夏休み最後の
驚いた顔、というよりは呆れた顔をして、落合が言う。
「え。じゃぁ、なんだかんだ言って、帰って来てからも毎日会ってたの?」
着付けの順番を待ちながら読んでいた漫画を下ろした落合に指摘され、草間は久保の帯を締めながら、コクリと一回、頷いて見せる。
夕方からシフトが入っていた昨日ですら、直前まで会っていた。事実ではあるけれど、言葉にされると照れ臭い。
「一昨日は絵里ちゃんと三人だったけどね。有村くんの家でお料理したの」
「あたし、聞いてないけど」
「君佳はバイトだったでしょ」
「そうだけど。あたしだって行きたかったじゃん。何故、誘わない」
「誘わないわよ。用があるの知ってるのに」
「それでも言わない? 一応!」
「言わない」
「んー!」
すでに漫画などどうでも良くなってしまった落合が全身で不服を露わにするので、草間はすまし顔の久保と落合のふたりへ、実際に立っている中間地点から「ケンカしないで」と、仲裁役を買って出る。
訊くだけ訊いてみようかと出した提案が久保に却下されたことは、口が裂けても言えない。
「次は、キミちゃんも一緒に、ね? 有村くんも、またやろうねって言ってたし」
「ついて来たって、君佳は料理しない」
「絵里ちゃん……」
「ええ、しませんとも?」
「キミちゃんまで……」
ケンカはやめようよ。今度は、頼み込む声色になった。仲良くしようよと肩を落とす草間も、ふたりがいつも通り言い合っているだけなのは、わかっていた。
八月最後の土曜日。時間は、涼しくなる前の午後三時。今日もまた、クーラーが整えてくれる空調が有難い夏日だ。待ち合わせは五時。有村はノクターンにいる頃で、藤堂と合流してから来るという。
久保が纏った浴衣は前回と同様に大人っぽい色と柄をしていたが、前回のとは違うもの。次に着付ける落合も別のを着るし、草間も今日は前回に着た浴衣とお気に入りの一位を競う、もう片方を着る。
こちらの方が七夕祭りで有村が着ていたシックな浴衣と、バランスが良かったかもしれない。思った途端、必要のない、気付かれもしない咳が出た。
「つかさぁ、姫様から習うなら、料理より絵がいい。マジで上手いよ。心の中で師匠と呼んでる」
ふと、閉じた漫画の表紙を見ながら、落合が言った。その漫画は『耽美系』と呼ばれる作風の作品らしく、『少女漫画系』の絵を描く落合は、そういうリアルで繊細な質感の絵に憧れている。
一瞬だけ視線を投げた草間は、落合が掲げて見せる表紙より、有村の方が上手だと思った。そっちは漫画で、あっちはデッサン。物が違うでしょうと言う久保の背中へ、逸らした視線はすぐに戻った。
「もっと描いてくんないかなぁ。あの猫、マジでめっちゃお気になんだけど。何度も見たわ。帰って来てから」
そうだね。呟いて、草間は結んだ帯を軽く叩く。有村が描く絵のことは、あまり上手に話せそうにない話題だった。
見たいよね、と訊かれれば、確かに見たい。けれど、それだけで強請っていいものではないと知ってしまった草間には、コメントを控える以外の手立てがなかったのだ。
「はい。次はキミちゃんだよ。お待たせ」
「よろしくー」
散々に迷って選んだ浴衣を落合の肩に羽織らせ、草間は密かに笑みを零す。
去年も一昨年も、落合は私服で行ったのだ。動きにくい、暑いと言って、草間と久保が着ていようと自分も着たいとは小学生の頃以来、久しく名乗り出なかった。
「苦しくない?」
「大丈夫」
ひと夏に二度も着る気になったのはきっと、浴衣の柄を想う草間と同じ。いっそ、料理教室には男子組も呼んで、七人で騒ぎながらでも良いのかもしれない。
「キミちゃんは本当に、こういう明るい色が似合うね」
「そう? 仁恵も似合うよ、ピンク」
「ありがと」
裾の長さを調整する落合の浴衣は、淡いオレンジ色。全体に大きな花柄が散りばめられていて、鏡を見ながら上げた髪の襟足を撫でる久保が着ている紺色の浴衣にも似た花が、一回り小さく描かれている。
何の花かはわからないが、花びらの大きい優雅な花だ。まだハンガーにかかっている草間の浴衣は、アジサイのような紫がかった淡いピンク色。そこにも、似たような花がある。
「仁恵。ヘアピン、貸してもらっていい? ちょっと落ちて来るの」
「うん。いっぱいあるから、使って」
腰に紐を一本回しただけの状態で待たせた落合から離れ、草間はクローゼットからヘアアクセサリーがたんまり入った木製の箱を取り出した。
開く度、コレクションと呼ばれたりする。見ていると使いたくなるらしく、久保は髪留めもひとつ、貸して欲しいと持ち上げた。覗き込んだ落合も、それに続く。悩まれてしまうと、草間は少し照れる。収集しているつもりはなく、一度もショートにしたことがない草間に集まってしまう物のひとつなのだ。とはいえ、色も形も異なる髪留めやシュシュが、鏡付きの上段と下二段の引き出しには、びっしりと詰まっている。
「あれ? 仁恵のアレがなくない?」
物は基本、同じ用途で纏めて片付ける草間を見る、落合の目はだいぶ細い。
「……つ、机の、引き出しに……」
「へぇ。アレだけすぐ出せるトコに入れてんだぁ」
アレ、とはつまり、有村がくれたヘアクリップのこと。浴衣も帯も違うのに、下駄と髪を纏めるそれだけは前回と同じだ。
慣れた手つきで髪を整えた久保がうなじを撫でつつ、鏡越しにこちらを見る。
「そういうものよ。彼氏が欲しいって言ってるだけの君佳には、わからないのね」
「は?」
「もう、やめてってば、ふたり共」
回した帯を、ギュッと締めた。落合が「グッ」と零すくらい勢いが良かったのは、たまたま。
不慣れな落合は緩くしろと言うけれど、途中で着崩れてしまったら大変だ。今日は地面にも座るのだから。
「まだ時間あるし、終わったら髪、やってあげようか? 仁恵、前に巻きたいって言ってたでしょ。出来るわよ? 一応、持って来たの」
「嬉しい。ありがとう」
「センセー! あたしも頭、なんかしたいです!」
「前髪でも留めたら」
「温度差!」
夏にしか着ない物だから回数は少ないとはいえ、草間はたいぶ他人の着付けも手際がよくなって来た。仕上げた落合も背中を叩いて見送り、草間は服を脱いで、浴衣を羽織る。
纏うだけなら、洋服と似たような感覚だ。自分に丁度良い丈もわかっているし、そこに印があるかのように紐を巻き、布を捌いて襟を合わせる。考えるのは精々、帯の形くらいだった。今日の結びはどれにしよう。誰も気付かないだろうけれど、三人がそれぞれ違う結び方をしていたら、並ぶ後ろ姿が可愛いかもしれない。
「そういえば君佳、少し伸びたわね。サイド、編み込みなら出来るかも」
「頼むわぁ。ずっとショートだから、髪弄るの下手ですのん」
選択肢は多くなく、ふたりを着付けたあとなので、草間はものは試しの感覚で手の込んだ結びにチャレンジすることにした。
クリップとヘアゴムを用意して、クルクル巻いたり、折って重ねたり。浴衣に合わせて選んだ帯が長かったからこそ、出来る形だ。習った祖母の言葉を思い出し、手順を追いながら少しずつ、丁寧に進めていく。
「そういやさ、毎日会ってんなら姫様に訊いた? 向こうで最後お別れ会した時、志津さんとなに話してたか。あたし、地味に気になってさぁ。ノルウェー語、マジ呪文」
取る長さは、このくらいで良かっただろうか。「訊いてない」。悩んでいる顔で、草間は答えた。
「なして?」
「忘れてた」
訊くつもりがないとは、言わなかった。
「ならさ、仁恵の方、教えてよ。帰り、志津さんに呼ばれてなに話したん?」
今度は次の手順を思い出すフリで、草間は一度、止めてしまった手を動かす。
「また、遊びにおいでって。いつでも待ってるって、言ってくれたの」
「マジ? 行きたいわぁ、また。夏以外も楽しそうだよね」
「そうだね」
きっと、もう行く機会はないと思っていることも、草間は口にしなかった。
初挑戦の割に、帯結びは思ったより上手に出来た。満足のいく仕上がりになった結び目を後ろへ回し、最後にクリップを外すまで大凡、数分。草間にも、何度もやって、他人より上手に出来ることくらいはある。
勉強机の椅子に腰かけて、久保に髪を纏めてもらっていると、机に置いていた草間の携帯電話が短く鳴った。振動音を響かせながら、小さくスライド。二つ折りを開いてみれば、鈴木からのメールだ。
「鈴木くんと山本くん、場所取りしてくれたって。写真が付いてる。ふふっ。出店、もう出てるみたい。山本くん、早速食べてる」
「どれ。スタート早いなぁ」
届いた写真を久保と落合に見せたあと、草間は手早く返事を打つ。今日の花火は土手の平地で眺めるので、良い場所はまだ陽が高いうちから押さえておくのが定石だ。荷物を置いて毎年出店の屋台が並ぶ一角まですぐだと言うなら、鈴木たちは特等席を確保してくれたらしい。
前回で鈴木は、有村と藤堂を待たせるのに懲りてしまったそうだ。アイツらが立ち止まると観光名所になると言って、競争の激しい大役を買って出てくれた。宛先を見るに同じメールは有村にも送信されていて、最後の一文は恐らく彼宛てに『真っ直ぐ来いよ』で締め括られている。
「たこ焼きウマそー。山もっちホント美味しそうに食べるし、お腹空く」
「向こうにいた気分で一緒に食べてたら、さすがに太るわよ?」
「だよねー。絶対、胃の容量増えてる」
帰って来てからもすごく食べられるもん。落合はそう言って帯を擦り、久保は仕上げに例のヘアクリップを纏め上げた草間の髪に着けたが、食事の話にはノーコメント。
実のところ、口では完成の礼だけ告げた草間も少しだけ、旅行の前より後の方が食べる量が増えている、気がしている。なので怖くて体重計に乗っていない。服がきつくなったというわけではないから、そう激しく増加してはいないのだろうけれど、細身の友人、無駄のない身体つきの恋人を持つ草間には、これ以上は間違いなく危険信号である。
今日はきちんと控えなくちゃ。静かに誓う草間は、カゴ巾着の紐を締める。これで身支度は完成だ。小銭は多めに用意したし、ウエットティッシュも持った。今日の浴衣と色も合うし、前回持った巾着よりも二回りは大きいバックだった。これなら水のペットボトルも余裕でしまえる。
さて、と。そんな顔で一息吐いた草間を、ベッドに腰かけ、手鏡で身嗜みの最終確認をしていた落合が訝し気に見ていた。
「仁恵、荷物デカくない?」
「中身は前と、そんなに変わってないよ」
「だったら余計にデカくない?」
そんなに大きい必要があるのかと尋ねられても、草間は返事を落合へ向ける目線や表情で濁すしかない。別に、頼まれるわけではないのだ。草間が用意しておきたいものがあったり、入れておくよ、と手を出してしまうだけで。
「じゃ、行きましょうか」
玄関先で見送る母親へ元気良く三人分の「いってきます」を告げ、草間と久保と落合は部屋の続きで話に花を咲かせながら、のんびり、のんびり、まだまだ暑い道を行く。
「ちょ、コレ見て? モカが新たな技を身に付けたん」
「カワイー! お腹、擦り擦りしてるっ!」
「ほふく前進? あら、随分と得意気ね。ふふっ」
「そーなの。しかも、めっちゃ速いのさ。動画、こっちかな。ホラ、この速度で部屋中を、隅から隅まで」
「モカちゃん、可愛い!」
「まるでモップね。前からした?」
「んーん。旅行から帰ったら玄関でいきなりし始めて、それからなんか、興奮するとしてる」
「……興奮」
「うん。吠えながらしてる」
「モカちゃんて体は小さいのに、大きな声出るよね」
「直らないわね。無駄吠え」
「ウチを防音にした方が早いと、父曰く」
「あらぁ」
「キミちゃん、もう一回見せて!」
「はいよ」
向けられる携帯電話のディスプレイの中で落合の愛犬、トイプードルのモカが、高速ほふく前進を得意気な顔で披露する。二度目で確かに、音が消えているだけで、度々動きを止めては吠えているのがわかった。
近所迷惑は困るという落合家族の気持ちは理解するけれど、草間は吠えている時のモカの口元が大好きであったりする。一生懸命な感じだ。きっと何か訴えているはずで、褒めて、なのか、どうだ、なのか、内容がわかったら楽しいだろうに。
彼なら、わかったりするのだろうか。雲ひとつない空を見上げて、ふと思う。
動物が言葉を話し、音や匂いにも色が付いているという、有村が見ている世界。
今は、見ていた、なのかもしれないが、それが垣間見れるなら草間はやはりもう一度、彼のペン先が思い通りに動いてくれる日を胸のどこかで、願わずにはいられなかった。




