捜索
「だったら怒り狂って、無駄に時間食えばよかったってのかよ」
獣道を進む後列で、鈴木は落合をチクリと睨む。
「今は委員長を見つけるのが第一だろ。ああでもしなきゃ、ずっと喚いてたぞ。それか、和斗さんがブチギレてた。どっちにしろ、出るのが遅れる」
「でも……」
「お前がどう思うかは勝手だけどさ。俺はさっきの有村、別に間違ってねぇと思う。つか、お前も早く切り替えて真面目に委員長探せよ。やる気がないなら戻れ。足手纏いだ」
「…………」
そんな言い方をしなくてもとは思うが、鈴木の言い分は尤もでもあったので、落合は全力で草間の名前を叫んだ。
もう何十回と呼んでいる。しかし今回も、返って来るのはザワザワと揺れる枝葉の音だけ。真上は多少抜けていて月明りも届かないではないが、足元は懐中電灯の明かりでやっと、唐突に地面から突き出している木の根を避けている。
単純な暗がりより性質が悪い。視界を遮るのは闇だけでなく、同化した木々の方だ。引っ切り無しに音を立て、それがたまに違う音を紛れ込ませたりする。
「動物ったって何がいる」
「多いのはタヌキやイノシシ、リスとか小動物が殆どだ。ただ、一度だけクマを見た」
「熊? そんなの、横から来られたらわからねぇぞ」
前から聞こえる藤堂と有村の会話に、落合は『マジかよ』と肩を竦める。山で熊に襲われるとか、シャレにならない。でも確かにここは、すぐ近くに何かしらいるような気配が十二分に漂っていた。
名前を呼ぶ合間に耳を澄ますと、フクロウかなにかの鳴き声が聞こえて来る。それよりも少し高い、獣のような鳴き声も。時折、近くからもして、落合は鈴木にぐっと近付いた。
「仁恵ー! 返事してー!」
「委員長ー! どこだー!」
どれだけ叫び、耳を澄ましても、返事はなかった。
まだ明るい内に入ったのだとして、草間は随分と奥まで進んでしまったようだ。一応の道というか、土色の線のようなものは辛うじて続いているが、一度外れてしまったら探すにも苦労しそうなこの線を、道と呼ぶのは心許ない。
そんな線の上を進むのに、先頭を行く有村の速度は早く、足取りにも迷いがなかった。目的へ向かっている速度、というと丁度良い。近所のコンビニまで急ぐ歩調で彼もまたしっかりと探してはいるのだろうが、視線はずっと下を向き、草間の名前もまだ一回も呼んでいない。
「草間! 返事をしろ!」
藤堂ですら、何度も何度も叫んでいるのに。
先程の桜子を見た目付きがまだ脳裏から消えておらず、やっぱり少し冷たい人かもと感じ始めていた背中が、急に、ピタリと止まった。
「足跡が消えた」
「ん?」
「ここまでは薄っすら見えてたんだ。でも、ここで消えた。何故。ここで一体、何を見つけた」
有村は周囲を見渡し、草間が道を反れた原因を探し始める。そうか、足跡。落合は考えもしなかった。ライトで照らして、やっと足元の雑草が見える程度。こんな視界で追っていたなら、有村に大声を出す余裕はなかったかもしれない。
「……これか」
見つけたのは、爪の大きさほどの小さな赤い実。有村は振り返り、近くにこれと同じ実がないか探すよう言った。
赤い実。赤くて小さい丸。注意深く木々の間を照らしながら探していると、鈴木がこっちにあると手を上げて、有村を呼び寄せた。
「この辺そうじゃね? 奥のもそれっぽいし、こっち行ったんかな」
「みたいだね。少しだけど、葉が折れてる」
「どれ……ホントだ。お前よく見えんな。目ぇ悪いのに」
「見なくちゃいけない物は見る」
「行くか」
「うん」
振り向く角度で唐突に有村と目が合い、落合は思わず肩を跳ねさせた。睨まれたわけではないのだけれど、いつもはキレイだなぁと思うだけの整った顔が、何故か怖い。
「のんちゃんはここで、落合さんと残った方が良いかも」
「なんで」
「ここならまだ自力で引き返せるでしょ。こっちに行ったら、視界はもっと悪い」
鈴木にも藤堂にも見られ、落合はまた足手纏いと言われた気分になる。
これで運動神経は悪くない方だ。暗い場所がやけに怖いわけでもない。あたしも行く。そう告げて、落合は懐中電灯の明かりを正面へ向けた。
外れてみると、あんな頼りない物でもまだ『道』だった。あちこちから枝も葉も突き出しているし、それが顔や肌に当たって擦り切れたような痛みが走る。
「有村。下、まだ見えてる?」
「なんとか。でも、動物かもって言われたら、自信ない」
「だよな。本当にこっちで合ってるんかな」
「ごめん。正直、わからない。ここで人を探したことはなくて」
「普通ねぇよ。気にすんな」
「ごめん」
「いいって。なにもねーよりマシ。下、よく見といて」
「うん」
あちこちを照らしながら進む鈴木は先頭に声をかけたあと、落合には自分の後ろへ回れと言った。そうすれば多少は壁になるだろう、と。その気遣いも、今は全く嬉しくない。
邪念を振り払うように、落合はまた呼び掛けを再開した。腹筋を使い、肺を空にするみたいに、限界の大声で草間を呼ぶ。
「仁恵ー! 仁恵ー!」
こんなに呼んでいるのに返事がないということは、そもそもここにはいないのではないかという気がしてくる。だって、草間を呼ぶ自分たちが黙れば、辺りはとても静かだ。
勘違いなんじゃないの? 早とちりだったんじゃないの?
本当もう、別荘に戻ってたりして。見えないのは承知の上で、落合は振り向いた。後ろにあるのはただただ、うっそうと茂る木々ばかり。
「ねぇ本当にこっち? こんな呼んでんのに返事ないし、別のトコなんじゃ……」
つい言ってはみたものの、鈴木に「なら、他にどこ行くってんだよ」と一蹴されてしまうと、落合はまたしょんぼりと唇を噛むだけ。
きっと、和斗が別のどこかで見つけている。そんな気がする。久保には連絡が届いていて、それをどう伝えるか悩んでいるだけだ。大声自慢の落合ならまだしも、久保の声が森の中まで届くはずがない。
「…………」
もしかしたら、それもあって有村はふたりで残るよう言ったのだろうか。大人ぶっていても久保は案外、怖がりだし。思い付いてしまった落合が目を遣った時、再び、有村の足が止まった。
「……そうだよね。こんなに呼んでるのに、返事、ないもんね……」
一度足を止めてから、藤堂がその隣りまで近付いた。
「……ここしかないと思うんだ。でも、いなければいいと思ってる。別の場所で和斗がもう見つけていて、それか、草間さんは散歩してただけで、戻ってればいいのに、って」
「お前がここだって言うんなら、草間はきっと、ここにいる」
並び合った藤堂が、励ますように有村の肩を叩いた。その置かれた手を振り払い、振り向いた有村の面持ちは少しも、冷静だとは言えそうになかった。
「いて、欲しくないんだよ! ここは本当に手つかずだ。崩れて斜面になっている場所、川もあるし、人を襲う恐れがある動物だっている! 安全ではないんだ! 僕が入って過ごせたのは、いつもリリーがいたから――!」
形の良い眉を顰め、開く口も、初めて見る歪な形をしていた。落合には相当に意外だった。背中で見ていた足取りからは、いつも通りの淡々とした有村しか想像出来ていなかったのだ。
次は、見つめ合う藤堂の顔付きが険しくなった。隣りに居る鈴木も僅かに、落合が見遣る横顔に緊張を走らせている。リリー。初めて聞く名だ。藤堂が「有村」と、零れるように呟いた。
「ずっと、様子が気がかりだった。桜子ちゃんに何か言われたはずだ。なのに、しつこく尋ねなかった。わかっていたのに……もっと、訊けばよかった」
「訊いたんだろ? 草間はどうせ、何でもないとか言ったんだろうが」
「だとしてもだ! あの子が言うなら、僕のことだ。僕のことで悩ませていた! 草間さんになら、なんだって打ち明けるのに。不安にさせてまで隠したいことなんかないのに!」
「有村……」
「……僕の所為だ。ここだって、連れて来るって約束した。一番綺麗な朝に、連れて来たかった。時間を作れなかった、僕の所為……」
「有村」
「どうしよう……どうすればいい……草間さんに、もしものことがあったら――」
過る最悪の所為でなく、冷たい夜風の所為でもなく、落合はみるみる身体の内側が冷めていくようだった。
目が、覚めるようでもあったのだ。久保を助けるのに必死だった有村は嘘じゃない。身を挺して庇うほど、誰かが傷付かないよう、その想いが有村の中で強いものであることは、落合もとっくにわかっていた。
ましてや今は、草間のこと。心配で、不安で堪らないのは落合たちだけでなかった。一目散に進んで行くから、声掛けをしないから、なんだ。痛いくらいに伝わってくる。有村は落合よりずっと、平静を保てないほどに取り乱している。
藤堂は有村の肩を掴み、徐々に下を向いて行く顔を強引に上げさせた。
「きっと、どっかで丸くなってるだけだ。聞こえてねぇんだろ。まだ近くにいないだけかもしれん。だから、探しに行くんだろうが」
そうだよ、と続いた鈴木につられるようにして、落合も数回、頷いて見せる。
けれど有村は、正面にいる藤堂すら禄に見えていない顔をしていた。
「……いつもそうだ。優しくて、好きになる人はみんな、僕の所為で不幸になる。僕に関わったから。楽しくて、もう一度会いたいと思う人はみんないなくなる……長く居過ぎたんだ。特別だなんて思ったから……僕の、せい、で……っ」
「有村!」
腹に据えかねた藤堂の怒声は森を突き抜け、肩を掴まれたままの有村に身体を跳ねさせ、呼び掛けかけた鈴木の声と落合の呟きを一緒くたにして、遠くの彼方まで弾き飛ばしてしまった。
「縁起でもねぇこと言うな! なにが不幸だ、ふざけんな!」
心許ない明りの所為ではないと、落合は思う。持ち上げられた有村の横顔は今にも泣き出しそうで、だいぶ前から妙な波が立っていた震える声を思うなら、まだ泣いていなかった有村の最後の線はここでプツリと途切れて、全く不思議でない。
まるで別人、迷子になった幼子のよう。それが有村であるから余計に胸が痛く、落合は過ぎるくらいに固く、口を結んだ。
「しっかりしろ! なに弱気になってんだ! 泣き言なんざ、草間を見つけるまで言うんじゃねぇ!」
「でも……っ」
「でも、じゃねぇ! なにがあったにしたってな! 見つけるんだ、俺たちは。どっかで俺らを待ってる、草間を!」
「…………っ」
「テメェが言ったんだろうが! 絶対に助ける、そう思ってんのは、俺とお前じゃねぇのか!」
「…………っ」
叱りつける藤堂に何度も、力尽くで顔を上げさせられる有村の、痛々しいほどの狼狽。戸惑い。落合はひたすら、見ているのが辛かった。
銃を自らの肩に掛け、向き合う肩をがっしりと掴んだ藤堂が続ける。こっちを見ろ、洸太。幾つか投げかけた中に、それがあった。洸太。藤堂が有村を下の名前で呼ぶのは、初めて聞いた。
「いいか、有村。人を探すってのは、いねぇと思ってするもんじゃねぇ。絶対にいる。だから、絶対に見つける。そう思ってするもんだ。いますように、見つかりますように、でもダメだ。どうか他の誰かが、なんてのは論外だ。俺が見つける。テメェが見つけると思ってなけりゃ、見つかるもんも見つからねぇんだよ!」
「…………」
「お前が、見つけるんだ! どっかで待ってる草間を、お前が!」
「……僕、が……」
「そうだ! だからテメェ、シャキッとしろ! ウジウジすんな、男だろうが!」
怒鳴り散らした藤堂の声が消え、あとには微かな息遣いと、風が立てる騒めきだけが残る。
「…………そうだね。ありがとう。藤堂」
そうして落合はまたアレを見た。猫の絵を描く前の、一回の瞬きの前と後で何かを変える、有村を。
何が違うというのだろう。顔が変わるわけではない。表情が変わるのとも違う。
目で捉えたというよりも、感じるという方が正しい気がするのだ。落合はジッと見つめて行き着いた。それは言うならば、有村が纏う気配のようなもの。
澄み切った水。曇りのない氷。そんな、どこか一本の線がピンと張りつめたような気配。それを纏い、有村は一度、深呼吸をした。
「……取り乱してごめん。それと、もうひとつ、ごめん。これから少し、たぶん、おかしなことをする。意味はあるから、黙って見てて。三人とも」
返事はバラバラに、けれど三人ともが頷いた。
有村は空を見上げ、もう一度息を吐く。短く吐き出された呼吸のあと、有村は口を開けて胸が膨らむほどの酸素を取り込んだ。
「――――ッ!」
そうして、それを一気に吐き出したのだ。放出するという表現がピタリと当て嵌まりそうな勢いで、夜の森を突き抜けた。
あー、とも、わー、ともつかない声。掠れたようで澄んでいるようにも聞こえたそれは寧ろ、声というより音に近い。悲鳴よりも甲高く、絶叫に近しく力強いものだった。落合が首を竦めるのに充分な秒数分の長い尾を引き、消えたあとでゆっくりと瞼を持ち上げた落合には、肩で息をする有村の背中が見えた。
「……なに、いまの……」
振り向く藤堂が目で、『黙ってろ』と言う。隣りから鈴木も、口の前に人差し指を立てて落合を黙らせる。ふたりはしきりに周囲を見渡していた。聞こえるのは、ガザガザやザワザワ。枝葉の揺れる、音ばかり。
何が起きたのか、何が起こるのかもわからず、落合は木々の隙間から覗く空を真っ直ぐに見上げる有村を見遣る。不思議な人だとは思っていたが、これはさすがに奇行だ。
有村は片腕を持ち上げ、胸元の辺り、リネンシャツの合わせの辺りを握り込む。
「……お願い。誰か応えて。今だけでいい、力を貸して……リリー……っ」
お願いと呟くに相応しかった有村のか細い声に、藤堂の目付きが変わった。同じ物を見たのであろう鈴木と、落合の視線がぶつかった瞬間、ふと風が止んだ。
それからのことを、落合はきっと実しやかな非現実を目の当たりにした記憶として、忘れることはない。藤堂が有村の腕を掴み、有村の視線を一度だけ奪った。その刹那、それは落合たちの背後から巻き起こったのだ。
「うわっ!」
唐突に、前へ一、二歩は押し出されてしまう突風が走った。咄嗟に頭を抱えた落合の髪が掻き乱される。鳥の羽搏きが聞こえ、やがてどこかで獣が張り上げる遠吠えが響いた。
「……なに! これ!」
強い風は一瞬通り過ぎただけだった。羽搏きも一度大きく響いたあとは、森の中にこれまでと同じ静寂が満ちる。
「……これから先ははぐれないよう、僕に付いて来て。 ……行こう、リリー」
「…………」
リリー。それは、何かの呪文なのだろうか。
動き出した有村は駆け出すのにも似た速度で木々の隙間を縫い、後に続く藤堂と鈴木、その後ろ姿を追いかけ、落合は再び草間の名前を叫び続けた。




