レッツエンジョイクッキング
「牛乳にチーズに、トマト。こんなに入れて、ちゃんとオムレツになるの。シャバシャバよ? 水みたい」
「なるよ。その分、バターや卵の量は増えるけど、しっかり食べたい朝食にはオススメ。ホウレン草とか葉物野菜を入れると、サラダを付ける時間がない朝にうってつけだね。薄くスライスしたウインナーとかを入れると食感が楽しくて、経験上、子供が好きそうな味になる」
「これひとつで、メインになるってコト?」
「そう。急に色々と覚えるのは大変だから、まずはメインを作れるようになろう。調理するのは一品か、やっても二品。僕もそのくらいから始めたよ。足りない分は千切るだけとか、乗せるだけのものでお皿の隙間を埋めちゃう。このオムレツにもレタスやプチトマトを添えたら、立派なワンプレートの出来上がり」
「肉も欲しいんだけど」
「それなら、この時間にソーセージをボイルしておくといいよ。時間で止めてそのままにしておけば冷めないしね」
「茹で過ぎない?」
「何十分も放置するわけじゃないから、大丈夫。心配なら、裏に書いてある時間より少し早めに火を止めて」
「そう……」
「最初から色々やろうと思うと焦っちゃうから、ひとつずつ、ちゃんと慣れてから品数を増やしていく。そこそこの料理がたくさんより、すごく美味しい一品の方が嬉しくない?」
「そうね。それは、そうかも」
「あとで焼くのも挑戦してみようか。久保さんは器用だし、すぐにマスターしちゃうと思うよ」
「当然よ」
「心強い」
今朝から始まった料理教室。講師の有村は作業する久保の周囲を手早く片付け、焼き上がったクロワッサンを取り出したオーブンに、二回目の生地が並ぶ天板とタイマーをセットする。
何度見ても手慣れたものだ。動きに全くの無駄がない。何かの作業が終わる頃、次の作業に取り掛かる準備も終わっている。正直、草間の母親よりも手際が良い。厨房で働いているお陰だとはいえ。
「んー! ヤバい! 焼きたてのこの匂い、めっちゃお腹空くー!」
「良かったら、おひとつどうぞ?」
「いいの? やった!」
「熱いから気を付けて」
「仁恵! 半分こしよ!」
あくまでも主役は久保なので、草間と落合はお手伝いの延長だ。アッツ、と言って皿の上に何度も落としながら半分に千切ってもらったクロワッサンを落合から受け取り、草間も一緒にご満悦。焼きたてのパンはそれだけでご馳走だけれど、たったいまオーブンから出て来たばかりの本当の焼き立てはまた、絶品だ。
有村は下拵えだけを済ませて、草間たち三人が降りて来るのを待っていた。今朝のメニューはトマト入りのオムレツに、ソーセージのグリル。草間と落合は七人分のサラダ担当だ。先程の話では、千切るだけの『隙間埋め』。
やはり泡だて器を手にする草間と同じ気持ちになったようで、落合はクロワッサンを飲み込むと、有村の腕を人差し指で突き始めた。
「ねーねー、あたしもなんか調理したいよー」
「火を使うだけが料理じゃないよ? 千切っただけのレタスは穴埋めにもなるけど、ドレッシングを作って和えるサラダは、立派な料理」
「簡単なんだもん」
「そう言って侮るなかれ? どんな人気店もサラダが美味しくないお店は、そこそこ。新鮮な野菜と美味しいドレッシングは、言うならばチームの先鋒。先手必勝。初戦で勝利は絶対条件でしょ」
「え。料理って勝負なの?」
「作る側からしたら、ある意味ね。先鋒のサラダ、中堅の付け合わせ、大将のメインと来て、デザートと食後の一杯で、相手の胃袋をノックアウト」
「なるほど!」
「ご納得頂けたら、至極のサラダを是非、お願いします」
「かしこまり!」
そして、彼は落合の窘め方も上手いと、草間は思う。所謂アニメ脳である落合は、勝負や至極のというワードに俄然、気合が入った様子。戻って来る顔付きが雄弁だ。
そんな落合は普段、家で料理の手伝いはしないらしい。きっと、興味もないのだ。勇んだのも束の間、レタスを千切ってしまえば早くも飽きてしまい、出したプチトマトをつまみ食い。包丁ではなく周囲を見渡して、ニヤリ。何か思いついたらしい。
「ねぇねぇ、仁恵。確かあの辺に、でっかい木のボウルあったよね。それ使わない?」
「でも、ひとりずつに分けた方が食べやすいんじゃ……」
「いいじゃん、たまには! あたし取って来るからさ、仁恵はそのまま作業しててよ」
「うん……」
駆け出した落合に気付き、冷蔵庫を閉めた有村が声をかける。持っているのは、たぶんバター。久保がコンロの前に移動していて、どうやらオムレツを焼き始めるようだ。内緒、と叫んだ落合は有村が背を向けるのを待ち、またニヤリ。腕を伸ばして、天井から下がっている吊戸棚を開いた。
「ありゃぁ、上の段だったかー。よしっ!」
背伸びをした落合は、爪先立ちになっている。草間はオレンジを剥いていた手を止め、どこかにあった気がする脚立を探した。有村は使わないから、片付けてしまったのかも。
「キミちゃん。危ないから、脚立使おう? たぶん、どこかに……」
「面倒だからいい。大丈夫。あと、ちょっと、で……んーっ! 伸びろ、あたしの右腕!」
指先がかかりそうで、かからない。草間より背か高いとはいえ、落合も大きい方ではないのだ。
となれば得意の気合と根性。落合はそんな風体で、目的の場所を見るのを諦め、ひたすらに腕を伸ばす。
嫌な予感がした。近くで見守っている草間には寧ろ、嫌な予感しかしない。
「あっ!」
ぷるぷると震える落合の指がボウルの縁を掴み損ね、滑った手が棚板をカタンと弾いた。
「あぶな――!」
危ない、と叫びかけた草間は、肩を引かれて二歩は後退りした。それなりに強い力だった。押し退けて前へ出たのは、大きな背中。落合の腕を掴んで引き寄せた、有村だ。
「キャッ!」
悲鳴を上げた草間は、咄嗟に目を瞑る。吊戸棚から四角い缶や、目当てのボウルが落ちて来た。床に転がり、随分と大きな音がする。
ひと通り落ちたのか静かになって瞼を持ち上げると、まだ揺れているボウルや缶、それから、吊戸棚に背を向ける格好で、落合を抱きかかえる有村が見えた。
「びっくりしたぁ。何かぶつかってない? 落合さん」
「……う、うん。無事」
応える落合の目が丸い。盾になり、庇ったという格好のしっかりと抱きしめる有村の腕の中で。
有村はすぐに腕を解き、草間とフライパンの前にいた久保にも怪我はないか尋ねて来る。そういう有村は後頭部を撫でたので、何かぶつかったようだ。
「高い所の物を取るなら声をかけてよ。ヒヤッとした」
「……サーセン」
缶であれボウルであれ痛かったはずだし、怪我も心配。
しかし草間の視線はどうしても大きな目を泳がせる落合を捉えたがり、落ちた物を拾う有村の手伝いも出来なかった。
落合はシンクに寄りかかっていた。抱きかかえられている間は、少し背中が反っていた。背中と頭を抱えられ、有村の胸にすっぽりと。落合も、そんなに背が高い女の子ではないから。
「お目当ては、このボウル?」
「……うん」
「じゃぁ、はい。次からは、ちゃんと声をかけてね」
「……ラジャ」
「草間さんと久保さんもそうしてね。のんちゃんが言ってたけど、置いてある脚立、硬くて開くの大変みたい」
過ぎてしまえば何事もなかったのかのような微笑みを浮かべる有村は、大きな怪我はしていないようだ。草間はボウルを手渡された落合を見つめ、擦れ違った有村はオーブンのタイマーを確認したあと、再び久保の指導に入る。
「火を止めちゃったから、もう一回温めようか。バターは大体、このくらい。縁にも回るように、満遍なく溶かしてね。そうだ。せっかくだから、昨日作ったチーズも入れよう。二種類のチーズで、コク増し増し」
床の上は片付いているし、有村は引き続き着々と朝食の準備を進める。自分たちも早くサラダを仕上げなくてはと思うのに、草間はもう一度、落合を見た。
気の所為だろうか。落合の頬が、ほんのりと赤い気がする。いや、きっと草間の勘違いではない。仕方がないと思う。あの至近距離で見る有村の顔立ちは実際、何回目でも息が出来なくなる代物。わかる、とは、思う。
「…………なんか、ごめん」
「……謝ることは、なにも……怪我、本当にしてない?」
「うん。ごめん」
「……サラダ、作ろうか」
「せやな」
バターのいい香りがして来て、ジュウっと食欲をそそる音がする。
跳ねるから気を付けて、と有村は言ったのだが、久保はその心配を現実にしてしまったらしい。熱いと言うが早いか、次はすぐに蛇口から水の流れる音がした。
「油は火傷すると痕が残るから、しっかり冷やして。痛いよね。ごめんね。もっと気を付ければよかった」
「アンタの所為じゃないわ。ねぇ、オムレツ焦げない?」
「弱くしたから。でも、これは僕がやっちゃうね。久保さんはよく冷やして、痛みが引いたら、二回目をまたお願い」
「わかった」
シンクまで連れて行かれた久保は、有村に腕を掴まれていた。流水を当ててから様子を見ようとしたのか、引き寄せた久保の指は結構、有村の顔に近かった。
だから、なんだというのだろう。草間はそそくさと、泡だて器を握る。
落ちて来る物から、キミちゃんを守ってくれただけ。絵里ちゃんも火傷したから、応急処置をされただけ。有村くんはただ有村くんらしい素早さで、ふたりを心配しただけ。なのに。
恥ずかしいな、と、草間は俯いた。これではただのヤキモチだ。相手は落合と久保、なのに。
久保が有村に料理を習うと聞いて、嬉しかった。二人が仲良くなれたら、最高に嬉しかったのだ。けれど今更、落合の言っていたことの意味が、少しだけわかる。
一緒に料理をする後ろ姿は、見ている側からすればかなり親密で、寄り添っているようにすら見えるもの。
クリクリの大きな目が可愛いキミちゃん。横顔でも美人なのがわかる絵里ちゃん。
そうじゃない私より、有村くんの隣りが似合う気がする。
「本日のドレッシングの出来栄えはどう?」
味見をした有村がオレンジの酸味を尋ね、自分の口を人差し指でタップする。草間はひとつ持ち上げて、自分で食べた。甘くて美味しいよ。覗き込んで来る有村のことは、見なかった。
「倦怠期だ。草間さんが冷たい」
「えっ」
「傷付いた。もうオーブンからクロワッサンも取り出せない」
「なんで!」
「……今日は、食べさせてくれないの?」
「なっ!」
「大切な、滅多にない草間さんの頑張ってくれるお世話タイムだったのに……オレンジなんか嫌いになりそうだ」
「なに、言って――」
おいおいと顔を覆った指の隙間から、有村と目が合う。この感じ。それこそ、たまにしかない有村の拗ねモードな気がする。草間の胸が無条件で、ときめいてしまう時間。
「わ、わかったから……それじゃあの、こっち来て……角」
「うん」
「それで、あの、こっち向いて、しゃがんで……あの、目隠し……」
「うん!」
開けて待っている口に、草間は震える手で摘まんだオレンジを放り込む。すると一瞬で、有村を込みの周囲が華やぐ。それはもう、眩しいくらいに。これは、これだけは、見た過ぎて抗えない。
「美味しいねー」
「……うっ」
絶対に、わかってやってる。それでも可愛いのだから抗えない。満面の笑みでコテリと首を傾ける仕草。これに見たい欲望が打ち勝てる日など、草間は来ないと思う。
が、真っ赤な顔で目線を正面へ据えると、嬉しそうな有村と同時に背後に立つ久保が見えた。随分と不穏な影だ。更に上げた目線が捉える無表情の久保と、振り上げられた、フライパン。
「え、絵里ちゃん!」
「有村、アンタ……朝っぱらからよくもまぁ、私の目がある場所でしゃぁしゃぁと……死にたいようね。覚悟なさい!」
「絵里ちゃん、ダメ! 死んじゃう! それはね、本当に死んじゃう!」
後ろからは落合が必死に、怒りの化身となった久保を羽交い絞めにしている。草間も慌てて立ち上がり、せめてフライパンだけでもと手を伸ばすが、如何せん身長と腕の長さがまるで足りてない。
「ふふーん。羨ましいんでしょ、久保さん。これが彼氏特権というものだよ。可愛い草間さんを独り占めになんてさせない」
「ちょっ姫っ、何煽ってんの! 畜生! 決め顔が無駄に美形だな!」
「なにが特権よ! 下心駄々洩れてるだけじゃない! 放して仁恵、君佳! こういう男は粛清あるのみよ!」
「おやぁ? そちらも下心ありきで、料理なんて始めたのではぁ?」
「やめてよ、有村くん! 絵里ちゃんはね、本当にやるよ!」
「友人として協力するとは言ったけど、だからって草間さんとの大切な時間が減るのは嫌だよ。藤堂たちが起きて来たら草間さんは恥ずかしがって、手も碌に繋がせてくれないんだからね!」
「……あ。ヤバ。なんかいま超絶切ない本音が聞こえた」
「キミちゃん、力緩めないで! そんなことないよ有村くん! 全然ないよ!」
「あるもん。恥ずかしい、恥ずかしいって、すぐ言う」
「言わない! もう言わないよ! だからもう、ちょっと静かにしてて! 有村くんが喋ると、絵里ちゃんが――」
「あっ。仁恵それ、詰んだ」
「え?」
「有村ぁ!」
振り被られたフライパンは、肩を竦めた草間の頭の上で、有村に捕まれて停止した。
草間に見えるのは、真っ赤になった久保の顔と、その後ろでしきりに顎を突き出している落合。
「……言質、取らせてもらったよ?」
そして、視界の隅、背後から入り込んで来る、有村の気配と横顔。ニッコリと微笑む笑顔に、草間は目と口をみるみる開く。
「……あーっ!」
草間の絶叫を受け、久保の蹴りが有村の脇腹へ減り込んだ。
「――さて、と。茶番はこのくらいにして、そろそろ仕上げようかね。パンも焼けるし、藤堂たちも降りて来る時間だ。久保さんの指はどうかな。平気なら、もう一度はじめから」
「待ちなさい。茶番、ですって? 誰の所為で……ありむらぁ……っ」
一瞬の間が落ちただけで微動だにしない有村の体幹と、相変わらずの高速な切り替え、文字通りの打たれ強さに若干の恐怖を感じつつ、落合は再び炎を上げ始めた久保の背中にしがみ付く。
なんなんだ、この時間。こんな朝から汗だくだ。
「落ち着け絵里奈! 時間はホント! もう七時半! 仁恵もいつまでもムンクしてないで、早くサラダ作ろ。セコムたちマジで起きて……来たね! そうだね! これだけ騒いでりゃ来るよね! そりゃそうだ!」
うるせぇぞ、と、朝からなに騒いでんだ、と、楽しそうだなぁ、を浴びながら作った朝食は、最後の盛り付けを有村がしたので、今回も彩り豊かなやたらと豪勢な仕上がりでテーブルへ並んだ。
因みに、時間もほぼ予定通りだった。時間に余裕があったからだったのなら、明日は開始を少し遅くして欲しい。美味しいはずなのに、騒ぎ疲れた草間にはあまり味がよくわからない。結果的には久保はオムレツをマスターし、楽しく料理出来たような気は、するのだけれど。
モグモグと咀嚼しながら、草間はふと考える。
この料理教室。通い続けるべきか、否か。いやその前に何か別のことを考えていた気がするのだけれど、今となってはもう疲労感がすごくて、どうでもいい気分。
隣りの席からは、ひとりでは久保を押さえられないと、落合は必死に、抜け殻の草間を説得していた。




