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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第五章 萌芽少女
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悪魔的なアレとソレ

 今日はどうやら、羊ディ。

 丸刈りにされた羊は本当に少し山羊に似ているかもしれないと思ったのはさておき、そんな草間の舌の表面や鼻腔の奥にはまだ、羊の乳で作ったチーズの独特な香りが残っている。

 カップいっぱいのカフェオレを飲み干しても辛そうな顔をしていた落合ほど苦手ではなく、どちらかと言えば久保と同じでクセになりそうな味だったのだけれど、草間はこれ以上食べると夕食が入らなくなりそうで、ごちそうさまの手を合わせた。

 見た目ではさほど大きな違いを感じないのに、飲みなれた牛乳とそれ以外は味も匂いもだいぶ違う。臭みがあったり、濃かったり。好みはあれど草間はどれも美味しく飲めて、小学生の頃振りに牛乳好きを揶揄われて恥ずかしかった。揶揄った落合の台詞は同じ。牛乳をたくさん飲んだら背が伸びるというのは、ウソ。

「遺伝! これは!」

「へぇ……おばさんの方が大きいのに?」

「キミちゃん!」

 身長を伸ばしたくて飲んでいたわけではないもの。少しくらいは、期待していなくもなかったけれど。

 不毛過ぎるやり取りを佐々木は笑い、「だってよ」と桜子を見遣る。話を振られた娘は不服そうに頬を膨らませたが、色々と次々に給仕してくれた時のまま席を立っていただけで、留まるのは今も定位置である有村の隣り。

「好きだから飲んでるだけだよ。関係ないのは知ってるもん。お兄ちゃんだって牛乳嫌いなのに、こんなに背が大きくなってるし」

「えっ、僕? 別に嫌いじゃないよ。あんまり飲まないだけで」

「お兄ちゃん。それ、嫌いって言うんだよ?」

 草間の心配事は、どうやら杞憂だったのだ。思った通り、時間が解決してくれた。桜子と有村はいつの間にか元通りになっていて、最後まで気を揉むしか出来なかった草間の胸に、どうしようもなく不甲斐ない自分への情けなさを残しただけだった。

「ヤバいわぁ。美味しくて食べ過ぎる。絶対太ってるわぁ。帰って体重計に乗るのが怖い」

「なら、そのくらいにしておいたら? なんだかんだ言って、君佳も嵌ったんじゃない。羊のチーズ」

「臭いけどクセになる。もうひと口食べちゃう! うう、クサうまい。魔性の食べ物だコレ」

「……本当に太るわよ?」

「ウッ!」

「ふふっ……あっ」

 つい笑ってしまったものの草間も他人事ではなくて、ミルクティーのお替わりを遠慮した。今更だし、何の足しにもならないだろうけれど。純度百パーセントのハチミツを落とした紅茶も、中々に魔性の飲み物だ。ここには美味しい物が多過ぎる。

 美味しい物を食べて幸せな時間というのは特別早く過ぎるもので、そろそろ夕暮れ時が近付いて来ていた。そうと気付くのは、腕に感じる風の温度。木陰で涼しく感じるようになって来たら、賑やかだった試食会もお開きだ。

 今日は出した食器も少なかったので、後片付けはしなくていいと佐々木に言われた。申し訳がなかったが『それでも』と切り出す勇気は草間になく、邪魔をしない程度に使った食器を重ねて席を立った。

 一足先に立ち上がっていた有村が、両腕を持ち上げて伸びをしている。草間にはその後ろ姿が見えていた。まただ。また、有村が何もない奥の方を向いている。今回はテーブルを背にしていたので、偶然だったのかもしれないけれど。

「有村くん」

 然してない身支度を真っ先に整えて、草間は片付けに離れて行く桜子を見送ってから、有村の隣りへと駆け寄った。

「そっちに、なにかあるの?」

 やっと訊けた。内緒話のように口に手を添え尋ねた草間を大きな目で眺めて、有村はそっと綺麗な顔を寄せて来る。

「ちょっと、抜け出しちゃおうか」

「えっ」

「背中を向けていたら、君の熱い視線に僕が気付かないとでも?」

「…………ッ!」

 確かに、気になってずっと見ていたけれど、まさか気付かれていただなんて。

 いや、何を隠そう相手はあの、全身に無数の目がくっついている有村だ。気付かれていないと思っていた方が恥ずかしいようなもので、草間は赤面。笑った有村に手を引かれ、躓くように芝生を蹴った。

「ちょっと外すから、帰りたくなったら先に行ってていいからねー」

「暗くなる前に戻れよー」

「はーい。みんなもねー」

 どんよりした顔に似合わずヒラヒラと手を振る鈴木や、残す藤堂たちへ手を振り返す有村に、ちょっと待って、のひと言も言えやしない。おアツイぜー、などと冷やかして来る山本を少し、キリリとした目で見ることくらいは出来たとしても。

 繋がれた手が、腕が、ピンと伸びている。何処に行くの。穴場。交わすやり取りが短い時の有村は大抵、草間の戸惑いに気を遣ってくれない。

 結果としては、気遣い過ぎずに強引に出てもらえてよかったことの方が多いのは事実。自分がしたいようにしただけだという顔をして、言葉でもそう言って、有村は大抵、草間がしたかったことをしてくれる。

「ここね、昔よく、ひなたぼっこしてたんだぁ。涼しいでしょ。木陰が大きくて」

 そして今回も、有村は時折眺めていた先の、思い入れのある場所へ連れて行ってくれた。

 広大な牧場の、隅の方。建物の影に隠れて放牧場や加工場からは見えづらい位置に、一本の大きな木が立っていた。草間が抱き着いて、腕が回るかどうかという大木だ。

「背が伸びたからもう少し葉っぱが近いかと思ったけど、そりゃそうだね、木だって大きくなるかぁ」

 よっこいしょ。そんな似合わない声を吐いて、有村は木の根元に腰を下ろす。

 目が合ってから、草間も隣りへ腰を下ろした。折り曲げて立てた膝を抱え込み、下から見上げた葉っぱの屋根に思わず、口角が上がってしまう。

「ここさぁ、雨が降っても濡れないんだよ」

「そうなの? ああ、すごく茂ってるもんね」

「嘘です。さすがに、ちょっとは濡れます」

「なんで嘘吐くの」

「なんとなく?」

「……もう」

 悪戯っ子みたいな顔で有村が笑うから草間はつられ、肩が揺れてから、笑い声がふたつになる。

「……私、暗い顔、してた?」

「心配をかけた自覚はあった。ので、さっさと仲直りした次第です。喧嘩したわけじゃないけどね」

 視線を重ねて、言葉はなくそのままで、お互いに笑みを浮かべる。この穴場は本当に、気持ちの良い場所だった。ただの木陰だなんて有村は言ったけれど、冷たい地面と背中を当てた木の感触、サラサラと葉っぱの揺れる音までがとびきり爽やかで、清々しい。

 なのでしばらく、風の通る音を聞いていた。草間はそっと、目を閉じてみる。もっと早い時間の高い太陽の元、ここでするひなたぼっこは最高だろうと思った。有村が好む場所はどこか、時間がゆっくり流れているような気がする。

 彼自身からして、穏やかな人だもの。ちょっと不思議で、すぐに居なくなったりもするけれど。海でもずっと、パラソルの下にいたし。いや、あれは一緒に荷物番をしてくれていたからか。

 草間は閉じた瞼の裏で思い出し、思い耽る。海へ行ったのは夏休みの中盤。最初に行った遊園地はもうだいぶ前のことのようで、この旅行が終わったら、一週間くらいで夏休みが終わる。

 寂しいな。少しだけ、思った。

「……草間さん。それって信頼? それとも、僕を試してる?」

「えっ?」

 瞼を持ち上げた草間は、その目を大きく、真ん丸にした。

 肩の先すら、数センチの隙間があったはずだ。今も触れてはいないのだけれど、有村は地面に手を着き、息を飲むくらいに美しい彼の顔が思ったよりもずっと、近くにあった。

「可愛い顔して、目なんか閉じて。それが無自覚だから、君は怖いって言うんだよ」

「……ええ、と……」

 ドクン。ドクン。煩いくらいに高鳴って、心臓が、壊れそう。

 美しい顔。宝石みたいに、綺麗な瞳。いっそ夢か幻のようなその美貌はもはや芸術の領域で、この動揺はきっと久々にその麗しさを真正面から余すことなく向けられて、息が、出来なくなっているだけで。

 ドクン。ドクン。

 緩やかに流れていた時間がいよいよ、止まってしまったような気がした。

「されちゃうよ、キス」

「…………っ」

 そして間違いなく、止まってすぐに、粉々に砕け散った。

 キス。そんな単語のひとつで草間は体温が十度は上がり、実際にはコンマ幾つかの上昇でも、茹ったみたいに真っ赤に爆ぜる。首から上、それ以外も、きっと全身が真っ赤だ。

「……ほら。また、わかってない」

 もはや、人型の熱源。一瞬で茹で上がった草間の頭からは、源泉かけ流しの湯船にも負けない湯気がもくもくと立ち上っていても不思議じゃない。

 キス。いま、キス、って言った――。

 思い返せば更にドツボ。血液が沸騰してしまいそうな体温の急上昇も、限界突破。

 あわあわと戦慄く草間を見つめていた有村はひとつ、溜め息のような息を吐く。そうして言った。そろそろ出火して燃えてしまう草間の頬を軽く、ムギュっと、人差し指と親指で摘まんで。

「少し顔を近付けたらそうなるんだから、ちゃんと、最低限の自己防衛はしないと。二回目だよ? 僕、これでも一応、男だから」

「やっ、ハッ……!」

「うん。だからね、そうやって息も出来なくなっちゃうんだから、無防備もそこそこにね? まぁ――」

 ほんの少し、じんわりと痛いくらいに摘まんで引っ張り、手を離した有村は微笑んで、どちらにせよ真っ赤な草間の頬を、その爪の形まで綺麗な指先で撫でる。

 そっと空から羽根が落ちて来て、ふわりと掠めたのかと思うくらいに、柔く。

「――そういう君が好きだから、その手の中でコロコロ転がされるのも、悪くない」

「…………っ」

 転がしてなんかない。コロコロしてるのは寧ろ、そっち。絶対に、有村くんの方。

 開いた唇を震わせていっそ慄く草間を笑う、引き戻した手を当てた口元でクスリと微笑む姿が妙に色っぽい有村の方が、よっぽど。思う草間は夏休みに入って以降初めて、傍から見れば悪魔の所業で残酷の限りを尽くした極悪人にいま正に首を切り落されんとしている小娘の顔で、有村を見ていた。

「……ふっ、ははっ。なんだか、懐かしい気すらするなぁ、その顔。休みに入る前は、たまに見たけど。それ、大っ嫌いな人を見る顔だよね。絶望と嫌悪感がスゴイ」

「……はッ、や、ち……ッ!」

「うん、大丈夫。わかってるから……くっ、ははっ。ダメだ、ごめん。久々に見たけどホント、君の全力の赤面はもはや極彩色だね。真っ赤過ぎて……ダメだ、笑ってしまう。やっぱり君には敵わないな。降参だ。僕の負け」

「うっ……ふ……?」

 敵わない。降参。負け。その全部も、私の方が、よっぽど。

 心の中ではすっかりと打ち落とされた首をコロコロ転がしながら、確かに草間は久々に、意図的な有村の所為で虫の息になった。多少のトキメキは嬉しいが、こんなにも心臓がバクバク言っていては身が持たない。

 死んじゃう。今度こそ、絶対に死んじゃう。

 縋るように、傍目にはやはり恨みがましい目付きで見遣る草間を見つめ、ゆったりと微笑むことが出来る有村はもしかすると本当に、魔物の類と呼んで差し支えないのかも。

 だと、しても。

「君は本当に、どうしようもなく可愛いな。大好きだって言ったんだよ、いま」

「……なッ!」

 到底、言えやしないが、表情と態度では真反対を表現してしまうが、草間だって想いは同じ。

 綺麗だし格好良くて優しいけど、たまにこうして意地悪をする有村が悪魔だとしても、全く、一切を伝えられなかったとしても、大好きなのだ。こちらこそ、どうしようもないくらいに――ただ。

「……嫌だった?」

「…………」

 急に近付いて来て、軽く触れて、小さな音だけ立てて離れて行く有村を、草間は真っ白になった空っぽの頭で茫然と目で追った。

 それからそっと、触れた場所に手を伸ばす。

 私いま、キス、された――おでこに。

 いや、なんなら場所は完全に髪の上で、寧ろ脳天に近かったから、頭に。

 だけど急に、キス、された。

「……? あれ、草間さん? 草間さーん。息、してる? 草間さ……草間さん! 止まってる! 息して、息!」

「…………」

「死んじゃうから息して! 草間さん!」

 私、有村くんにキス、された。頭だけど、口が触れたら、キスは、キス。

 前に手にされた時は恥ずかしかっただけで、結果的には王子様みたいな仕草にときめいた。髪も、しているところが見えたから多分、もう少しは冷静だった。寿命は、縮まってしまっただろうけれど。それらと比べると、今のは破壊力の桁が違う。

 なんだろう。この、本体にされたという、気分。

 キスされた、という感覚の、激しさ。

「戻って来て、草間さん! 目が……意識が、どっか行ってる! 帰って来て、草間さん!」

「…………」

 大好きだから嫌じゃないし、まだ言えていないだけでもう頬を叩くなんてしないし、有村くんならとかちょっとくらいは考えて、ちょっとくらいは、妄想とか、してるけど。

 生命の維持に必要な機能すら停止させ、フリーズした草間は思う。

 こんなに慌てて、謝って、それでもきっとこの人はいつか私の心臓とブチュっと握り潰して、パァンと破裂させるに違いない。

 神様の贈り物みたいな、絶世の見目麗しい天使みたいな、その顔で。

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