お兄ちゃんをやめる日
帰り際に散歩がてら遠回りをして別荘へ戻ると、先に戻っていた鈴木と山本がリビングで、ジュースを片手に寛いでいた。
「おつー」
「おつ。早いじゃん、ご両人」
「お前らが遅いんだわ。どうせ寄り道でもしたんだろ」
「ちょっとねー」
鈴木の手にはサイダーのペットボトル。山本はそれにポテトチップスのおまけ付き。落合は一枚くすねて、パリパリと頬張った。唾液が奪われて困っていると、手を洗いに行っていたらしい久保が二人分の麦茶を持って来てくれた。さすがはお姉ちゃん。ナイスな気遣いだ。
「委員長は?」
「なんか、桜子ちゃんと話すことにしたみたい。明日帰っちゃうしね。気まずいままってのは、なんだったんでしょ」
「そーゆートコ堅いよな。さすがはクラス委員」
「仁恵は真面目だから。おばあちゃん子だしね」
なんとなくで席に着いても、いつの間にか食事を取る時の場所をそれぞれが陣取っている。新しい習慣が身に付くのに、一週間は充分な時間だ。いない人の席を詰めるのは誤差の範囲。落合の隣りに久保が座り、やって来た藤堂も山本の隣りに座る。
彼の場合は落合と同じで、座る前にポテトチップスに手を伸ばしたついでの流れだったようだが。
「草間のばあさんて言や、かなり世話好きだったよな」
「そーそー。優しくて、みんなのおばあちゃんみたいな」
「圭一郎、面識なんてあった?」
「婦人会だろ? 試合ん時にスポドリくれた」
「あー、やってたね。テント出して。あたしも暑い時いたわー。アイスもらった」
「ガリガリ君ではないヤツな」
「そう! ガリガリ君ではない、的なヤツ」
「なに味?」
「みかん」
「知らねー」
「うまかったよな」
「今となっては幻よの」
「なんだよソレ、食いてー!」
「名前がわからん」
「あたしも。絵里奈、知ってる?」
「知らない。仁恵ならわかるかも。仁恵の家で見た気がする」
「生産地?」
「んなわけあるか」
話していたら無性にアイスが食べたくなった。この際、みかん味でなくてもいい。
振り向いた落合が目を遣る先では、我らが凄腕料理人がせっせと、空腹の子供たちを苛める素敵な音と匂いをばら撒いていた。相も変わらず右へ左へ後ろへと、動く動作に無駄がない。
「洸太ママー。晩御飯なーにー」
「今日はお肉祭りよー。牛、豚、鶏、ラム。全部出すわー」
「最高かよ」
ノリの良さもさることながら、なによりこの匂いが最高。これはなにやらニンニクをアレして、素敵な感じで焼いてるな。雑な予想を立て、落合は鼻をクンクンさせる。もう太ったっていいや。そう思えてしまう有村の手料理が毎食出て来る生活が終わってしまうのは、少し悲しい。太るのは嫌なのだけれど。
コトン。目を閉じて匂いに集中していた落合の前に、洸太ママが何かを置いた。
「デザートにしようかと思ったんだけど、話のついでに、よかったら」
「なんぞ?」
「オレンジのシャーベット」
「話、ちゃっかり聞いてるのが怖い」
「聞こえるでしょ、普通に。同じ部屋にいるんだから」
人数分のシャーベットを配り、有村は中庭の方を見る。
「迎えに行った方が良いかな」
つられて、落合も外を見た。帰って来た時から夕陽は落ちかけていた空だ。ガラス戸の向こうはもうすっかりと、夜の気配が漂っている。
美味い、うまい、が飛び交う中で、落合は「平気でしょ」と有村を見上げ、シャーベットを頬張った。美味い。やっぱり、ちょっとくらいは太ったっていいや。久保と藤堂も気に入ったようで、あっという間に皿が空く。
「何度も行ってるんだし、一本道なんだから心配ないよ」
「そうかな……」
「そーだって!」
心配性だなぁ、と、落合は肘でエプロンを巻く腰を突いた。どうしよう、鉄板みたいな感触がした。有村はまだ、心配気に外を見ている。
「……大丈夫かな、草間さ――」
「――おかわり!」
「え?」
「おかわりちょうだい!」
「……ただいま」
太るわよ。意地悪な台詞を久保がまた言う。だと、思う。落合は目と表情で、そう答えた。
時計の針は一周近く回り、少し前から有村も席に着いて珈琲を飲んでいる。同じくの藤堂が覗いていたカーテンから指を離し、「さすがに遅くねぇか?」と振り向いた。
久保と顔を見合わせた落合も同感ではあるが、長居の理由が打ち解けたからなら、邪魔をするのもどうかと思う。
「本当に牧場にいるんだよな?」
「そのはず。出たトコで分かれたし。ね、絵里奈?」
「ええ。話に盛り上がってるんじゃない?」
「草間が?」
「……まぁ、仁恵が? って訊かれると、アレだけど」
こういう時、携帯電話が使えないというのは不便だ。遅くなるなら、メールの一本くらい。それが出来ない不便さを、落合はここへ来て初めて、ようやく感じ始めていた。
「僕、やっぱり迎えに……」
「いや、暗くなったから送るとかってなったら、車で行き違いになるだろ。あったよな、道。もう一本。あっち使われたら真逆だぞ」
「そうは言っても、佐々木さんに電話するのもねぇ」
「仁恵も子供じゃないし、もう少し待ってみましょうよ。外はすっかり暗いけど、まだ八時よ」
「腹減って死ぬ……」
「言うな芳雄。俺だって、さっきからずっと鳴ってる」
無意識に腹を撫でてしまうくらいには、落合だって空腹だ。しかし心配する有村の気持ちはわかるから、逆の手で肩を擦ってやった。気持ちはわかる。痛いほど。王子の彼女は、迷子の女王。
そのまま八時半になり、やはり有村が一番手で痺れを切らし、席を立った。電話で確認だけしてみる。有村がかけると大事になりそうだからと、藤堂が受話器を受け取った。
「何番だ」
「確か、三。あれ、二かな。ちょっと待って、和斗に訊く」
「違ってたら謝ればいいだろ」
「違ってて志津さんの所にかかっちゃったら、それこそ、大事になる」
夜だから暗いのは当然として、ガラス戸を開けた久保が「冷えて来た」と腕を擦った。朝と夜の冷え込みには慣れたつもりでいたが、それにしても今夜は、やけに冷える。
「三だって」
「おう」
受話器を耳に当て、端の四角いボタンを押してから、数字をひとつプッシュするだけ。藤堂がその動作をする間を狙いすましたかのように、玄関のチャイムが鳴った。
「帰って来た」
「かけちゃった?」
「まだだ。誰か出ろよ。鍵は?」
「開いてるけど、草間さんは閉まってると思うかな。行って来る」
「あたしも行くー。お説教じゃー!」
「ほどほどにしてやれよー」
パタパタと賑やかな足音を立て落合は玄関の手前で有村に追いつき、斜め後ろで指を鳴らすマネをした。開口一番、何を言ってやろう。とりあえず、お腹が空いて死にそうだ。
けど、心配したぞ、くらいが妥当だろうか。仁恵も頑張って来たのだもの、そこは友人として褒めてあげないと。急にお澄ましの顔をして、落合は有村の後ろから開いていくドアの向こうを覗き込んだ。
「おかえり……あれ? 桜子ちゃん?」
「ん?」
身長的に落合にとって、有村の背中は充分に大きな壁だ。
何事だ。そんなつもりで、腕の脇から顔を出した。本当だ。本当に、桜子がいる。
「こんばんは。突然、ごめんね。さっきのお魚、ありがと。すごく美味しかった。でね、お母さんがお返しに、よかったらみなさんでデザートにでもって。お兄ちゃん、好きだったよね。ピーチパイ」
「……うん。ありがとう」
布がかけられたバスケットを差し出す桜子は無邪気そのものという風で、受け取った有村の微妙な雰囲気は落合も同じ。有村はドアから身を乗り出して、周囲を眺めた。それも落合は同じ気持ちで、靴下のまま限界まで背伸びをする。
おかしい。どうして、桜子ひとりなのだろう。
「桜子ちゃん。あの、草間さんは?」
尋ねる有村の背後から、落合も無言で『一緒じゃないの?』と問いかける。そっちにいたよね。なのになんで一緒じゃないの。落合にはちょっと、意味がわからない。
問われた桜子は不思議そうな顔をして、奥の落合と目が合った。
そうして言った。有村を見上げ、心から不思議そうに。
「草間さんなら、久保さんや落合さんと一緒に戻って行ったけど……」
「……え?」
呟いたのは有村だった。落合は声も出なかった。
「もしかして、まだ、帰ってないの?」
有村は突然に振り向いて、リビングへと駆け戻る。
「草間さんは牧場にいない。上着を着て、それと、明かり。藤堂! 人数分のランタンと懐中電灯を!」
「おう!」
受話器を持ち上げた有村の声を皮切りに、全員が一斉に動き出す。鈴木と久保は二階へと駆け上がり、山本は藤堂のあとを追った。落合も持てるだけの靴を抱えてウッドデッキまで走り、その後ろを桜子が付いて来る。
「和斗! 草間さんがまだ、ひとりで外にいる。手を貸してくれ。いいや、違う。裏の森だ!」
二往復目の途中で落合は、電話を切った有村が頭を抱えるのを見た。珍しい。見てわかるほど動揺している有村を目撃したのは初めてで、落合はこれがそれほどの大事なのだと気が付いた。
自宅の近くで帰りが遅いのとはわけが違う。ここには街灯がなく、店もないから真っ暗だ。階段を駆け下りて来た久保は落合の上着と、草間の上着を持っていた。
「……僕の所為だ。連れて行くって言ったのに、行かなかったから……」
遅れて降りて来た鈴木が有村の背中を叩き、「あとにしろ!」と喝を入れる。それで何か吹っ切れたのか有村の表情は引き締まり、非常用の懐中電灯を確認したあと、駆け付けた和斗にも指示を出す。
「念の為、和斗は山本くんを連れて、敷地内を見回ってくれ。誰かに会いに行った可能性もなくはない。草間さんのことだ。案内した場所からは、そう遠く離れないはず」
「わかった。多枝さんにも連絡を」
「頼む。久保さんと落合さんはここに残って、連絡の中継をして欲しい。自力で戻って来るかもしれない。どちらかで見つかり次第、連絡を回して」
いつもは藤堂が握る主導権が完璧に移行している有村の指示は的確だった。一人一人目が合うようで、返事は頷き。落合も有村と目が合った。久保は隣りで、「私も探しに行く」と異を唱える。
それにも有村は毅然と、そしてピシャリと退けた。
「女の子には危ない。怪我をさせたくない。絶対に見つける。だからどうか、ここは引いてくれ」
「……わかった」
「ありがとう」
行くと言えた久保に、落合は感心する。常に強面の藤堂とはまるで違う、目的があって張り詰められた有村の気迫とも呼べそうな剣幕は、おいそれと口出しのし難い種類のものだ。
複雑な心境で行動開始を待つだけの、落合の視界の隅。すっかりと存在感の薄れてしまった桜子はテーブルのそばで、小さな握り拳を作っている。噛み締める奥歯。床を睨むあの目は一体、何を意味しているのだろう。見つけてしまった落合の、胸がざわつく。
「残りは僕と裏の森へ。分かれず、ひと塊で行動を。遭難するほど深い森じゃないが、慣れていなければ簡単に迷う。和斗、万が一に備え、ある程度の処置は出来るように」
「用意して来た。空砲も。使うか」
「僕は要らない。けど、あるなら藤堂、持っていてくれ。必要になるかもしれない」
「ロックを外して引き金を引く。必ず、空へ向けて撃つように」
「はい」
ランタンや懐中電灯が皆の手に行き渡り、藤堂には和斗から銃身の長い銃が手渡される。渡しながら、絶対に空以外に向けて撃つなと繰り返し念を押した和斗にもまた、有村と似たような気迫が伺えた。
そんな中、落合はただひたすら桜子へ向けて願っていた。何もするなよ。何も言うな。この子の気配はずっと、ひとりだけおかしい。
その顔を、落合は既に知っていた。馬が暴れたあと、有村に食って掛かった時の顔だ。悔しくて、悔しくて、という顔。その顔が、俯いたままの口元が突然、口角を釣り上げた。
「……ちょっと、大袈裟だと思う」
ニヤリ。音が付くなら、そんな風に。
「高校生なんでしょ? もう大人みたいなものじゃない。あそこ、お兄ちゃんは小さい頃から遊んでたんでしょ? 危なくないってことだよね。なのにそんな空砲まで持って来て、みんな、大袈裟」
名前を呼んで遮ろうとした落合より早く、放たれた声があった。
「黙っていなさい。桜子」
言ったのは、和斗だった。
「……なんで? あの人が鈍臭そうだから? ううん。そうなんだよね、きっと。大人しそうって言えば聞こえはいいけど、いっつも誰かの後ろでウジウジしてて、そうだね、そうだねって、自分の言葉で喋ろうともしないもんね!」
「黙りなさい、桜子。出来ないなら、今すぐ出て行きなさい」
「ううん。出て行かない! なんなの、和斗さんまで! あんなのただの構ってちゃんじゃん! わたし、あの人だいっきらい! 人がいいような顔してるけれど、周りに流されてるだけだもん! あんな人、ちょっとくらい困ればいいんだよ! どうせ今だってどこかで、お兄ちゃんが来るの待って――」
「――桜子!」
リビングに、本気で出した藤堂の怒声よりも身が竦む、和斗の叱責が突き抜けた。
温厚な和斗が出したとは思えないような声だ。桜子を睨む目付きも、中学生の女の子に向けていいものには見えない。
「慎めと言っているのがわからないか。洸太様のご客人に対し、無礼極まりないその態度。お前、家族諸共、ここから追い出されたいか!」
「――和斗」
次は有村が、今にも掴みかかりそうな和斗を、名前ひとつで呼び止めた。
桜子はすっかりと怯え切った顔をしていた。きっと忘れていたわけではないだろうけれど、落合はたったいま身に染みた。子供だからと大目に見られているだけ。この子は本来、有村を『お兄ちゃん』などと呼んでいい立場ではないのだ。
静かになったリビングで、落合は有村が何を言うのか、ただ待っていた。有村らしく桜子を気遣って庇うのか、さすがに腹を立てるのか。動きを止めていた全員が、動向を見守っている。
「――早く、草間さんを探しに行こう」
結果、有村は落合が想像したどちらとも違う態度を見せた。桜子が浴びせた雑言の数々を、なかったことにしたのだ。たったのひと言。至極真っ当そうなひと言で、桜子の全てを無視した。
それは他人事にも、叱られるよりなによりも、された方にとっては恐ろしい反応だと思った。
「お兄ちゃん!」
掴みかかる桜子の手がかかると、有村は腕を引いて振り払う。
「和斗、ついでにこの子を送ってやれ」
「わかった」
その仕草と物言いが、否が応にも伝えて来る。桜子ちゃん、ではなく、この子。落合は察した。有村はこの瞬間、桜子の『お兄ちゃん』をやめたのだ、と。
桜子の全てを無視する、そんな酷なやり方で。
「お兄ちゃん、待って! やだ! こっち見てよ、お兄ちゃん! ごめんなさい! ごめんなさい! 聞いて、お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
泣き叫ぶ桜子の声が、和斗に連れられ遠退いて行く。その一部始終すら、有村は耳にも入っていないような顔をしていた。桜子の悪態は確かに自分勝手で酷いものだったが、それにしてもその態度は冷ややか過ぎる。
まるで本性を見てしまったような気分で、落合は有村を見たくなくなった。相手は中学生で、あんなに懐かれていたのに、さすがに心が狭過ぎだ。
「……オラ、なにぼうっとしてやがる。草間が待ってんだ。動くぞ!」
一同をハッとさせる音量で手を打ち鳴らした藤堂は、有村の肩を叩いて真っ先に飛び出して行った。山本も急いで和斗を追いかけ、それぞれが指示通りの場所へ散る。
そんな中、落合は羽織るパーカーの前を閉めた。
「あたし、セコムについてって仁恵探す。なんか、姫様ちょっと、信用出来ないかも」
正確ではなかったかもしれない。けれど落合は有村が手を振り払う時に一瞬見せた氷のような目付きが焼き付いて、とても、彼が探し出して戻って来るのを待っている気にはなれなかった。
「……そう」
久保はそれだけ言って、懐中電灯を手渡した。
駆け出して行く落合の気持ちが理解出来ないわけではない。ただ。
「無事でいてね……仁恵……」
ただ、桜子の存在が時間の無駄だったのは、確かだ。




