かなしいばけもの
草間は間違いなく文学少女であるので、日本語の微妙な言い回しが意味合いを大きく変えることを重々理解している。怒らない、と、怒れない。それは全く、根本からして異なるものだ。
有村は温厚で滅多に怒らないのではなく、怒れないらしい。
不快に感じ苛立つことはあるが、それ以上の感情が他人へ向かわないのだとか。
「怒れない所為で他人に迷惑をかけることは、今のところない。我慢しているわけでもないから、僕にとっても負担じゃない」
医師からは性格的傾向であると十五歳の頃に説明を受けた有村は、無いのなら仕方がない、それならそれで構わないと考える一方、寂しいとは思ったと、然して表情を変えずに告げる。
だいぶ細くなり、心許ない土の線になりかけている獣道を進みながら、草間は打ち明けてくれる横顔を見つめていた。湖色の美しい彼の瞳は前方を捉えているが、同じ方向を見据えたとして同じ物が見えるかどうか、今は然程、気にならない。
「先生が言ってた。感度が悪いだけだ、と。日常生活を送る中で刺激を受け、やがて取り戻すかもしれないと。怒りは負の感情だ。敢えて備えたい物でもない。けれど実際、僕はこの二年間で、不満や苛立ちを感じるようになった。そのくらいが、良かったのかもしれない」
空が明るくなり始め、このくらいの時間帯が最も、肌を凍えさせる気がする。
暗い夜から、太陽が差す朝へと移り変わる間際。空気は一度、シンと静まる。まるで呼吸を整えるように、駆け出す前の一歩を後ろへ引くように。
草間の手は柔く拳を握っていた。その手を伸ばす機会を、有村の隣りで窺っていた。
「僕は、怒れないわけじゃなかった。怒鳴り散らし、力の加減も出来なくなった。頭ではわかっていた。君が心配かけまいと、安心させようと、頑張って笑ったこと。無事ならそれでよかった。なのに、湧き上がるものが抑えられなかった。我が儘だね。欠けているのが寂しかったのに、こんな代物なら、ないままの方が良かった」
僅かに視線を落とした有村が昨夜、唐突に別れを切り出したのは、ないはずのものが自分の中にあったから。そしてそれが想像以上に激しいもので、全く手綱を握れない不可解の結晶のような恐ろしい物であったから。草間の思った通りだ。有村は向けられた草間以上に、怒る自分に恐怖を感じたのだ。触れただけで血を流させてしまった、心優しいエドワードのように。
そこまで聞いて、草間は多少の合点がいく。怒れてしまう自分はその怒りを制御出来ない。暴言の限りを尽くしてしまうか、力加減を間違えてしまうか、どちらにせよ、そう考えた有村から傷付けてしまうという発言が飛び出した経緯は理解出来る。
頭の良い人だから。理解出来ないことは通常、殆どない人だからこそ、例えば自分の中に未知のエイリアンでも見つけてしまった感覚なのかもしれない。誰の中にもあるそのエイリアンに子供の頃からたまに出会う草間からすれば、目を覚ましてから再び寝付くまでギャァギャァと喚き散らすのは寧ろ、普通のこと。
普通に出来ないからと自分を嫌い、普通のことに恐怖を感じる。
有村らしくて、草間はそっと手を伸ばした。
「怒った時なんて、そんなものだと思う」
「…………」
「叱るならわかるけど、怒る時はみんな、それ以外考えられないものだよ。頭に血が上るとか言うでしょ? 腸が煮え繰り返る、とか。カッとなって、大爆発。そんな時に冷静でいる人なら、私も怖いって言う。有村くんのこと」
ハサミでない有村の手は、今朝もかなり冷えている。草間は握ってもらえなかった分、ギュッと強く握った。重なり合う手のひら同士。有村の手が冷たいのか、草間の手が熱いのか、表面の温度を計って明らかにするのは野暮だ。
「普通だよ」
告げた草間は口角を上げる。
熱い同士でなくて良かった。冷たい同士でもなくて良かった。
好きになったのが有村くんで、本当に良かった。
一度加減を間違えてしまったくらいで手を握るのすら躊躇う彼が、大好きだ。
「みんながそう。私も、同じ」
草間は顔を覗き込み、「繋いでくれないの?」と注ぐ眼差しに期待を込める。
勝手に掴んだ手を揺らしても見せた。
「これじゃぁ掴まってるだけだよ」
込み上げる羞恥心に、あと少しだけ限界に到達しないよう、願うような気分だった。
「りょ、両方が握らないと、繋いだって言わない、のではないでしょうか」
「……どうして急に堅苦しく?」
「わかるでしょ……は、恥ずかしいからだよ!」
顔が燃えてしまいそうで、閉じた口はわなわな震える。それでも草間は手を離さず、途轍もなく頑張って有村へと視線を戻した。
「ちゃんと繋ぎたいよ。いつも、みたいに。痛かったら、ちゃんと言うから」
もうちょっと。あと、少し。
いつもの力強さに近付くまで草間は繰り返し、途中からわざとだった有村に気付いて、逆の手で腕を叩いた。思わずという風に笑いながら、笑い始めた有村を、何度も。
「リリーちゃんのこと、訊いてもいい?」
「うん」
赤い木の実を見つけた場所からだいぶ進んだので、草間には既にひとりで別荘まで戻れる自信がない。前後左右がわからなくなる感覚だ。見渡す限り、木と葉っぱ。たまに、小さな影が枝の上を横切る。
話を始める前に、というタイミングで、有村は「着いたよ」と言った。彼が手で持ち上げている枝を潜り抜け、草間は森の真ん中に突然現れた広場へ出た。
「ここが、僕とリリーがふたりで星を見てた場所。だけど僕は星より、ここで見る朝日が好きだった。この色がね、大好きなんだ」
繋いでいる逆の手を広げ有村が披露する風景は、エリザベスに乗って出かけた秘密の場所に似て、それよりもっと美しかった。背の低い葉っぱが自然の絨毯のように敷き詰められ、小さく可愛い花が咲いているのは、あの場所と同じ。しかし、ここの方がずっと感動的に壮大で、通って来た森の中とは全く異なる別世界。
広さは草間の体感で、体育館と同じくらい。その中心でいつもそうしていたというように寝転がった有村に倣って横になれば、目の前には背の高い木々に丸く縁取られた空が映った。
あまりにも澄んだ色。本当の、真っ青。混じり気のない青には不思議な奥行きがあって、海が浮かんでいるみたいに見えた。
「リリーが見つけた場所なんだよ。それからね、夜になると何度も来た。僕は途中で寝てしまうんだけど、陽が昇り始めるとリリーが起こしてくれて。それでね、そろそろ帰ろうかって、リリーに服を引っ張られて帰るの。もうちょっとって残ってると遠くから呼ばれてる声がして、いけないって急いで帰る」
「本当にお姉さんみたい」
深呼吸も有村の真似をし、そのままずっと丸い空を見ていると、身体の輪郭がふわふわとぼやけるような、奇妙な感覚になっていく。
受け止めてくれる葉っぱは柔らかく、見上げている場所に地上があって、まるで雲の上に寝そべっているみたい。雲がないから時間が流れている感覚もない。楽園で連れて行ってもらった中で、ここが一番、穏やかだ。
「リリーがいるからここに来れたんだ。リリーは強くてね。勇敢で、僕や自分より大きな動物にも怯まなかった。僕を後ろに隠して唸るんだ。で、見ると大きな影がこっちを見てる。リリーは身体を低くして、あと一歩でも近付いたら噛み付くぞって言ってるみたいで」
「守ってるんだ……すごいね、リリーちゃん」
「そうとも。リリーは負け知らず。実際に噛み付いたこともある。姿が見えなくなるまで睨んで、充分な距離が出来てから僕の所へ戻って来る。小さい子たちに囲まれると、ちょっと困った顔をするんだけどね。吠えるわけにもいかない感じで」
「優しいんだね」
「すごくね。他の動物にすぐ懐かれてしまう子だった。猫や、ここでは牛なんかにも顔や体を舐められてしまって、複雑そうな顔をする。犬だったけど、表情がとても豊かだった」
「表情?」
「目を細めたり、口を少し開けたりする。あと、耳や尻尾が正直で。瞳もね、嬉しいとすごく、キラキラする」
今の有村くんくらい、とは訊かずにおいた。きっとそうだ。聞けば聞くほど、リリーと有村はよく似ている。守ると決めたら譲らない。そんな、いっそ意固地なほどに頑固なところも。
だからこそ草間は心から思う。優しい子だったのだろう。強い子だったのだろう。確かに、有村の半分だ。
「お利口だったよ。言うことをきいてくれなかったのは一回だけ。僕の家では約束があって、リリーをベッドへ入れちゃいけなかった。リリーはいつもベッドの脇に置いた、自分のベッドで寝る。なのにある日、何度下ろしても上がってしまって。なんだかやけに静かな夜でね。リリーにも甘えん坊の日があるんだと思ったら可愛くて、僕は初めてリリーとベッドで一緒に寝た。枕を半分貸してあげてね。夏だったから、くっついて寝るのが暑かったな。それよりもっと可愛かったから、抱きしめて寝たんだよ。嬉しかった。リリーが僕に、甘えてくれた」
思い出話を聞きながら、草間は小さい有村と黒いシェパードのリリーがスヤスヤ眠る姿を想像し、あまりの可愛らしさに困るほどだった。
嬉しそうにリリーを抱きしめ、リリーもきっと願いが叶って嬉しかったに違いない。家族との約束を破った秘密の夜のこと。一緒に寝ただけだなんて、事柄までが可愛過ぎる。
草間は頬を持ち上げた。込み上げてしまう笑いも、多少は声になって零れてしまった。
有村は、つられてくれなかった。
「次の日の朝、リリーはもう目を覚ましてくれなかった」
笑えないのは、当然だった。
毎朝起こしてくれるリリーが起こせなかったから、初めて自分から目を覚ました有村の腕の中、リリーは既に冷たくなりかけていたという。
「何度も呼んだ。体も揺らした。力一杯揺らしたら、手が不思議な形で持ち上がった。嗅いだことがないにおいがしてた。リリーの体が冷たくて、毛布で包んだ。そのまま一日中抱きかかえて、リリーが起きるのを待った。わからなかったんだ。リリーが、死んでしまっていたことが」
動かないから、寝ているのだと。当時の有村はそう信じて、リリーが目を覚ますのを待っていた。
一日中、たったひとりで。草間はそこで素朴な疑問を覚えたが、尋ねる前に有村が話を続けた。
「次の朝が来て、リリーの瞼に虫が止まった。払っても払っても戻って来る。数が増えて、窓が少し開いてたのに気が付いた。リリーを守りたくて、もっと抱えたんだ。僕にも虫が集って。以前から得意ではなかったんだ。造形が少しね。けど、羽音すら嫌いになったのは、あれから」
「…………」
「リリーに、助けてって言ったんだ。虫が嫌だって。リリーはそれでも起きなくて、お腹がね、やけに窪んでいたんだよ。それで、急に思った。リリーを探しに行かなくちゃ、って」
「…………」
「リリーがどこかに行っちゃった。迎えに行かないと、って。迷子になって、戻って来れなくなってるのかもしれない。僕はリリーを毛布で包み直して、部屋から出た。外はもう、夜だった」
「…………」
聞いた話では、リリーが死んでしまったのは三年前。単純計算で、当時の有村は十四歳。草間でさえ、祖母が亡くなった時には『死』を理解していた。
何十回と見舞いに行った病院で迎えた最期だから、心構えが出来ていたといえばそうだけれど、草間は語る有村の横顔に多少の不安を覚える。なにせ、七歳で天文学にまで手を出していた有村だ。当時から人一倍、知的な少年であったはず。
死んでいたのがわからなかった。突然のことで理解出来なかったのだろうと受け止めても、草間の舌は固まって、動いてくれない。
「僕の頭の中には、一刻も早くリリーを見つけることしかなかった。ずっと一緒だと約束した。リリーを探して、どこにも居なくて途方に暮れ、星を見た。ここで見るより鮮やかじゃなかったけど、綺麗な星空だった。リリーと話して決めた。リリーの為だけに僕がいた。僕とリリーは、離れちゃいけない」
「…………」
「庭には温室があった。花を愛でる人はいないから、奥の小さなプールは夏の間、リリー専用の遊び場だった。その日はたまたま鍵が開いてた。リリーを引き摺って中へ入り、プールを覗いた。月が反射していた。奥にリリーがいる気がした。体を落とすのは可哀想で、先に入ってリリーを引き込んだ。重たくてね。息が出来なくて。それでもリリーを離さずにいれば、リリーの所へ行けると思った。リリーともっと遊びたい。リリーともっと話したい。リリーがいなくちゃ。 ……気が付いたら、僕は病室のベッドにいた。虫の知らせというのかな。合宿を抜け出して様子を見に帰って来た和斗が、僕をプールから引き上げたんだ。リリーは首輪だけになってた。夏も終わってた。和斗は随分痩せていた。僕は三ヶ月間、眠り続けていたらしい」
趣味の悪い作り話をするような人じゃない。同情を欲しがる人でもない。
わかっているから、有村が聞かせるのは全てが事実だ。なのにどこか映画でも観ているような感覚で現実味がなく、これと名前を明言出来る感情を見つけられないまま、しばらくぶりに仕事をした草間の口は、「三ヶ月」、聞いたままを呟く音量で繰り返していた。
「そう。三ヶ月。それからだ。目を閉じるとリリーが何度も、あの夜を繰り返させる。今度こそ上手くやれって言ってるみたいに。何度も何度も失敗する。何十回、何百回と僕はリリーから手を離してしまう。リリーに会いたい。リリーに会える夢の中で、僕は息が出来なくなった」
語るだけ語り終え、ようやく草間を横目で見た有村は、その打ち明け話が草間から声を奪うのを知っているようだった。
悲しそうな、泣き出しそうな目をして口角を上げ、「言っていいよ」と言うのだ。
「同じ話を、一度だけしたことがある。その時に教わった。狂っていると思われるから、誰にも話しちゃいけないと。ね。僕は本当に、頭がおかしいだろう?」
涙が零れて来なくても、有村は見えない涙を流していた。涙を持たないエドワードのように目が、そこに滲む心がポロポロ泣いていた。代わりに草間が泣けて来て、堪える視界が揺らめいた。




