意味のある贈り物
結論から言うと、草間と有村が遭遇した朝の『大惨事』を経て、風呂場のドアノブには『男』と『女』の文字が両面にひとつずつ書かれた札が提げられることになった。
提案したのも手早く札を設えたのも藤堂で、いつも通りの豪華な朝食は作ってくれたものの、彼の隣りに座る有村はまだ口数が少なく、草間は草間でゴミを見る目を向けている久保に終始肩を抱かれるか、背中を撫でてあやされている。
「絵里奈、そんな目で見てやるな。どっちかって言や、コイツの方が被害者だ」
「そうかしら。仁恵にしょうもないもの見せた時点で、万死に値すると思うけど」
「しょうもないだと? バカ言え。コイツは身体もすこぶるキレイだ。体質でムダ毛はねぇし、全身、お手本みたいに質の良い筋肉が付いてる。コイツの全裸は、もはや芸術の――」
「――やめて、藤堂……そういう問題じゃ、ない、から……」
「ああ? 恥じるな、有村。お前はキレイだ。何度でも言うぞ。野郎だが、お前のならいくらでも見てられる。最高だ。非の打ち所がない。胸を張れ」
「張れるもんか。バカは君だよ……黙って、ちょっと……」
ご心配なく。朝食後に草間はきちんと謝り、山本曰く瀕死の有村と和解の握手を交わした。
それでも有村はしばらく『普段通りの彼』とはいかず、やけに静かで、背中が丸い。
朝の仕事がない落合と鈴木が懸命に励ましているのが、洗濯の途中で遠巻きに見えた。さすがに、申し訳なかったと思う。結果として覗いてしまったこともだが、悲鳴を上げたのは最低だ。
いつもの無口を放り出して褒めちぎる藤堂の台詞ではないが、実際、たとえば実は筋骨隆々であったり、腕や足や、まして胸元が毛深かったりしたら、草間はじっくりと見たあとでも悲鳴を上げてしまっただろうし、もう二度と見たくないと思ってしまったかもしれない。そうでなかった有村の肉体は確かに美しく、芸術と評されれば、その通り。なくてよかったが、山本が『ゴリラ』と言い表した藤堂のを見てしまうよりは、ずっと傷が浅かった気がする。比較に出して、藤堂には、大変申し訳がないことだけれども。
あのあと、落合が『どうだった?』と訊いて来た。草間の答えは、『硬そうだった』。
一瞬見ただけだけれど、一切の贅肉がない感じがした。痩せているというより、引き締まっているという感じ。あと、眼鏡がなくて見えなかっただけだろうが、人相が悪くなるくらいに目を細めた有村がちっとも、可愛くなかった。彼も、あんな顔をするのかと意外だった。というか、やはり風呂上がりの彼はセクシーが過ぎた。思い出してしまうからこの話はしないで欲しいと願い出て、落合がニヤニヤ笑うのを止める気にもなれないくらい、草間はいま胸が痛い。色々な意味で。
結局は有村と同じで完全に立ち直るには至らずにいた草間の元へ、有村の肉体を称賛するゴリラこと藤堂がやって来たのは、乾燥機モードで洗濯物が乾いていくのを茫然と眺めていた、そんな折。
「草間、ちょっといいか」
「うん」
このまま、悟りでも開けたらいいのに。
今日は山本が、シーツもタオルもひとりで全部、引き受けてくれた。
ふたりきりになった洗濯場で、藤堂は入口に腕組みの姿勢で肩を預け、寄りかかっている。
「お前、本当にアレの全身を見たか?」
「んんっ!」
変に飲み込んでしまった空気が球状になり、喉の真ん中で痞える。胸を叩いて落としていると、藤堂も気まずいのか必要のなさそうな咳払いをした。
「見たのか、草間」
「……はい。たぶん……横から。驚いてもう、よく、覚えてない、けど……」
「横から? ……そうか」
なら、いい。思い出させて悪かったと残し、藤堂はあっさりと立ち去った。
なんの確認だったのやら。草間が願うのはただひとつ。もう誰も、その件に触れないで欲しい。
服を畳んで二階へ向かう途中、リビングの真ん中で話している有村と藤堂を見かけた。相変わらずの、近い距離。会話は耳打ち。
しかし有村は草間が階段を数段上った辺りで追いかけて来て、顎の下まで重ねていた洗濯物を半分、引き受けてくれた。
「変な感じにしちゃって、ごめんね。君がせっかく、仲直りって切り出してくれたのに」
「ううん。ごめんね、私」
「草間さんは悪くないよ。僕が言うのもなんだけど、事故だと思う。今朝のは」
そう言って微笑むものの、上手く笑えていない有村の口はどうにも、への字の形になりたがる。
開きもしないそれを見て、草間はようやく気が付いた。有村も、恥ずかしかったのだ。藤堂がどれだけ褒める、事実、恥ずかしいことなど全くない容姿でも、見られて恥ずかしいと思うのは当然の感覚であるはずだ。
悪いことをした。そう思うから、草間は口を噤んだまま部屋へ入り、整えた久保のベッドに洗濯物を下ろした。何か言わなくちゃ。考えていた草間の羽織るシャツの裾が突然、ツン、と引かれる。
反射的に目を遣ると、同じくで両手をカラにした有村が、人差し指と親指で小さく布を掴んでいた。視線を上げれば、戸惑いがちな上目遣いと目が合う。キレイな湖色の目が、潤んだように揺れていた。
「あのね、草間さん」
「なに?」
「もし、ね。嫌でなかったら、一回だけ。すぐに離れるから、少しだけ……抱きしめても、いいかな……」
わからなくて、草間は小首を傾げた。嫌なはずがない。わからないのは、有村が尋ねて来ること自体。不安気な、彼のこと。
「久保さんは正しいと思う。君に、男の身体なんか見せちゃいけなかった。だからね、少し、不安で。僕のこと、怖く、なってない?」
ぱち。ぱち。
丸くした目を瞬かせ、草間はくにゃりと微笑んだ。
本当に嫌われてしまったかもと思っているのが、見える全部から伝わってくる。不安気で、それ以上に申し訳なさそうで、悲しそうでもある。あなたを嫌いになる人なんて滅多にいないよと言いたくなるこんな時、草間はやはり、有村が可愛く見えて仕方がない。
爪先の向きを変え、少しだけ、両腕を開いて見せた。
いいよ。呟くより先に目線が逸れ、告げた時には真横を向いていた。草間の頬は真っ赤。燃えてしまいそうなくらい、熱い。
「…………」
抱きしめて来た有村はぎゅうっと身体を寄せながら、草間の肩口で「ありがとう」なんて言って寄こす。心からホッとしたような声で、だ。
だから草間は何度も思う。こんな風に感情が素直なこの人を、嫌いになれる人なんかいない。
いつも通り、大事そうに抱きしめられた。背中に回る腕は優しく、包まれる全てが、温かい。
「ごめんね、草間さん。もう二度と、君に見せたりしないから」
もう、二度と。
聞こえた言葉が胸の中で少しざらついた気がしたのだけれど、草間は理由がわからずに、本当の仲直りをただ、心から喜んだ。
その後の草間たちは昨日のリベンジというより、あとで様子を見に来てくれた佐々木に会いに行くのを一番の理由に、牧場へと向かった。
昨晩も今朝も、和斗が手当てをして丁寧に包帯を巻いてくれた久保の手は、腫れも赤みもだいぶ消え、今は擦り剝けた表面がヒリヒリと、多少痛むだけらしい。
もう、大丈夫です。そう告げた久保に佐々木はホッと胸を撫で下ろし、隣りに立つ桜子の頭を押し下げて、それより深くお辞儀をした。
今日はもう馬には乗らず、佐々木は三回目の牧場体験で羊の毛刈りを披露。手伝いも、少しさせてくれるつもりでいるらしい。全身が白い羊と顔だけが黒い羊がいて、やけに立派な角がクルンと巻いている羊もいた。厳密には四種類の羊がいるとかで、簡単な説明を受けたあと、今は落合と鈴木が先陣を切り、習ったばかりの『ホテイ』と格闘中だ。
怪我のないよう、草間はまだイメージトレーニングを繰り返しつつ、佐々木にお手本を見せてもらっている。近くには久保がいて、山本はしきりに鈴木を冷かして騒いでいたが、動物嫌いの藤堂と有村の姿が消えていたのに気付いたのは、だいぶ後になってからだった。
「洸太なら、馬の様子を見に行ったんじゃないかな。昨日騒いだ、馬たちを」
大人しく抱えられている羊を腹の前に乗せたまま、顔だけを厩舎の方へ向けた佐々木が教えてくれる。昨日、鳥に騒いで暴走をしてしまったあと、出来れば早い内に乗ってみてと有村が言ったのは対応として間違いではなく、時間を置いた恐怖心で人間が乗馬出来なくなるように馬も、心に傷を負ってしまうことがあるという。
「乗馬をしていると、実際、昨日みたいなことは少なからずある。だから俺もそれなりにケアをしたけど、洸太なら自分で様子を見に行くさ。行ってくれた方が良い。洸太に会えば馬たちはもっと、人間と散歩が好きになるからね」
そうして初対面時の台詞を繰り返した。洸太は動物たちの王子様だから、と。本人が何と言おうと有村は動物と会話をしていると、佐々木は言うのだ。
「洸太は子供の頃、あまり人と話すのが得意じゃなくてね。動物と過ごしている方が楽しそうだった。見ていると、不思議な気分になったものだよ。特に躾けたわけでもない芸を、動物自身が得意なことかな、そういうのを洸太の前でして見せる。動物の方から、洸太と友達になりたがってるみたいだった。餌や木の実を、せっせと運んで来たりして」
「木の実……」
すっかりと夢の中の出来事だと思っていた赤い木の実が、草間の脳裏に蘇る。
甘くて美味しかった、見たことがない果実。人間の言葉など信じるなと言った有村の言葉までがまるで、本当は現実だったかのように。
「君たちの周りにもいないかい? 犬や猫に、やけに好かれる人。そういう人間は結構いる。好きだと思う気持ちが伝わって、懐かれることも。でも、洸太のは少し違う気がしていてね。動物が病気や怪我をしている時、身を隠そうとすることは知っているかな?」
「はい。猫とか、家から出て行ってしまったりすると」
「最期を見せないようにするのは、飼い猫の特徴だね。でも、そういうこと。動物は治るのを待つ。治療するという考え方がないからね。精々、舐める程度さ。なのに、洸太のそばにはやって来る。まるで、助けて欲しいと願い出るように」
「…………」
「洸太なら助けてくれると、知っているようだった。それで、洸太が抱いていれば、痛いはずの治療もさせる。嫌がっても、洸太が語り掛けると大人しくなるんだ。そんな不思議な力に、俺は獣医として、何度も助けてもらったよ」
羊を放し、次は久保さんもと場所を代わりながら、佐々木は続ける。
動物は仲間や子供に食べ物を分けることがあるが、贈り物は意味合いが異なる、と。求愛をする鳥がダンスを披露したり見事な巣を作って見せるのを例に挙げ、どこか懐かし気に微笑みながら。
「身体が小さくてね。体力もなければ、力もない。動物の世界では、強い個体に弱いのが従うのが常なのに、どれだけ気性の荒い動物も、洸太の前では伏せるか頭の位置を低くした。仲間か敵しかいない世界だ。動物は野生であるほど、媚びを売らない。だから俺は、洸太を王子様と呼ぶんだよ。得意技を披露して、贈り物をして、まるで気に入られたいみたいだろう?」
草間は久保と、目が合った。喧嘩っ早い圭一郎を手懐けた有村は、元々猛獣使いだったわけね。八割方は嫌味という声色で言い放つ久保の様子か台詞に佐々木は笑みを吹き出し、やがて、肩を大きく揺らして笑い声を響かせた。
「腹の中で思ってるより、手が出るくらいの方が気持ち良かったんだろうなぁ。なるほど。それじゃぁあの大柄な藤堂くんは、洸太のお気に入りになるはずだ」
アハハ、ガハハ、と笑い続ける佐々木につられ、草間も久保も口元を緩めたけれど、笑い声までは出なかった。笑っていいのか、悪いのか。そんな気分で。
不器用な草間以外がそれなりに羊を扱えるようになり、佐々木は有村と藤堂を待たずに毛刈りの準備を始めた。刈られる羊は決まっていて、落合がふかふかの毛を惜しむように人差し指を突っ込んだりしながら、「さっぱりするよ」と話しかけている。
毛を刈られた羊は山羊に似ている。そんなことを言う落合と笑い合っていると、似てるかもしれないと神妙な面持ちで腕組みをしていた山本が、ふと背中を反らした。
「おー! お前ら、どこ行ってたんだよー! 毛刈り、もうやるってよー!」
遠くから聞こえる、「はーい」という暢気な声。ヒラヒラと手を振る有村の隣りで、藤堂も何やら楽し気だ。
有村と比べてしまうとほくそ笑む程度に見えてしまうが、藤堂にしては明らかな笑顔。何を話していたのやら、返事をしたあとも顔を覗き込んだり、突き飛ばしたり。今日は落合だけでなく佐々木までが、「仲が良いな」とニヤニヤ笑う。
「いやぁ、間に合ってよかった」
「間に合ってねぇから。待っても来ねぇから始めようとしてたトコ」
「あらぁ。それは申し訳ない」
「思ってねぇだろ、お前」
到着すれば、鈴木までもぞんざいに有村を突き飛ばす。気になって様子を窺うと、桜子はまた顔も目線も有村から逸らしていた。
視線を有村へと戻した草間は性懲りもなく、何か出来ないかを考えている。
昨日の今日で桜子が気まずいのは理解出来るし、近付いて来ないなら有村が友達との時間を優先させるのもわかる。時間が解決するのだろうとも思うのだけれど、今日はまだ一回も聞いていない桜子の『お兄ちゃん』がないと、どうにも胸の奥が翳る自分が、草間の中にいた。
下手に手を出せば拗れるか、少なくとも桜子には、もっと嫌われてしまう。
わかってはいるけれど、何か。そう思いながら上手な言葉ひとつ出て来ない自分が、草間は情けなかった。




