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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第五章 萌芽少女
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けんかをしよう

――トンッ。

 聞こえた音に、草間はそっと本を閉じる。

「おはよう、有村くん」

「…………」

 階段の中程。足を止めた有村は挨拶もせず、引き返す方向へ身体の向きを変えようとする。

「絵里ちゃんに、彼氏さんとちゃんと話した方が良いってアドバイスしたんだってね。言った本人が逃げるなって、絵里ちゃんが言ってた」

「…………」

 引き返しも、残りを降りて来ようともしない後ろ姿に、草間はもう一度「おはよう」と声をかける。

 それでようやく、最初の一文字が掠れた「おはよう」が返って来た。知らなかった。朝の挨拶の返事が中々ないと、こんなに寂しくなるなんて。

「裏の森、朝が一番、綺麗なんでしょ?」

「…………」

「連れて行って欲しい。外、まだ暗いけど、有村くんなら迷わないよね」

「…………」

「連れてってくれるって言った。約束、守って」

「……わかった」

 臆病で弱虫の草間仁恵は、ソファへ下した小説の中に置いて来た。

 今夜なのか、今朝なのか。窓の外は、明日の前、昨日の終わり。草間は決めたのだ。――私はここで、住み慣れた独りぼっちの森を出る。



 一歩前を行く有村は、声帯を置き忘れたみたいに無口だ。

 相変わらず、真っ直ぐな背筋。姿勢の良い後ろ姿。長い脚で進む歩幅は均一で、肌があまりに白いから、今の有村は余計に人造人間に見える。

 たぶん、美し過ぎると人間味がなくなってしまうのだ。形の良過ぎる花が出来の良い造花に見えてしまうのと同じ。ちょっとくらい花びらが歪んでいたり、変色があったり、そうしないと生々しさがないのだろう。

 獣道の途中、草間はまた、あの赤い実を見つけた。

「そうそう、これ。昨日もね、この実を見つけて、向こうの方に行っちゃったの」

 草間は立ち止まったのに、有村は立ち止まってくれなさそうだったから、草間は腕を伸ばして間一髪、ツンと二本の指先で有村の袖を掴む。

「名前、知ってる?」

「…………」

「これ、東屋でモフモフの子たちがくれた実だよね? 不思議なの。たくさん嗅いでみたんだけど、貰ったのくらい甘い匂いがするのはなくて」

「…………」

「私、行ったよね、東屋」

「…………」

「今日、ナッツは?」

「……ない」

「残念」

 よく熟したのをくれたんだね。草間はそう言って、赤い実をひとつもぎ取った。食べた実の、甘さは少し。かなり酸っぱかった。

 慣れないことも、たまにはしてみるものだ。草間は有村にカマをかけた。半分くらいは夢だと思っていたけれど、残りの半分に賭けたのだ。ナッツはない。早朝の東屋であったことは、夢ではない。

 だと、すると。

「一個は、リリーちゃんの分だ」

「…………」

「そうでしょ? 私にひとつ、有村くんにひとつ、あとひとつはリリーちゃん。その実はどこに持って行ったの?」

「……食べた」

「そうやって届けるんだ。リリーちゃんに」

「…………」

 ずっと一緒にいた、魂の半分。身体を失くしてしまったあと、リリーはどうやら、有村の中に住むことにしたらしい。

「いいなぁ、リリーちゃん」

 草間は真っ直ぐ伸ばした人差し指で、有村の胸を突いた。

 丁度、真ん中の辺り。シャツの合わせ。ボタンとボタンの、間。

「そこにいたら、好きだから離れようなんて、言われないで済むもんね」

「…………」

 そんなワケのわからない台詞で追い遣れないで済む。

 有村は下を、地面か何処かを見ていたが、草間はジッと有村を見ていた。

「私ね。怒ってる」

「…………」

「悲しかったんだけど。悲しくて、いっぱい泣いたんだけど。いっぱい泣いたら、ムカムカして来た。で、今は怒ってる。ちょっと落ち着いたかなって思ったけど、有村くん見たら、やっぱり、怒ってる」

「…………」

「嫌いになったって、言ってよ」

 言いながら、草間はもう一度、人差し指を押し出した。

「嫌いになったから別れたいって、言ってよ」

 ググっと押して、グリッと抉った。草間としては、全力で。おのれ人造人間め。痛くも痒くもない顔をしてからに。

 いや。有村は視線を、更に落とした。その角度はもう、殆ど真下を向いている。

「好きだから、じゃ、わからないよ。接続詞、苦手なの? だからの前後は、ちゃんと繋がってないとダメなんだよ」

「……繋がってる」

「繋がってない」

「繋がってる。そのままだ。好きだから、離れて欲しい」

「わからない」

「…………」

「わからないから、私は、離れない!」

 離れる理由がわからない。草間は告げて、これならどうだと、同じ場所に握り拳を振り下ろした。

 響けよ。届け。機械みたいに硬いこの胸の中まで、届かなくては意味がない。

「君は、僕と居ない方が良い」

「なんで?」

「僕は君を傷付ける」

「どうやって?」

「どう、って……」

「それはいつ? 何時何分? あと地球が何回、回ったら?」

「……子供の喧嘩かよ……」

「そうだよ」

 草間は有村の腕を掴み、力任せに引き寄せる。私は、怒ってるんだ。話している相手の顔も碌に見ない、有村を。

 相当に強く引いたのに、びくともしないから腹が立った。足の裏から根っこでも生えているのか。ぴょんぴょん、ぴょんぴょん、こちらが気を揉むほど軽快に飛び回る足はどこへ行ったのだ。

 立ち止まって進めなくなる私の所まで戻って来てくれる有村くんは何処へ行った。いつだって真っ直ぐ差し出してくれる手はどこに消えたのだ。手放したくないと言ったのに、頑張って口に出したらその耳はいつだって、この声を聞き届けてくれたのに。

「私、生まれて初めて、喧嘩、しようとしてる。喧嘩、売ってる。有村くんに」

「…………」

「しようよ、喧嘩。私たち、同じ人間なんだから。言葉を話せるんだから、ちゃんと話そうよ。話してよ。私にしっかり、わかるように」

「…………」

「どうせフルなら、大嫌いになって、顔も見たくないって、そのくらいになってからにしてよ。好きだからなんて言うんなら、私はまだ、有村くんのそばにいたい」

 今なら、久保の気持ちがわかる。話してもわかり合えないなら仕方がない。一番寂しくて悲しいのは、ぶつかることすら諦めてしまうこと。出来ないこと。想いを伝えられず、その機会を、永遠に失ってしまうこと。

 この手をいま離したら、有村と過ごす優しい時間を失くす。それが嫌だから、有村が嫌がるくらいで離してやるつもりはない。

「教えてよ。有村くんのこと、ちゃんと教えて。有村くんはどうして、すぐに私を突き放そうとするの? どうしてすぐ、自分を悪く言うの? どうして……自分のことが、嫌いなの?」

「…………」

 二度目のカマ掛けも、どうやら成功したようだ。有村は視線を上げ、やっとしっかり目が合った。

 醜い素顔を見られたファントム。ハサミの手で他人を傷付けてしまったエドワード。顔を見られたくらいで、少し間違ってしまっただけで、強引な手段に打って出たり逃げ出したりするのは、やがてそうなることを彼らが知っていたからだ。他人の反応を疑わず、憎まれこそすれ、愛されるはずがない自分を、彼ら自身が酷く嫌っていたからだ。

 くぼんで壊死した顔は生まれつきなのだと。だからこうして地下に身を隠しているが、それでもひと目、言葉を交わしたいほどに愛しているのだとファントムが言えたら、クリスティーヌに伝えていれば、結末は変わったのかもしれない。

 この手はいずれ誰かを傷付けてしまう。普通の生活は送れないから、追い立てられる前に屋敷へ戻り、キムに一緒に来て欲しいとでもエドワードが言っていたら、毎年降らせる氷の雪の下でキムは踊り続けていたかもしれない。

 愛して欲しいと言えない彼らは、愛するかどうかをヒロインに決めさせない。

 自分は、他の人たちと違う。醜い。凶器を持って歩いているようなもの。だから、なんだ。誰を好きになるか、誰と一緒にいたいのか、決めるのはヒロインだ。

 顔を見て悍ましいと感じたとして、身体が傷だらけになったとして、それでもいいからそばにいたいと思うヒロインがいたっていい。

 草間は息を整えた。心はとても、落ち着いていた。

「有村くんは優しいよ。やろうとして誰かを傷付けるなんて、出来ない人だよ。頭だって、おかしくなんか……有村くんは何でも知ってて、なんでもわかって、同時に色んなことを考えてる。すごいと思うだけで私には、それのどこか悪いのか、全然わからない」

「…………」

「もし、有村くんの頭がそうでもないって言うなら、危ないからダメだって言われたのに明るい内に戻れば平気だって、それで結局足を捻って動けなくなって、みんなに迷惑かけた私は、考えなしの大馬鹿者だよ。そんな人、怒られて当然。怒っちゃったなんて傷付かれたら、バカをした私は、どうなるの」

「…………」

「バカな私には付き合いきれない。もう、うんざりだ。そうとでも言われたなら諦めもつく。でも、悪いのは自分だって言うみたいに有村くんは自分を責めて、ちょっと手に力が入っちゃったくらいで、いつか傷付けるから好きだけど離れてくれなんて、そんな風に言われたら、私……」

 不注意で捻った足と比べれば、掴まれた肩など痛くなかった。ついうっかりと声が出ただけでフラれるなんて、あんまりだ。それくらいのことをしたのだから、理由にするなら、そちらでなければ。

 草間は震えたがる唇を噛んだ。臆病者め。伝えなくちゃいけない時にも勇気を振り絞れないような、どうしようもない弱虫にだけは、なりたくない。

「……好きだから、離れたくない私は、どうなるの」

 決意してここに立っているのに、膝が震える。有村の腕を掴む手も、震えてしまう。

「好きだから、有村くんのそばにいたい私は、どうなるの!」

 叫んだあと、想いの全てを吐き出した草間の上がった呼吸が、シンと冷え込む静かな森に散らばるようにして、頼りない音を滲ませる。

「……情けないな」

 震える足と手。口を閉じれば、カチカチと奥歯すら鳴ってしまいそう。

「待ってる間、いっぱいシミュレーションしたのにな……その時はもっと、ちゃんとした言葉、言えるつもりでいたのに……」

 所詮、想像は想像だ。どれだけ頭の中で組み立てても、実際には中々、思うように進められない。

 これも、今まで甘えてきたツケだと思う。久保や落合の背中に隠れ、ふたりに代弁してもらい、困ったら泣いて伝えることを怠けてきた、代償。

「…………草間さんが、僕を、好き?」

「……え?」

 泣くもんか。今日はきちんと、有村と向き合うと決めたのだ。喧嘩になって怒鳴り合ってでも吐き出して、吐き出してもらうと決めて、草間は口火を切った。

 その想い勇んだ口が、間抜けに隙間を空ける。

 いま、なんて?

 草間が顔と視線を真っ直ぐ向けると、その先で有村は少し驚いている顔をしていた。

「……初めて、言われたから……」

「えぇっ!」

 嘘だよ。そう言って、草間は有村の逆の腕も掴んだ。自ずと正面から向き合う角度になるが、そんなはずはないと強い剣幕で見上げる草間に若干の横顔を見せる有村は、随分と控えめに小さく頷く。

「ウソだよ! そんなはずないよ! 一回もってことは……!」

「ない、よ。言ってくれるのかなって思う時はあったけど……」

「でしょ! そういう時、言ったでしょ?」

「ううん。君は顔を真っ赤にして、ステキ、とか、スゴイ、とか……」

「……え」

「……知らなかった。ただの言葉なのに……特別好きな子に言ってもらえると、こんなに、嬉しいんだ……」

「えーっ!」

 草間渾身の絶叫が響き渡り、バサバサッとどこかで羽を休めていた鳥が飛んで行く。

 言ってないかな、私。考えてみると、スまで言って恥ずかしくなり、誤魔化した記憶が湯水のように溢れ出して来る。確かに、言ってないかもしれない。素敵とかすごいとか、そんな風に何回も『好き』の単語から逃げていたかも。

 青褪める草間の前で、有村はほんの少し頬を色付かせていた。口元には、柔く握った右手。綺麗な湖色の大きな瞳がゆらゆらと、キラキラ潤むように揺れている。

「言葉自体は結構、言ってもらえる。でも、全然違うんだね。こんなに、違うんだ……」

「え。待って。ちょっと待って、有村くん。こんなに、って。私、知ってるよ? 有村くん、学校で殆どの女の子から言われてるよね? 慣れてるよね、寧ろ!」

 毎日毎日そこら中で、『好き』なんて言葉は飽きるほど浴びて来たはず。告白は一世一代の大勝負だ。全員が必死にその言葉を伝えようとして、告げたはずだ。

 異性から、時には同性からも恋心を明かされる有村は当然に、慣れているはずだ。慣れ過ぎてしまうくらいで、そんな幼稚な単語ひとつで頬を染める意味がわからない。

「そんなの、猫に猫って呼びかけるようなもの」

「うん?」

「僕に言われてる気はしない。名前も知らない人に言われたって、意味はない。好意を持ってもらえるのは有難いけど、いちいち真に受けるほど、バカじゃない」

「…………」

「……嬉しい。こんな僕を、他の誰でもない、君が、好きって言ってくれた……」

 クリスティーヌ。キム。やっぱり、言葉は伝えないとダメだ。

 ファントム。エドワード。有村くん。この手の人たちはまず、自己評価があまりに低い。

 信じ難いことだけれど、好いてもらえるはずがないと思い込んでいる人は、どうやら存在するらしい。こんなにも見目麗しく、賢く、欠点などないように思える人であっても。

「……こんな、って……有村くんは自分を、どんなだと思ってるの?」

 感じたことのない種類の恐怖を覚えつつ、草間は尋ねた。その目は若干、座っている。

「……欠陥品。人間の、出来損ない」

「……どの辺りが、そのように?」

「……何人もに言われた。見たものも忘れてしまうし、頭で考えないと何をすべきかわからないし、それでもまだ、間違うし。 ……合ってる」

 あなたにそんな風に言われたら、それこそ私はどうなるの。

 有村を見上げ、草間は思う。この一週間で垣間見た、有村がこれまで過ごしてきた『坊ちゃん』としての生活。その中で、彼は自分の住処を見失ってしまったのかもしれない。

 魚なら、自由に泳ぎ回れるだけの水がなかったのかも。鳥なら、思い切り羽を広げたことがないのかも。

「教えて、有村くん。私が好きになった人の、こと」

「…………」

 この楽園は自由だ。住人は皆生き生きとしていて、何でもあるし、何でも出来る。

 けれど、別荘の外での有村が窮屈だったのは感じていた。だから草間は笑って見せた。

 ここには今、自分と有村しかいない。幼い頃の彼が帰りたくなかった森で始めるにはきっと、相応しい話だろうから。

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