大丈夫
また、フクロウが鳴いた。
「イタタ……」
もう何度目になるだろう。部屋の中から聞く分には読書を盛り上げてくれる効果音だったのに、真っ暗な森の中で聞くそれはやけに不気味で、身じろいだ草間は捻ってしまった足首を擦る。
鳥の羽搏き。たまに聞こえる、動物の鳴き声。ジッとしているのも怖くて仕方がないけれど、二回試して、背にした土の壁を登るのは無理だと諦めた。
何かの本で、迷った時には川の方へ、というのを読んだことがある。明るくなってから下流へ辿れば、どこかしら開けた場所に出られるはず。それまでには鈍く続く足の痛みも、多少は引いているはずだ。
ただ、すっかりと更けてしまった夜空を見て思う。今頃、みんなは戻らない自分を心配しているだろう。きっと懸命に探してくれている。勝手に森の中へ入り、相も変わらず鈍臭く足を滑らせて、身動きが取れなくなっている、私を。申し訳なくて、仕方がなかった。
「……やっぱり電波、入らない」
使えない携帯電話を開いて、閉じる。その動作も、何度もした。今やこれはただの時計。森へ入ってからは三時間ほど経っていて、ここへ落ちてしまってからは一時間半近くが経過していた。
草間は背後の壁を見た。剥き出しの土には、石や木の根っこが幾つか突き出している。
あれを足場にすれば、登れるような気はするのだ。眺める度に、眺めている分には。足に力が入らなくても、頂上に手がかからなくても、慎重にゆっくり登れば上まで辿り着ける気はする。
早く戻らなくちゃ。逸る気持ちは萎れておらず、草間は汚れた服を払って立ち上がる。
「有村くんが言ってた。私は、出来る。落ち着いて、ゆっくり。あそこを掴んで、次はあれ。足はここと、この辺かな。よし。もう一回」
慌てないで。落ち着いて。まずは深呼吸をしよう。
何度も言われた言葉だから、今も、すぐ近くに有村がいるかのように聞こえて来る。大丈夫。落ち着いて。そうすればきっと、次こそ登れる。
「……痛っ」
一歩ずつ、ゆっくり。そうは思えど、触れれば腫れているようにも感じられる右足は今回も、草間の体重を支え切れなかった。
膝を抱えて、顔を埋める。私はどうして、いつもこうなんだろう。迷惑をかけてばかり。
「絵里ちゃん、怒ってるかな……」
それも、本当に聞こえるみたいに蘇って来る。どうして一人で行ったりしたの。本当に、その通りだ。
ホウ。ホウ。フクロウが鳴く。ガサッ。ガサガサッ。木々が揺れる。
「……怖いよぅ……」
強く強く膝を抱え、草間はまた、やっと引いたはずの涙を流した。
自業自得だ。泣くのはおかしい。自分が悪い。泣く資格なんてない。
「……なんで私、いつもこうなんだろう……」
久々に頭の中で姉が笑った。
アンタは愚図だ。鈍間だ。他人に迷惑をかけるだけのお荷物、何の役にも立たない――お姉ちゃんは、正しい。
私は、バカだ。
「――――!」
遠くから、誰か人の声が聞こえた気がした。有村や久保、姉の声まで聞こえていた草間だ。気の所為と思って、更に身体を小さくした。
「――え! 仁恵ー!」
違う。繰り返し聞こえて、草間はやっと身体を起こした。
だんだんと近付いて来る。この声は、キミちゃんだ。
「キミちゃん! ここ……ここにいるよ!」
助けに、迎えに来てくれた。草間は限界まで背伸びをして、必死に叫んだ。
「キミちゃん!」
上の方で、話し声が幾つか増えた。みんなで探しに来てくれたんだ。申し訳なさより今や恐怖が先に立ち、草間は尚も落合の名を叫ぶ。
怖くて。怖くて。
壊れたみたいに零れ出す涙を、腕で拭った。
「――草間さん!」
「…………っ!」
見上げていた壁の上に真っ先に姿を見せたのは、有村だった。見たこともないくらい、緊迫した表情。すぐあとから、何か長い物を肩に掛けた藤堂も顔を出す。
次に鈴木と落合がやって来て、藤堂が「無事か!」と叫ぶ頃には、有村が土の壁を滑り降りて来た。
「よかった……怪我は……?」
「…………っ」
両方の肩を掴まれ、足の方まで視線を走らせたあとで再び正面から見つめて来る有村に、どうしようもない安堵が込み上げて来る。
怖かった。怖かった。本当は足も、すごく痛い。
来てくれた。もう大丈夫。そう思ったらもっと涙が溢れそうになって、草間は顔を腕で擦った。
「……へい、き」
やっと呟き、違うと思って唇を噛む。そうじゃない。まず、謝らないと。お礼を言わないと。言わなきゃいけないこと、言いたいことがあり過ぎて、草間はゴクリと唾を飲む。
有村だけじゃない。藤堂も鈴木も落合も、本当に心配してくれていたのが一瞬見ただけの顔でわかる。バカな、私の為に。安心したのも束の間、すぐに申し訳なさが込み上げて来る。
私の所為でまた、みんなに迷惑をかけた。情けなくて、草間はいま自分に出来る精一杯のことをした。
濡れてしまった頬を拭い、きちんと顔を上げて、「大丈夫」、そう言って笑って見せた。
「迎えに来てくれて、ありがとう。心配かけて、ごめんなさい。夕方になっちゃって、帰ろうと思ったら、足、滑っちゃって。こんなトコ、落ちちゃった。ドジでもう、嫌になっちゃう。バカだよねぇ、私。ホント。 ……ごめん、ね?」
謝らなちゃ。お礼を言わなくちゃ。
心配かけてごめんなさい、って。大丈夫って、伝えなくちゃ。
震えそうな口は奥歯を噛んで、熱くなりたがる目頭は一生懸命我慢した。泣いたらダメだ。そう思ったのだ。頑張って、必死に笑った。
ありがとう、と、ごめんなさい。一番伝えたかったから、草間は真っ直ぐ、有村を見ていた。
その顔が、みるみる変わっていった。
「……なにが、おかしい」
「……え?」
大きくなる目が鋭さを増し、頬に歪な影が走った。聞こえた声はやけに低く、掴まれた肩がキリキリ軋んだ。
「……っ、どうして笑う! 何がおかしい! 足を滑らせて落ちただけ、それだけで済まない想像を、どれだけしたと思ってる!」
「…………っ」
「どうして嘘を吐く! 見てもわからないと思うのか! その右足は満足に動かない! なのに、どうして笑う! 笑うな! そんな風に、笑うな!」
「…………っ!」
浴びせられる怒声。怒りに満ちた、有村の顔。声も出ない草間は、動かない肩を竦める。
「……痛、い……」
「…………ッ」
軋むのを越え、掴まれた肩が砕けてしまいそうに痛かった。咄嗟の声は小さく漏れ、手を離した有村は苛立つように背を向けると、草間が何度も登り損なった土の壁に力一杯、拳を叩きつけた。
ドンッ。響く鈍い音にまた、身体が跳ねる。素直に言えば、怖かった。浴びせられた怒声も、見上げた顔も、土や石をポロポロ零して壁を殴りつけた、有村も。
「……藤堂」
低く放たれた呼びかけに応え、藤堂が草間の元まで降りて来る。そこまで近付いて初めて、草間は彼が抱えているものが銃であるのに気が付いた。
形としては、昔映画で見た猟銃に似ている。猟銃。考えてから、ハタと気付く。ここは暗い森の中。それが必要な、場所。
「彼女を背負ってやってくれ。右足が腫れてる。使わせない方が良い」
「……わかった」
すぐに鈴木も降りて来て、銃は藤堂から鈴木へ渡った。誰も、何も言わない。藤堂は草間に背を向け膝を折り、「早く乗れ」とだけ言った。
「…………」
「早くしろ。嫌がるなら、肩に担ぐ」
「…………」
戸惑う草間には、脇から鈴木が「帰ろうぜ」と声をかけて来た。見れば鈴木は、弱々しい笑みを浮かべている。草間と同じくらい、泣き出しそうとも思える表情だ。
「みんな心配してっからさ。早く戻って、安心させてやろうぜ。な?」
諭す鈴木に肩を押され、草間は渋々、藤堂の肩に手を置く。立ち上がって身体を揺する藤堂は、ほんの少し背伸びをするだけで、頂上まで指先がかかるようだった。
「掴まってろよ」
足場には、石も木の根も、使いもしない。軽々と壁を登り、草間の元には落合が駆け寄って来た。
「心配したよ、仁恵! もう……ホント良かった。見つかって……」
「…………」
頭と背中を撫でられ、足の痛みを確認される。草間はまだ、口が上手く開かなかった。
戸惑いながら目を遣る、地面が削れた、一段下。鈴木が上へよじ登り、残る有村に怒鳴られるのを、草間は想像もしていなかった。
怒って当然だ。迷惑をかけたのだもの。けれど、心のどこかで思っていたのを知る。温厚な有村は自分を叱らないと思っていた。腹を立てない。怒らない、と。遅れて上がって来た有村の右手の側面には土が付いていて、それを囲むように赤くなっていた。
「……戻ろう」
呟き、先頭を行く有村のあとに藤堂が続く。背負われる草間のそばには落合がいて、反対側には鈴木がいた。
真っ暗な木々の間を通り抜け、草間は、自分が思いのほか深く入り込んでしまっていたのを知った。赤い木の実を見つけ、それが連なる方へ。進むほど、思い知る。あの壁をよじ登れた所で、自力で最初の獣道までは戻れなかった。
迷いなく進む有村は本当に、この森を良く知っているようだ。足を止めて後続を待つのは、乾いた土が作る一本道の真上。
「藤堂。ここからなら戻れるな」
「お前は?」
大きな背中に視界を遮られ、草間からは有村の姿は見えない。
「僕は、少し頭を冷やしてから戻る」
「……わかった」
藤堂が方向を変えれば見えると思っていた。けれど有村は背を向けていて、草間はやっと、名前を呼んだ。
「有村くん! わたし――」
こっちを向いて欲しかった。言いたいことが、たくさんあった。
しかし、やっとの思いで絞り出した声に応えたのは、草間を背負う藤堂だった。
「あとにしろ」
「でも……」
「別荘に戻る。和斗さんも探してる。見つかったって、言わねぇと」
「でも!」
佇む有村を背に、藤堂はどんどんと獣道を進んで行く。振り向いて見つめる後ろ姿が、みるみる小さくなっていく。
待って。止まって。藤堂に向けて訴えた。
「……マジで、あとにしてやってくれねぇかな。草間さん」
「…………っ」
次に口を開いたのは、鈴木だった。
小柄な鈴木の肩には、真っ直ぐに銃身を伸ばす銃がやけに大きい。彼はそれを背負い直し、草間には、横顔を向けていた。
「アイツさ。死にそうな顔して探してたんだぜ? 委員長に何かあったらどうしよう。連れて来なかった自分の所為だって。気持ち、わかるけどさ。有村にだって、感情くらいあるからな」
「…………」
「少し、そっとしておいてやれよ。落ち込んでんだよ、あれで」
返事をしない草間に、「本当だよ」と落合が言う。姫様は自分を責めてた。途中でセコムに喝を入れられたんだから、と。
泣くのかと思った。最後にそう言った時、落合もまた獣道を振り返った。
「……有村が怒鳴るのを見たのは、二回目だ」
ふと落ちた沈黙を裂いて、藤堂が話し出す。
その視線は真っ直ぐに正面を見ていた。どこまでも続く、木々の隙間。あまりにも真っ直ぐで、藤堂にだけは既に、出口が見えているかのようだ。
「一回目は海で、阿呆がガキを殴ろうとした時。あん時はガキを庇おうとしたんだろ。誰かに腹が立って怒鳴るってのは、初めて見た」
ザッ。ジャリッ。三つ分の足音以外、聞こえる音は他にない。
いつの間にか風も止んでしまったようだ。涼しい、寒いと思っていたはずが、今はじっとり、背中に汗が滲むよう。
「アイツはオレが知ってる中で一番、感情に起伏がない。多少の浮き沈みはあるが、上も下も高が知れてる。だから常にどこか冷めてる。けど、草間がいねぇと気付いてからの有村には全く、余裕がなかった。ガキが喚いても、耳に入って来ないくらいにな」
草間が様子を窺うと、落合は少しだけ気まずそうな顔をした。この楽園で藤堂が『ガキ』と呼ぶなら、桜子しかいない。彼女と有村の間に何かあったのだ。自分の、私の所為で。
肩を掴む草間の手に力が籠ると、視界を埋める大きな背中が告げた。
「草間、お前だったからだ」
「……わたし?」
「お前だから焦った。お前だから怒鳴った。そんな気がする」
振り向いて見た背後にはもう、真っ暗な木々が立っているだけ。
「たぶん、怒鳴ったアイツが一番、動揺してる。ああいう時は時間を置いた方が良い。戻って来る頃にはそれなりに、納得してるだろうよ」
「…………」
草間は身体を正面へ戻し、再びに俯いた。
常に冷静でいるから、激しい感情には慣れていないのだと藤堂は言う。困惑している最中の有村は、触らぬ神だ、と。余計に拗れるから黙っていろと釘を刺されて、草間は恐らく有村の感情が最大級に乱されてしまった日のことを思い出した。
見たくない物、聞きたくない話を忘れてしまう有村のこと。思い出したくない、過去のこと。
彼は自分の心に、厚い蓋をしているのかもしれない。
「出口だ。どうする、草間。見られる前に、ここから歩くか?」
「……そうする」
森を抜けたすぐそばで、草間は藤堂の背中から降りた。
そこから先は落合に肩を貸してもらい、自分の足で歩いて戻った。
帰ってすぐ、抱き着いて来た久保。連絡が回って、やって来た和斗と山本。みんながホッとしたように表情を緩め、誰ひとり、草間を叱らなかった。
ガラス戸の外は真っ暗。藤堂と鈴木が料理を温めて、有村を待たずに夕食が始まる。
ひと口も手を付ける気分には、なれなかった。




