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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第五章 萌芽少女
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いま恋をしている

 車内で一睡もしなかったツケは、帰りしな立ち寄った数ヵ所で買い足した、気付けば大量になっていた土産の半分近くを自宅用として母親へ渡し、熱が籠るまま三十分近く聞かせた土産話のあと、一週間ぶりの自室へ戻ってからも睡魔として、草間の元へ押し寄せることがなかった。

 ひと息吐けば、身体は確かに疲れている。どことなく足が重く、正直な気持ちではバッグ二つ分の荷解きも億劫だ。しかし、最も疲れているといえば笑い疲れた頬の方で、取り出した文庫本を本棚へ戻す際、草間は込み上げる笑みで随分と簡単に開くようになってしまった口元に、白い歯列を覗かせた。

 楽しかった。ひと言で済ませてしまえば、途轍もなく楽しい一週間だった。

 有村は今頃、引き上げたプランターを和斗とふたり、ベランダへ戻し終わった頃だろうか。ふと、充電プラグを挿すべく手に取った携帯電話を眺めて、動きを止める。

 かけてみようかと思った。同じくらい、かかって来るような気がした。

「……ふふっ」

 手の中で振動をし始める小さな画面に、思い通りの名前が表示される。着信が灯る瞬間を、草間は初めて目撃した。

「……かかって来るかもって、丁度、携帯見てたところだったから」

 笑いながら出た理由を笑いながら打ち明け、草間は窓へと近付いて、カーテンとガラス戸を全開にした。

 夜の空には星が出ている。小さな光が、ポツリ、ポツリと。

 そんなもので何故か、しみじみ帰って来たという気分になる。楽しかった一週間が終わってしまった。有村が電話の向こうに居るのが少し、不思議だった。

 同時に出張へ出かけた有村の同居人はどうやら、本当に帰っていなかったようだ。丸一週間、閉め切られていた部屋の換気をしていると言った有村はベランダに居て、先程まで庭にあったプランターは彼の足元、馴染みの定位置へと帰還したらしい。

 丁寧な説明の甲斐あって、母親は幾つかのハーブを使ってみたようだ。使いこなせはしなかったようで、草間の印象では出発前より茂っている気がした。

「……間引いたのって、どうするの? ああ、そっか。藤堂くんのお母さんなら、バッチリ使ってくれそうだもんね」

 髪を揺らす、開けた窓から入り込む風がまだ、昼間を残して温かい。

 空気が入れ替わったら、風呂で汗を流す前にクーラーに替えた方が良いかもしれない。じっとりと肌に纏わりつくような、夏の気配。また、帰って来たんだなと、草間に知らせる。

「……ねぇ、明日、って、なにかある?」

 帰りの道中、早速明日の夕方からバイトだと、藤堂が言っていた。面倒臭ぇ、そう呟いた彼に同調し、絶対に早まったとうんざり顔を見せた落合も、昼からシフトが入っている、らしい。

 ふたりへの気休めは、すぐに土産物を持って行けることくらいだろうか。草間の手元にある『ご当地お菓子』は二日間、紙袋の中で待機しなければならない。

「そっか。あの、そしたら……」

『待って。僕に言わせて?』

 有村の手元の菓子は、それよりもっと長く待たされる。元々顔を出す予定だった週末に、あのおもちゃ箱のような店、『ノクターン』へと運ばれるのだ。

 途中で選ぶのが面倒になってしまった有村に代わり草間が決めた、美味しそうなミルククッキー。彼女たちが気に入ってくれるといいが。

『君がもし疲れてしまっていなければ、デートしよう?』

 週末といえば、八月最後の土曜日。草間の最寄から四つ、有村の最寄からは五つの駅、電車を使わなくてはならない少し離れた土手沿いで、花火が上がる土曜日だ。

 たったの数日が待てないなんて恥ずかしいと思った。待てないと言われたら、嬉しくて仕方がない。

「どこに行く?」

『そうだなぁ。明日も暑くなりそうだし、前にすごく混んでて諦めたかき氷のお店とかも捨て難いんだけど……ちょっと待ってね。うん。うん? 君の心の声が聞こえるぞ? 酷いな。僕より本が恋しいなんて』

「あははっ」

『書店? 図書館? いいや、両方だな。どう?』

「正解。待ってた新刊と、続きが気になってる小説が、遠い方の図書館に」

『やっぱりな。僕のライバルは、いっつも本だ。読んだらすぐに貸してよね! オススメも二冊は教えてくれなきゃ、拗ねてやるんだから』

「拗ねちゃうの?」

『ほっぺ、まん丸』

「あははっ。なにそれ、見たくなっちゃう。あ、こういう時に使うんじゃない? キミちゃんの」

『ああ。ぷんすこ!』

「ふっ!」

『すこ、ってなんだろうね? 落合さんはホント、五十音を満遍なく使うよね』

「あははっ!」

 ずっと満足のいく読書時間がなかったから、本が恋しいのは本当。数か月前なら、もっと。

 素直になれば、ふたりで過ごしたいだけ。歩き回るほどの元気は足に残っていなさそうだから、それを口実にでもして、喉の出口近くまで出かかった提案は恥ずかし過ぎて飲み込んだ。

 借りて来た映画を観るのもいいと思った。例えば、有村の家で。

 ふたりきりが気まずいわけでも、家に行くのが恥ずかしいのでもなく、有村を独り占めしたいみたいで、草間はそれが、恥ずかしい。

『見せたいよ。一週間も一緒にいたのに、もう、君に会いたい』

「……私も」

『本当? 気が合うね。今から飛んで行こうかな』

「有村くんも、今日は疲れてるでしょ? ちゃんと休んで。明日の、楽しみにするから」

 キリがない気もするから。それも、草間は恥ずかしくて、言葉にしなかった。

 改めて、人間は欲張りだと思う。階段を下りるだけで会えるのは、特別が過ぎること。そんな一週間を過ごしてしまった草間はきっと、有村が帰る度、後ろ姿が見えなくなる度に会いたくなる。

 そして、なんとなく思うのだ。明日の自分は約束の十一時より早くに着くよう、家を出る。改札の前には既に、有村が待っている。たったの数時間を数日のぶりの再会のような笑顔で迎えてくれて、見つけた瞬間にきっと、草間は自然に駆け出してしまう。

 朝焼けの森では言えたのに、好きだなぁ、心の底から思うその言葉もまた、上手く声になってくれない。好きだ。昨日よりも、もっと。明日は、もっと。目を遣った本棚が拠り所だった頃は、こんな幸せを知りもしなかった。

 何冊か、読み返したくなる本の背表紙を眺める。今の自分なら、前とは違う気持ちで読める気がする。より、生々しく。豊かになったと思うのは、気の所為だろうか。

『君の声、ずっと、聴いていたい』

「……うん。私も」

 いつもの冗談だと知っているから、これは敢えて口に出さない。

 あらゆるものがライバルとして、有村とは戦えない。全戦、彼の不戦勝だ。本を読むより、彼の声を聞いていたい。話していたい。本さえあればよかったのに、今は、読書より大事なことが多過ぎる。

「……うん。うん。それじゃぁ、また、明日」

 電話を切る時、いつもの台詞を口にした。いつもよりずっと、名残惜しかった。

 あまりに名残惜しいから、草間は言われるまま自分から電話を切った。ほら、思った通り。切ったそばからもう、彼が恋しい。

「明日も暑くなるのかな」

 少なくとも晴天は確実そうな夜空を見つめ、草間はそっと、窓を閉める。

 クーラーから吹き出す風が妙に、冷たく感じた。温度はいつも通り。一週間で身に付いてしまうものがあれば、一週間で忘れてしまうものもある。こんなに冷たかったかな。思うだけで、作られた風が嫌いな有村をまた想っている自分がいた。

「……恋しい、か……」

 呟く草間は恋がしたかった。本当はずっと、こんな風に想い、想われたかった。

 一階で玄関扉の開く音がして、父親が仕事から帰って来る。草間は風呂へ行く用意を整え、二回目の土産話をしに階段を駆け下りた。

 恥ずかしいくらい、軽快な足音がした。

「お父さん、おかえり。ただいま!」

 笑い続けて柔らかくなった頬はまるで、笑いたがっているみたい。

 お喋りになって、話したいことが尽きなくて。

 時間などあっという間で、明日がこんなに待ち遠しくなる日が来るなどということも、草間は有村に出会うまで、その手を取るまでずっと、知らなかった。

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