妙な空気が流れた。見つめ合うこと、一秒、二秒。藤堂は有村を最初に倒れていた場所へ下ろし、覆い被さるようにして、次は耳を口元へと近付けた。
「……寝ていやがる」
「えっ」
さすがにそれは、ないと思った。有村の眠りは浅いのだ。これだけ騒いで起きないなんて、有り得ない。
恐らくは藤堂もそう思っていたから、緊迫が続いているような、そうでないような微妙な顔のままでいる。こちらも聞いてみろと言われたので、草間はすぐ近くに正座して、有村の口元へ耳を寄せた。
「……寝てる」
「だろ」
「……なんで?」
「知らん」
身体を起こした草間もまた藤堂に負けず微妙な気持ちで、微妙な面持ちに落ち着いてしまった。まだ、そんなはずはないと思っているのだけど、規則正しい呼吸音は確かに聞こえたのだ。
微かな物音がしただけでも目を覚ましてしまうのに、身体を揺すられても起きない有村の胸は規則正しく上下する、この不思議。違和感。
違和感と言えば、だ。草間はひとつ気が付いて、有村を眺める身体を傾けた。
「この服、土曜日と、同じ?」
「ないだろ、それは。似てるだけだろ。同じ服、何日も着ねぇよ、潔癖なんだから」
「でも、あたま……屋台の……」
「屋台? ……ソース……あ? コレ、どういうことだ?」
「わからない」
とりあえず、有村の寝息はとても健やかで、草間は藤堂に「ソファへ運んであげれば」と提案してみる。床の上では身体が痛くなるだろうし。再び抱えて立ち上がった藤堂は有村をソファへ寝かせ、目で追った草間はなんとなく、散らかる紙を集め始めた。
背にした藤堂は次にクッションを頭の下へ捻じ込み、有村の部屋から薄掛けを持って来て、かけてやっていた。テキパキと動くのだけれど、不意に動きを止めて、不思議そうに寝顔を見下ろす。その気持ちは、草間にもよくわかる。心配に思う気持ちが消えたわけではないのに、心がやけに穏やかだった。
「藤堂くん」
まじまじと寝顔を観察していた藤堂を呼び、草間は拾った紙を翳して見せた。
大半は玄関から飛び出したものと同じく白紙で、数枚拾って丸や線が描かれたものが出て来たあと、草間の手元にラフなスケッチのような『絵』と呼べそうなものが一枚、やって来たのだ。
「有村くん、絵を描いてたのかも」
「え? ……いってぇ!」
近付いて来た藤堂が何かを踏み、痛がる足を退かした下に、草間は一本の色鉛筆を見つけた。一本目を見つければ二本目、三本目も、すぐに見つかる。ソファの下にも数本あって、集めたそれは二十本を優に超えていた。
束にすると、草間の片手では全く足りないくらいだったのだ。ほぼ全てが先を丸くしていて、歪に削られた跡があるものもある。重なった紙の下に刃が出たままのカッターを見つけ、藤堂が踏んだのがこれでなくてよかったと、草間は拾った全部をテーブルに置いた。
「草間……草間!」
今度は呼ばれる方になり、草間は顔を上げてから立ち上がった。珍しくも声だけでなく乱暴に手を拱く仕草をした藤堂は一枚の紙を手に立っており、隣りに並ぶ格好で覗き込んだ草間と同じ顔を、目を大きく見開いていた。
開けた口から、感嘆の言葉も出ない。溜め息が零れるだけで、草間は藤堂の横顔を見上げた。
「なぁ。俺は、芸術なんかには疎いが、これは……すげぇんじゃねぇか?」
「うん……」
そう返すのが、やっとだった。




