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彼と彼女のソロプレイ  作者: 秋野終
第五章 萌芽少女
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彼と彼を繋ぐもの

 有村と過ごすようになってから、特に夏休みに入ってからを振り返れば大抵の日がそうなのだけれど、何もなかった日がないこの旅行中と比べても、今日は格別に心がずっと忙しい一日だった。

 桜子のことは、ひとまず悩み事フォルダの隅の方へ。

 寿命が縮んだ気がする、馬の暴走。そのあとの一件。荒療治にも程があると呆れた顔をする落合を後ろへ隠す草間は、今は勇気を振り絞ろうとしている久保をひたすら応援している。

 私が大人にならなくちゃ。そう言った久保は、下した髪の隙間に見える、耳の先が赤い。

「さっきは、助けてくれてありがとう……圭一郎」

 足の前で組み重ねた手を小さく動かし、目線も下の方で迷子にしながら、尖った口で久保が言う。

「……ん」

 無音で大袈裟な笑みを浮かべた落合のプールの水で濡れた腕を抱き寄せ、草間は目で何度目かの、『揶揄っちゃダメ』を伝える。

 気まずそうな久保をしばらく見た無表情のまま短く返した藤堂には、同じく表情の読めない有村が、背後から蹴りを食らわせた。

「なんだよ」

「大人げない」

 蹴ったのは膝裏辺り。それほど勢いもなければ藤堂も痛そうにしていなかったけれど、人に蹴りを繰り出すその行動に、草間は少々驚く。

 手で叩くより凶悪な気がする。暴力とも粗雑とも無縁な有村がするから、妙に鋭い一撃に見えたのだ。振り向いて有村と顔を見合わせた藤堂が口のへの字を深くしたので、受けた印象は間違っていないようだった。

「手の具合はどうだ」

 向き直る藤堂が尋ね、久保は「平気」と答える。

「そうか。ま、今日はもう大人しくしてろよ。な、絵里奈」

「……そうする」

 嬉しくなった草間は、藤堂の奥にいる有村を見た。すぐに目が合い、ニッコリと笑ってくれたので、草間はもっと嬉しくなった。



 バーの厨房で働いていたら自動的にフルーツを可愛くカットする技が身に付く、はずもなく、やはり特別器用なのであろう有村が即席で、フルーツ盛りだくさんのトロピカルドリンクなどを作り、水着に着替えなかった草間や久保や藤堂の目を楽しませたりして過ごした今日も、ようやく太陽が翳って来た。

 教えてもらいながら、四つ目でようやく耳が千切れていないうさぎリンゴを切り出せた草間が、輝く瞳でリビングの奥へ視線を向けると、過った気配だった久保がウッドデッキから有村を呼んだ。

「君佳たちそろそろ上がるみたいだけど、シャワー浴びるならここを通るしかないの?」

 その後ろには藤堂もいる。期待通りに焼けたらしく、遠巻きに見ても肌が赤くなっているようだった。が、草間は気付いてすぐに目を逸らす。代わりに隣りから、服を着るよう有村が言った。

「木製の塀の左寄りにドアがあって、そこから直接行けるよ。鍵は開けてある」

「わかった」

 答えて引き返したのは久保で、藤堂は被ったTシャツの裾を下ろしつつキッチンまでやって来た。

「晩飯は?」

「まだ六時だよ? 早くない?」

「腹減った。そのリンゴ食っていいか」

「あ、うん。どうぞ」

 上手に出来たウサギが手前に来るように置いた皿を差し出し、草間はウキウキ期待する。口には出さないが、有村くんが切ったんじゃないよ、私が作ったんだよ、と気付いてくれるのを待っていたのだ。

 しかし藤堂は、何も言わずに手を伸ばす。実はそんな気もしていた。不器用な三つのウサギを従えた皮の厚いウサギに触れない方が藤堂らしい。

 残りの半分も練習したら、有村のお手本のように綺麗に耳が立つのだろうか。悲しくなった草間の頬に、唐突な風が当たる。

「……ん、ぐっ」

 顔の脇を通ったのは、後ろから突き出された有村の腕だった。草間の目の前には黄色の皮。リンゴを頬張るはずだった藤堂の口には、剥かれた先端が突き刺さっていた。

「お腹が空いているならバナナがいいよ」

「…………」

 差し込まれたバナナを咥えたまま、藤堂の目が座っていた。草間ならきっとえづいてしまっただろう。確実に三分の一は入っている。

 草間の手にあった皿は、有村に回収されてしまった。チラと見遣ればこちらも、随分な目の座りようだ。険悪かな。喧嘩かな。不安に駆られて瞬きが増える草間の正面、藤堂は握ったバナナを齧った。

「人の口に食いモンを刺すんじゃねぇ。美味いな、このバナナ」

「だろう? でも食べ過ぎに注意だよ。夜はボリューム満点の肉料理だからね」

「ん」

 モグモグと咀嚼する藤堂は無表情。困惑する草間が視線を逸らすと大きな影が降りて来て、耳元に重低音が囁かれた。

「それ、お前が切ったのか」

「え? あ、うん……」

「ふん。可愛いことしやがる」

 くっ、く、と聞こえたから笑ったのだろうが、草間から見た藤堂は申し訳なくも極悪人の顔でバナナを食べ進める。その理由なく鋭い三白眼と顎で、『ホラ』と言われた気がした草間が逆隣りを窺うと、有村は顔の高さに持ち上げた四匹のウサギを見つめていた。ほんのりと頬を色付かせて。

「食えって言ってみろ。多分、おもしれぇぞ」

 なんて悪い顔をするのだろう、とは言わずにおいた。促されるまま「食べてもいいよ」と言ってみて、草間は振り向いた有村の絶望を纏う表情に出会う。

「無理だよ。こんなに可愛いの、食べられない。いま保存方法を考えてるから、ちょっと待って!」

 フルフルと頭を振り、やっと落合さんが言ってた尊いの意味がわかったなどと言って、有村は断固拒否。藤堂の笑い声は「ははっ」に変わって離れて行き、つられて笑った草間は奪い取ったウサギを齧る。ツン、と唇に刺さる槍のような赤い耳。これから猛特訓だ。

 浴室の方から賑やかな声がして、先に上がった落合が髪を拭きつつキッチンの前を横切る。どうしたの、と尋ねて来るのは、両手で顔を覆い固まってしまった有村のことだ。ちょっと意地悪をしたと告げると、落合は何も言わずに皿のウサギをひとつ齧る。

「可愛いな、姫様。写真撮るぞ」

「絶対にやめて」

 そうは言いつつ、有村の体勢は不動。拗ねてる、拗ねてないのやり取りに笑みを押し隠す草間はキッチンをあとにし、バナナを一本持ってウッドデッキへ出た。

 そこには手摺りに肘を着いた藤堂が居た。差し出したバナナを受け取り、隣りへ並んだ時と同じように、ぼんやりと庭の奥の方を眺める。

「さっき、ありがとう」

「ん?」

「絵里ちゃんのこと」

「ん?」

 大きく齧ったひと口を数回噛んで飲み下し、藤堂は怒っているような顔をする。ほんの数ヶ月前ならただ怖かったはずのその顔が、単に不思議がっているのだとわかるのが、草間は少し面白い。面白くて、嬉しい。

「お前に礼を言われることはしてないが」

「気になってたから、言いたかっただけ、です」

「そうか」

 次のひと口を齧る前に、「気を揉ませて悪かった」と退屈そうな声が言う。藤堂は無表情な上、低い声が単調だ。だから、怒っているように見える。

 もしも中学の終わりにそうと知っていたら、あの玄関先でもう少し話すことが出来たかもしれない。言えなかった、最後のひと言。少しでいいからもう一度、絵里ちゃんと話をして欲しい、と。

「仲直りしてくれてよかった、です」

「別に喧嘩してねぇ」

「そう、だけど」

「アイツが勝手にヘソ曲げてただけだ」

「…………」

 いや、知っていても言えなかったかもしれない。怒っていないのがわかっていても、草間には藤堂の口にバナナを突っ込むのは無理だ。

「気にすんなって言ってんだから、大人しく引きゃぁいいのによ」

 気まずくて、「バナナ似合うね」などと言った草間を見た藤堂の横目は、さすがに睨んでいた気がした。

「腕のことだろ」

「……うん」

「今度なにか言ったら、事故る前からやめる気だったって言え」

「でも、推薦……」

「来たが別に有難かなかった。断る理由もねぇから悩んでた。親父は監督だしな。だからまぁ、丁度良かった」

 恐々と見上げた上目遣いで目が合うと、藤堂は素っ気なく「嘘じゃねぇ」と言う。しかし草間はすんなりと信じらない。久保ではないが、藤堂が懸命に励んでいたのは知っている。試合も、久保に連れられて見に行ったことがある。マウンドに立つ藤堂は、とても生き生きとしていた。

「お前、なんか得意なことはあるか」

「えっ、と、得意なこと? なんだろう……得意、得意……」

「ないならいい。ただ、もしあったとして考えてみろ。お前はそれが得意だからそれだけやってろって言われたら、お前、どう思う」

「どう、ですか……」

 思わず敬語になった口が固まる。得意なことが思い付かなくて、好きなことを考えた。

 真っ先に思い付いたのは読書だ。本に囲まれていると草間は幸せだけれど、今後の人生ずっと書庫に居ろと言われたら、それは少し悲しいかもしれない。

 映画も好きだし、友達にも会いたいし。極端な話だろうとは思うけれど。

 しかしながら無感情な声を放ち庭先を見つめる藤堂が始めたのは、そういう極端な話だったのだ。

「周りが受験だなんだと騒いで、面倒臭ぇからラッキーだとくらいは思ってたが、推薦受けたらこれが三年続くと思ったらしんどかった。ガキの頃から、メシから何から野球の為だ。朝練あるからテレビの話もついてけねぇ。ガキ臭い理由だけどよ、俺だってサッカーとかバスケとか、本腰入れてやってみたかったんだよ。もっとしっくり来るのがあるかもしれねぇだろ。なかったけどな、結局」

「やってみたんだ?」

「やった。やったことがねぇことは何でもやった。女作ったり、バイトしたり。でも、どれもパッとしねぇ」

「喧嘩も?」

「それは別の話だ。舐められんのは気に食わねぇ。殴りかかって来やがるから殴るだけだ」

「……そう、ですか……」

 そう、だろうか。腑に落ちないことは多々あれど、藤堂も迷っていたのは今更知った。

 中学時代、あまり親しかったとは言えないが、そういう風には見えていなかった。少なくとも好きでやっているように見えていたし、草間はもっと藤堂は前向きな気持ちで取り組んでいるのだと勝手に想像していた。疑ってもいなかった。話してみなければわからないことばかりだ。

「野球ってのは、ひとりでやるもんじゃねぇ。次の試合も頼むとか言って来るヤツが、練習中にくっちゃべってる。禄に動きもしねぇで、優勝したらテメェの自慢だ。バカらしくなってな。しんどかったけど、やめるとは言えなかった。負けたら悔しいけどよ、段々勝っても別に何とも思わなくなってた。迷うんだ、何回も。勝つとみさきや絵里奈が、バカみたいに喜ぶからよ」

「…………」

 丸くなった草間の目を、横顔のままそこだけ動かした藤堂の目が射抜く。

「言いたかねぇのに話したんだ。お前、アレがゴチャゴチャ言っても、こっちまで回して来んじゃねぇぞ」

 背筋が伸びるくらいには怖かったが気圧されたわけではなく、草間はコクリと頷いた。

「ダメだ。下手に食ったら余計に腹が減った。有村! もうメシ作れ!」

 怒号にも取れる声を張り上げて、藤堂は室内へと戻って行く。背中で聞いても肩が跳ねる大声を浴びて「えー」などと気の抜けた返事を返すことも、草間には無理そうだ。

「……絵里ちゃんが応援してたから、やめるって言えなかったんだ……」

 呟く頬に、涼しくなった風が触れる。心に何か大きな傷を抱えている有村と同じくらい藤堂も何か抱えているから、ふたりはああも理解し合えるのかもしれない。

 過呼吸を起こした有村に、迷いなく人工呼吸をした藤堂。久保を助けに行く時、藤堂なら信用出来ると呼び寄せた有村。

「……藤堂くんは、リリー……知ってるのかな……」

 ウッドデッキからキッチンを眺め、呟く草間は視線を落とした。

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