夜のお茶会
どうして仁恵が嬉しそうなのかわからない。呆れ含みに言って寄こした落合の寝息が聞こえて来てもまだ草間の胸は温かく、当分寝付けそうになかった。
隣りのベッド、そこで眠る久保を見つめては、何度でも頬が緩む。早速、明日の朝から始まる料理教室には草間も、最後には「仁恵らしい」と笑ってくれた落合も参加する予定だ。
講師は有村。彼は教え方が上手いし、とても気が付く人だから、恋人に手料理を振る舞いたい久保に相応しいカリキュラムの、初歩の初歩から始めてくれる。そしてきっと、とても楽しいレッスンになる。それだけでも、嬉しくならないはずがない。
「……ふふっ」
零れてしまう笑みを押さえきれず、草間は布団を口まで被る。
久保がやっと有村の優しさに裏も含みもないことをわかってくれたようで、嬉しくて堪らない。
目を閉じ、布団を鼻先の上まで持ち上げた。時刻は日付をとうに変え、一時すら随分前に過ぎている。本来早寝である草間にとって、深夜二時は未踏の領域。それでも、瞼の裏で思考は全く、眠りたがっていない。
本でも読んで気持ちを落ち着かせようと考えたが、さすがに手元が暗過ぎた。草間はそっとベッドを抜け出し、羽織ったパーカーのポケットに文庫本を差し込むと、足音を立てずに一階へ向かった。
冷蔵庫にある麦茶を飲みながら、月明りをお供に読書でもと思ったのだ。三十分も耽れば読み慣れた第一章を読み終わるし、本当は二時になる前に夢の中へ旅立ちたい。寝不足は今も、草間の天敵だ。
階段を半分降りた所までは、草間の予定に狂いはなかった。リビングの照明は消えている。ただ、もうあと半分降りたら、誰かの話し声が聞こえた。
階段の途中から、揺れているカーテンが見える。ウッドデッキへ続くガラス戸が開いているのだ。話し声、という以上のことが何もわからない音量から、ひとつは有村の物だと考えた。もうひとつが和斗の物だと気付いたのは、カーテン越しのガラス戸から外を覗き、有村より一回り大きな背中を見てからだ。
「草間さん。どうしたの? 眠れない?」
「こんばんは。なに、誰にだって、内緒の夜更かしがしたくなる日くらいあるさ。ねぇ、草間さん?」
話し方と穏やかな笑顔の所為で、夜の中では本当の兄弟のように見えた。全然似ていないはずの顔立ちすら、多少の面影が過る気がする。
おいでよ、と口を揃えてくれて出迎えてくれたけれど、草間はふと近付くのを躊躇う。
「和斗とふたりで退屈してたんだ。よければ少し付き合ってくれない? 何か、温かい飲み物でも淹れるよ」
中々カーテンを越えない草間に微笑みかけ、食事の際にはテーブルと向きを揃えて椅子にする木製ベンチから、有村が席を立つ。二つあって、有村か鈴木が草間たちの方に座ると、七人でテーブルを囲めるベンチは、ゆとりのある三人掛け。
今は中庭を正面に見る向きで並べられており、草間は室内へ向かう有村と入れ替わりで和斗に会釈をし、反対側の隅に座った。
「珈琲なら俺が」
「草間さんは紅茶党。それに、こんな時間にカフェインなんて。ついでに僕の分も用意するけど、和斗も要る?」
「要る! 洸太が淹れてくれるならなんだって、極上のワインを凌ぐ!」
「……そう。ま、少し話でもしてて。余計なことは、言わないように」
「了解!」
ここへ来てから何かと、敬礼の仕草で有村を見送った和斗とは毎日、顔を合わせている。
山を下りる際の車の運転。備品の補充。朝や夜に来ているのは知っていたが、挨拶以上を交わすのは初日以来だ。
「すみません。お話の邪魔を……」
「ううん、全然。実は、ついさっきまで志津さんが奥の東屋に来てたんだよ。十分くらいだったかな。話をして、屋敷まで送って戻って来たトコ。洸太がまだここで星を見てたんでね。綺麗な横顔を、特等席で眺めてた」
「…………」
今夜の和斗は有村の容姿を教会の絵に例え、心が浄化される崇高な美しさと賛美した。
多少緊張せずに隣りに座れるようになった草間が思うに、和斗のコレが有村の対応を冷ややかにしている気がするのだけれど、それが言えるほどにはまだ、口は軽くなっていない。
和斗は有村が大好きなのだ。いっそ、愛している。表現の仕方には少々、草間も思うところがあるが、有村が大切に想われているのは良いことだ。
「志津さんはどうして、こんな時間に?」
「夜の散歩と言ってたね。日中は何処に行くにも誰かしらが付くから、昔からたまに、こっそり抜け出して来るんだよ。以前に洸太が滞在した時も、ここを使っていてね。その時は毎晩、お茶を飲みながら大奥様とお喋りを」
「有村くんも、一緒に?」
「そうだね。小さい頃は先に休むこともあったけど。眠そうなのに頑張って起きてる洸太がまた、可愛くて」
寧ろ、有村への思いを語る和斗はどこか、恋をしているよう。
可愛くて可愛くて仕方がないのは、浴びせられるほどに伝わって来る。洸太の可愛過ぎる話をするかい、とキラキラした目で見られた草間は「また今度」と返し、今は今夜の話を続けてもらうことにした。
「いつからだったかな。夜のお茶会のお開きは、洸太が一曲、ピアノを弾くのが定番で。それまでは大体、ここでこうして空を見ていたよ。小さい頃から好きでさ。星座図鑑を渡したらね、あっという間に覚えてしまって。もっと詳しいのはないかって、七歳で、枕にもなりそうな分厚い専門書を読んでた」
「専門書、ですか?」
「天文学だね。当時の俺には、何が書かれているのかサッパリ。植物や動物に関しても読み込んでいたけど、宇宙は不思議の塊でしょう? きっと興味深かったんだ。誰も本当を目撃してない。素晴らしき、ミステリアス」
「……確かに」
「知識を蓄えた上で、どうしてだろう、なんでだろう、って考えるのが好きなんだと思う。だからまぁ、設計図がある機械とか、そういう物には興味がない。とはいえ、思った通りに行かないのが楽しいなんて台詞は、器用にこなす洸太だから言えるんだろうけど」
幼くても、ということだろうか。彼らしくて、表情で『困っちゃうよ』とでも言っているような和斗の仕草も面白く、草間はつい笑ってしまった。
今夜の星空も素晴らしかった。見上げた和斗は、訊けば薄く見える星の名前まで有村は知っているだろうと、どこか自慢気。洸太は何でも知ってるんだよ、と胸を張るから、草間の笑みは大きくなる。
「和斗さんは本当に、有村くんのことを良く知ってるんですね」
「そうだね。ずっと一緒にいたからね。今日からはひとりで寝るって部屋から出されたあの夜は、朝まで涙が止まらなかったな」
「朝まで……」
昨日今日で突然『こう』ということもないだろうから、和斗の熱量は昔からで、有村は幼い頃からああして少し引き気味に見ていたのだろうか。構いたい和斗と、静かにしていたい有村。想像すると、また笑ってしまいそうだ。
和斗の口調は軽快で、頬と一緒に草間は心もだいぶ軽かった。
ずっと一緒にいた。そう聞いて、胸の奥で燻っている言葉を、名前を、持ち出してしまうくらいには。
「そうしたら、和斗さんもご存じです、よね。 ……リリーちゃん、のこと」
名前を聞いたのだと打ち明けた。どんな子だったのか、草間が知りたかったのはそれだけだ。
「話したのは桜子ちゃん、かな。何か言われたの?」
「いえ。前に来た時は一緒だった、とだけ」
「そう」
兄弟のように育ったらしいから、和斗はどこか話し方や雰囲気が有村と似ている。外見の印象は、どちらかというと藤堂に近い。しっかりとした体格で、隣りにいる有村を線の細い男の子に見せてしまうくらいだ。身長は、有村と藤堂の中間くらいなのだとか。
しかし草間の目測では、和斗は有村よりも背が高く、藤堂よりはだいぶ小さい気がしている。だとすると藤堂が二メートルを超える大男になってしまうので、大柄に見せない和斗の嫌味のない上品さや、さり気ない低姿勢というものは、異性が苦手な草間の何かしらを過敏に反応させない秘密兵器なのかもしれない。
詰まるところ、和斗はとても有村に似ているのだ。
纏う気配や、周囲で流れる時間がゆっくりに思える所まで。例えば、急にふと瞳の温度が下がったりする、そんな所も。
随分と話しやすいお兄さんという印象を持っていた草間はつい、口が滑ってしまったのだ。
「桜子ちゃんがどう言ったのかわからないけど、洸太にとって大切な存在だったのは確かだよ。いつも、一緒にいた。何をする時も。きっと楽しい想い出ばかりだろうけど、リリーは三年前に天国へ旅立ってしまってね。話すと当時のことも思い出してしまうだろうから、洸太にはあまり、訊かないでやって欲しいな」
言葉は音量を下げ、和斗は悲しそうに眉を困らせた。草間は慌てて、わかっているし訊かないと、首を横へ振る。自分だって祖母の話はあまりしない。楽しい話の最後に必ず、悲しくなってしまうから。そういう気持ちは、よくわかる。
少し、気になっているだけ。それだけで、持ち出していい話題ではなかった。わかっては、いるのだけれど。草間は一度、キッチンの方を見た。自宅のキッチンでないからか、有村は何やら探し物をしている様子。
今は絶好の、ともすると最後のチャンスなのかもしれない。草間は座り直し、チラチラと和斗の様子を窺った。
「初恋の子……だったり、するんでしょうか……」
「初恋? 桜子ちゃんがそう言ったの? だとしたら人が悪いな。確かにそのくらい、ベッタリ一緒にいたけどね。だけど、リリーは――」
和斗、と呼びかける声がして、振り向く和斗の話が途切れる。有村はハチミツを探しているようだった。料理で使う物とは別の、特別な物らしい。
食料庫の手前の棚にあると教えた和斗は出て来る物がわかったようで、そろそろだよと耳打ちして来る。草間には、リリーの話が終わってしまったことだけ、わかった。
「そういえば、さっきから気になってるんだけど。ポケットからはみ出してるのは、文庫本?」
「あっ、はい」
仕舞った時から、角がはみ出していた一冊だ。目が冴えてしまったから、読書を。そう答えた草間は何故か、少しだけ恥ずかしかった。
これでは旅先で漫画を描いていた落合のことは言えない。旅行に、愛読書を持参。本の虫が病的な部類に思えて、草間はそっとポケットへ手を遣る。
「話には聞いてたけど、本当に読書家なんだね。いま草間さんを夢中にさせている名作、よければ、タイトルだけでも教えてくれない?」
有村ほどではないが、自分も本は好きなのだと、手を差し出して和斗が言う。有村の読書好きは和斗がせっせと図書館の本を運び続けた賜物と以前に聞いていたので、草間は頬を染めたまま、ポケットの本を差し出した。
「『color』……ああ、コレかぁ。懐かしいな」
表紙を見て、本を開き、和斗は笑みを大きくしてページを捲る。
「なんだ、やっぱり気に入ってたんじゃないか。買って、部屋に置いておきたいほどだったとは思わなかった」
「え……?」
一枚、また一枚とページを進め、視線を落としたまま、事も無げに和斗が言う。
「この本、洸太のでしょう? 前に、交互に貸し借りしてるって聞いたよ」
懐かしい、と、洸太がなぁ、を和斗が呟く間、草間は一度、唇を噛む。
「……それ、私のです」
「え?」
「私が、子供の頃から好きな本で。何処に行く時も、持ち歩いていて。だからそれ、私の、です……」
「えー……」
告げた途端、和斗は頭を抱えて仰け反った。またやっちゃった、と嘆く通り、今度は和斗がうっかり口を滑らせたのだろう。洸太には内緒にしてくれと願う面持ちは真剣そのもので、バレたらまた電話に出てくれなくなると、泣き出しそうですらある。
実際、有村が和斗からのメールを読みもせず、携帯電話の電源を落とすのを二回ほど見ていた草間は「言わないですよ」と答えたものの、素直な胸が騒がしい。
この本、有村くんも知ってたんだ。子供っぽい本だから話に出したこともなかったけれど、さほど有名な本でもないのに、同じだったのが、やけに嬉しい。
頬を染める草間と、苦悩する和斗。トレイを手に戻って来た有村には目を座らせる光景に見えたようで、冷たい横顔が和斗を睨むから、草間は鼻を掠める甘い匂いに加勢を願った。
「いい匂い。それ、なに?」
「ハニーミルクだよ。リンゴのハチミツを使ってね。熱いから気を付けて。で、今度は何をウッカリ滑らせたのかな?」
右手でマグカップを受け取り、袖を伸ばした左手を添えて顔の近くへ引き寄せると、甘くて優しい香りがした。しかし、それで心がほっこりとはいかないのは、なにも、のひと言ですら言い淀む和斗と、睨み続ける有村の気配だ。
どうにかしなくちゃ。喋らせたのは、私だし。
助け舟というより共犯の気持ちで、「本当になんでもないよ」と言ってみる。すると有村は草間を見て、小さな溜め息。
「……そう。草間さんが、そう言うなら」
そうしてやっと和斗にもハニーミルクが手渡されたのだけれど、受け取る和斗が顔を反らしているのを見るに、有村はまだ目を座らせているらしい。
再びベンチの隅へ寄り、草間は有村が座るのに充分な隙間を空けた。
「聞いたよ、有村くん。七歳で、天文学の難しい本を読んでたんだって? 好きなんだね、星」
「見るのが好きなだけだよ。学問としては、あまり。そんな本も読んだ気がするけど、七歳だったかな」
ハニーミルクをひと口飲んで、ようやく諸々が顔に出なくなった和斗が「そうだよ」と入って来る。
「俺もまだ小学生で、一番詳しくて一番評価されてる本をくれって、本屋のオジサンに面倒臭い子供が来たって顔されたから覚えてる。俺、有名だったんだからな。小難しい本ばっかり注文する小学生、って」
「あはは」
「あはは、じゃないよ、まったく。哲学だ、史実だ、心理学だって。欲しがる本だけは可愛くなかった」
「単純に文字が多いから」
「えー……それだけの理由で俺、毎回あんな恥ずかしい思いしてたの?」
甘いミルクとそうしたやり取りで、草間は頬が緩んでしまう。やっぱり幼い頃から、彼は彼だったのだ。
お兄ちゃんとしてそれなりに苦労もしたらしい和斗はそそくさとハニーミルクを飲み干し、そろそろ戻ると席を立つ。そうして、一度大きく伸びをしてから振り向いた。そうだ、と思い出したかのように呟いて。
「さっきの話だけどさ、洸太。俺は、良いと思う。正直、ちょっと嬉しかった。本当、変わったな」
「…………」
「いや、変わってはないのか? 洸太らしいとは思う。だからさ、俺は大賛成。何かあったら、なんでも言えな?」
「……うん」
じゃぁ、と切り出し、和斗は草間にも「おやすみ」を告げ、明るく手を振って帰って行った。宿泊しているのは、別の客室棟。ここと志津の屋敷の中間辺りにあるという。
残された横並びで、草間は『何の話?』と訊けなかった。なんとなく、だ。有村の横顔を見て、手の中の甘い香りを引き寄せた。
「草間さんも、そろそろ戻るかい? 明日がつらくなっちゃうよ?」
「そうだね。これを飲んだら、寝ようかな」
「寝られそう?」
「うん。お腹が温まったら、だんだん眠くなって来ちゃった」
「それはよかった」
リンゴのハチミツを落としたハニーミルクは、祖母から習ったのだという。夜のお茶会に付き合って睡魔が度を越してしまうと、目が冴えてしまう有村に淹れてくれたのだとか。
「優しいんだね。有村くんの、おばあさん」
「あの人こそ、天使と呼ばれているくらいだからね。みんなに優しい。持てる者の、とか言うけど、お祖母さまはそうじゃないって言ってたな。お金があるからではなくて、幸せな人はその幸せをほんの少し分けてあげたらいい、って。悲しみや憎しみも伝染していくけど、同じ心で感じるものなら、幸福だって伝染していくはずだ、ってね」
「すてき」
「笑っている人が近くにいると、つられて笑っちゃう時ない? そういう感覚の話なら僕も、概ね賛成」
ふうふうと息を吹きかけ、草間のマグカップの中身は、そろそろ底が近付いて来ている。
「概ね? 大賛成じゃなくて?」
だんだんと全身が温まって来た。背中には汗も出て来そうなほどで、草間は涼し気な有村を見遣る。猫舌な彼のマグカップにはまだ、ハニーミルクがなみなみだ。
確かに、有村が飲むにはまだ熱過ぎるかもしれない。草間が飲み終わる頃にはいつも、彼は一気に飲み干してしまうのだけれど。
「落ちた黒は薄くなるだけで、決して消えない」
「…………」
「僕はもう少し、ここで。カップは片付けておくから、置いたままで構わないよ」
熱い飲み物も、少なくなると冷めるが早い。
草間が飲んだ最後のひと口は、常温にも近かった。有村のカップからはまだ、温かそうな湯気が上がっている。
「おやすみ、草間さん。良い夢を」
「…………うん」
今夜、有村は初めて、冷めかけを一気に飲み干さなかった。
草間も、初めて二時過ぎにベッドへ潜った。そんな日はきっと、誰にでもある。




